チベット旅行記 1996年

雲上の世界チベットと変貌する中国 その1


TibetPotara.jpg (16453 バイト)
ラサ、ポタラ宮前にて

*この欄はユーコとエミのコメントです。

このくさいタイトルはユーコが勝手に考えました。
ちとカタすぎの感もしないではないですが、気にしない気にしない。

★モンゴル旅行記も書いてくれたシアルさんは、中国語ペラペラ。今回の旅でも色々お世話になりました。ただ今ラダック旅行記も執筆中。乞うご期待。

シアル著、友情出演(?)エミ・ユーコ

 

 
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7月18日(木)

 午後1時半まで仕事をした後、2時20分頃の京成急行で成田へ、3時半頃着く。すでに到着していたユーコさんとエミさんに航空会社のカウンターそばで再会。二人はJRのライナーで座れなかったらしい。すでに夏休みに入っており、成田は大混雑。今日旅行の準備したというエミさんは朝から何も食べていないそうで、早々に搭乗、出国手続きを済ませてサンドイッチをつまむ。飛行機は6時発、中国人客が多くて満席に近い。おそろいの少年宮の制服姿の少年少女たちもいて、少女達はモデルのように細く、またバイオリンを手にした子もいる。日本で何か公演でもしたのだろうか?飛行機は遅れて7時頃出発、酒に強いユーコさん、エミさんと一緒にビールやカクテルで宴会している間に、いつのまにか上海に着いてしまった。「今日は速かったなあ、2時間半で着いたよ」と日本人ビジネスマン達。空港の広告は、カートについている三星を含め韓国企業ばかり目につく。今回はアジア僻地旅行に強いS社によるアレンジ旅行のため、現地ガイドが出迎えてくれ、空港そばのホテルへ。日本との合弁らしくサービスは良い。

 

★はじめての中国にちょっと緊張しましたが、学生のように若いガイドさんと運転手さんの歌うような上海語がなかなか耳に心地よく響きました。はじめての中国の夜は空港近くの機場賓館(空港ホテル)で過ごしました。

 

7月19日(金)

 8時に上海空港へゆき、9時5分発成都行きに乗る。機内食が出るが中国人は食べずに持ち帰っている。11時成都着。荷物を預けているのはユーコさん、エミさんと白人達だけ。中国人は大荷物を機内に持ち込んで、到着するとさっさと出ていってしまう。ちなみに私も極力預けない主義。

成都のガイドさんとホテルへ向かうが、途中四川省中医センター(漢方)へ寄らされる。何も買わなくてもよいというが、まず日本語のできる若い白衣の女性が来て色々と説明し、次に中国人医師が無料で右手をみて健康診断をする。エミさんは心臓が悪い、ユーコさんは高血圧と肝臓が悪いそうで、エミさんは高山病の薬、ユーコさんは血圧の薬を買う。私は胃腸が弱いが基本的には健康だそうで、その後少しお喋りする。ユーコさんが僧籍を持つと知ると、その若い女性も仏教徒で活仏に帰依している、と腕に付けたチベットのリストリングを見せてくれた。医者とガイドの話では、成都の由緒ある寺の一つに昭覚寺があるが、文革の時にはやはり色々大変だったという。

 ホテルに荷物を置いた後、3人で成都の街を見にゆく。まず武孔祠に、ラッキーにも中国人料金で入る。中に劉備玄徳や諸葛孔明の像があり、多くの中国人が熱心に拝んでいた。バスで毛沢東像のあるロータリーへゆき記念写真を撮り(今でも毛沢東像が残っている所は珍しい)、次に文殊院へ。

 

★突然病院のような所に連れて行かれて、びっくり。中国の新しい観光客誘致政策でしょうか。高血圧と言われて、買うつもりもない薬を買ってしまうお医者さんに弱い私です。

★白衣の若い女性(看護婦さん?)は、熱心な仏教徒らしく、仏教の話で盛り上がりました。筆談も交えて。シアルさんの言うリストリングは数珠で、彼女は私にそれをくれました。四川省は、比較的チベット仏教の影響が強いらしく、多くの人々が活仏に帰依しているとのことでした。私は、漢民族へのチベット仏教の浸透がどの程度なのかに興味を抱きました。

★シアルさんの中国語のお陰で成都の複雑な路線バスに乗ることができました。料金はなんと8角。二連式のトロリーバスを女性が運転しているのを見て、社会主義社会独自の性的平等観を垣間見ることができました。

 こうして10年ぶりに中国へ来て街を見ると、その変わりようにひどく驚かされる。まず、宗教の完全な復活。文殊院の回りは紙銭や線香、仏壇を売る店でいっぱい。まるで台湾の廟の周りと雰囲気がそっくりで、以前からはとても考えられない光景だ。そしてスローガンを全く見かけないこと。よくレンガ塀等に書かれていた「自力更正、刻苦奮」「共産党万歳」「為人民服務(人民に奉仕しよう)」の類のペンキ文字が全く見あたらない(なぐり書きのようなものだったから無くても良いが)。その替わりというか、看板などで繁体字をよく見かけるようになった。たとえば中華の華、観光の観などは簡体字でなく繁体字をよく見かけるし、医院の医などに旧字を使っていることも多い。公に復活しているわけではないとガイドやお昼の医者らは言っていたが、会社名などに使っているようだ。そして個体戸(個人経営)の隆盛。ニュースでは見聞きしていたが、中国も資本主義国と変わらなくなったなあ、と感慨深い。そしてその個体戸さんたちのサービスの良いこと。以前の国営デパートの、物やおつりを投げてよこす、愛想のない(というよりお客敵視の)店員たちとは別人種のよう。

シアルさんは宗教の復活に驚いていたようですが、私には、人々がもう何千年も同じやり方で参詣し続けているように見えました。よく考えてみれば、宗教が抑圧されていたのは数十年という期間で、中国の長い歴史の中ではごく短い中断だったに過ぎなかったのでしょう。

★文珠院は、典型的な中国仏教様式で、もしかしたらチベット仏教との混淆があるのではと期待してたのですが、それはありませんでした。

★中国は簡体字が溢れているのだと思ったら、繁体字も結構使われていて意外でした。

 この後、中心街の茶館で一服してから、四川名物の火鍋料理を食べる。まず茶館で道行く女性のファッションウォッチングを楽しむ。一番多いのはホットパンツにTシャツ姿だが、この夏(1996年)日本でも流行っていたチビシャツを着た子も結構多い。黒地に白のD&Gのロゴの入ったTシャツを着ているのもいた(多分ニセ)。チビシャツの下は大抵スリムロングスカート。すらりとしたあか抜けたスタイルと顔立ちが増えている。ただバッグだけはやぼったい。またケロケロケロッピのコピーバッグを持った親子連れもよく見かけた(帰り上海に寄るとさらにいっぱいいた)。

★成都市内はどんよりとした天気で、かなり蒸し暑く感じました。茶館では一瓶幾らでお茶が売られており、3人で3種類をゆっくり楽しむことができました。成都の人々のお茶好き(中国人全体にいえるかもしれませんが)は、行き交う人々の多くがお茶の入った瓶を持ち歩いているのでよく分かります。
 この後、ガイドお奨めの、体育館裏にある庶民的な食品市場に行き、そこの個体戸食堂で火鍋料理をいただく。若い女の子達ができぱき注文をさばき奥では男の子達が料理作りに忙しく、合計額の端数をおまけしてくれたり、最後に「謝謝」「漫走」とすてきな笑顔で言ってくれたり、と昔の中国しか知らない私には感動ものだった。もちろん火鍋(草魚、白菜、豆腐)、鶏のトマト煮(手羽と体)、空心菜炒もおいしく、ビールとあわせて3人前80元。この後チベットや上海でも感じたのだが、感じの良い個体戸は従業員が若者中心で、彼らの感覚は共産主義時代の人々と異なり、世界共通の普通の感覚を持っている気がした。 ★辛いけど美味しい四川料理(魚料理が特に良かった)を満喫して向かったホテルでは、エレベーターの床の絨毯が毎日「星期○」(○曜)と変わるのが何故か印象に残っています。

 

7月20日(土)

 5時に起き6時に空港へ。ラサ行き6時50分発が霧のため8時まで延期に。成都は霧が発生しやすく、よく遅れるらしい。空港内は大混雑で椅子に座れず、他の中国人たちと一緒に通路に座って待つ。8時前にいきなり搭乗開始、我先に押し掛ける人々に混じってゲートを出る。歩いて飛行機まで行くので、探すのが大変だったが、何とかたどり着く。2時間程でラサへ。

 

★幼い頃から憧れていたチベットは、雨がちの天気で私たちを迎えてくれました。ネタンの摩崖仏の所で私のカメラが壊れてしまい、カメラも高山病かなあ、と言ったものの、これからが少し思いやられます。

 ガイドと運転手が迎えに来ており、そのままラサ市内へ向かう。途中ネタン(磨崖仏)とそのとなりのネタン・ドルマラカンという寺を見学。空港に下りた時はほとんど感じなかったのだが、この時ちょっと走ったり寺の階段を登るとすぐ息が切れることに気がつく。これが話に聞く空気の薄い高地での症状か、高山病にならないよう気を付けなければと思う。

 12時過ぎホリデイインに到着。ラサで一番良いホテルだそうで、これまであまりリッチ旅行をしたことがないため、部屋の広さやヒッピー崩れでないきちんとした身なりの白人の多い雰囲気が楽しい。高山病発症を避けるためしばらく休憩した後、3時頃バスで八角街に行く。大昭寺前の大広場には、白や黄色の巡礼布や五色のタルチョーを売る露店が並び、お寺前では大勢のチベット人が五体投地で拝んでいる。あれこれ見物していると、急に雨が降ってきたため、角にあるチベット料理屋旭日餐店に入り、トゥクパを食べる。一人2元。チベット人の店で何人かときかれ、日本人というとああと笑う。こういうチェックはこの後も必ずついて回った。ユーコさんがチベット語を少ししゃべれることを知ってとても喜んでいた。

★当地で初めて訪れたチベット仏教寺院ネタン・ドルマ・ラカンは、小規模な寺院ですが、チベット僧に迎えられ、階段での息切れと共に、憧れの地に来た実感が湧いてきました。

★大昭寺(ジョカン)とそれを取り巻く八角街(バルコル)も、私が想像をふくらませていた所です。実際との違いは、バルコルが私の想像よりも狭い感じだったことでしょうか。でも、チベットの人たちがひしめきながら、右遶(右回りにまわる仏教徒のお祈り方法)する様子は想像以上の情景でした。

★トゥクパの安さには感激です。

 一旦宿に戻り一時間半程休んだ後、7時頃モモを食べようと外へ出る。この時間でも、ラサは北京より西にあるため十分明るく、4時頃の感じだ。そのかわり、夜明けは7時頃だという。中心街方向へ向かって歩きながらモモが食べられるチベット料理の店はないか聞いて回るが、知らないと言われたり妙な顔をされるだけ。

 食べ物屋さんの並ぶ通りをみつけ、一軒の店に聞くとあるというので入る。店は満席に近く大いに賑わっており、やはり客席では若い女の子達がてきぱき注文を取り、厨房では男の子達が懸命にフライパンを操っている。店内は賑やかで、中でも解放軍の軍服姿も混じった野郎集団が一番けたたましい。モモと空心菜炒めを頼むと、モモはどんなものかと聞いてくるので、地球の歩き方に載っている写真を示す。蒸すか焼くのかと聞くので私達もよく知らないというと、多分蒸すんだとか言いながら女の子達は写真を見て相談している。ふと入り口のガラス戸の上を見ると、山東水餃と書いてあった。そういえば周りもせん西xx、川味xxと中国各地の料理屋だったし、どうもこの辺りは漢人街のようだということに気付く。女の子達は厨房の男の子達に指示してモモを作らせ始めた。チャレンジ精神があるというか、若い個体戸世代は、メイヨーで悪名高い旧世代とは全く違う、と感じる。他にもチャーハンなど色々頼み、どれもおいしかった。モモは水餃子を蒸した感じのものが出てきた。解放軍の一群が出た後入ってきた若い男4人連れが、私達を見るなり「有没有モモ!」(モモある?)と言った。どうやら山東料理屋でモモを頼んだことがもう地元民に伝わっているらしい。「あれ?為什麻ニー也知道?」(何であなた知ってるの?)と聞くとヘヘヘと笑っていた。「風速30メートルで噂が伝わってるよねー、日本の田舎みたい」と3人で笑う。3人前23元、女の子達も何か頼むと「不客気」(ご遠慮なく)、最後出て行くときには「漫走」(お気をつけて)と感じがよい。(この手の言葉は10年位前はまず聞かれなかった。その代わり”同志”等が死語になったが。)

中国語の中の字も知らない私にも、おそらく自分たちも食べたこともないだろうチベット料理のモモを一生懸命作ってくれようとする店の人たちの気持ちはよく伝わってきました。

 この店で食事をしていたとき、人々が食べ終わり出て行くたびに、チベット人少女が入って来てさっと残り物を椀にあけ逃げていった。一度店の人に追い出されていたが堂々と何度も入ってくる。またボロボロの服をまとったチベット人親子が通りかかり、兄弟が店に入ってきてちゃちな手製琴をバラバラさせて歌を歌ってみせる。そして何かくれと手を出す。母親が外から呼び、エミさんがアメを渡してやると走って出ていった。

 

★チベットの人々の生活実態はほとんど分かりませんでしたが、この出来事によって、ある程度の推測ができました。噂によるとチベット族の失業率はかなり高いとか・・・。

7月21日(日)

 夜中に何となく心臓がドキドキしてよく眠れなかった。高山病にならぬよう、水を沢山飲むようにして、また過呼吸を心がける。ユーコさんも頭が痛かったらしい。朝も調子がいまいちだったため、午前中寝て午後から彼女たちと行動を共にすることにする。

  11時頃目が覚め、大分よくなったので、バスでデプン寺へ。ユーコさんとエミさんは車で先に来ているはず。デプン寺はバス停から軽く山道を登ったところにある。乗合トラクターもあるが、調子がいいので歩いて登ることにする。少し登るとすぐ息があがるが、眼下を流れるヤルツァンポ河と対岸の山並、左手の方に広がるラサ市内と広大な風景だ。山に木はなく、チョロチョロした草と岩山ばかり。自転車で登ってくる白人二人連れに出会い、そのタフさに脱帽。30分弱で寺に着き、車がまだあったので、バスで帰るとメッセージを残して中に入る。迷路のような建物群を適当にうろついていると、大乗殿のようなところでチャイを飲んでいたラマ僧らから話しかけられる。何人かきかれ、日本人だというとバターティーを飲んでいけと言う。色々話しかけてくるがチベット語で喋るのでわからない。中国語は片言のみ、英語
は全く通じない。そのうち使い捨てカメラに興味を示し、写したがるので1枚撮ってもらう。ちゃんとしたカメラよりハンディーでおもちゃ的、安く買えそうなところが気に入ったようだ。いくらかきくので、千円弱、70元位というとふーむという感じだった。1時半に帰ると言ってあるのでそろそろ切り上げようとすると、こっちこっちと奥を示す。断るのも悪いのでついて回ると、ダライラマの写真が、小さいながらあちこちに何気なく飾ってあることに驚く。大丈夫なのだろうか?さて帰ろう、とすると、今度はお婆さん、男性、5、6才の女の子の3人連れチベット人が、こっちだ左から右へ回るんだ、と中国語で言う。そしてまた何人かきくので日本人と言うと、一緒に回ろうという。それも面白いか、と時間を気にしつつ少しお供をする。お婆さんはバター灯明を持ち、部屋に入るごとに置いて行く。女の子は先に走っていっては次の部屋の前で「来、来」と誘ってくれる。何人もの人が五体投地をしている特別な部屋があり、3人は聖水を受けて飲んでいる。ためらっていると、男性が私も受けたらというので、もらって飲む。これは何?と説明
を聞こうと指さすと、お婆さんは指さしてはいけない、掌を上にしてこうして指しなさい、と言った。3人と回るのは楽しいが、ユーコさん達を心配して待たせてもいけない。延々続きそうなので、1時半に帰ると言ってあり友人が待っているから、とゴメンナサイして帰る。

 

★頭が少し痛いのと、高山病への心配でか、いつもは10秒で眠れる私が、その日に限ってなかなか眠れず、夜中に部屋をうろつき回って、みんなに迷惑をかけてしまいました。

★デプン寺はチベット三大寺院の一つで、1414年に建立されました。ラサ市内から車で10分程の所に、岩山を背に山の傾斜を利用して壮大な伽藍・僧房が立ち並んでいます。最盛期には数千人の僧が修行に励んでいたそうです。ここは傾斜地で、坂道・階段が多く、私はもう息も絶えだえの状態でした。もう一人のエミさんは涼しい顔をして、その辺にいたチベットの民族衣装姿のおばさんをつかまえて写真を撮ったりしているので、ガイドさんは不思議な顔をしていました。結局、私の日頃の運動不足がたたっていただけじゃないかと後で思いましたが、その時は、すわ高山病と文字通りドキドキし通しでした。

 

 バスでラサまで行ったのだが、バスに乗り込むと中はほぼ満席、皆無言のまま一斉にこちらをじっと見つめた。外人が珍しいのかなと思いつつ端に腰掛けると隣のお婆さんが何人かと聞く。日本人だというと頷き、急に回りも話しかけてきて、私が手にしていた地球の歩き方のコピーを回し見したり、そのコピー地図を指さしつつここがデプン寺、ここがポタラ宮、と説明(多分)したりする。途中どんどん人が乗ってきて、ぎゅうぎゅうに立っている。もう一台ラサ市内に向かうバスが見えるのだが、そちらは空いている。その時急に、このバスに乗っているのはチベット人ばかりで漢人はいないことに気がついた。そういえば今まで乗ったバスも、漢人が乗っているバスは漢人ばかり、チベット人が乗っているバスは全員チベット人であったことに思い至る。バスのどこにも何々人専用などと指定されてはいないと思うが、どうもそういうことになっているらしい。 ★シアルさんに、バスでチベット人と漢人が別々に別れて乗っていると聞いて、やはり対立がそこまで深いのかと、暗澹たる気持ちになりました。鈍感な私は、それまで全く気が付きませんでした。

 ホテルに着き、3時半まで休む。ガイドが車で迎えに来てくれ、大昭寺へ行く。文殊菩薩、観音菩薩、ターラー、ツォンカパ、ダライラマX世等々の壁画、像を見る。この後訪れる各寺院もこうした方々の壁画や像で溢れていたのだが、いまいちよくわからない、というのが正直なところ。幸いユーコさんはさすが専門家で詳しく、ガイドの英語による説明を日本のXX菩薩にちゃんと訳して伝えてくれるので、聞き覚えのある名称に多少親しみを覚えるのだが(またパドマサンバヴァやソンツェンガンポ等がどういう人々かも彼女に解説してもらった)、結局元々仏教に詳しくないという根本的理由から、理解が難しい。ただ極彩色のチベット仏教系寺院の雰囲気を楽しみ、それを信仰するチベット人達の姿に何か落ちつくものがあった。

 いったんホテルに戻り、私はデパートに寄りたいのでバスで一足先にホテルを出、八角街でエミさん達と待ち合わせる。

大昭寺(ジョカン)は、7世紀、チベットにインド仏教を公式に招来したソンツェンガムポ王に嫁いだ唐の文成公主の像が祀られていることで有名です。この寺の前では、チベット各地から来た多くの人々が五体投地をしていて、彼らの信仰の深さを感じさせます。

★パドマサンバヴァは、8世紀にチベットに密教を伝えた高僧で、チベット仏教圈ではお釈迦様より有名な人です。

 チベット料理を食べよう、と地球の歩き方に載っていたタシ・レストランへ。中は外人(白人・日本人)ばかりで、この北京東路から八角街へ抜けるあたりはカルカッタの安宿街サダルストリートに感じが似ている。後ろに座っていた日本人の男の子二人組は「頭痛てェー。高山病だよ」「食欲でねェ」とほとんど食べずにすぐ出ていってしまった。やはり高山病は辛いようだ。なにせユーコさんの母校の体育の先生が、まだ若かったのにチベットで高山病で急死されたと聞き、恐いなと思う。一方朝頭痛がしたと言っていたユーコさんはすっかり元気になり、もうビールを頼んでいた。一番元気だったのはエミさんで、昨日ネタンで階段を登ったときから、全く息もあがらず楽々動いていたという。ラサ到着当初から平地同様に動いて何ともないそうだ。ガイドブックによっては、自分も必ずかかると考えて用心したほうがいい、と書いてある高山病だが、人によって様々だ。モモ、ボビ(薄焼きで野菜等を巻いて食べる)、野菜炒め3人前とビールで44元。

 

お酒好きの私でさえも、この時はさすがに小瓶のビール一本を空けるのに小1時間かかりました。

★エミさんの驚異的な体力というか順応力には、全く驚かされました。一番最近(1997年)のラダックでも全く平気だったのですから、本当に驚きです。

7月22日(月)

 朝食はホテルのバイキング料理を食べ(味がなくてまずい、街の食堂の方がずっとおいしいとエミさん)、9時半、ガイドと車でポタラ宮殿へ。元々前日ポタラに行く予定だったが、ガイドのNさんの話では月曜の方がチベット人が沢山来るそうで、変えてくれた。Nさんはチベット人で英語の通訳。20代のなかばで、インドで6年学びそこで英語も覚えたそうで、北京官話もきれいに話す。ガイドは皆共同生活で、観光客の来ない冬はチベット人に英語を教えて生活しているという。今回の旅行をアレンジしたS社の話では、漢人ガイドなら日本語のできる人がいるのだが、漢人だとお寺でトラブルがあるので使っていないという。頂上の宮殿入り口まで一気に車で登る。途中、チベット人、中国人、外国人の観光客がエッチラオッチラ登って行くのを車で追い越してゆくのは何となく申し訳ない、とユーコさん。日本人の団体客も徒歩で登っていた。勿論他にもトヨタや日産の四駆、いすずのミニバスで行く人々も多い(車はほとんど日本車だった)。

 

★ラサのシンボルともいえるポタラ宮は1643年、第5世ダライラマ、ロサンギャムツォによって建立されました。ここは、宗政一致だったダライラマ政権において、行政府であり、かつダライラマの居城でもあり、廟でもあったのでした。なお、ダライラマの「ダライ」は第三代のソナムギャムツォが、モンゴル王のアルタン汗から贈られた称号で、「大海」を意味しています。

 入り口は沖縄の首里城に似ており、中は大きく赤宮殿、白宮殿に分かれる。中に入ると、中国人観光客が多いことにびっくり。お堂に入って大声で騒いでいるグループもいて、さすがにガイド(やはり漢人)から注意されていた。聞くと広東から来ている団体が多い。しかし、中国人がワイワイ見ているときは同じ部屋の中にチベット人はいない。いくつかの団体が一緒にお堂で説明を聞き、最後尾の人がガイドに押し出されるようにして出てゆくと、入れ違いにチベット人が大勢入ってくる。賑やかな中国人達に比べてチベット人は静かだ。お婆さん達は手に手に灯明を持ち、お経だか何か低い声でブツブツ唱え、家族総出で一列に並んでお参りしてゆく。Nさんはチベット人はシャイだ、だから静かだという。ポタラ内はどこも混んでいて、チベット人の列が延々続く(勿論その時は漢人はほとんどいない)。いくつかのお堂は特に混んでいて、中央の台に皆熱心に額をつけて拝んでゆく。時にラマ僧から、外人はお参りしないのだから後、後、と言われるが、ガイドが話をして正面に入れてくれ、人波にぎゅうぎゅう押されながら説明を聞く。中国人でもたまに個人で来ている人もいて、途中から漢人のカップルが私達に一緒にくっついてNさんの説明を聞くようになった。男の子が英語がわかるようで、女の子に説明していた。聞いたら彼らも広東からだそうだ。このカップルが加わってから、Nさんはさかんに吐蕃(古代チベット王国)国王ソンツェンガンポの唐から来た王妃に子供ができなかった話や、これは中国から来たと言われているが(またはガイドブックにそう書かれているが)本当はインドから来たものだ(ex.インドのネルーが送ってくれた等々)、昔チベット国王の前で中国の僧侶とインドの僧侶が論争してインド僧が勝った、以来チベット仏教はインド系になったという話をさかんにするようになった。宮殿内はとにかく部屋が多く、千以上あるという。ただし大きい部屋は皆で読経をする所位で、後は高僧の部屋でもかなり小さく、薄暗い。ただダライラマのミイラの入った巨大なストゥーパの並ぶ細長い部屋は、何か不思議な空気が漂い、一人でぼーっとしていたい気がした。

★中国とインドの僧侶の論争の話は、「サムイェーの法論」として、チベットの仏教史上に名高いのです。これは8世紀中頃のティソンディツエェン王(仏教興隆に尽力)の治下、インド僧カマラシーラと中国僧摩訶衍(まかえん)が、サムイェー寺において論争し、摩訶衍が敗れ去ったことをいいます。これによって、チベットはインド仏教の「瑜伽行・中観学派」を正統視するようになったのです。そしてこれが以降のチベット仏教の方向を決定づけることになったわけです。 

 屋上近くに休憩所があり、江沢民の書が掛けられ、漢人団体客が大勢休んでいる。おじさん達はノソノソ動き回り尊大でオヤジっぽく、中年女性団体は厚化粧、傍若無人に大声で元気にはしゃぎ回り、その様子が日本や香港のオバサンそっくり、こうして見ていると、中国人のオヤジ化、オバタリアン化がすさまじくて、一体かつての「人民に奉仕する」云々はなんだったのだろう、と思えてくる。私が初めて中国を旅行したのは、まだ団体旅行しか許されずどこへ行くにもお目付付き、個人行動は許されない時代のぎりぎり最後だったのだが、学生は勿論のこと会う人皆、衣服は粗末だけれど理想に燃えていた(表面的には)感じがあって、旅行で一緒だった、当時の流行最先端をゆくハマトラ系女子大生が「彼らを見ているとあたし達が腐ってる、て感じがして気が重い。もう中国来たくない」と言っていたくらいなのだけれど・・・あれは一体・・・?。そしてそういう賑やかな中国人達を、係のチベット人少年やお爺さんがボーッと見ていた。

 ポタラ宮殿のトイレに入ったのだが、当然仕切なしの中国トイレで、さらに穴の落差が一見に値する。何十メートルかわからぬが、ポタラ宮の上から一気に下まで落ちているようで、高所恐怖症の人にはちょっと使えないかも。ここで紙を貸したおばさんは成都から団体で来ているそうで、ラサで観光している中国人は大抵政府関係か地元の中国人だと言っていた。Nさんも、政府関係者かラサに仕事を求めて移住してきた人々だと言う。このトイレから小学校のトイレの思い出話に発展し、ちなみにユーコさんの卒業した小学校は山間部にあり、トイレは、仕切はあったけど溝が切ってあるだけだった、という。

 お昼は、Nさんお奨めの八角街そばのチベット料理屋阿羅倉餐館へ。チベット人と白人が多い。ここでバターティー、ツァンパ、モモ、ヤク肉、じゃがいものカレー揚げ、そしてお酒のチャンを飲み食いする。どれもおいしい。Nさんが、ツァンパの食べ方を教えてくれ、4人で粉を手で握って固めてからバター茶に浸して食べた。

 1時ホテルに着き、3時半まで休憩だが、私は一人で清真寺(モスク)を見に出かける。1時から3時くらいまでの間が丁度真っ昼間という感じで、太陽光線がきつい。まず八角街をぶらつく。大昭寺前と八角街から脇へ入る角々には、人民解放軍兵士や公安の制服が立ったり椅子に座って道行く人々を見ている。屋台の人はチベット人が多いが、小姐、小姐と声をかけてきて、なぜか英語を使っても中国語で答えることも多く、私もつい中国語に切り替えてしまう。ダライラマの写真を置いている店もあったが、今は規制が緩いのだろうか?。しかし後でユーコさんに聞いた話では、つい数カ月前もガンデン寺でラマ僧が独立運動に荷担した咎で多数逮捕され寺も破壊された、今回私達がガンデン寺に行けなかったのもそこに入る許可が出なかったからだ、という。

 八角街西のチベット人街に入る。高地の強い日光と青い空を背景に、黒や茶、緑、朱色の窓枠のついた高い白壁が続き、まるでスペインか地中海地方のよう。しかも窓には花を飾っていることが多い。美的センスはアーリア系に近く、ゴチャゴチャした中華街とは異なる。またチベット人街にはよく犬が道の真ん中に寝ていて、これもインド的だ。街の臭いにしろずらりと市が並ぶ通りにしろ、どことなくインドを思い出す。道ばたでは昼間からビリヤードに興じる男達を多く見かけ、失業率は高いとみて間違いない。またこの辺りで道を尋ねても英語も中国語も通じないことが多い(或いはわからないふりをしている)。清真寺を探し当てると、回りは市が並びイスラム帽のおじさん達が行き交う。清真料理屋も多く他には見られない黄色いヌードル系の食べ物を売っている。モスクの中には信者以外は入れないと思うので、再びチベット人街を抜けて八角街へ戻る。白壁には一定間隔で入り口が開かれ、中を覗くと中庭があり、庭を囲んで数家族の住まいがあるようだった。また庭の中央には井戸があって洗いものをしたり水を汲んだりしていた。また寺になっているところもあり、ラマ僧がいて、お婆さんやおばさんが拝んでいた。

★出ましたっ、中国トイレ! 噂には聞いていましたが、はじめて本格的中国式トイレに遭遇。暗い部屋の中にポタラ宮ならではの底知れぬ穴が幾つかあいており、スリル満点。もちろん、仕切りなどはありません。言葉さえ分かれば、中国おばさま方と四方山話をしながら、楽しいトイレライフが送れたのにと悔やまれます。

★ここで、はじめてのチベット式食事を敢行。麦の粉とバター茶を混ぜて食べるツァンパの捏ね方の難しいこと。私好みで美味しく、いっぱい食べてしまったのはいいけれど、すっかり周りは粉だらけ。

 

 たまたまかもしれないが、チベット人街で漢人と思われる人(色が白いので見分けがつきやすい)に出会わず、ある程度住み分けている気がする。大きな屋内市場のあるところに出た。中には香辛料、肉、野菜が山と積まれ、2階は布、靴、洋服、カバンなどを売っている。全体に薄暗く、完全にチベット人の市場だが、見回りか解放軍兵士が2階にあがってゆくのを見かけた。

八角街から、水泥廠行きのバスがホリデイインの前を通るので、いつもこのバスを愛用することに。戻ると、ユーコさん達は手紙を書いていた。

★チベット族と漢族は、ラサにおいてほぼ完全に異なった居住地域に住んでいるといいます。

★愛用のバスの料金は2元。我々は「2元バス」と呼んでいました。小型のマイクロバスで乗降場所は自由。ラサ行きなら「ラサ!ラサ!ラサ!」と叫びながら走っています。

 3時半、ノルブリンカへ。ダライラマ13、14世の夏の宮殿で、この時節、ある木から(種類は失念した)綿毛が舞い、風に吹かれて空中を無数に漂い、美しい光景だった。

★インドに亡命している現ダライラマ14世は、1950年に亡命する直前まで、この夏の離宮に滞在していたそうです。

デパートで買い物がしたかったため、またここで別れて、中心街にある商場2カ所にゆくが、輸入菓子、酒、タバコ、洋服、電化製品類ばかりで、いわゆるチベット的なものは無い。時計コーナーに解放軍兵士が何人も群がっていた。百貨店はないかときくと幾つか教えてくれるが、小さい店も皆XX百貨店なので、こちらのイメージしているデパートと違う。すっかり疲れて戻る。Nさんの話では、チベット的なものはやはり八角街で探すしかない、とのこと。

★私たちはガイドさんとノルブリンカ宮殿から、近くの動物園へ。この動物園ははっきり言ってかなり淋しいです。それよりも、この辺りでピクニックをするらしいラサの人達のチベット式テントに惹かれてのぞき込んだりしていました。

 7時頃、またチベット料理を食べよう、と八角街北の通りへ。夕食はチベット人がよく食べているヤク肉とキャベツのスープにしよう、とNさんにチベット語で書いてもらった料理名を片手に探し回るが、どこも無いと断られてしまい(英語で聞いた方が良かったと思う)、道端に座っていたチベット人達に聞く。紙を見て相談したあと、5、6才の男の子に案内させて連れていってくれた。行った先はブルーカフェ。白人客が多くいわゆる地元のチベット人ゆきつけの店ではないが、ここで麺、ヤク肉スープ(キャベツの替わりにネギかニラのような野菜だったと思う)、野菜炒めを頼む。味はまあまあで36元。9時を近くなってようよう暮れなずんできた。

 

 

 

次ページに続く

★チベット語の表記はかなり難しく、チベット人のガイドさんでさえ、えらく時間をかけて書いていました。なにせ、まず表記と発音が全然違うのですから。(チベット語学習に挫折した誰かさんの声)ちなみにチベット文字体系は、インドの古代語、サンスクリット語の文字デーヴァナーガリを参考にして作られたものです。

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