戦  跡

 船で帰る日、午前中だけの戦跡ツアーを頼んだ。時間があり1日使えれば、もっといろいろ見られただろう。
 頼むとき、戦跡ツアー専門の人にした。硫黄島の遺骨収集事業に携わってきた人のため、戦友会とのつながりもあり話も詳しく、この判断で正解だったと思う。山歩きの好きな彼は、古い地図を戦友会から譲り受け、歩き回っては戦跡を探し当てていった。父島の重要な戦跡のほとんどはこの人が見つけたもので、今でもほぼ毎日山を歩いて新しい戦跡を探している。

 小笠原には陸海あわせて1万8千名ほどの兵がおり、400機が空襲に来た。
 小笠原は戦場にならなかったため、遺骨の90パーセント以上は収集できている。空襲や艦砲射撃でやられた人を埋葬し目印を記録できたためだ。当初は火葬していたが、のちに余裕がなくなり土葬になった。ただ、どの木や岩の下、といっても時間がたつと変化していることも多く、それで100パーセントには至っていない。

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 旭山に向かう道の両脇に、倒壊した陸軍の通信塔を見ることができる(写真左はその台座)。
 右の写真、兄島の先が、アメリカのブッシュ大統領の父親が撃墜されたところ。

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 詳細な入り口は伏せるが、幹線道から山側に入った林の中に、陸軍の発電施設がある(写真上がその外観、下2枚がその内部)。爆撃を受けておらず、戦後、一時期会社の事務所に使われていた、というほど状態がよい。
 厚さ7メートルの鉄筋の壁と、8メートルの屋根を支えているため、柱が太い。鉄筋は3重に入っている。鉄階段もまだまだ頑丈で、2階にも上れる。

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 岩をくりぬいて作ったトンネル。最初は外に武器や弾薬を備えていたが、空襲の激しくなることを予想した栗林中将が、硫黄島へ行く前、昭和19年6月、今後は横穴を掘って武器や兵を隠すようにと言い残していった。6月15日に許可が出て、それから突貫工事でこれらのトンネルを作った。
 こうしたトンネルは無数にあり、半日ツアーでもずいぶん見た。中に兵が住まい、荷物をおいた。両側から掘り始め、誤差数10センチで貫通、中間に泥出し口がある。
 こうしたトンネルの中では屋根葺きに使うビロウの葉を背にあて、足を折り曲げてうずくまったまま眠った、体を伸ばしたい人は外で満天の星を見ながら眠ったりもした、器用な人はホームレスじゃないが簡易小屋を作る人もいたという。

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 移動式の砲身。



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