父  島

 小笠原諸島はキャンプ禁止。このため、石垣島のように定職をもたない若者が長期滞在しているキャンプ地はない。
 おがさわら丸はカーフェリーではないため、車も気楽に入れない。島の人が車を購入する場合は、船荷として輸送することになる。山羊山と父島の間の旧日本軍による埋立地が現在の自動車教習所。坂道発進できる箇所もある。

 小笠原では南十字星が見られる。4月5月は夜10時11時台に見られるはずだが、滞在中は曇り空で見られなかった。

chichijima chichijima
小港海岸(島内バスの終点からすぐ)
海岸脇の遊歩道
chichijima chichijima
八ツ瀬川とその脇の公園
chichijima chichijima
熱帯植物センターそばの喫茶店と、その屋外ベンチから二見湾を望む

 店の主人は島外者だが話しやすい気さくな人だった。

 ところで植物センターについて、農家など何人もの人から、あそこのマンゴーは見事だが、あれだけ金をかければ良い実がついて当然、一個いくらかかっているのか、農家はペイしなければ作れない、と聞いた。

chichijima chichijima
島特有の山羊に注意の標識
島の最高峰中央山から望む

 父島には山羊が多い。畑でも山羊よけネットをめぐらせている。

chichijima chichijima
父島北東の道路沿いからの景色。左は兄島瀬戸で奥に見えるのが兄島

 兄島瀬戸から二見港のほうへ下った宮之浜あたりには都営住宅が多い。若夫婦や子供もよく見かける。

chichijima chichijima
大村の海岸通り沿いはペンションや教会が続く
父島南部の畑

 海岸通り沿い大神山公園には、ジョージ・ブッシュ大統領手植えの椰子や、昭和2年と平成の天皇行幸の碑がある(大統領の父親が第二次大戦中、兄島沖で撃墜されたことがある)。

小笠原の歴史:(小笠原ビジターセンターの展示参考)
1543 スペイン人ルイ・ロペツ・ビラロホスが来島。水事情が悪く帰る。
1593 小笠原貞頼来島。
1830 セーボレーら欧米人5名を含む25人が移民してくる。捕鯨のため、ハワイ系住民も移住。
1853 ペリー来島。
1861 咸臨丸来島。小笠原の日本領有を宣言。
1862-63 八丈島から移民するが、状況の悪化からすぐに帰る。
1876 日本の統治領土であることを通告、欧米系住民は日本への帰化を承諾。
1878 日本内地から200人が移民、綿花、サトウキビで栄える。
1911 島民4186名を数える。
1939-42 小笠原諸島の最盛期、教師の月給800円、総理大臣8000円の時代に、小笠原の農業では7000円、漁業では4500円を稼ぐ。
1944 戦争の激化から住民は内地へ強制疎開。
1945 終戦。
1946 サンフランシスコ平和条約により、小笠原はアメリカの信託統治領となる。欧米系島民のみ帰島を許される。
1956 ラドフォード提督学校開校。返還後は小笠原小学校となる。
1968 小笠原返還。

注:
・1863年に八丈からの移民が中断したのは、水戸浪士ら尊攘派志士による坂下門外の変(老中安藤信正への襲撃)による、と古い島民から聞いた。
・農業7000円、漁業4500円の数字について、ある戦前からの古い島民曰く、
「それは一戸あたりでしょ。当時小笠原には鑑別所があって内地から送られてきていた、そうした若者を安く使えたから、労賃がただ同然、情のある人は少し貯金してあげて、兵役のときに放免になるからそのとき渡してあげたが、とにかく安い労働力があった、それでそうした数字になる」と言っていた。
・ラドフォード提督学校の写真を見ると、欧米系だけでなく黒人や東洋系の顔立ちも見える。学校では日本語の使用が禁止されていた、と説明にあったが、ということは返還前に日本語を話す島民がいたことになる。日本人と結婚した米国籍の人の家族だろうか。
・小笠原や硫黄島などの領有は、アメリカやイギリスなども領有権を主張する中、ある意味機敏に、ある意味強引に主張して日本領となった感がある。当時英米も認めたので、契約尊重文化の国々でもあり、領土問題は存在しないが、一歩間違えば竹島尖閣列島と似た状況になりかねなかったと思う。

ある古い島民から聞いた話:
 ここらでも新しい島民が増えた。若夫婦でわざと協議離婚して母子家庭になり、月十万だかもらう、でも父ちゃんとも実はつながっており、だから父ちゃんの収入もある、そういうノウハウを書いたものが出回ってんだな、おかげで困るのは、本当に困っている人達よ、思うんだが小笠原は一度つぶれたほうがいいな、そのほうが全部すっきりするだろう。

金玉均:
 島で最も古い家柄のひとつだ、という水戸藩士の流れをくむ島民から聞いた話では、朝鮮独立運動の志士、金玉均はしばらく小笠原に滞在していた、という。内地にいた、ということになっているが、暗殺されるかもしれないからしばらく小笠原に潜伏していた、と言っていた(一般には日本政府によって流された、という話もある)。彼の家にも訪ねてきたらしい、兄が手紙だのを持っていたが亡くなった、高麗大学からも調査に来た、という。
 (サイトの島紀行にも書いた話だが)母方の祖父母の出身地である愛知県の篠島にも、南朝の皇子が匿われていただの、徳川家康が幼少の頃住んでいた、という類の話がある。島にはそうした話が多い。



←船旅        母島→        目次