モンゴル紀行(つづき)

7月19日

9:30 バスでブルドへと国道をひた走る。道路の状態はよくない。一応舗装はされているものの、穴があいたまま補修されていない。「冬寒いところはねえ、凍結した後アスファルトが割れちゃうんだよね。だから春になると補修しなければならないんだけど、ここはやってないよね」と北国出身のユーコさんとエミさん。ブルドへの道では、道路脇に小麦畑の広がる光景をよく見かける。遊牧民は一度畑にすると牧草に戻らない、と畑化を嫌う、と添乗員が教えてくれた。電信柱が道に並んで設置され、時折草原の中へ枝分かれしてゆく。その先には工場や村が見える。また柱の上に鷲がずらりと並んで留まっていることも。野ネズミ監視に丁度いいらしい。

たまに道路脇に5、6軒ゲルが並びSTOPと英語で表示されているが、これがモンゴルのドライブイン。さすが国道で車は割と頻繁に通る。羊毛を山のように積んだトラックとよくすれ違う。「完全に積載制限オーバーだ」とユーコさんが言うと、「そんなの無いんじゃないの」とエミさん。自家用らしい車やジープもたびたび見かける。家族で乗っていることも多い。また夫婦や男二人でオートバイに乗り、大きい荷物をくくりつけて移動しているのにもよく出会った。たまに道路脇に荷物を置いて人が座っている。ヒッチハイクか、いつくるかわからないバスを待っているのか。また脇に車を止め外に座り込んで休んでいたり、ボンネットを開けて中をのぞき込んでいるのもいた。次第に景色が変わり、オルホン河流域の湿地帯が山裾に広がる。草原の中に白くゲルが光る(たまに破れてボロボロのものも)。ゲルのあるところ(つまり生活しやすいところ)は決まっているようで、多いところは一帯に点在し、無いところは全く無い。水の関係らしい。またゲルがいくつかあるところに巨大なドラム缶型タンクが2基、横向きに設置されているのを時折見かける。水のタンクだそうだ。

途中バヤン・ヌルで昼食。羊の丸焼きを食べる。羊をつぶした後、肉を外し再び皮に詰めて焼石を入れ中から焼いたもの。うまみが逃げず今回の旅行で食べた料理の中で一番のヒットだった。はじめ丸焼きの形で出てきたときは、みなキャアキャア騒いでいたが、いざ食べ始めると一気に平らげていた。「怪しげ団体」のお年寄り以外の、モンゴルツアーに参加するような人々は旅慣れた人が多く、羊の目玉はおいしいんだ、どこそこで食べたと蘊蓄を傾けている人もいたくらい。

さらに一路ブルドへ。5時過ぎ、ツーリストゲルにつく。

7:30 夕食後、陽射しがまだ強く、暑くて何もできないためいったん夕寝。

9:30 起きて近所を散策。その後J社ツアーの有志が、ゲルの前で夕涼みがてら開いていた飲み会に参加。個人旅行でモンゴルに入り、ウランバートルからブルドツァーだけJ社に頼んで参加したというSさんと、モンゴル交流協会のアレンジでウランバートルにホームステイしつつ地方を旅行して回っているYさんの話を聞く。

Sさんの話では、モンゴルはまだインビテーション無しの個人申請に対してはビザを発給しないという。そこで彼女は、かつてJ社ツアーでモンゴルを訪れた際に親しくなったモンゴル人にインビテーションを書いてもらい入国した。1995年夏当時、モンゴルは燃料不足がひどく、定期バスは時刻表どうり運行できないことが多く、航空定期便もあまり整っていない状況だという。このため個人旅行者は、チャーター便が出るごとに交渉して一緒に乗せてもらって移動している(タクシーをチャーターすると高いため。ただし欧米人がよく車をチャーターして移動しているのを見かけた。このとき一緒に飲んだ中にもオランダ青年が二人いて、やはり車を借りて地図なしで自分たちで運転してきたと言っていた−値段は聞かず−)。飛行機やバスのチャーター便がいつ出るかは、ツアー客の宿泊する大きいホテルへ行って情報を仕入れるそうだ。今回もヌフトホテルへ来て交渉したそうで、J社の添乗員からは一人旅の女の子なんてろくなもんじゃないと渋られ、また他のお金をきちんと払っているツァー客に面倒をかけるといったん断られたらしい。しかしそこは旅慣れた身、粘ってなんとか乗せてもらった、料金は後で払うことになっているという。ブルドの宿泊費は当然別会計、一週間ここに滞在した後次のツアーの帰りのバスに乗せてもらってウランバートルへ戻るという。こういう状況だから、モンゴルを個人旅行で回る場合、ウランバートル周辺だけならともかく、地方へ行くつもりなら一ヶ月以上は余裕がないと無理だと言っていた。

Yさんはモンゴルの全般的な状況を話してくれた。ウランバートルの治安は前に比べて悪くなっている、汚い身なりの子供にはスリが多いから注意したほうがよい、日が落ちたら女性の一人歩きは避けたほうがいい、また日本のヤクザも入っておりウランバートルでストリップ劇場を経営している、キムラという人がボスで結構にぎわっている、等々。また遊牧民は現在人口の2、3割しかいない、子供を働かせるため識字率は落ちつつある、ウランバートル(都市)の人口は増えつつあり日本と同じ過疎化の問題がある、夫婦あたりの子供の数はモンゴルでも減る傾向にあるとも話してくれた。おみやげには何がいいか聞くと、彼女曰くあまりいいものがないそうで、彼女はいつも東欧製のクッキーを買って帰るという。モンゴルで食べたかったサマルについて、どこで手に入るかたずねると、時期には食品売場に1キロ単位で売っているがもう終わっているかも、との話。綿入りデーレも欲しかったのだが、冬物だから9月以降でないとない、とのこと、残念。

 

7月20日

7:00 朝食。「怪しげ団体」と相席になる。一人先生と呼ばれる初老の男性がおり、彼に必ず座椅子を出す係のおじいさんがいることを発見。食事の時の席順も決まっているようだった。いかにもおがみ屋さんの好きそうな下町おばさん風数名や、おじいさん数名、他に顔に整形の後のある男性、ガラガラ声の調子のいいおじさん、若いカップル一組、といった集まりでどうも講に毛のはえた程度のようだ。私たちのツアーのMさんは、あの若い女の子は熱心で先生が手をかざすといつも真剣に受けて手をあわせている、と言い、Sおばあさんも「あの女の子、きれいなんだけど寂し〜い顔しているわね。あ

あいう若い人が宗教に入るのね」と言っていた。その女性と男の子には何となく余裕のないひたむきさが感じられたが、他の人たちはごく普通のおじいさんやおばさん、といった感じで、神社や仏壇に手をあわせるノリの延長のようだった。「先生」も白髪のきまじめそうな好々爺。朝食後、各社の添乗員が出発時間やバスについて説明していると、この団体の人たちが自分たちはどうなるんだろう、と不安そうにいう。この日は予定がそれぞれ違うのでわからない、とK社の添乗員。「どうせみんな一緒なんだから大声で全員に教えてくれりゃいいのに」とガラガラ声のおじさん。そして「やっぱり添乗員がいないと不便だな、どこかの添乗員を買収しようか、M社は融通きかない男でこっちまで面倒みてくれないし、J社はきつい女から、K社なんかどうだ」とガーガー喋っている。実際添乗員なしで回りの動きをまねつつここまで来るのは大変だったろう。しかし、このカラコルムツアーあたりから、J社のガイドのはずナランちゃんのお父さんが実質的な世話を焼くようになり(見かねたらしい)、それもちょっと変?

8:00 カラコルムへバスでゆく。バスに乗ると、隣に料理担当のモンゴル人のおばさんが乗ってきた。ちょうどよい機会、とツアーのパンフに載っていたモンゴル語会話集を示しつつ話しかけてみる。すると身ぶり手振りを交えつつキリル文字を読んでくれ、この後もトイレタイムで休憩した際(ちなみに丘の脇で用を足すシステム)一緒にオボーの回りの回りかたを教えてくれたりした。彼女たちはオボーにポンと石を投げて積み、その回りを時計回りに三回回る。若い男の子も回っており、「あんな若い子もやるんだー」とエミさんが感心。

カラコルムへの道は、この旅一番の悪路だった。未舗装でしかも凹凸が激しい。バスが倒れるのではないか、という位傾くところもあった。このあたりは大型ねずみのタバルガンが多いところで、地面に大きな口を開けた巣穴と、さっともぐり込む後ろ姿をよく見かけた。食べられるらしいが、ナランちゃんの話では、今は時期ではないらしい。

馬を駆って家畜の群れを追う人々、棒で動物の糞を拾っては背中の篭に放り込む少女など、草原で働く姿も見られた。馬を駆り家畜の面倒を見る仕事には、子供も多い。また女性が一人馬に跨り群れを追っているのも時々みかけた。「格好いいですねえ」と添乗員さん。

今回の私たちのツアーの添乗員は女性。カラコルム行きのバスの中で色々話す。一年会社勤めもしたけれど、あの満員電車に慣れることができずこの職業を選んだという。モンゴルから戻ると4日休みがあり、次はトルコだそうだ。円形脱毛症の気味がある、「エジプト行った時飛行機が飛ばなくて、一人手強い人にガンガンやられまして」と言っていた。いつもきれいにお化粧をして(私たちなんかどうせモンゴルだから、と手抜きなのに)、服装もきちんとしており、感じのいい人だった。ツアーに参加しているおばさんの中には、食事時「添乗員さん、お茶お願〜い」など、添乗員をメイド代わりに使う感じの人がいた。ツアー慣れしている人ほどその傾向が強い気がする。ナランちゃんもお茶をついで回ったり、食事時はメイドっぽかった。ちなみにツアーの構成は、私たちミディパス系女3人連れの他、一人旅女性3人(各30代、40代、50代)、孫の水筒ぶらさげたお医者さん一名、母娘、老年夫妻。エミさんは今回抗生物質を持参していたのだが、この日の朝、添乗員から「分けてくれない?」と頼まれたらしい。誰かにあげるのかと思ったら、自分で飲んでいたそうだ。「添乗員さんも大変だよねー」と彼女。K社は大手で就職先として人気も高いが、「男性の添乗員も多いけど、妙に一人上手な奴が多い。私は彼らとは結婚したくないな」と語っていたのが印象的。

ナランちゃんは、このカラコルム行きあたりから疲れが出てきたのか、バスの中でよく寝ていた。「よく寝る娘だ」と添乗員さん。9月に大学が始まるまであと2回、もしかしたらさらにもう1回このパターンでガイドをするという。「大変疲れます」と言っていた。私たち3人は、あちこち目一杯見てからバスに乗り込むので一番後ろの席になることが多かったのだが、ナランちゃんはそのことを気にした。「大丈夫?私、替わります」と何度も来た。結構気に入っていたので「ここでいい」と言うと、「うそ」と言って私の帽子のつばを押し下げて軽くおどけてみせた。その仕草がいかにも女の子、という感じ。おしゃれで服のセンスも良かった。前がチャックになったタイトワンピースや、1995年当時日本でも大はやりしていたスプリングコートを着たり(モンゴルで買ったという)、ジャケットをわざと腰に巻いたりしていた。ウランバートルの町にも、結構センスのいい女の子が闊歩していだが、彼女のその一人だろう。

カラコルムの町に近づくと小麦畑が広がり、数十メートルはゆうにある巨大な散水装置が設置されていた。何だがソルホーズコホーズという言葉を思い出してしまう。

11:00 エルデネゾーへ。草原の中に突如現れるチベット式寺院で、回りをチョルテン付きの塀がぐるりと囲む。風の吹く中、光景全体に荒涼とした不思議な感じが漂う。共産主義国になったとき破壊されたそうで、敷地内に建物は少なく、後は草ぼうぼう。今では僧院が復活し、ラマ僧が24人いるという。団体客がくると鍵を開け中を見せてくれるが、見終わるとすぐ鍵をかける(これはチベットやラダックでも同様)。仏像の額の宝石は共産革命時に取られてしまい、今はイミテーションをはめ込んであるとの説明だったが、さて取られた宝石はどうなったのか?売られて共産政府の軍資金か政治資金にでもなったのだろうか?展示品を並べてある部屋があり、18才の少女の腕の骨で作られた笛だの、頭蓋骨で作った入れ物だのが置いてあった。共産主義時代はこういう展示で、「封建時代人民はいかにひどい目にあっていたか」を説明していたのだろう。ボグドハーン宮殿でも感じたのだが、今はこういうことも含めて今までの歴史、宗教をどう捉え伝えていいのか、展示する側・説明するガイドにも迷いがあり、過渡期にある、という印象が全般に感じられた。

ある部屋では丁度読経が行なわれており、小僧さんや若者もいたが、しっかり読経しているのはほとんどが年取ったラマだった。その皺の深い辛苦の刻まれた顔立ちが、共産主義の時代は大変だったのでは、と勝手な想像を誘う。4組のツアーのガイドの中では、ナランちゃんのお父さんが日本語もよくでき一番物事にも詳しかったのだが、それでも仏教関係の説明は得意でない様子だった。多分モンゴル国内には、他にも伝統ある寺院が結構あるのではないか、そうした寺院巡りも面白そうだ、と思う。しかしこの様子を見ていると、荒れ果てたままだろう。また仏教に詳しいガイドもまだ少なく、観光資源としての認識もないようだ。年寄りラマの読経を聞きつつ、伝統宗教が復活したら、活気のあるお寺巡りをしてみたいものだ、と思う。

エルデネゾーの外で、仏具やタンカをむしろに乗せて売っている。ここでユーコさんが仏具を一個買うが、これが出国時問題になる。

オルホン河のほとりで昼食。絵になりそうに美しい水べりの草原で、牛や馬がのんびりつどう。きのうのオランダ人を含め白人も結構いたが、モンゴル人観光客も多い。もちろんバスは通っていないのでそれぞれ車で来ている。家族連れが多い。車を持ち、家族旅行のできる豊かな層が存在することは確かだ。

バスで帰路につこうとすると、バスの中にアブが沢山入り込んでいた。この時、ユーコさんが虻取り名人を発揮。虫避けスプレーでも退治しきれなかったアブを上手に素手でつかまえては次々と外に捨ててゆく。「田舎でよくやった。大きいアブはそう痛くない。小さいアブが痛い」。ツアーの年寄り連中も彼女の腕前に感心することしきりだった。

帰り道では各ツアーのバスの運転手同士で競争を楽しまれてしまい、メインの泥道よりさらに悪路である側道を突っ走る。みなキャアキャア騒ぐが、この荒っぽい運転の中、料理係のおばさんたちはしっかり居眠りしていた。

宿に着く前、ゲル訪問をする。アルヒと乾燥チーズをいただく。ゴチャゴチャ写真の飾られた額が掛かっており、ふと見るとダライラマを背景に合成した家族写真と、レーニン像の下で撮ったポーズ写真とが一緒に飾られていた。どうも、両方共何となくありがたい記念、という感覚のようだ(カムフラージュ云々というより)。

7:00 夕食。この後近くの丘に3人で登り、山上のオボーをめざす。しかし日が暮れ始め急に気温が下がってきた。つい先ほどまで強い陽射しに参っていたのが、風も冷たく寒い。9時40分に日が暮れ、遠くで稲妻が光る。オボーはあきらめ、ゲルに戻って飲む。夜雨が降った。

 

7月21日

朝、異常に寒かった。雨の後は冷えるとガイドブックにあったが、持ってきた服をすべて着込んでも、なおバスの外に出ると寒かった。

バスは一路ウランバートルへ。国道にも牛、馬が出てきて歩いている。警笛が鳴ると避けるがすぐにまた戻ってくる。何度追い散らされてもその繰り返し。「牛さんがあんなに機敏だなんて。でも何もこんな広いところで車道歩いたり、一列にならなくてもいいのに」とエミさん。馬の色は様々で、黒、白、灰、ぶち(黒白、茶白)も結構いる。日本で”ぶち”馬はあまり見ないので(競争馬ではみたことがない)不思議な気がした。

バスは時折トイレタイムを取る以外、国道をひた走る。バス移動の際は勿論、”丘の陰トイレ”だが、モンゴルのトイレは室内も含め総じてきれいで臭くない(家畜も日本の畜産につきものの臭いが全くしない)。乾燥しているせいもあるだろう。南ゴビでもブルドでも係の女の子がいて、いつもきれいにしてくれていた。特に南ゴビの女の子は素朴で、ありがとうと言うとニコッとした。それでもその顔立ち、体つきは馬に乗っていたほうが溌剌としそうな少女だった。ヒマな時は手拭いでアブをバシッと払ったり、ブラブラしてその場からいなくなったりした。でもブラブラしている時も、だるそうなやる気ない感じではなく、顔は引き締まり目は精悍に光っている。何か野生、というか外に向かって解き放たれるべき資質を飼い慣らしているような、場違いな印象をちょっと受けた。

2時 ヌフトホテル着。希望者だけ(といっても結局全員)市内の国民デパートへゆく。途中人だかりのしているところがあり、ナランちゃんに聞くとビザ待ちだという。ロシア大使館だとユーコさん。街行くウランバートルの女の子達は、パンツルックかスリットの入ったロングスカートがほとんど。中に1995年当時日本で流行の丈の短い灰色ジャケットを着て黒のスリムパンツできめている子や、重ね着ルックの子も目に付いた。デパートにはスリが多いので気をつけるように、との話だったが結局誰も被害に遭わず。天井の高い4階建てデパートで、中国製、韓国製のものが多い。日本のものでは電化製品と歯磨き粉、そしてドラゴンボール等子供に人気のカードもなぜか多数売っている。おみやげにモンゴルのお菓子を買いたかったのだが、売っていない。ナランちゃん曰く「みんな自分の家で作るからわざわざ売っていない」。デーレ売場でデーレを見ても、派手な色の物ばかりで、町で見かける渋い色のものがない。エミさんが「ゲルの人達が着ているようなのって、きっと自分達で作っていると思う。うちの田舎でもつくるもん。綿入れ半纏、母親が綿出してェー縫い直すの」と言った。そういえば帽子売場でモンゴル帽を買っていた日本人の女の子が、柄の気に入った帽子には紐飾りがついてない、こっちは飾りはついてるけど柄がいまいち、と悩んでいた。すると日本語のできる店の女の子が、「自分で飾り付けたら?女の子でしょ、できるでしょ」とこともなげに言っていた。私は結局板茶、チェコのクッキー、モンゴルのきれいな布袋、かぎタバコ入れの壷を買う。お金を払うシステムが結構面倒で、店員が品名と個数を紙に書き、それをキャッシャーへ持っていってお金を払い、領収書と引き替えにやっと品物を受け取ることができる。

買い物を終え、バスに戻る。ナランちゃんは、モンゴル独特のものを買うと目ざとく見つけ、と鋭くチェックを入れる。デパートで買った板茶に「あー、どうしてそれ買った?」と寄ってきた。そして「お湯で入れた後、ミルク、バター、塩を入れて飲むとおいしい」と教えてくれた。エルデネゾーで羊のひじの関節の骨が4個入ったきれいな袋を買った時も「どうしてこれ買った?」と尋ね、私が何に使うか知らずに買ったことを知るとさらに不思議がった(単にこれは面白そうだと直感していくつかおみやげに買ったのだ)。ナランちゃんは、これは占いに使う、と使い方を教えてくれた。手でころがして全部馬になったらとても良い、全部らくだ、羊、山羊はまあまあ、すべてバラバラもとても良い、これが馬(横向きのへこみなし)、らくだ(横向きのへこみあり)、山羊(縦で中央にくぼみ)、羊(縦で端にくぼみ)と実演してみせる。そして、試験に受かるかどうか、私も友達もよく使います、持っていますと言う。

いったん宿へ戻り、再びバスで市内へ。ドラマ劇場で民族音楽とダンスを見る。建物は古色蒼然としていた。回りの廊下の奥のほうに、古い歴代スターだか俳優だかのブロマイドがずらりと掲げられている。しかし古い宝塚スターのような撮られ方の黒白写真、そして今はここを訪れる人もいないようで電気もつかない。パンフや飲み物を売るスタンドもあったが、もう長いこと使われていない感じだった。椅子も中央のスプリングがへこみ、場末の映画館のよう、舞台も板が反ったり板の間に溝が空いたりで、廃校の講堂のようだ。歌は女性も男性も声がよく伸びる。でも日本のサクラを演奏するかと思えば北国の春を歌い、次はコンドルは飛んでゆく、そして馬頭琴によるサンサーンスの白鳥、とその脈絡のなさに、なんだかかつての中国の”友好の夕べ”を見ている気分になった。日本人観光客が多いから、てそんなに媚びるな、民族楽器を大量に集めて指揮者までつけてオーケストラ風演奏なんて”ピアノ協奏曲黄河”のノリじゃないか、といたたまれなくなる。方向性が絶対違う。まず自分達に受けるものを創ってその方向で進んでゆくうちに、よそからも「これ面白い」となってゆくのでは。皆義務、という感じでやっている。左端の少年が演奏の合間にフウッと頬をふくらませて溜息をついてしまうのも、背の高いハンサム君が舞台袖へ向かって笑いかけ舞台人として不謹慎になるのも、やりたいものをやらないからそうなるんだよ、と思う。エミさんとユーコさんは「あの踊り、悪いけど学芸会思い出しちゃったー。なーんか見たことあるなあ、て思って、あ、学芸会だー、て」と言っていた。唯一、ホーミーを歌ったおじさんが文句なしに素晴らしかった。が、わずか5分位。しかしユーコさんの話では、ホーミーを歌うにはとても体力が要り、歌い終わるとすごく疲れるそうなので仕方ないだろう。客層は日本人団体が多かったが、白人団体ときれいなデーレを着たモンゴル人たちも若干いた。

ホテルに戻りサヨナラパーティー。4組のツアーメンバー全員に、2日前にウランバートルに戻ってきたという乗馬チームも加わる。一カ所に1週間以上滞在して乗馬の練習をし、最後の日長距離馬で旅をしたという。このツアーは若い子ばかりで結束もあった。デーレを買った人達はパーティーにデーレ姿で登場し、そのたびにモンゴル人従業員も含め皆から拍手を浴びていた。立食パーティー後、Jツアーの大阪の人達などと外でアルヒを飲む。

ふと受付脇で話している若い男女が中国語で話しているらしいのに気付く。こちらを向いたので中国人かと尋ねたら二人共そうだ、という。女性の方が寄ってきてしばらく話す。まだ20代の彼女は、貿易の仕事で60日ウランバートルにいることになった、10日過ぎたからあと50日もいなくちゃ、と言う。その言い方がいかにも嫌そうだったので、モンゴルはどうかと尋ねると、”不好”だ、モンゴル人は嘘つきだ、仕事をしない、とさんざんだった。

部屋へ戻るとナランちゃんが来て、運転手さん達と乾杯をするから急いで、という。添乗員さんの部屋へゆくと、他のツアーの運転手さん達も来ていてアルヒと牛乳のお菓子を持ってスタンバッている。よくわけのわからないまま、いっせいにかんぱ〜い、とやり、ナランちゃんは明日朝早いから、と運転手さん達と帰っていった。「一気に乾杯〜とやってさっと引き上げる、どうもノリがよくわかんないなあ」といぶかるエミさん。

添乗員の話では急にK社のお客みんなと乾杯しようということになり、もう寝ている人もいるからととりあえず私たち3人を呼ぶことになったらしい。その彼女も「何なんでしょう」といまいち不思議がっていた。彼女は今日は寝ないだろう、という。大変な仕事だ。

 


7月22日

4時にドアノック、4:30荷物出し、5時朝食。食事は最後まで単調だった。エミさんの話では、南ゴビでは日本人が残した物を従業員が食べていたそうだ。

5:30バスで飛行場へ。6時頃明るくなってきた。

出国審査でユーコさんの買った仏具が引っかかった。持ち出し禁止の美術骨董品とみなされて没収され、さらに42ドルの罰金を科せられたのだ。乗馬組の日本語ペラペラガイドが間に入ったらしいが、「売る方は悪くない。買う方が悪い」と、最初から違法覚悟で高価なものを金にまかせて買った、という言い方を役人側とガイドからされたらしく、そのことにとても怒っていた。「普通のおみやげと思って買ったのに。イミテーションものと思って」。確かにエルデネゾー前のあの路上市場の状況では、目の肥えた人でなければ、おみやげ用イミテーションものか本物かわかるまい。教訓としては、路上で買うものには気を付けた方がよい、ということ。出国審査は厳しいので、盗品流れ物まがいに引っかからぬよう。

7時発予定が8時に。しかし12時前には名古屋に着くという。行きは7時間かかったのに、帰りはたったの4時間。給油もなく偏西風のおかげとはいえ、やけに速い。機内で、母娘は今度はリッチにハワイへ行きたいと言い、海外旅行50何回という強者老年夫妻は秋のカナダへ行くんだと言っていた。

    

・・・・・・おわり

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