台湾の寺廟:解説

廟の祀り方
一神のみ  土地公のみ

合祀

「台湾の宗教」増田福太郎 養賢堂 昭和14年

道教
神仙道(方士の非日常的修行を伴う。長生不死 帝王君主の個人的願望)の大衆化、宗教化したもの。方士(道士)を媒介として日常的営みの中に長生不死を求める。

  1. 変革
    漢末 太平道(黄巾の乱)−張角(河北−山東)、五斗米道−張陵−張衡−張魯(四川−陜西)の二つが起源。さらに葛氏道(教団組織なし)−葛源−葛思遠−葛洪(抱朴氏の一派)。
    南北朝 五斗米道 → 天師道(北 教団組織発達、貴族社会と結びつく)
        太平道+葛氏道 → 茅山道(南 教理発達)
    唐:北宋 さかんになり、ニ道合流一体。
    南宋−金・元−清 道教内で宗教改革。
        天師道 −古道教(正一派)江西省龍虎山 張天師(現台湾)
            −新道教(全真教)北京 白雲観
  2. 内面の変革
    前漢 老子は思想家。黄帝は神仙黄帝として確立。漢初黄老学(政治的)→神仙道 黄帝が祖であるとする。
    前漢末 老子の神仙化。神仙黄老(ともに神仙)。
        神仙仏教 仏教の流入による。仏は神仙として中国に入るが、仏の持つ神格にうながされ、老子も神格化。黄帝、老子、釈迦を合わせて祭る。
    後漢 老子の神化。末には最高神(宇宙神)化。黄老の逆転。道教成立といえる。
  3. 道教の特色
    老子(太上老君)を神格化し、その救済によって長生不死を願う。
    1. 教団、経典は仏教の模倣
    2. 天帝崇拝 玉皇大帝を吸収
    3. 民間信仰を吸収
    4. 戒律(日常倫理)は儒教、社会通念による
    5. 反体制的宗教運動から出発
  4. 神々
    1. 老子(太上老君) 人格神
      道(太上道君) 精神的
    2. 天帝(玉皇大帝) さらに元始天尊=最高神 どちらが上かわからない
    3. 北斗星(北斗神君) 寿命を司る
       これを3本柱とする。他に民間の神々。
       かまどの神 寿命を司る。庚申の日にぬけだして天帝に報告→庚申信仰
       文昌帝君 学問の神
       碧霞元君(娘娘廟) 安産の神 子宝祈願→観音信仰
  5. 経典
    三洞四輔 道蔵(明代のものが現存)
    補足として太玄部、太平部、太清部、正一部
  6. 楠山春樹

仏教(斎教について)
斉教徒 菜食
龍華派 祖 羅祖師 明英宗正統7(1442)
先天派 祖 徐吉南 清乾隆(1722-) 儒教的
金幢派 祖 王左塘 明世宗(1538) 道教的 蔡文学は台湾に渡り開祖となる。

「台湾の宗教」増田福太郎

平埔族の信仰

アリッは蕃仔仏と呼ばれ、蕃祖廟(現地語はコンカイ)に祭る。
 −「台湾の民族」国分直一 昭和17年 1968年再版 光明社

各廟の解説

  1. 土地公
    台湾の街庄林野いたるところ土地公廟(または福徳祠)があり、その数は無名未登録のものを合すれば数千を算する。「田頭田尾土地公」という数の多いたとえとして用いられるほどである。農業神のみならず、福徳をもたらす財神として商家、鉱山業者、漁民にも崇敬される。
     − 原典 不明

  2. 朝天宮
    康煕33(1694)年、僧樹壁なる者、眉州の媽祖を奉じてこの地にきた。雍正8年、改築以降、重修して今日の盛観となる。主神媽祖のほか、分身媽祖十体、千里眼、順風耳、土地公、境主公、註生娘娘、文昌帝君その他祭神が多い。
    光緒13年に嘉義地方の大干ばつを救った話、戴萬生の乱のとき賊から北港を救った話、同治元年、凶作から救った話など、口碑に存する奇跡ははなはだ多い。明治45年改築以来、さらに名声加わり、全島これを崇拝し、信徒の牽引力は全島の寺廟第一である。
     − 原典 不明

  3. 台南の文廟(孔子廟)
    台南寧南坊 現在は嘉義、安平、恒春の4県の秀才が集まる。
    起源は鄭氏の設立(成功の子、経)、明の永暦20(1666)年。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  4. 台南の武廟
    中国で普遍的なのは土地廟と関帝廟(「支那村落」アーサー・スミス)。
    台南のものは華麗。文衡聖帝(関帝)はみごとな彫刻で、ほかに関平、周倉、観音、韋駄天、十八羅漢、火徳星君、三界公、土地公、註生娘娘などを祭る。
    創建は明の永暦末年、官民資を出し合って建てた。かつては尊信されたが今は参拝者少なく、廟庭は指物工場となる。

    武廟街は旧時代の面影を残している。西に粉店司阜(石灰石をくだいて化粧として売る)、油燭店司阜、金銀紙を売る店がある。金銀紙は廟町につきもので、銀紙は錫箔、金仔は銀箔に槐花の汁で黄色く塗ったもの。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  5. 台南の水仙宮
    康煕54(1716)年、泉章の諸商が建てる。当時は近くが海で、船舶が連なった。
    嘉慶12(1807)年の台湾県誌によれば、西定坊城外の大街として水仙宮街が栄えた。
    光緒元(1875)年、海は後退、台南の中枢となり、外人商館ができる。
    祭神  大禹、伍員、屈平、王勃、李白(県誌)
        大禹、伍員、屈平、項羽、魯班(連雅堂の通史)
       (現在) 水仙尊王、風雨ニ将軍、三界公、太子爺、釈迦仏、土地公、観音など
    水仙尊王には大禹を当てて良いのか?
    水神の亜流では?(蒋允T)
    屈原よりも古い南方民族の習俗では?(前島信次「台南の古廟」)

    廟は壮麗だが、現在は海上鎮護の要なく、あまり祭られていない。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  6. 台南の臨水夫人廟
    中国の北方では娘娘(華南では娘乃のない村はなし)、南方では臨水夫人(福建省臨水中心)または天后聖母が広く分布。臨水夫人は福建華僑の発展した地に伝搬。
    台湾ではたいていの廟で註生娘娘を祭る(出産、妊娠、幼児保護)。
    台南では臨水夫人は次の廟に祭られている(台南以外では専廟なし−前島氏)。
      臨水夫人廟、開隆宮(七星娘娘)、大天后宮(天上聖母)、大士殿(観音菩薩)、伍徳宮(天上聖母)
    臨水夫人−福州人、臨水乃と呼ぶ。福州人陳昌の娘、唐代大暦2(767)に生まれる(県誌)。
    別名大乃、娘乃、房裡乃。雅号、臨水夫人、臨水陳大公太后、陳夫人、順天聖母、天仙聖母など(魏応麒、民俗第61-62、神的専号)。神名進姑。
    廟に36婆官像あり。虫王より36人の官女を賜い、女弟子としたという伝説。

    台南の寺廟88のうち、岳帝廟、天壇、大天后宮、興済宮、大士殿、臨水夫人廟の6つのみ信仰を集める。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  7. 台南の大天后宮
    天后 中国人華僑のいるところ、天后宮の存在を見ざるはなし。海洋関係のみならず、一般より崇敬。
    敬称 天妃、媽祖、婆。封号 順済、霊術、崇善、福利。
    その伝説は宋の太平興国4(969)の苒田県誌に現れるを初とする。宋太祖建隆元(960)年3月23日夕生まれる。九娘、黙娘と呼ばれ、8歳で読書、香をたき仏を礼すを喜び、13歳で道典秘法を得。16歳で海上の人を救い雍煕4(989)9月9日昇任。28歳。
    台南の天后宮について:順済廟号をたまい、康煕19(1680)勅封となり、雍正4(1725)年「神昭海表」の扁額を賜う(県誌)。
    媽祖信仰は水神信仰(航海を助ける)と神仙説話との結合。(「台湾の漢民の信仰にあらわれた海神」人類学雑誌33-6)
    台湾においては、大陸以上に信仰される。海上の守護神、さらに万能の女神。

    台南の天后宮は、靖海侯施良が台湾に入った際、明の寧靖王の住居址に巨費を投じて改建した(康煕22(1683)年)。中国宮殿式で華麗。
    祭神 天上聖母、観音菩薩、王爺、その他配神多数。
    祭典は3月19,20日。元は安平の媽祖が盛んだったが、次にこの天后宮が盛んに祭られた。大行列で市街を練り歩いたという。なお、安平の天后宮は倒壊、廟址も定かでない。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  8. 台南の岳帝廟
    東獄大帝(仁聖大帝)は中国の五獄の一、山東の泰山神。北方では山神の祭祀が行われ、それが山嶽を離れて神格と持つに至る。道教の影響も受け、死生霊魂を司る神の廟となる。

    この街は台南でもっとも古い街の一。高砂町元会境入口の万川菓子屋の前から岳帝廟への道は、昔金胡蘆と呼ばれていた。百年前良質の茶を売る店に金のひょうたんが飾られていたため。今はその店はないが、古い醤油屋の招牌にその街名がある。元会境町東に狗糞巷があり、阿片を売っていたところがある。その厚い土壁に、手の入るくらいの窓が2つあり、「専一号」という看板がある。清朝台湾の数少ない社会事業家林朝英の書という。
    岳帝廟のまわりの古い民家に、古井戸があり魚がいる。玉皇上帝と朱書した天燈がかかっている家もある。この街の裏町は迷路で、幽霊の出る古井戸、土塀の上に満月、半月の形の魔よけが乗っている。
    三川門を通り拝亭に入る。范将軍(虎頭牌=拘引状を持つ)、謝将軍(火籤=呼出状を持つ)(悪事をなしたものを呼び、東獄大帝が裁く)、牛爺、馬爺の像は怪異な秀逸。
    側室に護国尊王、福徳爺、天医神人、速報司、後殿に幽界の神、観音仏神。

    かつて岳帝廟前を夕刻に通ると、上記両将軍の罪人を責める声が聞こえたという。王弟(=女巫術者)がいる。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)


  9. 麻
    麻豆はオランダ人が1637年に開く。もともと平埔族が住んでいたらしいが、漢族の圧迫によって去る。 南、北、東、西角の四角ができる。
    頂街に上帝廟(乾隆16(1749)年)、穀興街に媽祖廟、新店角(北角)に五府王爺。王爺公と有応公が争い、その傷が王爺の額にあるという。五鬼神という首あり(神兵の将という)。
     − 昭和17年(「台湾の民族」)



写真