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モンゴル紀行

シーアル

 

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*この水色の欄はユーコが書いています
(Last updated:01/02/23 )

<「登場人物」の紹介>

★この旅行記はシーアルさんのいわば第1作目にあたります。シーアルさんは、英語と中国語がペラペラで、かつ行動的な人です。
ちなみに「シーアル」というのは、文化大革命時代の中国の”革命的現代バレエ”白毛女の主人公の名前だそうです。

★エミさんは、どんな環境でも気に入ってしまう特技の持ち主。このモンゴル旅行で、唯一、ラクダ旅ができそうだった人です。

★残るユーコは歩くのが大の苦手だったのですが、健康的なお二方のお陰で、広大なモンゴルの大地を満喫できました。

1995年7月15日

13:00 名古屋空港より、モンゴル、ウランバートル行きのチャーター便に搭乗(名古屋−ウランバートル間の定期便はこの少し後に開設)。この際、座席票のだぶり騒ぎがあった。座席番号が手書きで斜線で消しては書き直されたりしていたため、5Aを持っている人が3人もいたりして混乱を極める。結局各旅行会社のツアーごとに座席が確保されてゆくが、モンゴル人親子が「この番号だからゆずってくれ」と粘ったり(最終的に後ろの席に座れた)、添乗員は前方カーテン奥へ移ったり、一時は席が足りるかと皆殺気立っていた。こういう時は旅行社の力関係が大きいようだ。モンゴル人スチュワーデスは終始冷静。

★私たち3人は名古屋駅で待ち合わせたのですが、その姿が傑作。一人は熱帯地方に行く格好、一人はヨーロッパに行くようなフツーの格好、最後の一人は寒いところに行く格好なんです。お互いにどんなところに行くかをはっきり理解していなかったわけで、先が思いやられます。

★飛行機のことは、もう出かける前から大混乱です。無事に行けるのかなぁって、みんなで大心配してしまいました。チャーター便ならではの騒動ですね。

さらにこの時、ある旅行会社のグループに添乗員がついていないことが判明。しかも同社のツァー参加者はお年寄りが多く皆海外旅行に慣れていないようすで、入国カードの扱いにも困っていた。モンゴル国内は交通事情が悪いことから、この後もこの便を利用している旅行会社のツアーすべてのメンバーが一緒に回ることになるのだが、今後の波乱が予想される。 ★添乗員いない問題。これは結局、その旅行社の団体さん自身が大変だったのはもちろんですが(その深層がいまいちはっきっりしない)、私たちの添乗員さんを始め、各社の添乗員さんたちでその人たちをサポートすることになってしまったため、とばっちりを食った感じの添乗員さんたち、本当にゴクローさんでした。

13:30発が結局14:00過ぎに出発、ソウルへ。日本の航空燃料代は高いため、ウランバートルから日本への便は直行便でも、日本発の便は必ずソウルか北京に寄って燃料を補給するためという話だった。ソウルになるか北京になるかは当日いきなり決まった(元々北京の予定)。

★全然寄る予定じゃなかったソウルに寄ってもらったお陰で、私たちは食料を買い込むことができて助かりました。キムチやら、海苔やら、買い込むことができ、その後それが、とても役に立ちました。でも、「ニーハオ」のつもりが「アンニョンハセヨ」ですから、みんなで面食らっていたのは確かです。

天山山脈を越えモンゴル領内に入ると、砂漠と草原が続く。朝鮮半島、中国領土上では、海沿い、川沿いに区画された田畑と集落が点在するのに対し、山脈を越えると全く人家がない。高度が下がるにつれ、白いゲルがたまに目に入る。

21:00 ウランバートル着。外はまだ明るく夕方の感じ。空港は日本の地方空港のようでもあり、またどこか戦前を思わせる雰囲気で、素朴というかきまじめな感じが漂っていた。軍人がそこかしこに立っており、制服は中国に似ているが、帽子の輪の部分が異様に大きい。

税関、入国はあっさりしたもの。ある日本人グループが大量にダンボールを運んでいる。話を聞いてみると、歯科医が世話役になったNGOで、あちこちに歯科医療センターを開設しておりそのための医療物資を届けているとの話しだった。私もかつてNGOで働いていたことがあり、当時はカンボジア難民やアフリカ難民がメインだったので、モンゴルでこうした専門的活動を行うグループが出てきたのか、と時代の流れを感じる。

★このときはまだチャーター便しか飛んでいなかったこともあり、この人たちの行動はとても印象的でした。小さな空港の中で、確実に届いている助け合いの精神を感じることができました。

バスでヌフトホテルへ。空港からの道路は草原を横切って延び、人々が三々五々歩いている。町との境界にはモンゴル式門が一基立ち、西日に白く輝いていた。独特のモンゴル文字が異国情緒を感じさせる。ヌフトホテルに近づくにつれ丘陵地帯に入る。大学時代モンゴル史で習ったとおり、なだらかな山襞の南斜面に草原、北斜面に森林が広がる、典型的なハンガイ地方の光景をなしていたのには感動した。

★ホテルはウランバートルの郊外にあって、静かでとてもいい環境でした。でも、市街地から遠く離れているために「遊び人」の我々としては「夜遊び」ができなくてちょっと残念でした。その代わり、ホテルの裏山を全て「踏破」しました。

10:00 ホテル着。

11:00 就寝。

今回一緒だったのは、K社(私たちの利用した業界大手)、M社(財閥系旅行会社)、J社(モンゴルに強い旅行会社)、D社(僻地旅行専門旅行会社)の4社の各ツアーだった。D社を利用したツアーについてはその後様々な噂が流れた。はじめは添乗員がトンヅラしたという話で、モンゴルに強いJ社の添乗員に泣きついたが26人抱えているからと断られたという話だった。それが翌日の話では添乗員が参加しないことになりJ社に頼んだのだが、その話がJ社に伝わっていなかったということになっていた。その後、結局D社を利用したその団体の旅行担当者がお金をけちって、元から添乗員を頼まなかった、というのが真相のようだった。この顛末から、このツァーは回りから「怪しげ団体」と呼ばれることになる。

★この旅は本当に「変な」旅でした。いろいろな人と出会えたのが私たちにとっては大切な思い出ですが、こんな、わけの分からない話もありました。
 

7月16日

5:30 ホテルのまわりは、白樺のきれいな林が続いており、軽井沢かどこかのようだ。ポスターなどでみかける典型的なモンゴルのイメージとは異なるが、この森林がモンゴル民族のルーツだと大学で教わった記憶がある。

6:30 南ゴビ行きの飛行機は6時半に出発予定だったが、なかなか出ない。50人乗り程度の旧ソ連製プロペラ機で、内装は実用本位で殺風景。「飛行機に穴があいているらしい。冗談だけど。」と通訳兼ガイドのナランちゃん。彼女は大学の日本語科の一年生で、まあ日本語は上手だし、お父さんが日本大使館勤務だったこともあり、育ちの良い可愛いい女の子だった。ただ、ガイドの仕事は今回が初めてだと言う。また日本に住んだことはあっても、南ゴビに行くのはこれが初めて、さらにウランバートル以外のモンゴルは見たことがない、というので(年齢的な若さもあり)少々頼りなかった。しかし何事も初めてという段階があるのだから、今後に期待しよう。彼女のお父さんも今回J社ツアーのガイドとして同行していた。7時過ぎにやっと出発。機長が決まっていなかったらしい。日本からの4組のツアーとモンゴル人乗客を乗せたチャーター便で、荷物置き場のようなところにもモンゴル人乗客が乗り込んでいた。1995年夏当時、モンゴルはエネルギー不足に悩んでおり、国内の公共交通の運行状況は悪かった。このため移動はもっぱらチャーター便もしくは専用バスにより、時には欧米からのツアーとも共同してチャーター便を手配していた。同様の事情から、ツアー以外の個人旅行者は移動に非常に苦労しているようだった。このことについては、後にツーリストゲルで一緒になった個人旅行者から聞いた話を後述する。

すさまじい轟音で離陸したプロペラ機は、一定の高度に達すると独特のリズムをもったエンジン音が通奏低音のように響きはじめた。その哀調を帯びた音と、前の座席から窓の下を見下ろしている山高帽の老人の姿、そして実用本位の機内の様子とがあいまって、再び戦前の印象を覚えた。表面的に見ただけだが、国全体にきまじめさ、地道で黙々とした、戦前の日本のような一種悲壮感を漂わせた美や節度と重苦しさが感じられた。

旧ソ連の影響かもしれないが、いまだ重厚長大を重んじる雰囲気があるせいかもしれない。下界は赤茶けた丘陵地帯が続く。

12:00前後 南ゴビ砂漠着。バスでツーリストゲルへ。似たような山脈が続く中、このゲル群は赤い山並の左の切れ目を入ったところにあり、草原に出たときに良い目印となった。昼食後、バスで自然博物館へ。草原に住む動物の剥製を展示した小さな博物館。博物館のおじさんは、少しだけ日本語で単語をまじえつつ解説し、ガイドが訳してくれた。

さらにバスで奥へ入ると、鷲の口へ続く渓谷の入り口に出る。入り口付近にはテントが5、6個並び、フランス人がキャンプしていた。緑の草の生えたなだらかな谷間を30分歩いて、雪渓(氷河の名残)が見られる鷲の口へ着く。あたりはハイ松のようなものが生え、北アルプスの光景に似ている。峡谷のどんづまりに少し雪渓が残り、溶けた氷は小川になって流れ出ていた。

この付近は鳴きウサギが見られるので有名。ネズミくらいの大きさの小さなウザギ?があちこちの穴から顔をのぞかせ、チュイッ!と警告音を発しては隠れる。

7:00 宿に帰って夕食。まだ3時か4時のように明るい。ボーイの中に一人、背が高く高島弟に似た格好いい子がいた。日本のタレントに似てるね、と言うとさかんに照れていた食後近くの丘へ散歩に出かけると、子供たちが集まってくる。エミさんは折り紙を持ってきており、鶴を折ってみせる。子供らは興味津々でさっそくまねしはじめた。いつのまにか次々集まってきて我も我もとみようみまねで折り紙を折っている。鶴と飛行機をマスターした子もいた。好奇心の強さと集中力に脱帽。男の子も女の子も小さいこの面倒をよくみていた。子供の数は多く、この後ゲル訪問をしても湧いてくる感じだった。きいてみると5〜8人兄弟が多い。

 

7月17日

8:00 朝食。この後もほとんど食事内容は同じ。基本的に小型のパン、キャベツの酢漬けもしくは人参と干ぶどうあえもの(どちらもおいしい)、生野菜(トマトとキュウリのスライス)、スープ(羊の出汁)、肉、ライス(中国から輸入)のパターンで変わらない。バスでバヤンザクへ。恐竜の骨が見つかったところとして有名。途中、野生の馬や牛の群れ、野生ラクダ(たいてい2、3頭ずつ)、ガゼルによく出会った。馬も牛も野生のくせに車道を歩いていることが多く(やはり歩きやすいらしい)、馬は車が来るとのそのそ避け、牛は思ったより敏捷に避けた。またあれだけ広いステップをなぜか一列縦隊で移動していることが多かった。ガゼルは4、5頭で走っており、バスと併走した後バスの前を必ず横切って逃げて行く習性があった。バスはよくエンジンがオーバーヒートし、そのたびにしばらく停車してボンネットを開けては、冷やしつつ進む。

道すがらオボーをよく見かける。石を積み頂点に棒杭を立てたものだが(動物の頭蓋骨や瓶、空き缶が上に乗っていることも)、どういう基準でその地が選ばれているのか謎だった。丘の上が多いが平地にもある。ナランちゃんもあまり伝統に詳しくなく説明できない。

ステップには時々きれいに白骨化した動物の死骸が横たわっていた。乾燥しているため腐らずに風化するようで(きれいに食べられてしまうというのもあるだろう)、腐敗の汚さ、怖さはない。風の強いステップの中、寂しい透明感を漂わせて横たわっていた。

たまに群からはぐれポツンと座りこむ馬や羊をみかけた。動けないようだった。きっとそう遠くない先、あの白骨に還るのだろう。

南ゴビの道は、未舗装でステップに轍の後がついただけの道も多かった。車や人にもあまり出会わない。ただ一度チャリをこぐモンゴル服の老人をみかけた。あたりにゲルはないし、どこからどこへ行くのか不思議だった。

バヤンザクは、赤い粘土の丘が垂直に切り立ち深く谷が刻まれたところ。コロラドに似た風景だが、もっと荒涼感がある。風が強い。

お昼はモルツォク砂丘でジンギスカンバーベキュー。ツーリストゲルの料理係が用意してくれる。砂丘の広がりは鳥取砂丘程度。まわりはまばらに草の生えたステップが続く。このあたりはステップの中にポツポツ砂丘地帯が点在する地形のようだ。バザンヤクでは曇り空に強風で寒かったが、ここ砂丘では快晴、日射と砂からの照り返しが強く焼けるように暑かった。

4時 帰り道の途中でゲル訪問。馬乳酒とチーズをもらうが、酸っぱくて食べにくい。ゲルの中にはカラオケセットがあった。こうしたツァーの訪問するゲルはいつも同じなのだろうか。ラクダにも乗せてもらうが、ラクダは後足から立ち上がり前膝を折って座るので、前のめりになり怖かった。エミさんは、ラクダは暖かいし乗り心地いい!乗り降りも恐くない、という。

7時 夕食。ナランちゃんと話す。モンゴル人は中国人嫌いです、ロシア人は大丈夫、一番誇りに思っている時代はジンギスカンの時代、次はオチバルト大統領の時、あの時代は物価も安く生活しやすいいい時代だったといつも父母が言っている、等々話してくれる。夜中にトイレに起きたら、きれいな月明かりだった。外灯などなくとも十分に明るく、くっきり影ができるくらい。あんなに月夜が明るいとは知らず、幻想的光景に感動。

 


7月18日

7:30 朝食。ゲルは4人一室で、私たち3人に一人参加のMさんが同室だった。Mさんは毎朝太極拳をするのだが、昨日の早朝「怪しげ団体」の人たちが白い服を着てなにやら宗教儀式のようなことをやっていたという。彼女いわく、彼らは神道系の団体で、名前は教えてくれなかったが「天理ですか」と聞いたら「天理より上です」と言われた、今後世界各国を旅行しては朝お勤めをして世界のために祈るそうだ、布教はしないと言っている、次はトルコに行くらしい、という。宗教に詳しく自身曹洞宗僧侶の資格を持つユーコさんも「神道系は布教はしないところが多い」という。オウム騒ぎの年だったので新興宗教と聞き一瞬エッ!となったが、自分たちで勝手にやっているならまあいいか、という感じだ。

9:00 行きより大きいチャーター便でウランバートルへ。白人の団体旅行者も多数乗っている。隣に座った女の子はシカゴから団体旅行で来ており、3週間かけてモンゴルを回っているそうだ。モンゴルはどこもwindyだとこぼしていた。ちなみに彼女たちが南ゴビで回ったところは、砂漠でお昼にバーベキューという設定まで全く私たちと同じだった。どうもセットになっているらしい。

12:00 ヌフトホテルで昼食。

午後、ボグドハーン宮殿、自然史博物館、スフバートル広場、ガンダン寺、ザイサン丘と回る。市街地への入り口に立て看板があり、Welcomeという英語とともにハングル文字も書かれていた。韓国人か北朝鮮人が多く来るのだろうか?キャノン、現代の広告が目に付く。

ウランバートルは人口50万の街。「新潟市と同じだ、モンゴル全体で200万というのは新潟県250万より少ない」と新潟出身のユーコさん。この話で大体の人口規模を実感。

街の東をオルホン河が流れ、大きさ的にもちょうど多摩川のような光景。甲羅干しをしたり釣りを楽しむ人々をみかける。車はソ連製らしきものが多かったが、日本車や韓国車の現代も目に付き、中古らしき佐川急便のトラックも走っていた。街中で一番目立つ建物は、2基の巨大な火力発電所。市のど真ん中にあるのも解せないが、しょっ中停電するくせに、真っ黒い煙をもうもうと吐き出して公害をまき散らしている。

建設途上のジンギスカンホテルも目立つ。毎年今年こそ完成すると言われつつ未だに未完の代物。添乗員の話では、日本の大手ホテルチェーンの資本が入ったので、今年か来年には本当にできあがる、とのことだったが、1997年の今、どうなったのだろう?。

宮殿は今ではかつての活仏の財産や仏教美術を展示する博物館だ。しかし、庭には草が繁茂し、塀は傾き手入れがよくない。宮殿自体も日本の中規模のお寺程度だ。どうもかつての活仏の贅沢な暮らしを批判する趣旨の博物館らしく、最後の活仏の奥さんの贅沢三昧な暮らしぶりを写した写真が並ぶ。それを見たツァーのおばさんたちは、「この女いかにも贅沢好き、て顔しているね」「あーやな顔してる」としゃべりまくっている。展示目的は達しているかもしれないが、本音でない自己全否定を見せられたような、何か釈然としないものが残る。

自然史博物館は動物の剥製ばかりを集めた博物館だが、説明がキリル文字で書かれ何がなんだかさっぱりわからない。一般に英語はまだ浸透していない。モンゴル文字もまだまだ少なく、キリル文字で書かれたモンゴル語かロシア語での説明、表示が圧倒的だった。ただし、ここの1階のみやげもの売場の女の子はきれいな日本語を話した。高校を卒業したばかりという頭の良さそうな彼女は、高校で日本語を習い、千葉にホームステイしたこともあるという。来年は大学に入るつもり、と言っていた。

スフバートル広場は規模の小さい赤の広場か天安門。

ガンダン寺は増上寺かもう少し広い規模のお寺で、寺院の建築様式も、回りに並ぶストゥーパ、マニ車も完全にチベット様式のラマ教寺院。五体投地で熱心に拝む老女、マニ車を回しながらゆきかう善男善女、そして足早に横切る小僧さんから年寄りまで様々な年齢のラマ僧、と今回モンゴルで回ったお寺の中で一番活気があった。ナランちゃんのお父さんによると、最近モンゴルでは再び活仏制度を復活させようという動きがあるという。そう話す彼の表情は批判めいたものはなく、むしろ喜んでいるようであった。来年(1996年)にはダライラマ訪蒙もあるという。ガンダン寺の参道には記念写真屋さん

が並び、ダライラマの”お姿”を背景に合成してくれる写真屋さんを発見。流行っているようで伝統復活の空気が感じられる。

ザイサン丘からは市内全体が見渡せる。景色はいいが、丘の上に今や時代錯誤的な革命壁画の描かれたモニュメントあり。丘への階段を上っている時、M社のガイドの男の子が、この夏インドへ行くんだ、とツアーの女の子に話していた。「ガイドですか?」「いいえ、遊びに行くんです」という会話に、海外旅行のできる人も出てきているんだ、と思いを新たにした。

つづく・・・

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