菅井新聞店 (続き)

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 ツジさんも白髪頭である。でも見かけほど歳はいっていないのではないかと感じた。山陰出身で、奥さんは「一度結婚したことあるらしいよ」と言っていた。細面で鼻筋の通った顔立ちをしており、「ツジさん、きっと若い頃はハンサムだったですよね」と言うと「私もそう思う、きっともてたわよ、“もてたんじゃないのー”、て言ったら“いやー”、とか言ってたけどね」「なんで別れちゃったんだろ」「パチンコだってさ。あたしもいい男なのになーんで別れちゃったのかな、て思って聞いてみたんだけどさ。いやーこっちのほうに夢中になりまして、て。みんないい人なんだけどね」
 ツジさんは隣の部屋に住んでいたが、非常に物静かな人で物音一つしなかった。むしろ当初は私のほうがうるさかったらしく、よく「ドアの開け閉めがうるさい」「テレビがうるさい」と注意された。
 食べ物にもうるさく、魚やかぼちゃには絶対箸をつけない。野菜もあまり好きでないようで、肉とご飯だけ食べていた。食事の支度をしてくれる奥さんが、よくツジさんの好みは難しいとこぼしていたので、私が一度「ちゃんと食べないとだめですよ」と言ったことがあった。「魚、苦手なんだ」といつものように、怒ったようなぶっきらぼうさで言う。「なんで」と聞くと、彼は奥さんに向かい「漁村育ちでね、子どもの頃、魚ばっかり食わされた。ほんと、いやだった。町の悪ガキには、魚臭い、てからかわれた。だから魚は、見たくない」彼は興奮するとどもったようになる。一言一言、区切るように言った。

 ソウダさんは店主さんや通いの人を除いて、唯一の既婚者である。まだ三十代と一番若い専従だった。彼も背が高くスラリとして、なかなかのハンサムだった。奥さんと子ども二人は錦町のほうに住んでいるそうで、夕刊のない日曜だけ会いに行き、一緒に夕食を食べて戻ってきた。朝刊は早いので泊まることはできない。
 彼も静かでほとんどしゃべらず、パチンコ店にいることが多い。ただ放浪癖があり、たまに急にいなくなることがあった。

 A新聞東京東部Xブロックは東北の山潟県と提携を組んでおり、学生くんたちはみなその県出身だった。専門学校か四大かによっても在籍年数が変わるので、毎年春になると今年は何人必要か本社のほうから問い合わせがある。「途中でやめた、ていうのは学生に関してはうちは一人もいないね。みんなちゃんと勉強して卒業してゆくよ」と店主が自慢する中でも伝説化しているのが、ちょっと前までいた某有名私大政経学部を出た男の子である。「うちは専従が多いから学生は多少少なめにしているんだけどね、それにしても朝刊こなして学校行って、帰ってきて夕刊こなして勉強して、だからなあ、よくやったと思うよ」と店主さんはわが子のように目を細めて語る。「しかもサークルもやってたからなあ。授業によっては夕刊配達した後また大学行ったりしてたな」四年間でちゃんと卒業し、めでたく総合商社に就職していったそうだ。
 その当時菅井新聞店にいたのは、コンピュータ専門学校に通う男の子二人だった。やはり二人とも無口で、配達時に皆が顔をそろえると、タニグチさんが一人でしゃべり一人で受けて笑っている感じになる。しかし仲が悪いというのでもなく、専従のおじさんたちは新しい学生くんが来るとさっそく、パチンコ店に連れて行く。学生くんたちは、賭事に関してはたまにつきあう程度で終わっているようだ。カネダさんかシンちゃんの部屋で一緒に飲むこともあり、時には相談事もしているようだった。
 一度無口な彼らが主張したことがあった。夕食時に佐渡の話が出たときだ。奥さんや私が行ってみたいねえ、というと二人は口を揃えて「あんなとこ行きたくない」とはっきり言った。「俺の田舎と同じだよ。同じもの見たってしょうがない」地元には戻らず、東京のコンピュータソフト会社に勤めるのが目標だそうだ。
 学生くんは若くて体力があるので、代々、エレベータのない5階建てアパートが集中している区域を受け持っている。私の区域にも官舎があり、夕刊は1階の集合ポストに入れればよいので私が担当していたが、朝は個別配達してほしいとのことなので、6棟の官舎を計30回毎朝登り下りしていた。彼らは感心なことに、一度も配達を休まない。今までもたいてい皆そうだったという。一度一人が風邪で熱を出したが、何人かで変わろうか、と言っても「いや、大丈夫です」と言って赤い顔をしながら配達に出ていった。数日そんな調子だったが3、4日目には元に戻っていた。これは専従の人もそうで、病気で休むことはまずなく、多少調子が悪くても皆出ていった。出ないときは、消えたときである。

 パートさんはときどき入れ替わりがある。十年ほど前までは、このあたりでは地元の中学生や高校生が朝夕配達のバイトの主流だったという。「うちのお姉ちゃんが中学生の頃でも、同級生とかよく配達に来たよ。親もそういう意識だったし。ここ十年くらいだよね、だんだんに変わってきたのは。下のユリコのときはもう地元学生のバイトはいなかったね。大体ユリコからしてがさあ、配りたがらないからね」
 そして現在は、たまに近所の主婦が来るか、お父さんのサイドビジネスがメインだ。昼間別の仕事をしている中年男性が、朝または夕方だけ配りに来る。なかでもすさまじかったのが、郵便局に勤めているおじさんで、朝刊はフルに配り、その後自宅で朝食を取ったあと局へ行く。夕刊は配達が遅くなってもよいところだけとはいえ、5時に局を引けるとすぐに配達に出る。その後さらに駅前の居酒屋でバイトをしている、との話だった。寝る時間があるのか心配になるが、奥さんの話ではなんでも、家のローンを抱えているんで今がんばっておけばいいんです、と言っているらしい。奥さんはいるが働かせたくない。「子どもももう中学生なんだから、それこそ夕刊の配達、代わりに家に来てもらってもいいんだよ、て言っても“いやー”とか言うんだよね」

 菅井地区全体が人付き合いの濃い、東京の田舎のようなところだが、特に私が担当していた小菅井の一画は、河に挟まれた中州で、取り残されたようなのどかさがあった。
 この中州には“小菅井の一郎ちゃん”という浮浪者がいた。夕刊を配っていると、たまに荒川土手で残飯を干している姿を見かけた。あれは干して消毒して食べているのだという。菅井地区と結ぶ橋の続きがメインストリートになっており、ぽつぽつ続く商店街の1軒がボタン店で、そのおばさんがあれこれ教えてくれた。ご飯を置いておくうちもある、ときどき服を与える人もいる。昔からいるが大人しいもんだよ、ぐるぐる回って泥棒避けにいいと言う人も多い、との話だった。伸び放題のあご髭、哲学的な風貌で歩いている姿をたまに見かけたが、いつのまにか姿を見なくなった。ボタン店のおばさんに聞くと、そういえば見ないね、どこに行ったんだろうねえ、と目を細めたが深く追求はしなかった。

 この地区には小さい工場が多い。工場といっても、集金に行くと一見普通の家だが、引き戸を開けると小型の機械がプシュープシュー、ガチャリガチャリと音をたてていた。夫婦だけでやっている家もあれば、もう少し人を使っているところもある。自動車か家電部品の下請けのようだ。
 新聞店の1階の食堂側は、よく近所の人がひょいとのぞきに来る。自家製の魚のつみれを入れたボールを持ってくるおばさんや、店主と晩酌しつつよもやま話を楽しむおじさんたちで、当初女性配達員が珍しい、とついでに私を見に来る人もいた。ある家内工場のおじさんが来たとき、「また話したい、て言ってるよー」と奥さんに呼ばれた。彼は、あんた大学出か、と一瞬黙った。息子も大学に進んだ、おそらく大学出たらサラリーマンになってうちは継がんだろう、と言う。「うちも娘二人だしね、継がせようなんて思ってないですよ。しばりつけるわけにはいかんしね」と店主さん。工場長は、息子が大学に行きたい、と言うのを聞いたとき、“ああ怠け心が出たなあ”と感じた、だけど許した、と呟いた。

 私がじゃぱゆきに興味がある、という話を聞いて話に来たおじいさんもいた。当時海外からの出稼ぎ労働者が急激に増え始め、あちこちで話題になりはじめていた。もともとは新聞店にじゃぱゆきくんたちが入ってきている、という話をきいたのもこの業界を選んだきっかけなのだが、もうこの店にはいなかった。唯一「中国人の自転車」と呼ばれている自転車が1台残っているのが、その名残りをとどめていた。タニグチさんの話では、数年前まで何人かいた、A新聞系の販売店ではたいてい受け入れていたが、彼らは他店の同国人と連絡をとりあってあるとき一斉に要求してきた、それでうちではやめてもらった、という。「6時になると配達途中でも帰ってきちゃうんだよな。それ以降の労働は契約に入っていない、て。配達が遅れるのは、運送トラックの道路事情とかいろいろあるのによ、そう杓子定規にはいかないのによ、あのへんの感覚は日本人とは違っていたな」
 そのおじいさんは、自分は戦争で中国へ行っていた、と話し出した。その縁で今は個人的に中国人留学生を援助している。あの子たちもこっちへ来れば生活習慣は違うし、大変なんだ、と言った。「そういう活動をしていると、ときどき、裏切られたと感じることはないですか?保証人を引き受けるとリスクも大きいし」私はNGOでのことを思い出しつつ聞いてみた。おじいさんは、そりゃ一般の感覚でいえばそういうことはある、貸した金が返ってこなかったりいろいろある、だがそれでいやになるようではこういうことは続けられない、と言う。それを支えているものはなにか、と聞く。私の知っている人々は、たいてい宗教だった。おじいさんは、戦争中いろいろあった、だからその罪滅ぼしだ、それがあるから裏切られたなんて言っていられないんだ、と言った。

 東京でも意外に虹が見る。配達をしていてこのことに気がついた。子どもの頃よく虹を見たのに、大人になったら見かけなくなったね、と以前友達と話していたが、あれは単に虹の出やすい時間に外にいないだけの話のようだ。特に夏の夕立のあとは、まず確実に出ていた。夕刊の配達時間だから、3時過ぎから6時くらいまでの時間帯、ちょうど太陽と逆側、小菅井をはさむ川向こうに大きく弧を描いて出た。夕立があがると買い物に出る人など、人通りが多くなる。地面も濡れて黒っぽく、あたりもくっきり見える。青空に広がる虹は雄大だった。 (続く)

(『すい星』十二号掲載)

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