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うずしきようこ
文化大革命が終結したのは、一九七七年のことだった。
一九七○年代、中学生、高校生の間でBCLがはやっていた。海外放送を聞いては受信レポートを郵送してカードを集めたり、感想を書き送ってお便りの時間に手紙が読まれることが楽しみだった。手紙を出す人が多かったので、読まれるにもかなりの競争率を突破しなければならない。そのためには母を病気にしたり、妹に亡くなってもらったりもした。
短波ラジオを持っている人は遠くヨーロッパの国々からの放送もキャッチしていたが、そこまで凝らなくても近隣諸国なら中波ラジオで十分だった。北京放送、ラジオ韓国KBSあたりが中波で聞けるもっともポピュラーな放送局で、出力の若干劣る平壌放送やモスクワ放送は、深夜になり日本や韓国の国営局や民放局がいくつか終了するとよく聞けるようになった。
私も中波ラジオに凝っていたくちだった。中学高校と学校があまり面白くなかったこともあり、中波から流れる外国の声は、“世の中もっと別の価値観もあるし、広い世界があるさ”という励みになった。一九七○年代半ば、ベトナム、カンボジア、ラオスとあいついで戦争や内戦が終結し、“解放”された。社会主義政権が次々誕生すると、当然北京放送あたりでも明るい声で宣伝につとめ祝う。各国の元気な“遊撃隊の歌”が流れ、中国自体も文化大革命の最中、というのもあり、“労働者、農民、兵士”が中心の若々しく希望に燃えた国、というイメージに漲っていた。“良く学び、日に日に向上しよう”、“自力更正、刻苦奮闘”といったキャッチフレーズ、“みんなが誉める 人民公社”“私が好きな 天安門”といった歌が、当時よく流れていた。それが突然、四人組逮捕で終結した。よくわからないまま、突然流れ出した文革中の暗い面と、四人組裁判の報道を聞いた。
大学に入り語学に中国語を選択した。徐々に海外旅行に出る学生が増え始めていたが、個人旅行の許されない中国はまだまだ近いが遠い国のような気がした。公式の訪中団にでも属さない限り、入れないかと思っていた矢先、民間のグループで行ってきたよ、という友人が現れた。大学の訪中団で行ってきたが、中身はヨーロッパの観光ツアーと変わらないという。どうだった?と聞くと、
「最悪。向こうで会った人たちみんな理想に燃えててさあ、“国や社会のために奉仕する”みたいなことばかり言うんだよね。さいごの晩にガイドの人と一緒に何人かで飲んだんだけど、何だかあたし達が腐ってるみたいに感じられて、辛い、ていうか不快だった。なんか二度と行きたくないな、て」
と当時流行の最先端として長期政権を保っていた、“ハマトラ”の格好をした友人は言った。
その翌年も大学交流の名目で大学から訪中団が出ることになった。
飛行機で隣あわせたT君。一年生で九州出身だという彼は、九州では九大と長崎大が幅を利かせている、という。「そりゃ東大、京大は勿論だけどね。九州の奴で東京の私立に来たがる奴なんて少ないんじゃない?」
「じゃなんで来たの」
「都会を一度見ておきたかったからさ」
私は眠ろうと思って眼鏡をはずした。彼は「東京は嫌いだ」と言っていた。私は友人Iを思い出した。彼女もしょっちゅう東京は嫌いだと言っていた。それなら帰ればいいのにと思い、実際そう言ったこともあった。すると「東京の人に地方出身者の気持ちはわからない」と返した。そりゃ逆もそうだろう、と思ったが黙っていた。T君に、回りにもやはりそう言っている人がいるよ、と言った。都会の人はいい意味でも悪い意味でも個人主義だと寂しがっているよ。
「そうだね。でもさ、東京もいいとこあるよ」と彼。「いやなところばかりじゃないよ。東京、てチョコチョコ公園あるだろ。のんびりできるところもあるしさ。やっぱ東京来て良かったよ。いろいろわかったしさ。来なきゃわかんないよ」
飛行機は鹿児島沖で一回、上海沖で一回旋回した。やがて左手に陸地が見えてきて、気がつくといつのまにか大陸の上を飛んでいる。縦横きちんと区分けされた大地のところどころに用水路が走る。そのまま上海空港についた。
数年前なら「歓迎、歓迎」と拍手で出迎えたのかもしれないが、今はタラップ脇の女性服務員がじっと黙って降りてくる乗客を見つめている。まわりはなんとなくはしゃいで、さかんに写真を撮っていた。建前上、空港の写真はいけないはずで、中国の公安に怖いイメージもあったのだが、別におとがめなし。空港の建物へ歩いて行くと、中国人が外から中からのぞいている。誰も笑っていない。
荷物検査も簡単で、解放軍の軍服を来た女性が「これ以外何もありませんか」「はい」「では検査を終わります」と無愛想に言った。ただT君たちが中国人へおみやげを持ってきていて、それが税関で引っかかっていた。
バスで市内へ向かう。延安路に入り、中山西路と交わるところで「世界民族団結万歳」の派手なポスターの立ったロータリーを回る。滬杭鉄道を越え、市内に入った。
「このあたりが上海らしいところだからな。よく見ておけよ」と大学院生N氏。彼は現代中国の政治が専攻で、中国語は非常に堪能だ。名目上の引率は経済学部の教授だが、実質的な手配等は彼がこなしていた。
市内は街路樹がよく茂り、日本の道よりも暗い感じがした。人も多い。雑然としていて、どこか南方の地方都市のようだった。
N氏は、今日泊まるところは上海大厦になったと告げる。ホテルは現地へついてみないと、どこになるかわからない。外国人旅行者の宿泊先はすべて中国側が決める。当然、当時はまだ個人旅行、自由旅行は許されていなかった。「上海では一番いいホテルだ、次が和平飯店ね」
虹口公園へ行く。バスから降りると、人々がいっせいにじろじろ見る。訪問先の魯迅記念館では、係の女の子たちが椅子に座って本を読んでいたが、その格好が股を大きく広げ、椅子の上に広がったスカートの上に本を載せて読んでいた。それを見たN氏は、中国はずっとズボンだったからスカートでもあの調子だ、夏はバスの中でもスカートをまくりあげてばたばた扇いだりする、と言った。私達が説明を聞き終わり部屋を出て行くたび、背の高い子が来て、つまらなそうな義務的、といった感じで電気を消しカーテンを引いていった。
T君たちがアイスクリームを食べようという。売店で、売り子の少女はお金を受け取ると乱暴に投げてよこした。てきぱきした調子でなく、“動物的”というほうが当たっている。話には聞いていたが、目撃するとさすがにどきりとした。
ホテルに着くと、入り口に中国人がたむろっていて、やはりじろじろ見ていた。しかし決して話し掛けてこない。どうにも彼らの心境をはかりかねた。
夕食後、“犬と中国人お断り”で有名な外泊渡橋を超え、黄浦江べりを散策。とにかく人が多い。そしてすれ違うたびに名札をのぞいてゆく。このことに精神的な疲れを覚えた。Mさんが隣に来て
「私の考えすぎかもしれないけど、一人のおじいさんにフン、て言われちゃった。それとか、リーベンレン(日本人)、て何度も言われたし。やっぱ戦争経験とかあるしさあ、複雑なんじゃないかなあ」
「私も中国人が怖いよ。じろじろ人の名札見て何考えてるんだろ」
「別に大して悪意はないんだよ。外国人が珍しいだけじゃない?」
「ねえ、中国へ来た気がする?」
「あんまりー。バスの中からじゃ本当の中国はわからないよ」
上海の夜は一晩中汽笛とクラクションが鳴り響いていた。
食事のとき、N氏は町中を歩く時間をもっと取りたいと言っていた。
「あの歴史博物館、行ってわかったろ。たいしたものなんかないんだよ。歴史観植え付けるだけの機関で。それがわかっただけでもまあいいけどね。だからあんなところで時間とりたくないんだ」と言った。
二日目からガイドのLさんが付いた。
「中国でガイドやってるなんて、エリートだぞ」とN氏。
Lさんは、
「中国の大学生はあまりお化粧をしません」と言った。
「禁止されているんですか」とMさん。
「いえ、中にはする人もいます。その人によります。日本の大学生はどうですか」
「女子大ではけっこうしているけど、うちはあんまりしないんじゃない?」
「そうですか。それは皆さんが勉強第一だからでしょう」
みな顔を見合わせて笑った。
「でも中国でも、これからはお化粧する人がもっと増えると思います」とLさんは言った。
バスは四川路を通り、T字路になったあたりに窓に緑の格子のはまった人民銀行がある。そこを左に折れ、虹口公園の前を通り、中山北路に入った。都電脇を走る目白通りによく似た通りだ。
「銀行に鉄格子はまってるの見たろ」とN氏。「本当に泥棒も犯罪もないなら、あんなものあるはずないだろ。あるんだよ。現代中国にも犯罪は。ただ外国人に手を出すと反革命罪になって厳罰だから、外国人には手を出さない。だから外国人にとっては中国は治安がいい」
暗に“中国へ行くと落としたお金が戻ってくる”といった類の当時の感激型訪中レポートを揶揄するかのように、ぶっきらぼうに言った。
博物館などを何カ所か訪問したあと、市内を歩く。思いのほか、貧しい国だった。上海は人通りが多い。平日なのに子どもがふらふらしている。男があてもないようすでぶらぶらしており、背中から完全に裂けたシャツ、破れたシャツを着て道端にへたり込んでいる者もいる。
さらに北に進むと運河に出た。狭い水面に何艘もの船が浮かび、屋形の下で5、6人の男女がトランプに興じていた。カメラを手にして彼らのほうを向き、その表情を見たとたん、やばいかも、と感じて一瞬躊躇した。次の瞬間トランプは片付けられ、みなそれぞれそっぽを向いていた。橋の上にも暇そうにぶらつく男性らがいた。一人はグラサンをかけており、社会主義中国でもそういう人がいるのか、と内心驚いた。
麺工場があり、堤防沿いに麺の玉を干したざるが並んでいた。その隣にぼろぼろのつぎあてだらけ布団が置かれていた。川沿いなので誰かが捨てたのかと考えた。すると橋のたもとにポツンと建つ、人が住みそうにもない崩れかけたような小屋から老人が出てきて、その布団を大切そうにはたき、まるめて抱えた。そしてまたその小屋に引っ込んでいった。急に心が冷え込んだ。自宅で取っている新聞が“赤い赤い”で有名なA紙だったこともあり、ラジオも含めずっと文革礼賛報道や記事を目や耳にしていたせいか、中国は日本よりも貧しいけれど、みなが平等で農場や工場で明るく働いている国、というイメージが出来上がっていた。それが今目にするようすは、町全体に広がる不機嫌な感じと貧しさと鬱屈した印象である。
一人の買い物帰りのおばさんと目が合った。できるだけ中国人と中国語で話してみようと思っていたので、チャンスと思い話しかける。
「私日本から来ました」おばさんはうなづく。
「中国の人と話てみたいのですが、ちょっといいですか?」おばさんは警戒したように
「ting bu dong (聞き取れない)」と言った。まわりにたむろっていた中国人が急に集まってきた。N氏らから、町を歩いていて回りに人がたかりはじめたら、さりげなくその場を離れるように、と注意されていた。人が集まるとちょっとしたことで喧嘩や暴動になりやすく、巻き込まれると危険性だから、というのである。「対不起」と言うとそのおばさんもうなづき、さっと離れた。
「要するに中国人はひまなんだよ」とN氏はバスの中で言った。「だから集まってくるんだよ。彼らは三交代制だなんて言っているけれど、要するに電力不足で工場も動かないでいる」
N氏は全学連出身で全共闘の委員長をしていたという噂だった。少し前まで、学部も大学院も学費さえ納めれば無制限に留年可能だった時代があり、当時もまだ留年十数年というツワモノがごろごろいた。N氏もそのくちで、細身の長身と角張った顔つきからして、バリバリの活動家風だった。
N氏はこの旅行で、どこか投げたようなところがあった。中国の内情にも詳しく、語学も完璧だが、冷めたような口調で解説したあとは、どこか遠くを見ていた。
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