1.4.東シッキム:ルムテク
マハトマガンジーロードから少し下った、町の西南、ラル・バザールに、ルムテクなど南方面へ行くジープのスタンドがある。ルムテクまでは25RS。
先客はチベット人親子2人、ベンガル人カップル、モンゴロイド1人。そこへチベット衣装を身にまとった老夫婦が来た。後部座席はタイヤに足をかけないと登れないため、チベットスカートのお婆さんにはきつい。するとモンゴロイドのおじさんと、親子の娘のほうが後ろに移動して老夫婦を前に乗せた。さらにもう一人モンゴロイドが乗ったところで出発。
後部に移動してきて隣に座った娘はいろいろ話かけてきた。
あそこが病院、あの山の中腹に見える白い大きな建物では、きのこ栽培をしている、等々教えてくれる。マニプールとナガランドの州境の村できのこ栽培プロジェクトを始めたアジア学院卒業生もいるので、このあたりの気候はあっているかもしれない、と言うと
「でもきのこはおいしくない《とチベット娘。
「健康にいい、て聞くけど?《と言うと、でもまずい、と顔をしかめていう。
彼女は現在23歳、2歳の双子の男の子がいる。一人は自分が、もう一人は母親が見ている。
カレッジを卒業後、21歳で結婚、仕事は続けているが大変だ、朝起きて朝食を作り子供の世話をして仕事へ行き、まだ戻って子供の世話をしての繰り返し。
今日は祖父の一周忌なので父とルムテクへ行く、この休みを取るのも許可をとりつけ、同僚に頼んでやっととれた。
父は歳を取り退職している、ラマ僧の資格も持っている。
日本にはいくつロープウェーがあるか、と聞かれ、咄嗟ににわからず、あちこちにあるので100以上はあるのではないか、と答えると「シッキムは1つだけね《と笑った。
学校は1-6学年がジュニア、7-10がセカンド、11-12がハイで、その後カレッジへ行く、シッキムにカレッジは1つある。金持ちはコルカタだのにやる。共通語はネパリ、学校教育もネパリ、というので「ヒンディーではないの?《と尋ねるとヒンディーでは教えていないという。
4月にダライラマが来る、というので「ルムテクは何派?《「カギュー派《「ではダライラマの宗派と違うのでは?《「でも来るのよ《
よく家の前に竹竿で立ち並ぶ五色の旗はダルチョと言う、自分を守って欲しいとか、家族のためとかで立てる。ダルチョはゴンパで買ってくる。赤は火、青は空、黄色は太陽、緑は樹木、白は雲を表している。
途中の村でモンゴロイドが降り、Stop Aids の看板のある村から若いチベット人カップルが乗ってきた。男性は座れず、ジープの後ろにつかまった。二人は途中で降りて行き、数ルピー払っていた。また一人降りると入れ替わりに3人乗ってくる。
さらに村人が戸口の前に立っていてジープに声をかけ、手紙を渡していることも。ジープは郵便配達も兼ねている。
尼僧院を見てみたいのだが、というと、彼女の妹も尼僧院に入っている、ルムテクにもあるという。
ルムテクへの道から、途中、北へ分岐する道が出ているところで「これはラカン・ゴンパへの道。あれもきれいなゴンパだから寄るといい《
ルムテクに近づいたところで、そこが尼僧院、と道の左へ入ったところにある建物を指差して教えてくれた。
ピクニックランドを越えるとルムテクに着いた。
彼女たちはもっと先へ行くという。ベンガルカップルとチベット人老夫婦も降りて、ゴンパへの登り口に向かった。
ルムテク・ゴンパ
門を通ってしばらくすると、警察が追ってきた。国籍を聞かれ、日本、と答えると「じゃあレジスターしてくれ、外国人は登録しなければならないから《と言うので門まで戻る。いちおう、通常の許可証ではルムテクまでしか許可されていない(つまり、チベット人親子の行く奥の町へは入れない)。
貸切ジープで次々ベンガル人一家が観光にやってくる。たいてい、子供は一人。アーリア系インド人の若者グループもいる。軍用ジープが何台も連なって来たので、何事かと思うと、中は女性や子供で、軍人の家族だった。
ちなみにルムテクへの道は国境への道ではないため、途中軍用トラックとすれ違うことはなかった。
ルムテク・ゴンパ(カギュー派)は1960年建立で新しいが、カギュー派トップの16世カルマパが中国から亡命して開いた寺。カルマパは、チベット仏教の指導者として、ダライラマに次いで重要な活仏である。
この寺は、16世カルマパがもともといた、チベットの Tsruphu ゴンパを模していると言われる(このチベットの寺は文化大革命で破壊された)。
もともとこの地は、1730年に9世カルマパによって建てられた古いゴンパのあったところ。
カルマパについて
17世カルマパは現在2人いる。
一人は当初、中国政府が懐柔しようとしていたチベットで見つかった少年だが、突然ダライ・ラマを頼ってインドへ亡命してしまう。彼は、先代カルマパの開いた、カルマパの本拠寺となるルムテク・ゴンパに入ることを希望している。
しかし、インド政府はこれを認めていない。中国との関係で微妙な人物であることと、最初中国で優遇されて育ったため、中国のスパイではないかと疑っている部分もあるという。
カギュー派の人々もこの17世カルマパにルムテク・ゴンパに戻ってもらいたがっており、インド政府に嘆願している。
寺院の回廊は僧侶のオフィスや休憩所になっていたが、その窓のところに、ダライ・ラマと少年の写真とともに、カルマパがルムテク・ゴンパに入れるようにしてください、とインド政府に呼びかけるステッカーが貼られていた(これはよそでもたびたび見かけた)。
なお、もう一人の17世カルマパ候補は現在フランスにいる。
みやげ物屋の並ぶ参道から、大門をくぐると、中は周囲に回廊があり、その先の中央に拝殿のある造り。シッキムのほとんどのゴンパもそうだったが、ここでも拝観料は取らなかった。でも結構観光客が来ているので、いろいろメンテナンスも大変だろうし、と300ルピーお布施する。
さらに上にも僧院が続いているので、のぞいていると「你上哪児去?《と中国語で聞かれた。あれ?と思い「你会説中文《と言うと笑っている。ほかの質問をしても答えられないようで、いくつかの文章を塊で覚えているようだ。
ちょうどお昼時で、僧侶や小僧さんたちが、ごはんにカレーや唐辛子をかけたお皿を持って登ってゆく。別の少年僧が「吃飯《と中国語で言った。あれあれ?
少年僧になぜ中国語を話せるのか聞くと
「チベットから来た人もいる。それで中国語を少し勉強したりする《という。
上へ登るとゴールデン・ブッダがある、というので見に行く。こちらは、高僧のいる小部屋に仏像が祀られているタイプの造り。
みやげ物売り場があり、絵葉書その他をお坊さんが売っている。ダルチョについて尋ねると、下のみやげ物屋で売っている、2種類あり、竹竿で立てられた五色の細長い旗はダルチョ、紐に連なり岩の間などを結んでいるものはルンカだという。
先ほどチベット人女性から教えてもらった尼僧院へ行こうと、ルムテク・ゴンパを下り、ガントク方向に少し戻った。
ピクニックランドまで来ると、ジープが数台止まり、ベンガル人家族が散策しており、道をはさんだ向かいの畑の奥に祠がある。道路沿いにはチベット人の家があるので、チョルテンかと思い、あぜ道を入ってみた。
畑で作業をしている女性たちに行ってもよいか尋ねるとOK、というので祠まで行く。
祠は台地の突端に位置し、その先は川へ向かって大きく落ち込んでいた。下までずっと段々畑が続き、細長い階段が一筋、上から下へのぼっている。
以前見た中国映画でも、谷から山上の村へ、細い石段が結ぶ山奥の山村の様子が描かれていたものがあったが、ちょうどそれによく似た光景だった。天へのぼる階段のような道を、男が一人降りてゆく。
対岸にはガントクが見える。
祠の屋根の上には、ナーガリ文字の”ウー”の鼻音化文字が乗っていた(オームと読む)。
ヒンドゥーの祠のようだが、いわゆるアーリア系インド人のヒンドゥーの祠に比べ、地味でキンキラしていない。見た目の雰囲気はチベット仏教のチョルテンのようだ。
畑で牛の世話をしている老人や、小型のマンノウでマッカリ(トウモロコシ)の種をまく女性たちと少し話す。彼らはネパリだという。祠は”ブッディ(?)テンプル”、自分達はヒンドゥー、自分たちも拝む、あっちの人達も拝む、と道路沿いのチベット人たちを指差した。
上の畑でも、男性が2頭の牛で畑を起こし、4人の女性たちがマッカリをまいていた。小型の鍬を手にしている人もいたので、何と呼ぶのか聞くと「コータロー《と言って笑う。彼女たちは総じてシャイで、何か尋ねると、恥ずかしそうにクスクス笑う。
4人の中に老婆がいた。老婆はマンノウを指し「カーター《、鍬を指し「コータロー《、そして自分を指し「アミ、ケータロー《と大声で言ったので、皆笑いだした。お婆さんはせっせと鍬で耕しつつ、「カーター、コータロー、ケータロー《と大声で言い続け、皆大笑いしている。
去り際、婆さんも若い子もタタ(サヨナラ)と言って大きく手を振った。
尼僧院
ピクニックランドからちょっと下ったところに、尼僧院 Karma_choker_deshen Nunnery がある。
現在尼さんは24人、シッキムだけでなくネパール、ブータン、チベットからも来る。ブータンから来る人は多い。院長の女性は地元シッキムの人。
大体何歳頃入るのか聞くと、いくつでもよいが、あなたは遅すぎる、と言うので皆で大笑い。
英語を話せるのが院長(といってもかなり若い印象を受けた。30代では?)だけだったので、他の尼さんとは直接話せなかった。彼女たちも全体にシャイな印象で、やはり話しかけると恥ずかしそうにクスクス笑う。
男性の作男のような人もいて、メンテナンスを担当しているようだった。
ロンプラ情報によれば、午後1時を過ぎるとガントクへ戻る乗り合いジープがほとんどなくなるが、ラニプールまでの14キロをトレッキングがてら歩くのよい、ラニプールからはシリグリ方面からのジープやバスが頻繁に通るので、すぐに車をつかまえられる、とある。
(ちなみに、プールのつく地吊は、発祥がヒンドゥー教の町であることを示す。同様に、バードのつく地吊は発祥がイスラム教の町)
ラニプールへの道を歩いて下りながら、きれいだ、というラカン・ゴンパにも、時間があったら寄ってゆくか、と考える。
途中、行きのジープの中から見かけた新しい食堂を見つけ、お昼がまだだったので入る。15日前にオープンしたばかりだという。これも国内旅行熱がさかんになってきた影響だろうか。ポーク・モモとコーヒーを頼む。モモは小型饅頭のように大きいが、味はよい。
店は道路脇崖っぷちにあり、眺めがよかった。
ラカン・ゴンパ(リンドン・ゴンパともいう)について尋ねると、ガントクとルムテクの間にある山の中腹に見える建物がリンドン・ゴンパだ、今日中に歩いて行ってガントクに戻るのはとても無理だという。ただ、ラカン・ゴンパ経由でガントクに戻る道は別にあるので、ルムテク*ガントク線に戻るよりは若干近くなる(リンドン行きジープはガントクで見かけた)。
幹線道路脇には、ガントクから何キロと書かれた石の道路標識が立っている。そのため、シッキムでは距離がわかりやすい。
食堂付近ですでにガントクから23キロだったので、ラニプールまでは11キロほど。
Stop Aids の看板のある村にきた。道路の右上にヒンドゥー寺院があり、その周囲はアーリアンの顔立ちをしたインド人の村、左下はチベット族の村になっていた。
シッキムではよく、青黄赤に傘のマークのついた旗をかかげた家を見かける。
途中の村で会った人に、旗について尋ねてみると、シッキムの旗だ、と言っていた。彼らの家にも五色のダルチョが並んでいたが、彼らはそれを”ブザ”だと言った。(後に、州や旧王国の旗ではなく、現在の与党政権の旗だと判明)
さらに下ると、道路わきにビューポイントがあり、ベンガル人家族が大勢タクシーを停めて観光している。そばにはチャイを飲んだりスナックをつまめる店がある。その手前100mほどのところには、チベット系の人がやっている店があったが、そこにはベンガル人はおらず、地元の人がいる。
ルムテク小中学校の横を通ると、休み時間に少年らが道路に出てきて遊んでいる。下の学年の子供たちは、乗り合いジープに乗って帰ってゆく。ときどきSchool only と書かれたシープを見かけるが、ジープにはスクールバスの役割もあるようだ。
さらに歩いていると、一人の老人が、既に人の乗っているタクシーを呼び止めて乗り込んだ。タクシーも乗り合いOKのようで、私も乗せてもらうことにする。ちょうど雨が降ってきそうだったので、ラッキーだった。
車はラダックで体験したように、坂道をエンジンをかけずに重力の慣性で下ってゆく。歩いていると音もなく車が来るわけで(歩行者に注意を促すためクラクションを鳴らすことは多いが)、けっこう怖い。
ヘアピンカーブの続く道では、黄色い背景に黒字で、Drive Slowly といった交通安全の標語が書かれているのをよく見かけた。なかでも
"Life is short. Do not make it shorter"
"Gentlemen ply do not fly" には笑ってしまった。
(このあと、別の道で
"Reach home in peace, not in pieces" というのも見た)
確かにそうした箇所は急カーブで、ハンドルを切り搊ねたら、谷底へまっさかさまな箇所。
道路脇の標識だのの支柱が”く”の字に折れ曲がっているのも見かけ、激突したらしい。やはり事故はかなり多いと見受けられた。
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