卒業旅行 (続き2)

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 集合時間にバスに戻ったとき、一人の男の子が珍しげにバスの中をのぞき込んでいる。「話してみなよ」と回りに言われ、「中学生?」と聞く。二年生だという。語文が好きだ、などと聞いていると、また人が大勢集まってきた。そこへ自転車に乗った白無地シャツにきちんとアイロンをかけた青年が寄ってきて「今日本語を勉強しています」と日本語で言う。上海工業大学の一年生と言っていた。ほかの中国語のできる日本人学生たちも出てきてあれこれしゃべり出す。彼が日本語で日本人たちと話すのを、回りに集まった中国人たちは押し合いへし合いしながら押し黙ったまま、目を見開いて聞き入っている。さきほどの中学生も、何人かの女子学生と「バスケットやっているんだけど、あんまりうまくない」と話していた。
 急に雨が降ってきた。人々は散り始める。スコールのような激しい降りで、大学生も「私も行かなければなりません」と言って離れていった。

 この日の夜はミュージカル「桜海思情」の観劇プログラムだった。日中戦争をはさんだ日本人女性と中国人男性との悲恋物語で、一種のプロパガンダ作品だろうが、ガイドのLさんは泣いていた。一般に中国人は批評をしながら観劇するので劇場内が騒がしいが、途中故周恩来総理の電話の声が流れる場面があり、一瞬静まり返った。
 同行のみなは口々に、「日本の印象、てあんなだったのー。あのディスコは何よ一体」「あの鶴がなんともいえないね」などと話していた。端に座っていた人の話では、N氏が隣にいた三人の中国人にいちいち、“着物はあんな着方はしない、セーラー服は学校の制服だからあんなときに着ない、第一緑のセーラー服なんて見たことない”等々解説していて、さすがの中国人も逃げ出した、と言っていた。
 N氏はさらにバスの中でもLさん相手に
「あれはまったく日本と違う」と言っていた。
「どこがですか。服装ですか」とLさん。
「着物の型とかはいいんだけれども、着物の着こなし方とかね、動作とかがね、日本人じゃないんだよ」
 また最後の花笠踊りの振袖についても、「あんな時に振袖は着ない」とさかんに言っていた。
 Lさんは話の筋に感激して泣いているのに、何も服装のことでそこまで、という気が多少しなくもなかった。

 北京ではガイド、通訳、お目付け役、と中国側から大勢同行してきた。宿は北京市郊外の琢県旅館となった。去年できたばかりで地主の家と同じつくりだという。“悪徳地主打倒”はどうなったのだろうと思いつつ、宿の人たちの拍手に出迎えられた。
 琢県旅館は北京市内から二時間ほどかかり、不便だった。万里の長城へ行くにも一日がかりである。房山県、市内を抜けて昌平県に入る。土で作った家が並ぶ。道路脇の狭い三角形の土地にも稲が植えられていた。頭の赤いコウリャンやとうもろこしも多い。家の一角、コの字型に区切られた部分に豚が何頭も飼われている。ニワトリも道端を走り回っていた。長城へ向かう道すがら、空の荷馬車と何台もすれちがった。御者の持つ鞭を見て「なんだか釣りしているみたいですね」とT君が言う。
 長城の石畳を登りながら話したガイドのBさんは、今年大学を卒業したばかりで日本語もうまかった。しかし、内心野心家のようで、観光ガイドでは終わりたくない、という不満があるようだった。
 帰り道、草を山のように積んだ荷馬車とすれ違う。おじいさんが山羊に綱をつけて犬のように散歩させており、山羊が草をはみ始めるとおじいさんも立ち止まる。子供が大きな熊手で家の前を掃いている。道路ばたに椅子を出しておじいさん、お婆さんがのんびり座っていた。

 夕食は頤和園だった。このとき、中国の大学で日本語を教えている日本女性が同席した。
「中国の学生はかわいい」と彼女は言う。
「他に余計な刺激がないから、教えれば教えただけ、砂が吸い込むように全部吸い取ってくれる。砂漠は水を吸い込むように」
 その学習能力の高さと熱心さとに、この当時は低迷している感のある工業なども、この世代が中核になれば変わる予感がする、とも語っていた。

 部屋へ戻ると同室のKさんが、
「ねえ、あのガイドの人達、何やってるの?何もやっていないじゃない。あんな大勢いて。上海なんてLさん一人でがんばっていたのに。日本語話せない人もいるじゃない」と憤慨したようすで聞いてきた。
「そういえばそうだね」私もうなづいた。「でもBさんがガイド、もう一人は学生で彼を補佐している。あの年取った人はお目付け役だよ。運転手が二人いるのは、長距離だからしかたないよ。今日からもう一人いた女の子はなんだろうね。私もわからない」
「今日食事の席でもNさんがBさんたちにだいぶお説教したらしいよ。それで夜一緒にお酒飲もう、て誘っても逃げられちゃったらしい」
そこへOさんがやってきた。
「ねえ、故宮行かない、て知ってる?」
宿が琢県になったことで、時間的に無理、とカットされることになったという。
「聞いたー。私故宮行かないなんてやだあ」とKさん。
「そのことで随分不満が出ているのよね。部屋に行って話したらみんな言ってるの。王府井に行くのもいいけど、やはり中国に来て故宮を見ない、ていうのはどうかしら。だからこれから何人かでNさんたちのところへ掛け合いに行こうと思っているんだけど、その前にいちおう全員の意見を聞いておきたいと思って」
「私も行く」とKさん。
 王府井を行きたい先にあげたのは私だった。当時は観光先、訪問先を明確にして許可を得る必要があったため、N氏が事前に参加者全員に聞いていたのだ。しかしみなが行きたがる故宮にあえて反対するつもりもなかったので、
「できれば街のようすを見たいけれど、みなが故宮へ行きたいんならそれでもいいよ」と答えた。
「わかった、それじゃ」と言ってOさんは出ていった。

 OさんとW氏らがN氏のところに掛け合いに行ったが、結局故宮はカットになった。N氏の話では、北京の故宮は箱だけで中身は蒋介石がほとんど台湾に持っていた、だから台湾の故宮博物館のほうがはるかに見る価値がある、という主張だった。そして王府井や大柵欄といった市内を回ったのが、旅行グループの中では次第に、N氏に対する不満が高まりつつあった。

 次の訪問先は南京だった。「南京では日本人が宿泊する外国人用ホテルの入り口には、銃を構えた解放軍が立っている。こんなところは中国でも南京だけだ。危ないから外に出るな」とN氏が言った。
 まず中華門を回る。中華門は日本軍の南京進軍の際、進入路となったところだ。規模については各論あるが、いわゆる南京大虐殺が始まったとされるところである。見晴らしの良い城門なので、憩いに来ている中国人も多いが、彼らは私達を見て露骨に舌打ちをしたり、鋭い目つきで見ていた。一日十人の中国人と話す、という目標を掲げていた私は、ここで三人の中国人に話し掛けてみる。二人は黙って去ってゆき、一人は苦笑してそっぽを向いた。
 勝棋寺で、男子学生らがふざけて皇帝と徐達に扮して将棋をさしているまねをし、写真をとっていた。すると、中国人たちも大勢寄ってきて、一緒になって笑っている。その中の恰幅のいい年配の男性が、名札を見て日本語で名前を読んだ。記念に名前を書いてくれ、を紙を差し出す。何人かでサインすると、「こうして日本の学生さんたちが中国へいらしたことを歓迎します」と言って握手をした。

 慣れてみると、南京は庶民的な町だった。ホテルの服務員の人たちも気さくで、たどたどしい日本語で声を掛け、大声で「サヨナラ」「ドモアリガト」と言っては手を振る。しかし、彼らが下放されていたという話になったときだった。一人は三年、もう一人は二年半下放されていたという。状況がききたくて、zenmeyang(どうだっだ?)と尋ねると、何も言わない。具体的な聞き方のほうが話やすいかと、仕事はきつかったか、食料事情はどうだったか尋ねると「日本的農民生活苦不苦?」と聞き返された。文革時代の経験を自然に聞けるようになるには、やはりもっと信頼関係を結ぶ必要があるようだった。
 南京ではこの街にペンパルがいる、というT君が、勝手に抜け出しておみやげ片手に中国人宅へ出かけてしまった。あとでそれを知ったN氏は、
「外国人が中国人宅を不用意に訪問すると迷惑がかかるんだぞ」と怒った。
「え、でも行ったら喜んでましたよ」とケロ、としたT君。
「相手が喜んでいても、あとで公安に連絡がいって公安から取り調べられるんだよ」
T君はどこか納得せず、N氏とT君はなんとなくかみ合わなかった。

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