島紀行
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篠島・日間賀島(1996年9月)
篠島
篠島は知多半島の先に位置する周囲4キロほどの小さい島で、古くから交通の要所だった。知多半島の先の師崎、河和、蒲郡、渥美半島、鳥羽などから高速艇が就航している。史書にも登場し、伊勢神宮と深いかかわりがある。式年遷宮の年には、建替えられた古い木材をいただき、篠島の神明社の社殿を建替えるし、今でも毎年おんべ鯛などを伊勢神宮に奉納している。また、南北朝時代には南朝の皇子が匿われたり(聖跡(篠島城))、幼少の頃の家康が住んだりもした。漁民が多く、あちこち行き来して諜報活動の手助けようなこともしたらしい。
篠島城そばの小学校には”石のかると”という古墳もある。(写真は、城跡より、現在海水浴海岸となっている前浜のジュード(終度)を望む。手前がシュード(始度)。)
篠島のまわりには岩場が多く、小さい岩や島が点在し、松島にたとえられたりもしたが、島の面積を広げるためにいくつかの島をつなげて埋め立てた。古い町の狭い家を出た人が、そこで民宿など商売をやっている。昔は山のほうには住まなかったが、今では次男三男が分家して、山のほうまで家を建てて住んでいる。それでも最盛期の人口から千人くらい減っている。
(写真は鯨浜)
親戚の話では、もう少し早い時間帯、6時台の船があると名古屋にも通えるのだが、7時台しかない、みな仕事ないよ、という。以前は純粋に漁業で生計を立てている島だったが、湾内では魚が取れなくなってきているため、戦後は観光に力を入れてきた。だからトヨタやミツビシなど自動車の景気が悪いと、観光客が減る。
篠島はかつては犬禁止の島だった。八王子社の神様が犬嫌いとのことだが、島のデータベースSHIMADASを見ても犬禁止の島がときどきある。理由は与論島に行ったときに予測がついたが(与論編)、こんな話がある。太平洋戦争中、篠島から8人の戦死者が出た。大変なことだと調べたら、島内に禁止のはずの犬が8頭もいることがわかった。それで島中で犬の追い出し作戦が始まり、中には飼われている犬もいたが全部追い出したという。ただし、現在ではけっこう飼っている。(写真は八王子社)
明治36年生まれ。普通は小学校は4年しか行かなかったが、6年1ヶ月行った。同級生は4人。今みたいに難しくなかったから、賞状、帳面4冊なんかをもらった。同級生のうち、男子が一人だけ中学に進んだが、早死にした。
子供の頃から、家の手伝いをした。網を作るのが大変で、手足の指をすべて使って作る。松の葉をかいてきて、舟板が強くするため船底を焼いたりした。やらせれば子供でもたいがいのことはできる。
篠島に田んぼはないので、当時は米は食べなかった。日間賀は田んぼがあった。渥美郡は温かいので、米でも花でもなんでもあり、買って食べる人もいた。畑では芋、葉物類を作っていた。子供の頃、葉物を摘みに行かされ、全部抜いてだめにしたことがある。(島の畑)
水汲みもした。島の井戸にはいい井戸と悪い井戸があり、いい井戸は塩気が少ないのだが、それでも塩っぽい。当時はお茶は飲まなかった。(帝ノ井)
あかりはランプとあんどんで、ランプ磨きも子供の仕事だった。
子供の頃はよく泳いで、貝、うに、なまこを採った。海は怖くない。よく働いたが、無邪気に働いていたあの頃が一番楽しかった。働くことは辛くない。二十六で結婚するまで、そうして働いた。
兄弟は4人。本当は7人。二人と兄嫁はチフスで死んだ。魚を食べ、ハエが多かったのでチフス、赤痢はよくあった。次男もかかって大変だった。
魚はよく食べた。当時はふぐも採れ、ふぐの刺身はおいしかった。今は篠島周辺では魚が採れなくなり、皆漁師をやめ民宿をしている。日間賀はまだましだが、やはり今はあまり採れないだろう。佐久(佐久島)はまだ採れると思う。
(写真は現在の漁村のようす)
両親は八十まで生きた。当時としては長生きだ。
結婚は二軒隣の人とで、母親同士で決めた。舅は頭のいい人で、日よりを見るのがうまく、今日は大漁だと言うと本当にそのとうりになった。夫は親思いだったが、いっこく人(頑固者)だった。
あるとき兄弟で魚の仲買のようなことをやり、七百円の借金をこさえた。それで漁師をやめ名古屋へ出ることになった。(別の話では、ドラマ「澪つくし」のように難船して漂流し、積んでいた米俵の藁まで食べるような経験をしたので、「もう漁師はいやだ」と名古屋へ出てきたと聞いた。)
それで祝言をあげずそのまま名古屋へ行く。三十円の結納金だった、と何度も言う。それじゃあまりかわいそうだ、というので佃煮や漬物をもらった。夫は会社に勤め、自分は内職をした。絞りはよくやった。飴を包むのもやった。絞りは当時需要も多く、素人でもやれたので数カ所から取ってやったりした。親戚を3人くらい引き取って、面倒見たこともあった。
戦災で家が焼けたため、子供を連れて歩いて河和まで逃げたり、いろいろあったが、こうして家も建てられたので、まずますの人生だったのだろう。
ところで祖母から聞いた話だが、海にはともかづきという霊がいる。ひしゃくをくれと言うので渡すと、船に海水を汲み入れて沈めてしまう。だから底の抜けたひしゃくを渡すといい。もとは海で死んだ人の霊だという。
(私の記憶が船霊と混同しているかもしれず調べる予定ですが、ともかづきという名の悪さする霊の話があることは確か)
日間賀島
日間賀島はもともと砂浜のない、海から台形に隆起した形の島である。1980年代に行ったときには、崖下の船着場から登山道のような急斜面を登って人家のある地区まで行った記憶がある(小さいほうの船着場の場合)。
それが今回は、砂浜の先に船着場ができていた。当然、埋め立てだから、観光地化も兼ね、ハワイのような真っ白な砂浜だ。棕櫚も植わり、岸壁も白で統一、南の島のイメージ。その代わり、砂の流出を防ぐために防波堤で囲われている。
篠島にはもとから砂浜があるが、天然のため、よくある本土の黄色い砂。防波堤でさえぎる必要はないものの、典型的な日本の漁村、イメージ的には完全に負けている。
(右写真は日間賀島の人工浜)
地元の人の話では、お盆を過ぎると海水浴客は減るとのことで、もう泳いでいる人はいなかった。日間賀島は台形の地形で、まったいらなせいか、昔から家も敷地も篠島に比べて大きい。篠島は典型的漁村のたたずまいで、狭い地区に二階三階建ての家屋がびっしり並ぶが、日間賀はそれがなく圧迫感がない。高台で見晴らしが利き、周囲を海が広がり、のんびりした感じがある。ただ、昔は交通路からはずれていたため、たしか1980年半ば頃来たときは、鳥羽や蒲郡などからの船は日間賀島は泊らなかった記憶がある(現在は泊る)。また、史跡もよそと交流のあった篠島のほうがある。
以前訪れたときには、高台にひなびた人家がぽつぽつある以外、畑と草原がぼうぼう広がっていた日間賀島だが、今回はおしゃれなホテルが何軒も建っていた。十年前は篠島のほうが観光地だったのに、完全に逆転している。第一、篠島ルーツの伯母ですら「今は日間賀のほうがいいよ。この前行ってきた」なんて言っている。
かつては篠島に遊びに行ったついでに、日間賀島へも寄ろうとすると、島の親戚たちから
「あんなとこ行っても何もないよ」と言われたものだが。(それで「行ったことあるの?」と聞いたところ「いや、ない」と言う。隣の島だがわざわざ行かない、というのも不思議な気がしたが、そういうものかもしれない。)
帰り、船着場のみやげ物売り場のおばさんと話す。船着場も埋立地なので、高波が来たらどうなるんだろう、と心配していた。そして、篠島の神明社の60年に一度の建替えがTVなどで報道されているが、実は篠島には神主がいないため、日間賀島から行ってるんだ、とのこと。篠島と日間賀島は、何となくお互いライバル視している感じがある。
20年前の篠島と日間賀島
篠島は祖父母の出た島なので、子供の頃から何度か行っているのだが、1980年代半ばに行ったとき、ふと台湾(当時)や東南アジアに似ているな、と感じた。なぜだろう、と考え、そういえば親を手伝って働く子供の姿を日本ではあまり見かけないが、それがここにあるからだ、と思った(昨今のバザーなどのイベントで、一時的に子供が”手伝う”のとは違う)。生活に根ざした感じでたくましく、台湾南部で見た子供たちの姿に重なった。
夏休みは毎日、夜遅くまで小学生くらいの子供たちが前浜で観光客相手に花火を売っていたが、その様子が明るくて元気いっぱい。最後は大勢で海へ向かって打ち上げ花火をあげて、歓声をあげていた。
朝、小学生や中学生くらいの男の子が、浜から家までの細い急斜面を、猫車を押して魚や荷物を運んでいる。子守りをしている子もいて、小さい子の扱いもとても上手。その一方、昼間は廃船でできた1回10円だかの釣堀にむらがっている。
日間賀島に行ったとき、大きいほうの船着場の前の食堂に入ると、小学校高学年くらいの女の子が注文を取りに来た。よく働き、やらされている、という感じは微塵もない。みな親を手伝い、それが当たり前、という雰囲気で、健康的な印象があった。
外からの観光客の子供と島の子供は、一見してすぐ見分けがついた。若者も同じだが、体の厚みが異なり、都会の人は正面から見た太さは同じだが、横から見たときにかなり薄い。島の子供は横から見ても均等に厚みがあり、引き締まった体をしていた。
話はそれるが、ダイエット中の女性はときに横幅が異常に薄っぺらい人がいる。モデルでも、欧米人は前後左右均等な厚みだが日本人は横だけ薄い人がいる。元の体型もあるだろうが、同じウエスト50数cmでも均等型と横薄型とではかなり違う気がする。
(写真は篠島の南に広がる潅木の茂る小高い一帯)
瀬戸内(1994年8月)
児島からバスで下津井へ出て、本島(ほんじま)と結ぶフェリー港に着く。当初、児島から観光船に乗るつもりだったが、7月27日に休航になり、定期便だけだというので、下津井−丸亀フェリーにした。フェリーにはトラックが多く乗っている。
塩飽諸島の一つ本島は、思ったよりも平地の少ない、山がちの島。隣の家族連れは、本島のおばあさんのところへゆくらしい。客の乗降も多かった。
瀬戸大橋は島をつないで架けられ、島の標高が高いので、島ごとに橋が途切れる感じだ。日の当たる段段畑やみかん畑がおおう明るい島を想像していたが、うっそうと茂る森が大部分を占める、小山のような島が多い。約1時間で丸亀着。
多度津から、福山行きフェリーに乗る。笠岡諸島にも寄ってみたかったが、白石島経由福山行きはなくなっており、諸島に寄るフェリーは朝一番しかなく、時間的にあきらめた。橋ができてから、船航路もバス路線と同じ運命をたどっているらしい。このフェリーにもトラックが多かった。佐柳島、北木島、白石島などを次々と通過するが、やはり標高のある、平地がほとんどない小山のような島だ。
福山港では、前方を異様にノロノロ行く船があった。汚い船で中国大連とあり、上半身裸の男性が前に十人、後に十人ほど並んで立ってこちらを見ていた。
尾道から高速艇で弓削島へ。芸予諸島は海よりも島の面積のほうが広い感じだ。小島の点在する笠岡諸島と異なり、なだらかに平地の広がる緑の島々が幾重にも重なり、海は水路のよう。斜面にはみかん畑、茶畑が見え、いかにも写真でよく見る瀬戸内の風景。
弓削島(写真)は、他の島から少し離れており、第二大橋のルートからもはずれていた(隣の小島、佐島との間には橋を架けつつあった)。そのためか、のんびりしており、陽だまりの中、時間がとまっている感じ。南北は少々高いが、全体に標高は低い。中央は平らなまま向こうの海岸に抜けており、この区域に家がびっしり立ちならぶ。典型的な漁村のたたずまいで、お寺も多い。幅2,3メートルほどのメインストリートでは、外に縁台を出して人が座っている。ひなびた穴場的な島だ。
X十X番札所と書かれた札が立つ。弓削島だけで完結しているのか、芸予諸島全体にちらばるのかわからないが、札所めぐりがあるようだ。ごく普通の造りの家で、中には掛け軸がかかり、中央に仏像が鎮座していた。
フェリーで伯方島へ。伯方の木浦で下船するが、船はさらに今治へ向かう。この航路はけっこう出ている。周囲には造船所も多く、たいがいどの島にも、造成所のクレーンが何本も立っているのが見える。
バス待ちで寄った喫茶店にて。
はじめカウンターに男3人くらいの客の入りだったが、やがて次々入ってきて満席になった。みな知り合いのようで、あちこちで話し出す。一人は急に混んできたからと、ママさんを手伝って仲間のために水や料理を運んでいる。私のカレーも彼が運んでくれた。
テレビでは大韓航空墜落のニュースをやっていたのが、誰かが教育テレビに変えてくれ、と言い、高校野球の話題で盛り上がりはじめた。四国のチームが北海道のチームに初戦敗退なんて、初めてじゃないの?と騒いでいる。
「夏はわかんない。みんなよく練習してるから」
「北海道は設備がものすごくいい、て」
「北海道は朝3時頃から明るいんだって。夕方4時半にはもう真っ暗だってよ。新聞にあったけど、こっちがまだ寝ぼけているうちにやられたんじゃないの?」
「あれが昼間か午後の試合だったらな。こっちも目さめてるし、暑い中向こうはへばってたよ」
「今治も優勝候補だ、てのにな」
「今年は優勝候補がばたばた負けてるな」
この年は四国勢が初戦敗退ばかりで番狂わせと言われた年だった。さらに近畿以西の水不足も深刻な年だった。私が水を飲み終えたとき、
「水とってきてやろうか」と一人のおじさん。
「こっちは水は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ、大三島から水道ひいてるから。向こうは涌き水がたっぷりあるんだ」
「ダムも普通みたいにコンクリートじゃなくて、岩なんだって。だから下へ抜けないらしい」
伯方島は土地がなだらかに起伏し、畑や田が続く。大三島行きバス路線の景色はなかなかよく、海の向こうに浮かぶ大三島が美しい。
井口港からフェリーで垂水へ、生口橋までバス。ここにも赤崎−金山間と、生口島へ行くフェリーがある。一緒にバスを降りた女子中学生3人連れが、フェリーが「行っちゃった」と騒いでいる。すぐ上を橋がかかるが、フェリーは料金が一人60円。
尾道−向島−因島−生口島と、大島−大三島−伯方島は橋で結ばれていたが、この両者の間とその他の島がまだなので、バスに乗ったりフェリーに乗ったりで、変化に富んだ移動ができる。尾道から向島へのフェリーは60円、車も120円。
八丈島(1997年7月)
竹芝桟橋からすとれちあ丸で八丈島へ。10時半発翌朝9時10分着。連休中とあって竹芝桟橋東海汽船の建物とその前の広場は大勢の人でごった返していた。1等以下良い席は皆満席、2等しかあいていない。5番の札のところで座って待つ。10時に乗船開始、2等船室に下りると即座に角っこに場所を確保、シーツを縫い合わせた寝袋にくるまる。この寝袋はインド旅行でも重宝した代物。二等船室もすぐに雑魚寝の人で一杯になる。若者が多く、うるさいかなと思ったが、しばらくお菓子を食べながらしゃべるグループもいたものの、大騒ぎする者もなく、やがて皆寝静まった。毛布は500円で借りられる。
3時過ぎに三宅島着、半分近く降りていった。7時過ぎにレストランが始まったので朝食をとりにゆくが、その途中、甲板でむしろを敷いて寝ている人もいた。
船で11時間かかり、やはり篠島や瀬戸内に比べ、海の孤島だと実感。下船開始、警官が3人立って見ている。降りる若者たちはほとんどがダイビングかスノーケリングらしい。島の感じは、なんとなく沖縄に似ていなくもない。(写真は民俗村の倉。奄美のバレ倉によく似ている)
八丈島では、知人が小学校の先生をしている。会いにゆきがてら、メインストリートの三根と大賀郷の間を歩く。役場の斜め向かいに小さい神社がある。そのたたずまいに沖縄のウタキに共通するものを感じた。あるいは篠島や神島にも似ている。樫だか、背の低い幹の複雑に湾曲した照葉樹の間を参道が登って行く。葉の間から細かい木漏れ日がやわらかく落ち、透明な風が静かにわたる。杉や松など針葉樹が境内を威圧する本土の神社とは、だいぶ雰囲気が異なる。石畳を登り切ると、正面はコンクリの建物でその上が展望台のようになっており、社殿は右方にあった。展望からはるか四方が見渡せ、八丈富士も三原山も拝むことができる。もとはこの小高い丘そのものが礼拝所だったのではないか、と思う。
知人が案内がてら、玉石垣は八丈の流人が石を一個運ぶごとにおにぎり一個もらったらしい、だの、島はふだんでも風が強いが台風のときはすごい、アパートの郵便受けにダンボールがかぶせてあり、取ろうと思いつつ忘れていたら、台風が来てなぜかわかった、風で郵便受けが水平になってしまい、部屋の中に雨風が吹き込むからだ、などと話してくれる。
八丈小島が見える。電気がなく、昭和40年代に全員が都のお金で八丈本島に移住したが、電気を引いてもらって島に戻りたがっている人もいるという。ただ、八丈小島には風土病があり、移住にはそれもあった、とも聞いた。
(写真は玉石の海岸から八丈小島をのぞむ)
小学校は海の見える高台に建つ。平屋の木造建てで、海が見え立地は最高だ。このあたりは花卉栽培がさかんで、逢坂トンネルの先を坂上、下を坂下といい、坂上から栄えた、末吉が一番先に開けたが、水があったためだという。
クラスのお母さんたちは島外者が多いそうだが、知人もダイビングではまって移動願いを出し、八丈に来た。ダイビング好きがこうじて、インストラクターとして移住している知り合いも何人かおり、それもあって溶け込みやすかったという。
八丈では40坪の家が800万くらいで買えるそうで、もともと田舎育ちだし、こういうところで一生すごすのもいいかも、という。
イベントとして島を一周するウォーキングもあり、40キロかかる。けっこうきつくて、子供と励ましあってゴールしたそうだ。
(写真は逢坂から湾をのぞむ)
帰りの船は底土港から出る。底土と神港の間にはリゾートホテルが立ち並び、なかなかきれい。帰りの船は行きに比べさらに混雑していた。二等船室へ行こうとしたが、満員で入り口で人が詰まっている。そうだ、と思い、一気に甲板へ。むしろを持って日陰に場所を確保。三宅島で乗船してくる人たちのためにまだ閉まっている船室もあるため、じき甲板にも人が来るようになり、たちまちむしろで満員。後ろにはアメリカ人と日本人の5人グループ、左は熟年夫婦、右は若者7人グループ、しゃべったりトランプしたりとにぎやか。若者グループは、ダイビングスクールか宿で知り合ったらしい中年女性二人を見つけると「おばちゃん」と声をかけ、場所をとってあげていた。さらに混んでくると、詰めたり、場所を空けてあげたり、結構みんな親切。
それでも三宅島まではまだ比較的のんびりしていた。八丈島がしだいに小さくなり、しばらくは島影が見えず、大海原をゆく。
三宅島からさらに大量の人が乗ってくる。場所を詰めても乗りきれず、日よけのない甲板が開放された。真夏の炎天下のため、きつそう、隣の女の子も「かわいそう、大丈夫かなあ」と言っているが、若者が多くオイル塗って上半身裸になっている男の子たちと、手すりなどの陰で毛布にくるまる女の子たちとに別れた。トイレに立った時、一等船室の廊下にも人があふれていた。(写真は三宅島)
三宅島以降は、なんだかだ島が続く。なぜか島の上空だけすっぽり雲に覆われていることも多い。夕方になると、先ほどまでの暑さがうそのようで、風が冷たくなってきた。伊豆半島、房総半島が見える。急にまわりに船が多くなり、東京湾に入った。8時過ぎ、竹芝桟橋到着。