チベット旅行記

雲上の世界チベットと変貌する中国 その2

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Tibet-NetanDormaLakan-daizokyo.jpg (31097 バイト)
チベット大蔵経(ネタン・ドルマ・ラカン)

 

7月23日(火)

午前中はセラ寺へ行く。ラサの中心街からそう遠くないところにあり、建物数は多いが廃虚の状態のものも多く、整備された3つの建物の中に入って説明を聞く。デプン寺やポタラ宮殿はかなりの部分が修復されていたが、どの寺もそうであるわけではないらしい。

 

★セラ寺も、チベット三大寺院の一つです。あの河口慧海が修行したお寺です。もう一つのガンデン寺は、ラサから車で1時間程の所にあり、行った当時は、暴動の直後で閉鎖されていて、残念ながら参拝することができませんでした。

 この後、清真寺近くにある尼寺アニ・ツァングンへ行く。ユーコさんが特に訪問を希望していたところで、なかなか面白かった。まず英語のできる若い尼僧さんに色々解説してもらう。堂内には各寺院の活仏の写真が飾ってあった。ユーコさんがリーダーの尼さんの話を聞きたいというので、庫裏脇に座っている彼女の元へ行く。かなり年輩の尼僧さんで、細かい話になると、ユーコさんに仏教用語を教わりつつ私が英語でNさんに説明し彼が尼さんにチベット語で尋ねるので、またNさんが自分で答えてしまったりすることもあり、どこまで正確に伝わっているかわからないが、とにかく少し話はできた。この寺に所属している尼僧は百数十人だという。ユーコさんが性差別について関心を持っているため、僧侶として男女で待遇、制度面での差があるかについて聞いてみる。高僧の法話の時は男の僧侶と一緒に聞くが、普段は完全に別れている、よって(日本のように)尼僧が煮炊きに使われたりすることもない。男の僧侶のような階層もないが、一方男僧のように学者僧の資格を取れるシステムも尼僧にはない。デプン寺のような男僧の寺は政府のお金で復興しているが、尼寺の場合は自分達で寄付を集めるしかなく、何か書いて八角街で売ってお金を作ったりしている、という。尼僧が葬式に呼ばれることもあるそうで、そこは日本と違う、とユーコさん。しかしNさんは、やはり男の僧侶の方が力があると言っていた。尼僧にも活仏制度があり、最高位の尼僧の活仏は、文化面でのリーダーとして出版物のチェックをしたりしているという。資金面では苦しい状況にあるようで、あちこち自分達の手で修復したり建てている真っ最中だった。しかし5、6年前に日本のお坊さんが来て喜捨してくれ、そのお金でトイレを建てたそうだ。尼さん達は人なつこくて明るく、最後に記念写真を撮ったときも、初めは恥ずかしがって隅の方でくすくす笑っていたが、いざカメラが構えられると皆次々誘い合って加わり、和気あいあいとしていた。

 1時頃ホテルに戻り、ホテル内にあるハードヤクカフェで昼食。ヤクバーガーとサラダ、そしてこの店お奨めのピザでお腹いっぱいになる。占めて180元。

★僧籍を持つ女性としては、ぜひチベットの尼僧さんとお話をしてみたかったので、予定に入れてもらいました。尼僧寺院はチベットには比較的多くあるそうですが、この尼僧寺院はチベット全土で唯一の尼僧の修行道場だそうです。全土から尼僧が集まってくるそうですが、境内の広さなどを見ても、男性僧侶が居住する一般寺院程度の広さほどしかなく、デプンをはじめとしたあの広大な男性僧侶の修行道場とは、比べるべくもありません。女性僧侶の宗教的地位は、大体予想していた通り、あまり高いものではないようです。でも、彼女らの積極的な活動状況や、修行する尼僧の数においても、基盤が貧弱な日本の尼僧とは比べものになりません。老住職を中心に百名程の尼僧が修行にいそしんでいるということです。ここでは英語のできる尼僧さんが色々説明してくれたので、私としては、泊まり込んででももう少し話を聞きたかったのですが、予定の時間をかなり超過していたので、後ろ髪を引かれる思いで、ホテルに帰りました。またチベットに来る機会があったら、もう一度必ず訪れたいと心に誓いました。

★ここでは、尼僧さん達と話すために、シアルさんに通訳をして貰って本当に助かりました。

 午後はエミさん達はガイドと小昭寺へゆくが、私は自由行動がしてみたく、バスでネチュン寺へ。デプン寺そばの寺で、今回は乗合トラクターに乗ってみる。ネチュン寺まで5元(デプン寺だと7元)。寺のラマ僧がまた何人だと聞き、日本人だと言うとこれがパドマサンヴァハ、あれがダライラマ5世、7世、と(かなり一方的に)説明してくれる。

 ラサへ来てからずっと、高山病除けに山用の1.8リットル透明ポリタンクにお茶を入れて持ち歩き、できるだけ水分を取るようにしていたのだが、これがあちこちでチベット人達の注目を集めた。八角街でもその茶色の液体は何だ、としょっ中人からきかれたし、バスの中では「ガソリンかと思った」と言われたことも。お寺でもお坊さん達から必ず聞かれ、ネチュン寺でも、マニ車を回しながらお参りしていたお婆さん3人連れが私が飲んでいるのを見て、手を差し出し注いでくれと手まねする。そこで注ぐと、飲んでみて皆で何か言って笑っている。お寺で遊んでいた子供達も寄ってきて手を差し出す。次々注いで回るが、一人の子はずっとショールで口をおさえたまま手を出さない。何かで皆が笑ったとき、彼も笑ってショールがはずれ、見ると兎口だった。ショールを抑えたまま他の子と一緒にキャアキャア笑いながら近づいてきたり走り回っていたが、日本だったらとっくに手術を受けている年齢なので、お金の問題から一生口元を隠して暮らすこともありうるのだろうか、と気になった。

 バスで市内に戻り、中華書店、人民出版社と回って本を見る。その後八角街でウールの長袖チベット服チュパを買う。八角街に行く度に値段を聞いていたら毎日どんどん値を下げ、この日買ったときは50元だった。チベット人街の市場でNさんの教えてくれたチベットのお菓子チュクムガン(モンゴルにあったものとほぼ同じ乳製品のお菓子)とチューロック(チーズで硬い。5分位口に含んでいると柔らかくなるそうだが、1塊が大きいだけに辛い)を買う。あたり一帯は露店商店街になっているようで、筵に野菜や黄色いきのこを広げたお店が続き、肉を積んだ荷車が何台も道路を占領して商売したり、それを公安が来て道を広げるために脇へよけさせたり、買い物だかひやかしだか行き交う人々も多く、賑わっている。チベット人がよく食べている米・麦・コーンを煎ったものを買ってつまみながら小昭寺へゆく。ここでは説明してくれる人が誰もおらず、またお寺の規模を小さいのですぐ出てきてしまう。もう6時半(でも3時頃のギンギンの日差し)なのでホテルに戻る。

 エミさん達は小昭寺で重低音の読経を聞いたらしい。ユーコさんの下宿でCDで聞かせてもらったことがあるが、なかなかセクシーで魅力のある声だ。それが生で聞けたとは羨ましい。その後ヤルツァンポ河畔へ行ったそうだが、これはまあまあだったそうだ。

★昼食後、エミさんと私は小昭寺(ラモチェ)へ。このお寺は文成公主が建てたとされ、大昭寺にある公主の像は最初、こちらに安置されていたといいます。私達が行ったときはちょうど僧侶の勤行の最中で、チベット語のお経が独特の重低音となって境内に響きわたっていました。ここはそんなに広くはなく、一見町の中の普通のお寺といった雰囲気でした。私達はガイドさんの真似をして、本道の周りに取り付けられた沢山の(108個あるそうです)マニ車を廻しました。これはどこのお寺にもあり、一回廻すと一回お経を唱えたことになる優れものです。2mもある巨大なものから、携帯式の小さなものまで多種多様です。携帯式は、町中でも廻しながら歩いている人が多く、よく目にしました。

★その後は、私達もガイドさんと八角街見物です。私はチベット語の歌とお経のカセットを買いました。チベット仏教の「八吉祥」(仏教を象徴する八種類の紋章)のマークが入ったテントの入り口に使う布が欲しかったのですが、その時は交渉決裂。でもその店のお姉さんが良さそうな人だったので、最後の日に、ちょっとだけ安くしてもらって買いました。

★ヤルツァンポ河畔の造成中の公園では、ちょうど可愛い小坊主さんが通りがかり、ガイドさんが半ば強引に引っ張ってきて一緒に写真を撮ってくれました。

 

  7時頃夕食を食べに3人で外へ出る。明日サムエ寺へ行くため食料を調達する必要があるので、まず八角街近くで西洋パンを買い、チベット人市場でポテトのカレー揚げ、チベットパンを買う。この時、後頭部に何かあたった気がした。振り返ったが誰もいない。すぐまた何か当たった気がして向きを変えると野菜屑がハラリと落ち、2回とも山高帽に長髪、グラサンといういで立ちのチベット男がこちらを見ていた。ふと地球の歩き方に、日本人は中国人と間違えられやすいので注意すること、特に日が暮れてからの八角街はがらりと雰囲気が変わるので近づかないように、漢人に間違えられてチベット人から袋叩きに合った日本人男性もいる、とあったのを思い出す。しょっ中八角街や市場に来て北京官話を喋りまくっていたので、危ないことをした、と思い直し、できるだけユーコさん達と一緒にくっついているようにする。

 八角街に出るが、確かにガラリと感じが変わり、別のところのようだ。みやげ物的屋台はすべて片付き、その代わり道端に敷物を並べて雑貨を売っている。人もものすごく増えて電車のラッシュ並の混雑ぶりで、マニ車を回す者、ぶつぶつお経を唱える者、皆時計回りに歩いている。一心な面持ちの人も多く、折からもう8時を回り夕方の光になっていることもあって、恐いような感じだ。どうやら7時以降はチベット人の時間らしい。ミンマさんとお昼に行ったチベット料理屋が一番近いしおいしいので、そこで夕食を食べよう、ということになり、ユーコさんはチベット人達には悪いけどここを少しだけ逆回りに突っ切って大昭寺前の広場に出よう、という。私はさっきのことがあったので少々遠回りしても戻って北京東路から行くか、八角街を行くなら彼らと同じ方向に一回りしてから広場に出た方がいいと思ったが、「ごめん、疲れてあまり歩きたくないんだ。それに早く出た方がいいと思う」ということなので近道を突っ切ろう、ということに。「ごめんなさーい」「ちょっと通してくださーい」と大声で日本語で言いつつ2ブロックほど逆回りする。皆私達には目もくれずまた特に道を譲ることもなく一心に時計回りに動いていく。ようよう人混みをかき分けて広場に出ると、ここもチベット人だらけで中央に大勢集まって何かしている。昼間はあんなに沢山いた公安も解放軍も姿を消している。何だか彼らはチベット人を見張るというより漢人を守るためにいるような気すらした。広場を抜けて料理屋に到着。

★市場で楽しく買い物をしていたのですが、シアルさんが、誰かに何かをぶつけられたと聞いて、みんなの緊張が一挙に高まりました。漢族とチベット族の対立を沢山見聞きしていたからです。漢族に見える(だろう)私達の不安は急速に高まりました。私達がよそ者に見えるだろうこと、それも、香港や上海の漢族と間違われることが多いので、危険であろうことは容易に想像できました。特にシアルさんは、私達の分まで北京語で話してくれていたので、最も危険であろうことは誰の目にも明らかでした。長い間憧れていて、大好きなチベット人からこのような目に遭うとは、と私はちょっと悲しくなりましたが、これは日本人がたまたま漢人に似ているだけで、誰の責任でもありませんし、民族同士の対立も、本来はきわめて政治的なものであって、庶民の立場に立てば対立の必要はないのだ、と自分に言い聞かせながら、その場を後にしました。

★急いで、ここを離れなければならないと思って、八角街を半ば決死の覚悟で逆走しました。もちろん、予想通り、チベット人はそんなことを気にはしていないようでしたが。

★この体験は、怖かったけれど、チベット族と漢族の対立を身を持って味わったわけで、誰にもお薦めはできないけれど、貴重な体験だったことは言うまでもありません。

 結果的にはユーコさん達のいうとおりチベット人地区を最小時間で明るいうちに抜けて正解だったようだ。

 「やっぱりここの店おいしいですよねー。ホテルの朝食まずくて」とエミさん。

 おいしい料理ですっかり元気を取り戻し、バスでホテルに戻った後は、Nさんにもらったチャンとビールで宴会。

★チベットの地酒チャンを飲んでみたくなり、前の日にガイドさんに聞いてみたら、持ってきてくれました。お金は?といっても笑うだけで受け取ってくれません。そういえば、ラダックでもそうでした。次の日、彼においしかったというと、とても嬉しそうな顔をしてくれました。チャンは、白濁していて、韓国のお酒マッコリに似た感じでした。アルコール度は低く、さっぱりした感じで、低地だったら沢山飲めそうです。この日は3人でいる最後の夜。シアルさんが八角街で買ってきた木の実やチーズを肴に夜更けまで大宴会をしてしまいました。

 

7月24日(水)

 7時半にサムエ寺へ向けて出発、ホテルでバターティーを作ってもらい魔法瓶で持ってゆく。空港まで1時間、そこから船の渡し場まで1時間半。両側を山脈に挟まれたヤルツァンポ河の脇を下流へ進む。途中点々と村があり大麦、菜の花が植わり多少木が生えているが、それ以外は岩山が続く。時々警察の先導する四駆の一群に会う。シガツェで明日チベット自治区高官の重要な会議があるらしい。パトカーその他政府要人の乗った車がすべてトヨタのランクルだったのには驚いた。かつては国産車赤旗だったはずなのだが。そして両窓から警棒を振り回し、そこのけそこのけという感じで周りの車をけちらし、疾走してゆく。私たちの乗っていた車もトヨタのランクルなので普通の車は次々追い越していったが、軍のトラックを追い越した際、どうやらプライドを傷つけたようで運転手の解放軍兵士が怒りの形相でピッタリくっついてくる。かなりのスピードを出しても必死で追っかけてくるし、こちらのチベット人運転手の方も決して道を譲るまいと飛ばすものだからすごかった。そうしたカーチェイスの結果だか(いや多分洪水だろう)、道路脇の木の地上から1メートルあたりに、何であんな中途半端なところに車が引っかかってんだ?というような光景を二度ほど目にした。途中ユーコさんが果物を買いたいというので、村に寄る。トラックはそのまま通り過ぎて行き、カーチェイスはここで終了。空港周辺には解放軍の駐屯地がところどころにあって、野菜を作っていた。こうした軍や政府と地元民との間の雰囲気は、ラダックとインド軍との関係と大きく異なった(ラダックについてはラダック旅行記参照してね)。

 

★はじめてで最後の遠出に、ぜひチベットのバター茶とツァンパを持って行きたくて、ホテルに頼んで用意してもらいました。バター茶のポットが中国独特の木の栓をしただけのものだったので、解放軍トラックとのカーチェイスや、サムイェー寺に向かう大揺れのトラクターの中でこぼさないように持っている(足で押さえつけている)のが大変でした。結局、ガイドさんに持ってもらうことになって、彼には余計な面倒をかけてしまいました。

★途中で買ったものはリンゴ。小さくて可愛いリンゴはお昼のデザートとなりました。

 飛行場から先は多少道が狭くなり揺れるが、それでもモンゴルに比べれば素晴らしく道はいい。インフラの整備はチベットの方がはるかに整っている。市内は勿論、地方都市とを結ぶバスも定期的にきちんと走っている。村ではすでに収穫が始まっている畑もあり、子供が脱穀を手伝っていた。羊、山羊、牛を道路沿いに追う子供、薪を背負った子供がいる一方、鞄をぶらさげ学校へ集団登校している子供もいる。村人の乗り物は主にトラクターで、後ろの荷台に何人か乗せてのろのろ走っていた。またヒッチハイクを待つチベット人も多く、よく道端で荷物を脇に置いて待っていた。ときどき崖から土砂が崩れて道を半分位ふさいだり、岩が落ちているところがあり、オレンジの蛍光色のチョッキを着た補修作業員が道を掃いているのにもよく出会った。

 渡し場に付き、平底無蓋の川船に乗る。乗客は私たち以外は、少年僧1名、尼僧2名、解放軍兵士1名。少年は船縁から手を出して水をはねて遊び、14、5才の尼も一緒にはしゃいでいた。1時間ほどで向かい岸に付き、乗合トラクターに乗ってサムエ寺へ。かなりの悪路で、しかもトラクターのスピードで10キロの道のりをゆくので、エミさん曰く「お寺見に来たんだかトラクター乗りに来たんだか」という感じだった。トラクターは丘のふもとの道を行くことが多く、丘の中腹にチョルテンがあって旗がはためいている。砂丘があったり、ラクダ草的な乾燥に強そうな植物の生えている地帯があったり、光景はモンゴルによく似ている。ようやく回りを108のチョルテン付きの塀で囲まれた(エルデネゾーと同じ)サムエ寺が見えてきた。寺の周囲一帯は、小川が流れ緑が豊かだ。

★サムイェーはラサ市内を流れる大河ヤルツァンポ河(下流はブラフマプトラ河となりインドに至ります)沿いですが、背後の山によって大きく屈曲していて、ちょうど山を挟んでラサの反対側にあります。途中、空港の前を通ります。

★ヤルツァンポ河はかなり広く凪いでいて、船は快適に疾走します。

★サムイェー側の渡し場から寺までの道はひどく、トラクターは大揺れ。慣れるまで振り落とされまいと必死にしがみついていましたが、だんだん慣れてきて帰りにはこの揺れが快感になってしまいました。

 サムエ寺は上層はインド式、中層は中国式、下層はチベット式に建築されている。川船で一緒だった解放軍はトラクターにも乗っていたが、このころよりどうも私達をマークしているらしい、と気になり始めた。ガイドに連れられあちこち見て回る私達にぴったりとついてくる。一度薄暗い階段を登る時もすぐ後ろからついてきたので、何か用かときいたら、「没什麻」(いや別に)とそっぽを向いた。しかしガイドの説明を聞いている時、いつも鋭い目を光らせて少し離れたところに立っている。しかしNさんは平気で破壊された壁画のところへ来て「文革で破壊された」などと説明している。と、その解放軍がそばにいたラマ僧に何か言って脇の小部屋をあけさせた。そこはダライラマ13世の部屋だという。普通は七曜を表す7つの金属椀に水が供えられているのだが、この部屋の椀には塩が入っていた。聞くと、この部屋はあまり開けないので頻繁に水を替えることが出来ないため、塩を入れてあるという。ここでの説明が終わったとたんに、解放軍兵士は任務が終わったとばかり、急にいなくなった。顔立ちからゆくとチベット系のようにも見えたが、よくわからない。Nさんもほっとしたようで、さっきは彼がいたから案内しなかった、とダライラマ14世の小さい顔写真の張ってある壁画に連れていってくれた。デプン寺、ポタラ宮殿、ネチュン寺等々大抵の寺で、あちこちに何気なくダライラマ14世の小さい顔写真が張ってあったり挟まっていたりするが、これらも民間人がそっと置いたのだろうか。ユーコさんとエミさんは、解放軍がずっとついていたことにあまり気がつかなかったり、あ、またいるな、説明がききたいのかな、と思って気にならなっかたそうだ。私は結構内心恐かったのだが。

★サムイェー寺は、チベットで最初の本格的な仏教寺院。前述の「サムイェーの法論」の舞台となったところで、ぜひ訪れたかった所です。794年の創建とされる。現在の独特な三層の伽藍形式と配置はチベット仏教の代表的曼荼羅であり世界観である時輪タントラを表しているとされています。

★寺院などでダライラマの写真を飾ることが私達の行く前年に禁止されたそうです。

★ずっとくっついてきていた解放軍を、ただ単に一緒に参拝するのかなぁと考えていた単純な私達でした。シアルさんにこっそり耳打ちされてはじめて気が付いたのですから。言葉の重要性を感じた瞬間でした。兵士の同行は、サムイェーが外国人に無条件で開放された所ではないからだという説明でした。

 日差しを避け、僧坊の回廊に座り込んで昼食。車にパンを忘れてしまったNさんも一緒になって、パンやじゃがいも、ツァンパ、果物を食べ、バターティーを飲む。回廊は僧侶やここに泊まっている人々がけっこう行き来して落ちつかなかった。

 四方に立つ赤、緑、白、黒のストゥーパを見て再びトラクターで帰る。途中サムエ寺方面へ向かうバスとすれ違うが、その助手席に先程の解放軍兵士が座っていた。やはりサムエ寺に行く人々をチェックしているようだ。途中お婆さんが運転手に頼んで子供だけ乗せたり、ろばを引いていたおばさんがろばの背の荷物を預けたり、またその子供と荷物を途中の村で下ろしたり、とトラクターはのどかに進む。渡し場に着き、少し待って船に乗る頃、再び例の解放軍がトラックに乗って戻ってきた。トラックから、先程寺で会った香港人か広東人かの広東語を喋るグループが下りてくる。私達を乗せた船が彼らも乗せようと戻りかけると、岸の人が行け、行け、という仕草をした。解放軍がグループのガイドらしき人とさかんに話をしており、何かトラブっているようだ。グループの人達は次の船に座って待っていたが、なかなか出発せず、結局川面から見えなくなるまで足留めされていた。

★苦労して持ってきたバター茶とツァンパが、自分の昼食を忘れてきたガイドさんのために役立ちました。良かった良かった。

 車で来た道を戻る。私は一日早く帰国するため、空港のエアポートホテルで下ろしてもらう。ここで二人とはお別れだが、すぐまた日本で会う約束。

 ホテルはドメトリー15元、ツイン40元だが、パスポートを提示したとたん、なんだ外人だったのと30元、80元に。ドメトリーを頼み、荷物を置いて散歩に出るが、街はたいして大きくなく、すぐ街外れに出てしまって何も無いうえ、まだまだ日差しが強くてバテ気味になり、早々に宿に戻る。部屋に入ると、すでに3人組と女一人旅がいた。3人組は知らない言葉(多分中国語の方言)で何か喋っていたが、疲れているのかすぐに寝てしまった(まだ明るいのに)。一人旅はマイペースで動き回り、その度にアイヨー、アイヤー(どっこらしょ)などと溜息をついている。また一人入ってきて、一番奥のベッドを取ったのは、ピンクハウスのようなふりふりワンピースの少女。初め日本人かと思ったが、中国人だった。確かに日本人のチベット一人旅系でああいう感じの子は逆にいないだろう。次に若い男女4人グループ(勿論男は別の部屋)、きれいな女性一人、そしてチベット人親子二組。チベット人は荷物がものすごく多い。お父さんも一緒で、奥さんたちが奥のベッドが空いている、と指さして言ったようで、彼らもベッドに腰を下ろし落ちつき始
めると、従業員が飛んできて「なんで男がここにいるんだ」と追い出していた。ほとんどの人が食事に出て行き、私は昼の残りで済ませている。と、一人旅が話しかけてきた。33才の四川省の人で、旅行で来た、ラサでは知り合いの漢人の家に泊めてもらった、今中国は自由に旅行ができあちこち行く、という。じき彼女も寝てしまう。男女4人組の女性二人が戻ってきた。この二人も話しかけてきた。広東から友達同士来た、という彼女らは、私のこと
を広東人だと思っていたそうだ。働いており夏休みを取ってチベットに遊びに来たという。なんでチベットなの、と聞くとお寺に興味あるし面白そうと思って、と屈託ない。回ったところを聞くと、ラサ市内の寺を何カ所も行っている。どれもポタラ宮を中央に見た中心街にある寺で、歩いて回ったというので、じゃあセラ寺やデプン寺はどうしたの、と聞くと郊外には行っていない、という。四川省の女性もラサ市内だけ回ったと言っていたが、たまたまなのか、漢人が郊外を一人旅や個人旅行するのは色々と難しいのか、気になるところだ。しかし、この時はそのことを聞きそびれてしまった。彼女らはさらに北京へ行って遊び、男の子達は広東に帰るという。

★シアルさんとは、サムイェー寺からの帰り道、ラサ空港の前の機場賓館でお別れ。彼女は一日早く帰国です。ここからの左側の文章は彼女だけの体験です。

★以下、この欄は私達2人の旅日記となります。エミとユーコは、1日遅れの同じコースで帰国の予定ですが…。

 

 北京へ行って遊び、男の子達は広東に帰るという。昔は中国人も自由に国内旅行できなかったのに変わったよね、と感慨深く言うと、「え、そんな話聞いていない」と20才前後の彼女ら。「多分昔中国人はお金無かったし、時間もなかったから旅行しなかっただけよー」という。(しかし、当時紅衛兵に参加することが唯一合法的な国内旅行のチャンスだったとよく聞いたものだが。)中国はどう?と聞くので、もう台湾や韓国とあまり変わらない、スローガンも無いしどこが共産主義なの、て感じ、と言うと「それが現代化よー」という。スローガン(口号)と言ったとき、二人はあんなものー、という感じでケタケタ笑っていた。なんだか中国もすっかり普通の国になったな、と思う。感覚がいわゆる”西側”(これも死語)とほとんどずれがなくなった。個人旅行が許されるようになってから、友人とドメトリーに泊まりつつ中国貧乏旅行をしたことがあるが、それももう10年近く前のこと。その当時ドメトリーといえば、外人のたまり場だった。それが今回中国人だらけだ。あのピンクハウスの子が戻ってきた。そしてすぐ寝てしまった。きれいな女性も小さい男の子を連れて戻ってきた。自分は横になり男の子に歌を聴かせ、パパのところへ戻りなさい、と言い聞かせている。誰かが早く寝た方が勝ちだ、と喋っているのが聞こえる。一番遅く(9時頃)チベット人親子が戻ってきた。ドメトリーの扉が片方閉まらず、空き放しだが全く危ない感じはなく、ぐっすり寝てしまう。 ★夜は昼間の疲れもあって、昨日の残りのチャンを飲んで眠ることにしましたが、酸化してアルコールも飛んでしまっておいしくありませんでした。

7月25日(木)

 中国人は朝が早い。5時頃から起きてごそごそやっている。成都行き(大抵の人はこれに乗るはず)は9時40分発で8時40分に行けばいいんだし、しかも目と鼻の先だ。なぜ・・・?皆いったん外に出て朝食を食べに行ったらしく、戻ってくると7時にはもう出払ってしまった。チベット人達も6時には起き、お父さん達も来て荷物整理をしている。チベット人のお父さんが入ってくると、それまでさかんに喋っていた中国人達はなぜか黙り込んだ。私も上だけ着替えたかったので困ったが、トイレで着替えた。広東人らがバイバイと出て行き、最後に私も8時頃出る(ドームにいてもやることないので)。
 チェックインを済ませ、暇でみやげ物屋をうろうろする。トイレの洗面で隣になった女性が、水が出ないので貸してくれ、という。彼女の話では、今朝ラサは断水していたそうだ。チベット人ガイドでこれからお客の出迎えだという彼女は、白いファウンデーションを塗りはじめ、「あれ?私の顔今日ちょっと変」とか言って鏡をのぞき込んでいた。

 待合室にゆくと、ピンクハウスの子も、四川省の人も、美人の親子連れも広東人グループもいた。広東の一人に「なんであんな早く出たの?」と聞くと、中国の飛行機はどれも満席だ、みんな心配だから早く行くんだ、という。あのドメトリーの人達は皆この便よ、と言っていた。どうやらオーバーブッキングも多いようだ。
 11時半成都に着き、12時から上海行きのチェックイン開始。チェックインの時、皆並ばずに横から切符を出し、職員もそれをどんどん受け取る。そこでしっかり前を詰めるようにしたが、私の前のお爺さんが大きな荷物を抱えていかにも慣れていない感じだ。
 案の定、はしこいスーツ姿の男が爺さんの前にすっと割り込んだ。ということは機内で隣同士になるわけだが、その後二人は機内で仲良く話し始めた。人の良さそうな爺さんはラサから上海に出てくるところらしい。2ルートとも西南航空で、中のビデオも同じものをやっていた。チベット族に尽くす西南航空、解放軍、みたいなミュージカルビデオクリップもあって、歌の場面とき後ろの人がトントン拍子を取ったり、隣のおじさんが一緒に小声で歌っていた(繰り返しやるので確かに覚えてしまう)。

 上海では、ユーコさんの知り合いの中国人のお姉さんMさんが迎えにきてくれる。彼女がホテルを予約しておいてくれたのだ。空港からの道、ゴルフ場の広告が目に付く。また町からは、かつてのエンタシス風社会主義系建築物が姿を消し、日本の会社のビルのような建物ばかりになっている。ラサも建築ラッシュだったが、上海も工事が多く、高速道路も出来ていた。将来環状線になるという。車が非常に増え、上海のタクシーはVWがほとんど、その他トヨタ、日産、フォードを見かける。

★この日は、チベット最後の日。全くの自由行動なので、ちょっと寝坊しました。午前中は、市内のもう一つの尼僧寺院に行こうとしたのですが、言葉が通じないせいもあって、どうしてもたどり着けず、なんだか胃も痛くなってきたので、ホテルに戻って私は一休み。どうやら疲れが出てきたようです。エミさんは私が休んでいる間に、ホテルの近所のお土産屋さんを偵察。お昼は部屋で、エミさんが成都で仕入れたカップヌードルを食べました。午後、休んだら調子も良くなってきたので、二元バスで八角街へ行って最後の買い物です。八角街とその周辺には、今から考えれば何回も通っちゃいました。もう一度ゆっくり歩いてみたいものです。その後も、お土産を買わねばとホテルの中や近所のお土産やさんをうろうろ。

★この日、最後の夜ということで、夕食はホテル内の豪華チベットレストランにすることにしました。チベットの音楽や踊りなどのショーがあり、王侯貴族のような待遇でしたが、それなりに値段も高く、外で食べたら何回分だろうと思わず計算してしまいました。またビールが1本30元と料理より高い感じだったので驚きました。

 夜、Mさんと上海の街に出る。南京路にある新世界デパートの最上階が様々な店の入ったセルフサービスの食堂で、親子連れ、カップルで賑わっていた。二人で色々な店からあれこれ頼んで夕食をとったが、この時春巻を落としてしまった。するとそれを見ていた係の女の子がすぐ取り替えてくれた。えっ中国でこんなのあり?とまたまた単純に感激。デパートの中も、かつてのやたら高い天井、薄暗い照明、手前のケースや後ろの棚に素気なく積まれた品物、といったスカスカのイメージからうって変わって、レイアウトも日本に似、照明も明るく商品が所狭しと華やかに並んでいる。街を歩いていてもかつての人民服を着ている人はまず見かけない。一度セラ寺近くでお爺さんが着ていたのと、上海で着ているお爺さんを2、3人見た程度だ。34才のMさんは人民服(中山服)や人民公社という言葉を聞くと笑いだし、そんなもの未だに着ている人はもういない、年寄りだけだ、あれはもう時代遅れで今はない、と軽蔑した口調で言った。彼女の目下の関心事は、7才の一人娘の成長とタクシー運転手の夫がついに自分の車を買ったこと。しかし年齢的にみて彼女が18歳のとき、初めて中国で学力試験による大学入試が始まったはずだ。それまでは共産党や職場単位の推薦による大学入学で(10数年前大学の訪中団に参加して幾つかの大学との交流会に出た際、引率の教授から「中国側の今年の一年生は今までみたいな党や職場単位の推薦で入ってきたような奴らじゃないからな、学力試験で全国から選ばれたすごい優秀な連中なんだよ。日本じゃ考えられないくらいのエリートだからお前ら負けるなよ」とはっぱかけられたものだ)、つまり、私とほぼ同い年の彼女らあたりまでは、小学校から中学(高校)時代を文革の余波の中で教育を受け育っているはずだ。しかしNさんを含め今の中国人からはそれがほとんど感じられない。変わり身が速いのか、単にお題目だけで身についていなかった(本音ではなかった)だけなのか、一体何なのだろう?とつくづく不思議に思ってしまった。

さて彼女はチベットには興味ないようで、食べるものあった? あそこは生活水準低いから、少数民族のところでしょ、チベット族は少数民族だから、という。彼女自身は宗教も興味は無く上海にも寺はあるけどそう多くない、と言うが、彼女のお母さんは「お寺はいっぱいある、姑が毎日拝んでいる」と言う。人民広場へ行くと人々がラジカセを鳴らしてダンスに興じている。「太極拳は?」と聞くと、今じゃダンスだ、という。外灘は見事に日本企業の広告場と化していた。シャープ、松下、アサヒビール、日立、その他ぐるりと外灘をめぐる20近くあるネオンの中で、日本企業でないのは、Phillipsとネスカフェくらいか。Nさんも、日立、三菱、みんな日本だ、毎週日曜(1996年夏)にテレビで日本紹介の1時間番組をやっている、それで見る日本の街はどこもきれいだ、という。今回中国に来て、昔ほど日本と大きく違うことはなくなったというと、まだまだ、と言い、このエネルギーを見ていると21世紀は中国の時代かも、と言うと、それはないよ、という。一方、南京路の道端には、時代に乗り遅れた感じの物売りもいた。大抵白のシャツ、グレーのズボンという昔風のいでたちで、ある物売りおばさんのボブ頭に、昔はみんなこのカットか三つ編みだったよな、10数年前は共産党幹部だったりして、とふと考えた。

 

 

7月26日(金)

 7時半にMさんと待ち合わせ、空港バス乗り場まで送ってくれる。お母さんも「4時に来て8時に帰るんじゃ。上海はまる1日いないと」と言う。バスは渋滞がひどく、1時間かかって空港に着く。

 チェックインの際に「搭乗日を変えたらエクストラチャージがかかるよ」と妙なことを言われる。あれ?と思いチケットを見るとユーコさんのチケットだ。間違えて持ってきてしまったわけで、彼女の予約席を今日に変えてしまったことになる。明日席が無いと困るので、事情を説明して私は今日に予約されている自分の席で乗ることに。中国人の係員は「What a problem!」と怒っていたが、OKしてくれた。その際ユーコさん名義の席の予約を明日に戻すことを頼み忘れたのだが、成田のユナイテッドのカウンターで確認したら、ちゃんと元に戻しておいてくれてあった。公共の場でこんなに気の利く中国人も初めてだ、とまた妙に感心し、やはり今は公ではなくビジネスだからきちんとやるのだろう。

 成田から電車で帰りながら、日本人はみんなのんびりした顔しているな、と感じ、そういえば中国の若い子もおだやかな顔つきの人が多くなったな、と思う。理想を語っていた昔に比べ、むしろ仕事ぶりははるかに良くなっているわけで、やはりあの頃は皆無理していたのだろうか。以前に比べ会う人皆(チベット関連は別として)普通に普通の内容の話をするようになり、まじめさにこちらが気圧されたり鼻白むこともなくなり、その変貌ぶりが一番印象に残った旅だった。

(シアル終り)


 

★チベット最後の朝、薄暗いうちから、ホテルのロビーで迎えを待っていると、ガイドさんは来たのですが、運転手さんがいつまでたっても来ません。空港はラサから100km近くも離れているので、その辺でタクシーを拾うというわけにもいかないようです。飛行機の時間が迫っているので、ガイドさんは他のツアーのバスに便乗させてもらおうと交渉を開始しました。そのツアーは漢族のガイドで、どうしても乗せてもらえません。他にもあたってみましたがだめで、極楽トンボの私達もさすがに心配になってきました。Nさんも必死の様相です。しばらくすると、乗せてもらえる車が見つかったということでやれ一安心。でも、乗せてもらったといっても、荷台に荷物と一緒ですが、この際贅沢は言ってられません。
(続きは下へ・・・)

(右上の欄から続く)

★便乗させてもらった車には、チベット人家族らしき人達が乗っていました。Nさんによると、どうも自治区の高官らしいということでした。私達が毎日乗っていたのと似たトヨタのランクル車ですが、なにせ我々のトヨタと違ってピカピカです。さらに警察の車らしいものが先導していて、他の車をぶっちぎってノンストップで走っていきます。お陰で、予定より早く空港に着いたような気がしました。話では、中央政府の高官が来るので、その迎えに出たということらしいです。Nさんはまたその車に乗せてもらって帰るということで、慌ただしく別れました。

★ラサから成都までは、順調に飛び、成都の空港で上海行きに乗り換えです。待ち時間の間、空港の中でうろうろしていました。その間、行くときに成都を案内してくれたガイドさんに偶然会ったり、ぼーっと立っていたら、制服姿の女性の公安(だと思う)に中国語で尋問(?)されかけたりしました。二人とも全然分からないので、「We are Japanese. We cannot speak Chinese.」と言ったら、困った顔をして即座に「解放」してくれました。また、私達得意の筆談攻勢で両替をして、そこで私はあやうくパスポートを忘れるところでした。親切な係の青年が追いかけてきてくれて事なきを得ました。危ない危ない。

★上海行きの飛行機は、成都独特の霧のために二時間ほど遅れ、ゲートの待合室で暇を持て余しましたが、それでも無事飛んで上海に到着。

★上海では、シアルさんを案内してくれたMさんが迎えに来てくれていて。まず、ホテルにチェックイン。私の友達の友達のお姉さんであるMさんとは、初対面です。彼女が英語をほとんど話せないため、最初から最後まで筆談づくしということになりました。なにせ、メモを持ち歩いて、何か聞いたりする度に字を書かなければいけないので、なかなか大変です。出かける前に、台湾の友人から中国語をほんの少しだけ教えてもらっていましたが、挨拶程度で、即席の勉強では会話が成立するはずもなく、お互いに大変な思いをしました。また、筆談でも、簡体字が分からないため、これまた苦労しましたが、それでも、仏教漢文(お経のことですハイ)を少し勉強していたため、書いてある文章は大体理解でき、少しは助かりました。

★シアルさんと同じように、私達もMさんから新世界デパートのセルフサービスのコーナーを案内され、そこで夕食にしました。近代的できれいなところですが、大勢いる人々をかき分けかき分け、Mさんにこれとこれ、と指して注文して、食べ物を受け取るのがちょっと大変でした。ここもビールが缶で一個30元もして、他の料理より高いのが目に付きました。

そのあと、歩きながらデパートめぐりをしました。大体皆近代的な感じで、あか抜けていましたが、一カ所だけ、シアルさんの言う「かつてのやたら高い天井、薄暗い照明、手前のケースや後ろの棚に素気なく積まれた品物、といったスカスカのイメージ」のデパートがあって、一昔前の中国を味わう(?)ことができました。その店では、あの名高いお金が飛んでくる様子を、貴重にも目の当たりにすることができました。

★その後も、上海のメインストリートを歩いたり、バスに乗ったりして、東方明珠の見える有名な公園まで来ました。とにかく、人の多いのにびっくりしました。どこからこんなに人が湧いてくるのだろうと思うほどの人出です。後で聞いたら、上海は中国一の人口なんですね。東方明珠を見渡す公園からは、シアルさんの言うように日本企業のネオンがひしめき、どこの国かとみまがうほどでした。

★Mさんは、この後どこへ行きたい?という風に聞いてきましたし、上海の夜はこれからという感じでしたが、さすがに疲れたのでタクシーに乗って帰りました。ふう、今日一日で一週間分くらい歩いた感じです。エミさんと二人で、「Mさん、シアルさんと一緒で、きっと、日本人は散歩好きだと思ったんじゃない」といいながら、寝ようとした矢先に電話が鳴りました。日本からで、くだんのシアルさんです。航空券が私のものと逆になっているということでした。大丈夫だろうけど航空会社に説明したほうがいいということだったので、私は顔面蒼白。シアルさんの航空券は今日の日付だから、もしかして、キャンセルになっていて、私は飛行機に乗れないかもしれない、と考えたのです。もし乗れなかったら、異国で置いてけぼりです。その情景が頭に浮かび、どうしようどうしようと一人パニックに陥りました。とりあえず、Mさんに説明して、乗れなかった場合、航空会社に交渉してもらったり、泊まるところを確保してもらおうと、辞書と首っ引き(持ってきて良かった)で、一時間がかりで書いたこともない中国語もどきの文章を作成し、不安におののきつつ、その割にはぐっすりと寝てしまいました。

 

7月27日(土)

★朝、ホテルで香港式の朝食を済ませ、Mさんが迎えに来ると、早速メモを見せました。どのくらい正確に伝わったかは怪しいこと限りなしですが、とにかく意味は通じたようで、ちょっと安心しました。

★空港に着くと、チェックインカウンターで、航空券が取り違えられたが大丈夫かと聞きました。説明に苦しんだものの、おりよく乗客に中国語の分かる日本人女性がいて、話を通してもらいました。何とか大丈夫らしいことが分かり、チェエックインを完了して一安心。Mさんと別れようとした時、今度はどこからともなく、私達の搭乗機が欠航になったという話が飛び込んできました。Mさんにもう少し待ってもらい、カウンターに聞きますが、どうなっているのかさっぱり埒があきません。中国語の分かる女性も、欠航したらしいことが分かっただけで、どうなるのかは分からないそうだと言いました。しばらく経つと、欧米客や先ほどの女性には代替機が用意され、乗り込んで行きました。どうやら英語や中国語が苦手でクレームの付けられない客が後回しにされているようです。そこで、そこにいた日本人同士で航空会社のオフィスにクレームをつけに行き、中国語のできる人が交渉しました。しばらくみんなで文句をいいながら粘っているうちに代替機が用意されるということになったのですが、航空会社の誠意のない対応に日本人客はみんな怒っていました。私も頭にはきましたが、これが中国の現状なんだということが分かり、複雑な気持ちになりました。また、言葉の問題が、大げさに言えば、運命を左右することにもなるのだと改めて感じました。

★ようやく、代わりの飛行機が決まりましたが、別の航空会社の便で関西新空港まで行って、そこでまた乗り換えて羽田に向かうということになり、帰国の時間が大きく遅れることになりました。それでも、香港などの外国での乗り換えでなかったので、よしとします。

★ここまできて、やっと予定がはっきりしたので、ようやくMさんとお別れすることができました。今日一番大変だったのは、ひたすら待っていてくれたMさんだったのではないでしょうか。こんなにお世話になったのに、ろくなお礼も言えなくて本当に済まなかったと思っています。

★その後は、特に混乱もなく、無事に関空に着きました。関空では羽田行きのウエイティングの整理券が配られたのですが、極楽トンボの我々二人は遅く受け取ったのでまたまた後回し。4便目ということで、4〜5時間待たされました。新幹線の方が早いと行ってそちらにした乗客も多く、私達もどうしようかと考えたのですが、もう日本国内に着いているんだし、明日は日曜だからそんなに急がなくてもいいやということで、関空内のレストランで食事をして、空港内をぶらぶら見物しながら時間をつぶしました。まあ、できたばかりの関空の見物ができたということで、これもよしとしましょう。

★日本に着いたところで、関空から両親に帰国報告の電話を入れたところ、両親は開口一番怒鳴りつけるではありませんか。なんだなんだとアゼンとしていると、帰国便の到着時間になっても連絡がないので、大心配していたのだそうです。おおそーだった、両親のことをすっかり忘れていました。成田まで迎えに来てくれる予定の友達には、上海から苦労して電話をかけて、変更を知らせたのですが、両親には連絡するのをすっかり忘れていたのです。なんて親不孝な娘。両親は心配のあまり旅行社に電話をしてしまい、私は旅行社にまで心配をかけてしまったのでした。

★こんな、落ちが着きましたが、問題も沢山あるけど憧れていたチベットと、急速に変わりつつある中国をからだいっぱいに体験して、チベット旅行は無事に終ったのでした。

(エミ、ユーコ終わり)

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