菅井新聞店

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うずしきようこ

 「新聞店はいわば独立採算性のようなものだから」とおじさんはせわしなげに広告紙をさばきながら言った、「うちみたいに広告の少ないところは大変なんだよ」
 現在その店には専従は一人、男性だが給料は十万円代しか出せないでいる。学生風の若い子達が床いっぱい使って折り込み広告と格闘していた。それでも気さくにあれこれ話してくれた店主にお礼を言って、傘を広げて外に出た。
 駅まで商店街を歩いていると、後ろから男の子が追ってきた。先ほど広告を折っていた一人だった。
 「あの、」と一瞬ためらった後、「絶対、新聞配達しながら学校行くなんて無理です。僕らもそのつもりで入ったけど、あそこは専従さん一人しかいないし、休みがちで、結局僕らが毎日夕食後に折り込み広告作ってるんですよ。勉強するヒマなんてないし、いかなくなっちゃった子もいます。悪いこと言わないです、本当に考え直したほうがいいです」
 真剣な表情だった。そして伝えるだけ伝えると、議論する気はなかったらしく、頭を下げてまた駆け戻って行った。わざわざ見も知らない年上の女に、こんなことを言いに来るなんて、まじめな子だな、とその後ろ姿を見送った。

 昭和X年1月7日。とある私鉄の他線との相互乗入駅1階に、ファストフード店がある。土日の朝その店へ行くと、たいていなぜか山谷風、土方風のおじさんたちでいっぱいだった。その日もコーヒーを頼んで席に着き、訪ねて回った新聞店の情報を見比べていた。大学卒業後会社に勤めたまでは通常コースだったが、会社を辞め北関東の農業専門学校に行ったあたりから外れてきた。インドや中国を放浪したり、NGOで働いたりしているうちに、そろそろもういい歳である。そしてさらにNGOを辞め、今度は新聞店で働こうとしていた。理由は単に以前から住み込みの形態の仕事にあこがれがあったのと、当時増え始めていた“じゃぱゆきさん”に興味があったこと、そしてNGOや海外で語学の重要さは骨身に滲みたので、余裕があったら語学学校に通おうと思ったためである。
 東京の西は学校も多いため学生も集まりやすく、また広告も多いので一人一人の負担は少ない。折り込み広告、集金も専従やパートがやっている。しかし住み込みは今はほとんどない。女学生の割合も高いが、土地に起伏があるので自転車だと少々きつい。東側は住み込み式がまだまだ多いが、広告が少なく給料がよくない、専従や学生も少なく負担が大きい。土地は平らなので、免許のない自分にはありがたい。経験者の話では、一番楽なのはオフィス街の日経、上まで配達せず集合ポストに入れればよいし、振替が多く集金しなくてすむというが、そういう所ではじゃぱゆきさんはいない。と考えていたとき、
 「おい、競馬も競輪もボートもなしだ!」いきなり大声が響いた。自動ドアから慌てた様子のおじさんが入ってくるところだった。「なんでだっ」店内が、焦る中年おじさん達で一時騒然となる。「天皇が死んだんだ」「亡くなったんか」腰を浮かしかけていた人もひとまず座り直す。皆天皇の死よりも中止のほうにがっかりきていた。そうハンバで言っていただけだろ、いやニュースで言った、ラジオだろ、いや、テレビで言ってた、それじゃだめだな、口々にしゃべっている。
 だんだんに状況を納得しはじめた彼らは、仕方ないから病院に行こう、いや立川行って大阪から来たんだから新幹線代一万円くれ、と言って取って来よう、と冗談ともつかない算段を語り始めていた。早々に荷物をまとめて出て行く人もいる。一方で入れ替わり立ち替わり、くたびれた感じのおじさんが来ては、“すべて中止”のニュースを聞いてがっかりしていた。
 こちらもそろそろ貯金も底をつくし、早いとこ新しい職場を見つけないといけないのだが、ついついおじさんたちの騒ぎに気を取られていた。

 菅井新聞店は東京の東側、古くからの下町として有名な墨谷区にある。専従は5名、学生は大体2、3名、ほか店主さん、そして夕刊や朝だけの人が数名の陣容である。住み込みの形態をとっているが、やはり若い子達は住み込みは苦手らしく、最初の数カ月を過ごした後はアパートを借りて住んでいた。朝夕だけの人は通いである。
 なぜこの店には専従が多いのか、なかなか謎だった。この手の人物たちにとっては、何となく居心地のよいところだったのかもしれない。たまにふらりと消える人もいたが、たいていいつのまにか何喰わぬ顔で配達に混じっているのだった。

 カネダさんは店主さんから二号店の主任をまかされていた。おなかの突き出た温厚そうなおじさんである。この店でバイクを使っているのは彼だけで、いつも大汗かいてしんどそうに配達していた。ある朝、自分の配達分の折り込み広告を朝刊に挿む作業をしていると、隣にいた白髪頭のタニグチさんが「カネダさんはな、あれなんだよ、在日なんだよ」と秘密めかして告げた。タニグチさんがこう言ってた、と店主の奥さんに言うと「ちがうでしょ」と一笑に伏した。奥さんの話では、カネダさんは初めて女性の配達員が来るというので、続くかどうか心配だったという。「でもタニグチさんやツジさんに言い返しているのを見て、これだけ気が強ければ大丈夫だと思った」と言っていたそうだ。

 タニグチさんは変わったじいさんである。風呂が嫌いで、夏でも絶対に入らない。店主の専門学校生のお嬢さんは朝だけ配達を手伝っているが、しょっちゅう「タニグチさん、お風呂入ってる?」と聞いていた。「お風呂?んなもん入らないよ」「汚いよ〜」「汚なかないよ、上海式の垢摺りを毎日やってんだから」確かに一度も入ったことがない、という割にはそう臭わない。しかし彼女は夏になると「頭が臭い、頭が」と言っていた。
 またタニグチさんは賭事には目がない。これはほかのおじさん達にも共通していた。賭事に興味のないのは店主さんとカネダさんだけだった。彼らは例の私鉄駅1階のファストフード店をよく知っていた。「あそこ行くと誰か知り合いに会うからな。なんであんたがあの店知ってんの」と逆に突っ込まれた。「だって近所だよ」「なんだ、近所か」実はあの店のそばには、もう1件別のチェーンのファストフード店がある。そこは若者や家族連れで賑わう普通の店だが、個人的には賭事おじさん御用達のほうを愛用していた。

 シンちゃんは小柄でいつも毛糸の帽子を被っていた。敏捷な体つきで、ソウダさんとともに毎日三百部前後の部数をこなしていた。東北の秋島県出身で、地元某組の元組員だったという。本人は抜けたい、ということでこっち出てきたというよ、とツジさんから聞いた。たまたま友人に同県の人がいて、新聞店で働き始めたと聞き実家で栽培している桃を送ってきてくれたことがあった。シンちゃんは箱の住所に目を留め、「東沢又?これ俺の村の隣だよ。こんなところに知り合いいるのか?」としばし沈黙していた。
 故郷とは縁を切った、というシンちゃんだが、一度故郷でトラブルがあり、姉貴がどうしても来てくれ、と呼んでいる、忙しい中仕事を休むのは申し訳ないが、3日だけ休ませてくれ、3日で片付けるから、必ず戻るから、と頼んだことがあった。店の人も深くは聞かず、それじゃしょうがないと許した。シンちゃんは配達部数が多いので、穴が空くと埋め合わせるのが大変だが、店主とカネダさん、ソウダさん、ツジさんで割り振りし、私は店主の担当分のうち一括して届ければよい分を置いてくることになった。
 シンちゃんは3日たっても帰ってこなかった。その晩電話があり、まだ解決つかない、すまない、すまない、と言っていたという。「前にも一度こんなことあったね」と奥さん。「あの時もふるさとの家族に何とかがあって、とか言って無理して休みとって帰っていった。やっぱり一度入っちゃうとさ、なかなか抜けられないんだと思うよ」食事時、男の人たちはたいてい静かなのだが、「そういえばこのところ、シンちゃんの回り、男がよくいたな」と急に思い出したように、ツジさんがぼそっと言った。「へえ、どんな人?」「知らない。見かけない人だったな。配達の帰りとか、パチンコ店とか、よく彼を待って立ってたな」「そお、見たことないなあ」と奥さんはソウダさんのおかわりの茶碗を取って立ち上がった。
 そしてさらに3日後、やっとシンちゃんは戻ってきた。

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