廟の祀り方
一神のみ 土地公のみ
合祀
- 分身
主神の同一像(一王、ニ王・・・、一媽、ニ媽・・・)
主身以外は出張する。分身中にも霊験に差あり。 -
配偶
信仰厚い神には夫人を作出、さらに王子、公子も加える。 -
挟侍
- 皇帝格の神(剣監、印監)例:関帝
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王階級の神(剣童、印童)例:開聖王
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元帥級の神(神馬、馬丁)
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観音(善才、良女)
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地蔵王(左佛童、右佛童)
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祖師(左道童、右道童)
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婦人像の神(妃以上)(左宮娥、右宮娥)例:天上聖母
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婦人像の神(司香、司花その他)
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従祀(神務に関連あるもの)
- 城隍爺
- ニ判官−文判官(裁判所の書記)、武判官(刑を執行)
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ニ爺−馬爺、牛爺 閻羅王の部下で、陰間奈河橋の両側に立つ番兵。悪人が通行すると突き落とす。
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六司−延壽司、速報司、糾察司(陰陽司)、奨善司、懲悪司、増祿司(十二司、十八司とする場合もある)
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ニ将軍−謝将軍 七爺 名は必安。爺ともいう。三尺余りの大烏帽子を戴き舌を出す眉毛長き丈餘の神像
范将軍 八爺 名は無救。矮爺ともいう。黒面、上半身を少し前屈させた短身の像。
共に悪人を検挙して訴廷に護送する。城隍廟の門の両側にいる。
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霊安尊王 城隍爺に同じ
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王爺 六位司官(行政六部−吏・戸・礼・兵・刑・工−に準じたもの)
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大衆爺 城隍爺に同じ。ただし神将神兵なし(陰司のため)。また通常、「董牌爺」の神像を祀る。この神は刑事のようなもので探偵を司る。
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福徳正神 虎爺
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註生娘娘 十二地支に配する婆姐12人 神像は孩児を抱く。
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従祀(歴史・伝説的に関連あるもの)
- 天上聖母 千里眼、順風耳
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関帝 関帝太子(嫡子)、周倉将軍(関羽の股肱の将軍、河北人)
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開聖王 輔順将軍(李百苗 左翼将軍として蛮洞討伐の功、仁宗より将軍に)
輔信将軍(沈毅 右翼将軍として蛮洞討伐の功、仁宗より将軍に) -
西秦王爺 田都元帥、雷海清
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福徳正神 文武両状元
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仏 韋駄(天王八将の一)、護法、伽藍(叢林の会計主任にて功績りし人)、監斎(叢林の炊夫にて功労ありし人。伽藍とともに仏を祀るところにはこの二人を祀る。料理の神として料理人が信仰)、十八羅漢
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神将神兵
神像なし。主神の左右に花瓶のような円筒があり、黄、青、紺、赤、黒の五彩の三角形の令旗と刀剣が立っている。これは神威を示し、人間保護のために神将神兵が駐屯していることを示す。
全軍を東西南北中央に分かち、神将がいる場合もある。五営神将といい、神像は身人首。部落では東西南北中央にニ尺の丈棒の頭を白木綿か紙でおおい神軍と書いて神将として立てる。
自家の祭神にも神兵はやどる。
諸仏も神将神兵を持っている。
「台湾の宗教」増田福太郎 養賢堂 昭和14年
道教
神仙道(方士の非日常的修行を伴う。長生不死 帝王君主の個人的願望)の大衆化、宗教化したもの。方士(道士)を媒介として日常的営みの中に長生不死を求める。
- 変革
漢末 太平道(黄巾の乱)−張角(河北−山東)、五斗米道−張陵−張衡−張魯(四川−陜西)の二つが起源。さらに葛氏道(教団組織なし)−葛源−葛思遠−葛洪(抱朴氏の一派)。
南北朝 五斗米道 → 天師道(北 教団組織発達、貴族社会と結びつく)
太平道+葛氏道 → 茅山道(南 教理発達)
唐:北宋 さかんになり、ニ道合流一体。
南宋−金・元−清 道教内で宗教改革。
天師道 −古道教(正一派)江西省龍虎山 張天師(現台湾)
−新道教(全真教)北京 白雲観 -
内面の変革
前漢 老子は思想家。黄帝は神仙黄帝として確立。漢初黄老学(政治的)→神仙道 黄帝が祖であるとする。
前漢末 老子の神仙化。神仙黄老(ともに神仙)。
神仙仏教 仏教の流入による。仏は神仙として中国に入るが、仏の持つ神格にうながされ、老子も神格化。黄帝、老子、釈迦を合わせて祭る。
後漢 老子の神化。末には最高神(宇宙神)化。黄老の逆転。道教成立といえる。 -
道教の特色
老子(太上老君)を神格化し、その救済によって長生不死を願う。
- 教団、経典は仏教の模倣
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天帝崇拝 玉皇大帝を吸収
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民間信仰を吸収
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戒律(日常倫理)は儒教、社会通念による
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反体制的宗教運動から出発
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神々
- 老子(太上老君) 人格神
道(太上道君) 精神的 -
天帝(玉皇大帝) さらに元始天尊=最高神 どちらが上かわからない
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北斗星(北斗神君) 寿命を司る
これを3本柱とする。他に民間の神々。
かまどの神 寿命を司る。庚申の日にぬけだして天帝に報告→庚申信仰
文昌帝君 学問の神
碧霞元君(娘娘廟) 安産の神 子宝祈願→観音信仰 -
経典
三洞四輔 道蔵(明代のものが現存)
補足として太玄部、太平部、太清部、正一部 楠山春樹
仏教(斎教について)
斉教徒 菜食
龍華派 祖 羅祖師 明英宗正統7(1442)
先天派 祖 徐吉南 清乾隆(1722-) 儒教的
金幢派 祖 王左塘 明世宗(1538) 道教的 蔡文学は台湾に渡り開祖となる。
「台湾の宗教」増田福太郎
平埔族の信仰
- 台中州豊原街(旧蘆)には農具を売る店多く、火石(ハイチャ)、火刀(ホイタ)も売る。豊原に西2キロ、平埔族部落(旧岸裡大社)あり。族長は蕃族征伐に功あり、乾隆帝にもまみえる。姓ピアラハを、乾隆23,4(1747、8)年に潘に変える。九世は潘元貞氏(昭和15年)。嘉慶9(1804)年、宜蘭へ千人、道光・咸豊中、埔里へ退却。昭和15年現在30戸のみ。
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新港庄
- 新店にシラヤ族の集落。アリッ(阿立=祖先神)を祭っていない。
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知母義の口・新和庄にシラヤ族の集落。阿立(蕃太祖)あり。神体は壺が三体、水を入れる。
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北頭洋 佳里の北 コンカイあり。酒を供える。
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左鎮(台南の三町以上に古風−昭和38年)
双角の神座(刺桐を切って双角に)。壺は2、3体、水を入れる(毎月1、15日に川から汲みいれる)。戸別、およびコンカイとに祭る。
アリッは蕃仔仏と呼ばれ、蕃祖廟(現地語はコンカイ)に祭る。
−「台湾の民族」国分直一 昭和17年 1968年再版 光明社
各廟の解説
- 土>地公
台湾の街庄林野いたるところ土地公廟(または福徳祠)があり、その数は無名未登録のものを合すれば数千を算する。「田頭田尾土地公」という数の多いたとえとして用いられるほどである。農業神のみならず、福徳をもたらす財神として商家、鉱山業者、漁民にも崇敬される。
− 原典 不明
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朝>天宮
康煕33(1694)年、僧樹壁なる者、州の媽祖を奉じてこの地にきた。雍正8年、改築以降、重修して今日の盛観となる。主神媽祖のほか、分身媽祖十体、千里眼、順風耳、土地公、境主公、註生娘娘、文昌帝君その他祭神が多い。
光緒13年に嘉義地方の大干ばつを救った話、戴萬生の乱のとき賊から北港を救った話、同治元年、凶作から救った話など、口碑に存する奇跡ははなはだ多い。明治45年改築以来、さらに名声加わり、全島これを崇拝し、信徒の牽引力は全島の寺廟第一である。 − 原典 不明
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台南の文廟(孔子廟)
台南寧南坊 現在は嘉義、安平、恒春の4県の秀才が集まる。
起源は鄭氏の設立(成功の子、経)、明の永暦20(1666)年。
− 昭和17年(「台湾の民族」)
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台南の武廟
中国で普遍的なのは土地廟と関帝廟(「支那村落」アーサー・スミス)。
台南のものは華麗。文衡聖帝(関帝)はみごとな彫刻で、ほかに関平、周倉、観音、韋駄天、十八羅漢、火徳星君、三界公、土地公、註生娘娘などを祭る。
創建は明の永暦末年、官民資を出し合って建てた。かつては尊信されたが今は参拝者少なく、廟庭は指物工場となる。
武廟街は旧時代の面影を残している。西に粉店司阜(石灰石をくだいて化粧として売る)、油燭店司阜、金銀紙を売る店がある。金銀紙は廟町につきもので、銀紙は錫箔、金仔は銀箔に槐花の汁で黄色く塗ったもの。 − 昭和17年(「台湾の民族」)
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台南の水仙宮
康煕54(1716)年、泉の諸商が建てる。当時は近くが海で、船舶が連なった。
嘉慶12(1807)年の台湾県誌によれば、西定坊城外の大街として水仙宮街が栄えた。
光緒元(1875)年、海は後退、台南の中枢となり、外人商館ができる。
祭神 大禹、伍員、屈平、王勃、李白(県誌)
大禹、伍員、屈平、項羽、魯班(連雅堂の通史)
(現在) 水仙尊王、風雨ニ将軍、三界公、太子爺、釈迦仏、土地公、観音など
水仙尊王には大禹を当てて良いのか?
水神の亜流では?(蒋允T)
屈原よりも古い南方民族の習俗では?(前島信次「台南の古廟」)
廟は壮麗だが、現在は海上鎮護の要なく、あまり祭られていない。 − 昭和17年(「台湾の民族」)
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台南の臨水夫人廟
中国の北方では娘娘(華南では娘のない村はなし)、南方では臨水夫人(福建省臨水中心)または天后聖母が広く分布。臨水夫人は福建華僑の発展した地に伝搬。
台湾ではたいていの廟で註生娘娘を祭る(出産、妊娠、幼児保護)。
台南では臨水夫人は次の廟に祭られている(台南以外では専廟なし−前島氏)。
臨水夫人廟、開隆宮(七星娘娘)、大天后宮(天上聖母)、大士殿(観音菩薩)、伍徳宮(天上聖母)
臨水夫人−福州人、臨水と呼ぶ。福州人陳昌の娘、唐代大暦2(767)に生まれる(県誌)。
別名大、娘、房裡。雅号、臨水夫人、臨水陳大公太后、陳夫人、順天聖母、天仙聖母など(魏応麒、民俗第61-62、神的専号)。神名進姑。
廟に36婆官像あり。王より36人の官女を賜い、女弟子としたという伝説。
台南の寺廟88のうち、岳帝廟、天壇、大天后宮、興済宮、大士殿、臨水夫人廟の6つのみ信仰を集める。 − 昭和17年(「台湾の民族」)
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台南の大天后宮
天后 中国人華僑のいるところ、天后宮の存在を見ざるはなし。海洋関係のみならず、一般より崇敬。
敬称 天妃、媽祖、婆。封号 順済、霊術、崇善、福利。
その伝説は宋の太平興国4(969)の苒田県誌に現れるを初とする。宋太祖建隆元(960)年3月23日夕生まれる。九娘、黙娘と呼ばれ、8歳で読書、香をたき仏を礼すを喜び、13歳で道典秘法を得。16歳で海上の人を救い雍煕4(989)9月9日昇任。28歳。
台南の天后宮について:順済廟号をたまい、康煕19(1680)勅封となり、雍正4(1725)年「神昭海表」の扁額を賜う(県誌)。
媽祖信仰は水神信仰(航海を助ける)と神仙説話との結合。(「台湾の漢民の信仰にあらわれた海神」人類学雑誌33-6)
台湾においては、大陸以上に信仰される。海上の守護神、さらに万能の女神。
台南の天后宮は、靖海侯施が台湾に入った際、明の寧靖王の住居址に巨費を投じて改建した(康煕22(1683)年)。中国宮殿式で華麗。
祭神 天上聖母、観音菩薩、王爺、その他配神多数。
祭典は3月19,20日。元は安平の媽祖が盛んだったが、次にこの天后宮が盛んに祭られた。大行列で市街を練り歩いたという。なお、安平の天后宮は倒壊、廟址も定かでない。 − 昭和17年(「台湾の民族」)
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台南の岳帝廟
東獄大帝(仁聖大帝)は中国の五獄の一、山東の泰山神。北方では山神の祭祀が行われ、それが山嶽を離れて神格と持つに至る。道教の影響も受け、死生霊魂を司る神の廟となる。
この街は台南でもっとも古い街の一。高砂町元会境入口の万川菓子屋の前から岳帝廟への道は、昔金蘆と呼ばれていた。百年前良質の茶を売る店に金のひょうたんが飾られていたため。今はその店はないが、古い醤油屋の招牌にその街名がある。元会境町東に狗糞巷があり、阿片を売っていたところがある。その厚い土壁に、手の入るくらいの窓が2つあり、「専一号」という看板がある。清朝台湾の数少ない社会事業家林朝英の書という。
岳帝廟のまわりの古い民家に、古井戸があり魚がいる。玉皇上帝と朱書した天燈がかかっている家もある。この街の裏町は迷路で、幽霊の出る古井戸、土塀の上に満月、半月の形の魔よけが乗っている。
三川門を通り拝亭に入る。范将軍(虎頭牌=拘引状を持つ)、謝将軍(火籤=呼出状を持つ)(悪事をなしたものを呼び、東獄大帝が裁く)、牛爺、馬爺の像は怪異な秀逸。
側室に護国尊王、福徳爺、天医神人、速報司、後殿に幽界の神、観音仏神。
かつて岳帝廟前を夕刻に通ると、上記両将軍の罪人を責める声が聞こえたという。(=女巫術者)がいる。 − 昭和17年(「台湾の民族」)
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豆
豆はオランダ人が1637年に開く。もともと平埔族が住んでいたらしいが、漢族の圧迫によって去る。
南、北、東、西角の四角ができる。
頂街に上帝廟(乾隆16(1749)年)、穀興街に媽祖廟、新店角(北角)に五府王爺。王爺公と有応公が争い、その傷が王爺の額にあるという。五鬼神という首あり(神兵の将という)。 − 昭和17年(「台湾の民族」)