中国 1980:大学訪問記




復旦大学では拍手で迎えられ、はじめてTVでよく見た”歓迎”を受けた。
きれいにソファの並ぶ部屋へ通され、お茶が配られる。復旦大学側からは日本語課の学生が十数名出席、まず教授から大学の紹介があった。
「今ここにいる者は試験を受けて入ってきた者ばかりですから、大変に優秀です」と教授は大変な誇りを持って言った。試験とはどんなものなのか尋ねると、日本語で
「共通一次」、そして教授は共通一次について話してくれた。ほぼ日本と同じ形式で、
「他の大学ならば450点で合格できても、うちなら500点以上」と大変な自信を見せる。一次志望、二次志望とあり、一次に落ちると、二次、三次にまわされるという。また都市と農村とでは、同じ大学内でも合格ラインに差があるとも聞いた。
フリー質問に入った。やはりみな、試験制度に興味を持ち、随分質問が飛んだ。それでわかったのだが、すでに小学校でエリート校が存在すると言った。そうした学校内にはエリートクラスがあり、いい中学、高中、大学へと次々進むそうだ。「今来ている人はみなそういった人ばかりです」
文革中に入ってきた人達について尋ねると、良い人はよいが、悪い人は小学校程度で較差が激しく、教えにくかった、と言った。復旦では1966年から1972年まで学生をとらず、その後76年まで推薦制だった。当時学生がテストに反対していたという。その後募集方法を改革して、成績優秀者を取るようにしたそうだ。
これは当時かなりショックだった。四人組逮捕が1977年、それから2年あまりしかたっていないのに、文革はここまで否定されていた。エリート校とは”知識分子”的発想ではないか?特に頭でっかちのエリートでなく、人柄もすぐれた人を大学に推薦する、というのは良い面もあったのではないか、と夢を描いていただけに、強烈なエリート社会に変貌しつつあるさまを見て、なんとなくがっかりした。

続いてグループ別の討論会に入る。2班は女子学生Tさんと男子学生Dさんと一緒になった。Dさんは頭の良い人だ。まず中国語で話してくれ、大体の意味をつかんだところで、もう一度日本語で言いなおしてくれた。本人の日本語はほぼ完璧だったが、日本人側が中国語を使いたがったのでサービスしてくれたのだ。
私達はまずエリート制について尋ねた。彼はエリートの意味を尋ねたあと、「学生にとっては嬉しいことです。しかし国家にとっては損失です。良い学生のところにはよい先生が来ますが、できの悪い学生のところには行きません。できの悪い生徒は伸びません。この方法は、学生は喜びますが、国家にとっては損失です」
「あなた方中国人は、いつも国家にとってどうてあるかが考え方の根底にあるみたいですね」
「そうです。国家のことをまず考えます」
「私達は違うな」
復旦大学の学生の出身地について尋ねると、かなりいろいろなところから来ているようだった。地元の人は自宅から通学だが、たいていは宿舎に入っているという。宿舎(寮)は人間関係が難しいと日本では人気がない、と言うと
「中国でも中にはうまくやってゆけない人もいます。でも中国人は集団生活に慣れています」
「うまくやってゆけない人はどうしているんですか」
「仕方ありません。でも、勉強にがんばればいいんです。勉強ができれば、級友たちも一目置きます。勉強ができればつらいこともなくなります」
それはそうでもないんじゃないか、と思った。勉強がいくらできても、寂しい人は寂しい。しかしここを突っ込むと話が込み入りそうだったのでやめた。
二人とも日本語を学ぶのは将来に役立てたいからだ、という。
「でも中国では自分で仕事を探せない。日本ではできますね?」
「ええ。国家から決められるわけですね?」
「そうです。自分で探して決めることはできません」
「あなたはそれをどう思いますか」
「つらいです。たとえばこの学校に英文の仕事が3人来たとして、しかし学校にはその専攻の学生が2人しかいないとします。すると、日本語課から一人行かされます。自分の専攻は生かせません。これは大変につらいことです」
なかなか正直なので、こちらも
「でも日本でも仕事を選ぶのに、専攻を生かすというよりも”良い会社”をめざすことのほうが多いですよ」と言った。
しかし彼は納得しなかった。「自分で仕事を探せる、ということは羨ましいことです」と彼は繰り返した。「中国の学生も”良い会社”をめざすことは同じです。中国には3つの職種があって、工員、公司、幹部。復旦の学生は工員には行きません。公司か幹部です」
日本人学生らが中国語専攻でなく、東洋史や経済、法学などばらばらだったり、本当は小説を書きたいという者がいたりするのを見て
「日本の学生さんはいろいろなことを学んでいますね。中国の学生はだめです。専門しか学ばせてもらえません」と寂しそうに言った。
「でも逆に全部中途半端かもよ。夢で終わったりとか」
「国家の必要で勉強することも決められてしまっています。中国の学生は専門しかやっていないから、日本の学生さんのほうがよいです」

Tさんはきれいな人で、軽くお化粧をし、当時珍しくスカート姿、しかもサンダルをはいていた。この旅行に来る前の心得として、「まだ纏足の習慣を覚えている人がいるから、女性はサンダル履きをしないように」(つまり足先をなまで見せると性的に興奮する人がまだいる、ということ)と言われていたのに、である。
男子らがさかんに「芸能関係に興味はないんですか」「女優になるつもりはないんですか」と尋ねていた。
Tさんはすらりとしているのに「太っている」と気にしていた。最近太ってきた、という。「22歳なんて、もうおばさんです」とも言った。「1日何時間勉強するんですか」との問いには、8時間と言う答え。学校終わってもやることないから勉強している、とのことだった。
ところでTさんのサンダルの片方のホックが壊れていた。それをある日本人男子学生が(おそらく親切で)「壊れてますよ」と指摘した。すると彼女は耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。

現代の中国政治専攻の大学院生が
「みんなズボンなんかもさ、すりきれたやつをきちんとアイロンかけて大切にしてはいていただろ。別に物持ちがいいんでもケチなんでもなくて、彼らにはあれしかないんだよ」と言った。





写真は南京大学との交流会

この旅行のあと、何人かの学生と文通を続けたが、みな実際会ったときにはフランクに話した「国家によるXXはいやだ」という内容を、手紙ではいっさい書かなかった。一度「あのとき聞いたこの話について」と手紙に書いたら、当人から「中国でお会いしたときには、どんなに中国がすばらしい国家かみなさんにお話しました」という内容の返事が来たことがあり、一瞬裏切られたような気がした。しかし、次の瞬間、まずいことをしたのはこちらだったことに気がついた。現在はわからないが、当時中国では手紙の検閲があった。うかつなことを書くと相手に迷惑がかかるので、以降、気をつけるようになった。

そしてその後、Dさんは東大の大学院に入学し再会した。彼は日本の大手商社に勤めた後、さらにアメリカに渡っていった。そうやって彼らは実力で就職の自由を獲得していった。

ところで、同行した大学院生氏の話では、大学紛争時代、ほとんど母校には行かずに京大と東北大を行ったり来たりして、好きな授業を聴講していたという。「国立大学なら誰でも聞かせてくれるよ。要は熱意だからね」高校は京都だったが3年間で合わせて10日も行っていない、高校へ行こうとしてもこん棒持って待っているとも語っていた。日本の高校大学にも、そういう時代があったのだ。



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文化大革命時代(1970')の中国の音楽:BCL Report

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