堀作りを手伝った河童たち

 これは江戸時代のお話です。

 昔、隅田川や江戸川沿いには、河童が沢山住んでおりました。
 上野や愛宕の山から東側、今でいう江東区、墨田区、台東区のあたりはこれらの川の扇状地にあたります。このため土地も低く、じめじめとした湿地帯で、ちょっと雨が降っただけですぐに水浸しになるようなところでした。

 人間には暮らしにくい土地でも、芦や葦の茂る水辺には魚も亀も、それを狙ってくる鳥も沢山います。河童たちにとっては食料豊富な、豊かな土地でした。

 河童には一人で住んでいるものもおれば、家族で住んでいるものもいました。
 川で魚や亀、ザリガニを採ったり、水辺で鳥を捕まえたり、野っぱらで草を摘んだり、野鼠を捕まえたり、雑木林で木の実を集めたり、たぬきを捕ったり、ときには畑から野菜を失敬したりしながら、気ままに暮らしていました。

 河童は基本的に、一日に食べられる以上のものは採りません。毎朝食料を集め、それが終われば、あとは日長一日のんびりと遊んだりひなたぼっこしたりして過ごしていました。

 河童には持ちものもほとんどありません。たまに煮炊き用の自在鍵や鍋釜、雨をしのぐ天幕を持つ河童もいましたが、たいていは何も持たず、また、持たなくても困りませんでした。

 河童は大変強健な体をしていました。水中を泳ぐ魚や、空中を飛ぶ鳥や、野原をかける野鼠に負けない体力なのですから、当然です。川の中をスイスイ泳いだり、得意の木登りで枝から枝をヒョイヒョイ渡るなど、朝飯前のへのカッパでした。
 また粗食であることから、意外に長命であったともいいます。

 ただ、河童は暑さには弱かったでした。水辺や林の中に住んでいることが多いため、直射日光に長時間さらされることに慣れていないのです。このため、夏のひなたが大の苦手でした。
 ときどき気紛れに野良仕事を手伝いに来る河童もおりましたが、日陰のない大地に長くいると、体温が上がって大変苦しそうでした。体温を下げる調節の苦手な河童は、苦しくなるとすぐに頭から水をかぶって座り込み、体温が下がるまでじっとしていました。
 いつも野良に出て日差しに強い村人らは、そんな河童の様子を見て、
「おメエらは頭の皿の水が干上がると、死んじまうんだな」と言いました。

 河童は日差しを避けるため、頭に小さな汗取り帽のようなものを載せていることもありました。ザンバラ髪にその姿は、確かに頭にお皿を載せているように見えました。
 やはり日差しを避けるため、背中に古風な草編みの背当てをしていることも多かったでしが、大きな背当てから小さい頭と長い手足がひょっこり突き出たそのさまは、まるで甲羅をしょった亀のようでした。

 キュウリは体を冷やすということで、大変河童の好物でありました。また、お酒好きな河童は、輪切りにしたキュウリをお酒に入れて飲みました。こうすると臭みがぬけて、いくらでも飲めるからです。
 河童が畑に”手伝い”と称して出没するのも、もっぱらキュウリのためなのでした。

 そしてその地に食料が乏しくなると、河童たちはいつのまにかどこかへ移動してゆきました。

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 浅草の松葉町に、喜八という合羽屋が住んでおりました。

 喜八は勤勉に働き、それなりの財を蓄えていました。

 喜八はつね日ごろから、浅草一帯が頻繁に出みずに襲われることに心を痛めておりました。
 ちょっと雨が降っただけで道路は水であふれ、大雨や長雨になると長屋の床上まで浸水します。そのたびに畳をあげたり商売道具を避難したりしなければならず、翌日は家財道具を干したり泥を掃きだしたりで、みなおおわらわでした。
 また、当時は便所も汲み取り式なので、浸水すれば糞尿もゴミも一緒に溢れます。衛生的にも問題がありました。

 当時は、上野の山以西の土地の高い山の手地区は、お侍さんたちの住むところと定められており、武家屋敷や旗本屋敷が並んでいました。町人は、土地の低い下町に住むと決められていました。ですから、この地で暮らしてゆくしかありません。

 喜八は何か良い方法はないものかと考え、独学で勉強を始めました。そして排水をよくするには、堀を掘削するしかない、という結論に至りました。
 しかし、喜八は雨合羽を作る合羽屋です。土木工事のことはわかりません。
 喜八は町の寄り合いで、堀を掘れば家が水浸しにならずに済む、はやり病も減る、悪い水のせいで子供達の罹る眼病(トラホーム)もなくなるはずだ、とさかんに訴えました。しかし周りの町人たちも、川の土木工事のことなど、よくわかりません。それに大変そうです。確実に成功するのかどうかも不明です。何より、専門家がいませんでした。そのことが、町人たちを大変不安にさせました。
 それでみな、なかなかその話に乗ろうとはしませんでした。
 みな生活に忙しかった、ということもあるのです。

 雨の降る晩でした。そうした寄り合いから疲れて帰る途中、喜八は隅田川のほとりで病気の子河童を見つけました。こうしたことは、今までにもたまにありました。
 この子河童も、もう助からないと、置き去りにされたのかもしれません。河童は気ままに暮らしていますが、生活に対する備えはありません。健康なときは元気に跳ね回っていますが、病めば死ぬ。そうした過酷な生活でもあったのです。

 喜八は子河童を連れ帰り、近所の町医者に見せました。町医者は最初驚きましたが、いつもどおりに診察して、人間と同じ処方を出しました。子河童は薬を飲むとすぐによくなったので、喜八は隅田川に戻してやりました。

 さて、堀の掘削についてあきらめきれない喜八は、その後も独学で河川工事について学び続けました。そして北の山谷堀と南の鳥越川を結ぶルートで掘削するのがよいのではないか、と考えるようになりました。

 天明六年(1786年)七月、大雨が降り、再び一帯は大洪水に見舞われました。
 これ以上手をこまねいてはいられない、と感じた喜八は、一人でも掘削工事を始めることに決めました。

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 喜八は朝早く、鳥越川までやってきました。
 そして鍬を手に、川べりを掘り返し始めました。掘った土がたまるとモッコで担いで捨てに行きます。
 その日一日、日が暮れるまで、ひたすら土を掘り返す作業を繰り返していました。
 そしてその様子を、隅田川の土手に寝転びながら、横目で見ている河童がいました。

 翌日も喜八はやってきました。
 そして昨日と同じように、鍬を片手に堀を作る作業を始めました。
 そこへ近所に住む大工が通りかかりました。
「おう、喜八、一体何してるんだい?」
「いや、水を逃がす堀を作ろうと思ってな」
 喜八は穏やかに、しかし手を休めずに答えました。
「ほう」
 大工は行ってしまいました。
 喜八も土掘りを続けました。

 次に金魚売がやってきました。
「きんぎょーえーきんぎょー、あれ、喜八のだんな、何やってんですかい」
「堀を掘っているところだよ」
「へえ、そりゃご苦労なこって。しかし一体何年かかんですかね?出来上がる前にだんなのほうがどうかならないか、あっしゃそっちのほうが心配ですよ」
 金魚売はこんなことを言って行ってしまいました。
 喜八もまた作業に戻りました。

 その後も鋳掛屋だのキセル屋だのが通りましたが、みな声をかけ、そのまま行ってしまいました。
 そしてその様子を、土手に寝転んだ河童が、スカンポをくちゃくちゃ噛みながら見ていました。

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 翌日の朝、河童はいつものように魚採りを終え、採った魚を頭から丸かじりしながら、さて今日一日、どうして過ごそうかと考えていました。

 そこへ喜八がやってきました。そして昨日と同じように土掘りを始めました。

 河童はのっそり起き上がると、日よけの背当てをつけて、トコトコ下りてゆきました。
 喜八が何をやっているか、河童はこの2日間ずっと見ていました。河童は見ようみまねで、モッコに土を入れ、担ぎあげ、運びはじめました。

 喜八は、いきなり甲羅のような背当てをしょった河童が近づいてきたので、最初は何しに来たかと少々警戒しました。
 暇な河童どもは人間にかまってもらいたくて、いたずらすることも多い。堀を壊しに来られては困るからです。

 ところが、河童はどっこらしょとモッコを担いでは土捨て場に運んでゆきます。見ていると、まじめにやっているようです。
 そこで喜八も作業に戻り、堀の掘削を続けました。

 二人の間に会話はありませんでしたが、河童はやり方を見て覚えていたし、鍬の使い方も手まねで教えると、すぐに飲み込んでそのとおりにやってみせました。

 こうして、その日一日が暮れてゆきました。
 太陽が西に沈みかけたころ、河童はトコトコとねぐらへ帰ってゆきました。

 喜八は河童の住処の見当がついていたので、その晩、近くまで行き、キュウリとお酒をお供えして戻ってきました。
 喜八がその場を離れてると、いつのまにかキュウリとお酒はなくなっていました。

 翌日も河童はやって来ました。手伝いたくて来たのか、キュウリとお酒のご褒美がほしくて来たのかはよくわかりませんが、この日も河童はまじめに働いて帰ってゆきました。喜八はこの晩も、キュウリとお酒をお供えしました。

 そうした日が何日か続いたある日の朝、喜八が現場に着くと、大工や金魚売やらが待ちかまえています。
「おめえ、ここんところ河童と一緒に掘ってる、ていうじゃないか。河童にやれて俺達にやれねえこともあんめえ。これからは俺達も手伝わせてもらうよっ。仕事をまったくあけるわけにもいかねえからな、かわりばんこだけどな、まかしとけっ!」
 そう言うなり、大工や金魚売らは、威勢良く土掘り作業を始めました。みなでわっしょいわっしょい、鍬を振るい土を掘りモッコで運んでゆきます。掛け声かけたり笑い声がおきたり、なかなかはかどります。
 そしてこの日、河童はなぜかやってきませんでした。

 翌日、喜八らが現場へ行くと、昨日作業を終えたところよりも、若干堀の長さが伸びているようです。
 あれ?崩れ落ちたか、と思いましたが、崩れたのなら、堀の中が土砂で埋まっているはずです。しかし堀の中はきれいでした。

 すると近所の人が出てきて、妙なことを言いました。昨晩、河童がこの辺で何かやっていたけど、いたずらされていないかい?と。
 いたずらも何も、昨日の晩、河童が堀を掘り進めてくれていたようです。喜八らは労をねぎらってキュウリとお酒をお供えし、再び掘削作業を続けました。

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 やがて浅草の河童が毎日土を掘って川作り遊びをしてはキュウリとお酒をもらっている、という噂が隅田川沿いの河童どもに伝わりました。

 掘削工事の現場には、隅田川沿いの河童たちがワラワラと集まってくるようになりました。そして日が落ちると、浅草の河童が喜八に教わったとおりに鍬を振るいモッコを担いで手本を示し、他の河童どももそれに倣って土を掘っては運び出してゆきました。
 やがて日が明けてくると作業をやめ、供えられたキュウリとお酒を片手に嬉しそうにキュルキュルとさえずり、やがて寝ぐらへ帰ってゆきました。

 河童にとって、大勢で一緒に作業をするのは初めてのことでした。年に1,2回の集会があるのですが、それ以外は普段、家族単位や単独で行動しています。みなで力をあわせれば、川を相手に大きなことがやれる。河童たちにとって新鮮で、とても愉快な体験です。

 やがて、隅田川沿いの河童たちの話は、荒川や江戸川沿いの河童にも伝わってゆきました。堀の掘削現場に集まる河童の数は日ごと増えてゆきました。
 増えるほど、工事はますますはかどります。
 夜になると、あたり一帯に騒がしい掛け声が響き、星空のもと鍬を振るいモッコを担ぐ河童たちの姿が浮かび上がって見えました。

 最初、喜八が一人で始めたときには、一体何年かかるかと思われた掘削工事でしたが、いまや完成は目前でした。

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 その後、喜八に堀の作り方を学んだ関東一円の河童たちは、各地へ戻るとその治水技術を生かし始めました。
 このため、河童は治水に長けているとの話が人間界に広がったということです。

 ところで、最初に手伝いに来た河童は、喜八が助けた病気の子河童の父親だという噂が広がりましたが、実際のところはよくわかりません。何しろ河童はみな同じような顔をしていますから。
 河童は好奇心旺盛で人懐こいところのある一方、飽きっぽく警戒心の強い面もあって、その本心はよくわからないところがあります。
 しかし工事で完成した新堀川沿いに住む町人たちは、喜八が助けた子河童の恩義に報いるために河童たちが手伝ったのだ、と信じました。それで今でも近所のお寺に河童をおまつりしています。

浅草合羽橋に伝わる伝承を元に創作

あとがき:
 真夏の畑や、森で枝打ちなどの作業を体験していると、ひょっとして河童のあの習性はこういうことでは?と感じることがあります。それをヒントに、台東区のかっぱ橋に伝わる伝承を翻案してみました。

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