海岸通り沿い大神山公園には、ジョージ・ブッシュ大統領手植えの椰子や、昭和2年と平成の天皇行幸の碑がある(大統領の父親が第二次大戦中、兄島沖で撃墜されたことがある)。
小笠原の歴史:(小笠原ビジターセンターの展示参考)
1543 スペイン人ルイ・ロペツ・ビラロホスが来島。水事情が悪く帰る。
1593 小笠原貞頼来島。
1830 セーボレーら欧米人5名を含む25人が移民してくる。捕鯨のため、ハワイ系住民も移住。
1853 ペリー来島。
1861 咸臨丸来島。小笠原の日本領有を宣言。
1862-63 八丈島から移民するが、状況の悪化からすぐに帰る。
1876 日本の統治領土であることを通告、欧米系住民は日本への帰化を承諾。
1878 日本内地から200人が移民、綿花、サトウキビで栄える。
1911 島民4186名を数える。
1939-42 小笠原諸島の最盛期、教師の月給800円、総理大臣8000円の時代に、小笠原の農業では7000円、漁業では4500円を稼ぐ。
1944 戦争の激化から住民は内地へ強制疎開。
1945 終戦。
1946 サンフランシスコ平和条約により、小笠原はアメリカの信託統治領となる。欧米系島民のみ帰島を許される。
1956 ラドフォード提督学校開校。返還後は小笠原小学校となる。
1968 小笠原返還。
注:
・1863年に八丈からの移民が中断したのは、水戸浪士ら尊攘派志士による坂下門外の変(老中安藤信正への襲撃)による、と古い島民から聞いた。
・農業7000円、漁業4500円の数字について、ある戦前からの古い島民曰く、
「それは一戸あたりでしょ。当時小笠原には鑑別所があって内地から送られてきていた、そうした若者を安く使えたから、労賃がただ同然、情のある人は少し貯金してあげて、兵役のときに放免になるからそのとき渡してあげたが、とにかく安い労働力があった、それでそうした数字になる」と言っていた。
・ラドフォード提督学校の写真を見ると、欧米系だけでなく黒人や東洋系の顔立ちも見える。学校では日本語の使用が禁止されていた、と説明にあったが、ということは返還前に日本語を話す島民がいたことになる。日本人と結婚した米国籍の人の家族だろうか。
・小笠原や硫黄島などの領有は、アメリカやイギリスなども領有権を主張する中、ある意味機敏に、ある意味強引に主張して日本領となった感がある。当時英米も認めたので、契約尊重文化の国々でもあり、領土問題は存在しないが、一歩間違えば竹島尖閣列島と似た状況になりかねなかったと思う。
ある古い島民から聞いた話:
ここらでも新しい島民が増えた。若夫婦でわざと協議離婚して母子家庭になり、月十万だかもらう、でも父ちゃんとも実はつながっており、だから父ちゃんの収入もある、そういうノウハウを書いたものが出回ってんだな、おかげで困るのは、本当に困っている人達よ、思うんだが小笠原は一度つぶれたほうがいいな、そのほうが全部すっきりするだろう。
金玉均:
島で最も古い家柄のひとつだ、という水戸藩士の流れをくむ島民から聞いた話では、朝鮮独立運動の志士、金玉均はしばらく小笠原に滞在していた、という。内地にいた、ということになっているが、暗殺されるかもしれないからしばらく小笠原に潜伏していた、と言っていた(一般には日本政府によって流された、という話もある)。彼の家にも訪ねてきたらしい、兄が手紙だのを持っていたが亡くなった、高麗大学からも調査に来た、という。
(サイトの島紀行にも書いた話だが)母方の祖父母の出身地である愛知県の篠島にも、南朝の皇子が匿われていただの、徳川家康が幼少の頃住んでいた、という類の話がある。島にはそうした話が多い。