船  旅

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おがさわら丸

 おがさわら丸は基本的に週一便。小笠原に飛行機は就航していないので、新聞も郵便も週一ということになる。このへん、航路と平行して空路もある八丈や奄美諸島、沖縄と異なり、かなり僻地度が高い。
 船が入港すると、ブラスバンドによる歓迎の演奏がある。出航時も大勢見送りが出て、小船で追っかけながら手を振る人もいるなど、賑やか。

 今のおがさわら丸の船長はうまい、多少海が荒れているときでもゆらさずに船を進める、と何度も往復している島民が言っていた。また、現在のおがさわら丸には、海が荒れると横に腕を出して揺れを抑える仕組みがある。
 八丈のそばを黒潮がとおり、浅くなった瀬(黒瀬)がある。そこで少し揺れるという。冬、1月から3月4月にかけては、低気圧が通る影響で海が荒れる。夏は台風さえ来なければ鏡のような海。
 このときもべた凪だったが、それでもゆっくりとローリングするので、ダイビングなどの観光で乗船している若者の大多数は、酔い止め対策で薬を飲むか耳の後ろに何か貼るかしてフロアに寝ている人が多い。
 混んでいるときの二等は、寝返りをうてないほど人が入るが、八丈行きと違い、場所は決まっているため、場所取りの苦労はない。

 船には島出身者や関係者もけっこう乗っていた。見るからに欧米系の血を引いている人もいる。「今日は島の人はあまり乗っとらんね」と言っていたが、ちょうど連休前のため、一足先に島に入り民宿を営む実家や親戚を手伝ったり、人に会う目的の人も多い(連休中の船は往復共満席だった)。
 祖父の代から小笠原、という初老の男性も、今は関東で働いているが定年退職したら島に戻る、それまでは島が忙しくなる正月、春休み、ゴールデンウィーク、夏休みの年4回、島を往復して実家を手伝っているという。
 返還後しばらく小笠原の学校で英語教師をしていた、というハワイ在住の初老の男性は、欧米系島民と英語で、その奥さんとは日本語で話している。その欧米系島民は彼の教え子だそうで、日系人と思われる元教師は「日本語は話せるけど文字は読めない」と言っていた。彼はハワイからは遠い、と言いつつ、これまで6,7回ハワイから往復しているという。
 夫のことをハズバンドと呼ぶ中年女性がいた。彼女は島出身だが夫は内地の人、今は地方に住む夫の両親に何かあったときに小笠原からでは急に行かれないため東京にいるが、ゆくゆくは夫婦で小笠原に住みたいと言っている。ほかにも中年や初老の島民女性が何人かいたが、服装や髪型の感覚がどことなくハワイの日系人的。
 年配の島民らは共通の知人も多く、誰某は返還後小笠原からハワイに戻った、誰某は亡くなった、某民宿の主人も亡くなった、彼は欧米系だったが一番の漁師だった、それはすばらしい漁師だった、等々話している。「年を取るとだんだん、見知った顔が少なくなる、戻っても寂しいね」と話している。

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鳥島と父島の間にある聟島列島
父島遠景

 おがさわら丸は朝10時竹芝桟橋を出航、真夜中に鳥島沖を通過、朝7時頃聟島列島脇を通過し、11時半、父島に到着。このときはべた凪で順調、速く進みすぎたため、定刻どおり到着させるため時間調整したという(早くついても港の準備ができていないのでは、と聞いた)。宿で一緒だった人は、海が荒れたときは35時間かかって着いたこともあったと言っていた。
 帰りもやはり順調、竹芝には定刻より早く到着した。

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ははじま丸
母島遠景

 父島を出て二時間ほどすると、母島が見えてくる。おがさわら丸とははじま丸は連携しているため、当日乗り換えが可能。

 ところで、小笠原にくる人はリピーターが多い。船や宿で話していると、大抵の人がもう何回目だ、とかなりの回数を言う(そういう人はダイビング愛好家が多い)。あるいは、初めての人でも数週間の予定の若者がけっこういる。彼らは素泊まり3000円台の安宿に滞在している。
 それより長期滞在、半年とか1年になると、民宿やお店でバイトをしている。女の子の募集は多いが、男子は少ない、とあるバイト君から聞いた。確かに注意して張り紙を見ていると、ちょうど連休前でこれから夏休みにかけて人手が必要になってくる時期、女子のアルバイト募集が多く目に付く。

 また、小笠原では、よく「何航海ですか」と聞かれる。おがさわら丸が週一回のペースで東京と往復することからきた言い方のようで、来た船で帰ると答えると「1航海ですか」という。古くからの島民は、1航海は単なる観光客、2航海以上は仕事辞めて来ちゃった人、という見方をする、と言っていた。確かに宿でも、仕事は辞めてきた、既に2航海ほど滞在しており、さらにこのあと2航海ほどのんびりするつもり、というような若者をよくみかけた。さらにそのあとワーホリ(ワーキングホリデー)に出かける、という話も何人かから聞いた。
 こうした若者は、それまで就いていた職種はさまざまだが、ほとんどが個人事業主の形態で働いていた。一昔前なら正社員のはずの職業が多い。私たちの世代なら、”会社辞めて”=”社員辞めて”のパターンだったのが、”個人事業を休止して”、となっている。青色申告もしているという。しかし実態は明らかに”雇用”されている。だから彼らも”辞めてきた”という言い方をしている。

TSL
 行きの船で一緒だった島民たちは、飛行機はいらんが、超高速船テクノスーパーライナー(TSL)は残念だった、あれなら15時間、気楽に東京に出られるのに、と言っていた。燃料代がかかり、最初東京都が出すと言っていたのがだめになった、赤字垂れ流しじゃ、と海運会社も引き取りを拒否した、との話。

 父島では、TSLがだめになって、山羊山(やぎゅうやま)との間にある旧日本軍が埋め立てた土地に飛行場を作ろうという話が持ち上がっている、それにかけている島民も多い、と聞いた。
 また、TSLは波が3メートルになると出ないという、それじゃ冬はほとんど出られない、話にならない、台風などで時間のかかるときは重油のお金がかかりすぎる、TSLはだめになってよかった、という古い島民もいた。おがさわら丸は、荒れていると時間はかかるが、欠航はほとんどない、という。たまに八丈に泊まって様子を見たり、引き返すこともある。
 連休があければ、国会議員が続々と来るだろう、飛行場の話が本格化する、との話だった(2006年)。



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