個人旅行解禁の頃の中国


当時、インビテーションが必要なため、日本から中国のビザを取得することは個人では不可能だった。ただし、それを代行して取ってくれる旅行社が数社あり、中国語学習仲間のつてでK社に依頼することにした。香港なら、華僑に混じる方法で現地旅行社から直接ビザを取ることができたが、南を回る場合はともかく、北がメインになると交通費代がかかる。時間のある学生ならゆっくり回ってペイするだろうが、時間の限られた仕事を持つ身には難しい。当時香港でビザを取る場合、申し込んだ翌日の午後になるとの話でさらに時間が無駄になった(金曜午前中に頼めば土曜午前中の受取り可能)。
さらに当時、ビザなしでいきなり北京空港に行っても、その場でビザを発行してくれる、という噂があった。中国留学の本を出している知人の話では、いや、その噂を聞いてビザなしで行った人が追い返された、と聞いた、どうやらそのときの状況によってビザを出してくれる場合もあれば強制送還になる場合もあるようだ、もとからあてにして行かないほうがいい、とのことだった。

ところで、1980年代始めは、中国関係を扱う場合、すべて中国政府と特別な関係にあるところが行っていた。旅行社もそうだったが、貿易などもそうで、中国との貿易を行える商社は”友好商社”と呼ばれ、いわゆる○○物産や○○商事などの大手商社は手がけることができなかった。それで中国語学習仲間の知り合いの中には、わざわざ○○物産をやめて友好商社にトラバった人もいたほどである。
時代変わって、今ではそんなこともなくなった。大手旅行会社も大手商社もメーカーも、皆当然のように中国を相手に活動するようになった。就職活動で訪問した友好商社で、大手商社から移ってきた知人は、「人間なんて勝手なもんでね、移ったら移ったで”ああ、あのときつまらん話を聞いて飛びこまなきゃよかった”と後悔するし、残ったら残ったで”あのときやっぱり思い切って飛びこんでみりゃ良かった”、とどちらを選択しても必ず後悔する。とにかく今好きな中国相手の仕事ができるし、大手は大きな仕事ができるが自分の裁量になる部分が少なく、こういう小さいところ(友好商社はほとんど中小企業)だと額は小さいが自分の好きなようにやれる。どちらもどちらだね」と語っていた。


中国側の出迎えのSさんに会うが、書類と私達を見比べつつ、「今回は男3人、商用となっているが女3人だね」と言った。こうしたことが、ときどきあるような口ぶりだったが、内心どう感じているのかはわからなかった。中国政府の発行するビザは、すべての旅程の決まった団体/個人旅行、招聘状のある個人旅行、商用、の3種しか出さないはずだったが、こうして書類を整え実は違う目的(自由旅行)で入ってくる外国人が結構いたわけで、現在不正入国してくる中国人の一部の方式とほぼ同じことをやっていたわけだな、と思う(香港経由も華僑ビザなので、詐称であることは同じ)。




兌換券:
当時は兌換券紙幣が使用されていた。兌換券があると友誼商店(ドルショップ)で売られている外国製品を購入できるので、この頃旅行すると兌換券をほしがる人々によく出会った(それ以前も使用されていたが、いちおう文革の余波の強い頃はそうした欲求が抑えられていた)。上海でも、お昼に入った店の店員の女の子と話があい、一緒にドメトリーを探してくれるという。目的のホテルのドメトリーは満室だったが、彼女は兌換券がほしい、と言った(交換)。今考えれば換えてあげても良かったと思うが、一応闇両替は違反。万が一が恐くて断った。
通りでも、近くに警察官が立っているにも関わらず「外貨券と換えよう」と声をかけてくる人達がいた。100元→120元のレートだった(やはり断った)。

屋台で中国語で買い物をしていたときのこと。人民元が足りず兌換券を混ぜて出すと、それまでつまらなそうにしていた物売りの目が急に輝きを帯び、「もう一枚!もう1枚!」と人民元との交換を要求した。その急変ぶりに、いっしょに回った友人が「あれ見た?市場経済になったらきっと中国人は活き活きしはじめるよ」と言った。それから数年後、改革開放路線がはじまり、はたして彼女の予言どおりになる。

中国に留学していた友人に現地で聞いた話。その頃北京市内、バスの中などでトルコ帽を被った独特の風貌のウイグル族をよくみかけた。彼の話では、(その当時)ウイグル族が大挙して北京に来ており、外国人から外貨兌換券を組織的に集めて友誼商店(ドルショップ)で外国製品を買いつけ、闇で高く売って儲けている、との話だった。さすが西域の商人は抜け目がない、とのこと。




宿:
外国人の宿泊可能な宿は決まっていて、中国人でも身分証明書を提示する必要があるため、中国人へのなりすましも不可能。ただ華僑と一緒にチェックインすると、華僑の宿泊可能なホテルには泊まれるという話を聞いた(当時のホテルは中国人のみ可、華僑と中国人のみ可、外国人など誰でも宿泊可の3種類があった)。これは現在でも基本的に同様。ただ現在と違い、あまりすれていなかったので、外国人の泊まれる宿のないところでは旅社に泊めてくれた、地方は通達がはっきり回っておらず知らずに泊めてくれた、等の体験談も多かった。

上海で中国人に教えてもらった旅社を探す。民航近くを歩いていると、近所のおばさんが何を探していると聞くので、旅社だというと、目の前の招待所を指差した。
飛び込みで入ったところ、最初は「いいよ」と服務員の人たち。「ただしいちおう確認とるから待って」。そして一人が受話器を取り上げ、どこかへ電話している。その結果、「やっぱりだめだって」とすまなそうに言う。「内部の人だけ、泊めると複雑、公安へ連絡がゆく」とのこと。雑談しているときに「あんた達、どこの人?」「日本人」「えっ、日本人?」と驚く。なぜ違うと思ったのか聞くと「日本人チュアン得好」と言われてしまった(中国で浮かないよう、なりすまし過ぎたのかも)。このとき、外には人が大勢たかっていた。




印象:
一緒に回った友人たちが、文革にも以前の中国にも興味のなかった普通の女の子たちだったこともあって、彼女らの感想がなかなか鋭く面白かったので、何点か紹介する。

石窟に名前が彫られているのを見て「中国人は日本人同様ミーハーな国民だ、きっと」と言った友人は、「そのうち中国人もカメラが買えるようになったら、やたら写したがるようになるよ」と言った(この予言も当たった)。また人がたかったり、走ったりしているのを見ると、われ先にそれに沿って流れ出す点も日本人に似ているという。
また「中国人、て気長じゃないね、どう見ても」とも。いわく、バスにわれ先に乗ろうとする、ゆっくり歩いても間に合うのに走る、バスが開かないと叩いて騒ぐ。
声と動作が大きい。食堂でもよくじゃんけんゲームのようなことをしながら6,7人で騒いでいる。北京ダックの店では、頼んだ料理と違う、と怒った中国人グループが料理を床にばらまいていた(彼らは吉林省から来ているそうで、いちいち値段を聞き、北京は何でも高いとこぼしていた)。駅で喧嘩を見たが、動作がひょうきんで軽業ができそうなくらいに敏捷でしなやか。夜行列車の中でも雨の降りだしだバスの中でも、ひょいひょい登って網棚に乗ってばたばたやったり、天窓をがたがたやったりする。




廟:
北京で地図にある廟のつく地名の個所を訪ねてみた。まず紅廟。しかし、バスを降りたところで物売りの少女に聞くと、「廟なんてない」と笑われた。「でも地名が紅廟でしょ」と言うと「地名だけ」。さらに白塔寺そばの馬神廟へ。しかしやはり無かった。いずれ中国でも廟探索をやってみたいが(台湾の廟についてはこちら)。



(2002.01.07 作成)

このページは1980年代の中国旅行に関するページです
1999年北京旅行記と写真はこちら

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