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この旅行では大学を何校か訪問した。その一つ、F大学。
バスの中ではN氏から皆に「今年の一年生は高い競争率の入学試験に受かって入ってきた連中ばかりでものすごく優秀だからな、おまえら負けるなよ」とはっぱをかけられていた。
きれいにソファの並ぶ部屋へ通され、お茶が配られる。F大学側からは日本語課の学生が十数名出席、まず教授から大学の紹介があった。
「今ここにいる者は試験を受けて入ってきた者ばかりですから、大変に優秀です」と教授は大変な誇りを持って言った。試験とはどんなものなのか尋ねると、日本語で
「共通一次」、そして教授は共通一次について話してくれた。ほぼ日本と同じ形式で、
「他の大学ならば四五十点で合格できても、うちなら五百点以上」と大変な自信を見せる。一次志望、二次志望とあり、一次に落ちると、二次、三次にまわされる。また都市と農村では、同じ大学内でも合格ラインに差があるとも聞いた。
フリー質問に入った。やはりみな、試験制度に興味を持ち、随分質問が飛んだ。そこでわかったことが、すでに小学校でエリート校が存在するという事実だった。そうした学校内にはエリートクラスがあり、いい中学、高中、大学へと進んでゆくという。「今来ている人はみなそういった人ばかりです」
文革中に入ってきた人達について尋ねた。すると教授は、良い人はよいが、悪い人は小学校程度で較差が激しく、教えにくかった、と言葉を選びつつゆっくりと言った。F大学では一九六六年から一九七二年までは学生をとらず、その後七六年まで推薦制だった。当時は学生がテストに反対していた、と頷くようにして言う。その後募集方法を改革して、成績優秀者を取るようにしたそうだ。
これはなかなかに衝撃だった。高校の図書館に「青春の北京」という西園寺氏の本があった。ちょうど文化大革命の始まる前後、中国に留学していた記録で、文革が始まり級友たちがどのように行動していったかが、文革寄りの立場で描かれていた。温かい視点で書かれていたこともあり、頭でっかちのエリートではない、人柄もすぐれた人を大学に推薦、という方式は良い面もあったのではないか、と漠然とした期待があった。
続いてグループ別の討論会に入った。二班は女子学生Aさんと男子学生D君と一緒になった。
私達はまずエリート制について尋ねた。D君はエリートの意味を尋ねたあと、
「学生にとっては嬉しいことです。しかし国家にとっては損失です。良い学生のところにはよい先生が来ますが、できの悪い学生のところには行きません。できの悪い生徒は伸びません。この方法は、学生は喜びますが、国家にとっては損失です」と言った。
「あなた方中国人は、いつも国家にとってどうてあるかが考え方の根底にあるみたいですね」
「そうです。国家のことをまず考えます」
「私達は違うな」
F大学の学生たちの出身地について尋ねると、かなりいろいろなところから来ているようだった。地元の人は自宅から通学だが、たいていは宿舎に入っているという。宿舎(寮)は人間関係が難しいと日本では人気がない、と言うと
「中国でも中にはうまくやってゆけない人もいます。でも中国人は集団生活に慣れています」
「うまくやってゆけない人はどうしているんですか」
「仕方ありません。でも、勉強にがんばればいいんです。勉強ができれば、級友たちも一目置きます。勉強ができればつらいこともなくなります」
それはそうでもないんじゃないか、と思った。勉強がいくらできても、寂しい人は寂しい。しかしここを突っ込むと話が込み入りそうだったのでやめた。
二人とも日本語を学ぶのは将来に役立てたいからだ、という。
「でも中国では自分で仕事を探せない。日本ではできますね?」
「ええ。国家から決められるわけですね?」
「そうです。自分で探して決めることはできません」
「あなたはそれをどう思いますか」
「つらいです。たとえばこの学校に英文の仕事が三人来たとして、しかし学校には英文専攻の学生が二人しかいないとします。すると、日本語課から一人行かされます。自分の専攻は生かせません。これは大変につらいことです」
なかなか正直なので、こちらも
「でも日本でも仕事を選ぶのに、専攻を生かすというよりも“良い会社”をめざすことのほうが多いですよ」と言った。
しかし彼は納得しなかった。
「自分で仕事を探せる、ということは羨ましいことです」と彼は繰り返した。「中国の学生も“良い会社”をめざすことは同じです。中国には三つの職種があって、工員、公司、幹部。F大の学生は工員には行きません。公司か幹部です」
日本人学生らは中国語をかじっているものの必ずしも中国語専攻ではなく、史学科や経済、法学などばらばらで、さらに専攻に関係なくジャーナリストになりたいとか、本当は小説を書きたいと言っている者がいた。それを知ったD君は、
「日本の学生さんはいろいろなことを学んでいますね。中国の学生はだめです。専門しか学ばせてもらえません」と寂しそうに言った。
「でも逆に全部中途半端かもよ。夢で終わったりとか」
「国家の必要で勉強することも決められてしまっています。中国の学生は専門しかやっていないから、日本の学生さんのほうがよいです」
Aさんはなかなかきれいな人で、軽くお化粧をし、当時珍しくスカート姿、しかもサンダルをはいていた。この旅行に来る前の心得として、N氏から「まだ纏足の習慣を覚えている人がいるから、女性はサンダル履きをしないように」(つまり足先をなまで見せると性的に興奮する人がまだいる、という)と言われていたのに、である。
男子らがさかんに「芸能関係に興味はないんですか」、
「女優になるつもりはないんですか」等々尋ねる。
「勉強したいから大学に入ったわけでしょ」と日本人女子が牽制する。
Aさんはすらりとしているのに「太っている」と気にしていた。「二十二歳なんて、もうおばさんです」とも言った。「一日何時間勉強するんですか」との問いには、8時間と言う答え。学校終わってもやることないから勉強している、とのことだった。
ところでAさんのサンダルの片方のホックが壊れていた。それをT君が
「それ壊れてるよ」と指摘した。すると彼女は耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。
帰りのバスの中でN氏が
「みんなズボンなんかもさ、すりきれたやつをきちんとアイロンかけて大切にしてはいていただろ。別に物持ちがいいんでもケチなんでもなくて、彼らにはあれしかないんだよ」
このあと、旅行で出会った何人かの中国人学生と文通を続けた。みな実際会ったときにはフランクに語った「国家によるXXはいやだ」という内容を、手紙ではいっさい書いてこなかった。一度「あのとき聞いた“XX”という話について」と手紙に書いたら、当人から
「中国でお会いしたときには、どんなに中国がすばらしい国家かみなさんにお話しました」という内容の返事が来たことがあり、しまった、と気が付いた。中国にはまだ手紙の検閲があったのだ。
その後D君は東大の大学院に留学し、日本で再会した。そのまま日本で大手商社に勤め、さらにアメリカに渡っていった。
旅の後半、一部の人達は実質的に引率していたN氏に対してかなり不満を募らせていた。中国の事情に詳しいのにあまり教えてくれない、宿のこと、訪問先のことなどが問題点としてあがっていた。宿や訪問先の件は、当時の事情から鑑みても、彼のコントロール可能な範囲を超えていたと思うが、よく内輪で話し合いが持たれた。
中心になっていたのはおもに法学部のOさんと聴講生のW氏だった。
W氏は他の学生より一回り上だった。法律を学びたくて小学校の先生をやめ聴講生になったという。生計は家庭教師で立てている。実家は地方の本屋で、月末に集金して本代を集める方式だった。小学生の頃からその集金の手伝いをして歩いて回ったという。「大変な仕事ですよ。いないと何度も回らなければならないし。ぼくのすぐ下の弟も手伝ったからおやじやおふくろの苦労、というのはわかっている。けれどその下の弟や妹達は手伝ったことがない。そういう連中が金をせびるんだな。ぼくにはとてもできないねえ、そんなことは。おやじやおふくろの苦労を知っているから」
Oさんは熱血派だった。
「Nさんは教員免許を持っている。大学にいられなくなったら使うかもしれない、て言っていた。でも今のNさんは教育者じゃない。いろいろ中国のことも詳しいし、率いる立場にいる人なのに、教えてくれようともしない。私はあの人に変わってほしい」と熱く語った。
W氏は彼に何を言っても変わらない、無理でしょう、と言い、Oさんは
「彼は教職につく可能性がある、変わってほしい、信じている」と言った。
なんとなくやりとりを聞いていて、中国語の一年生のクラスに“学費値上げ反対闘争”のオルグに来た上級生の男女ペアを思い出していた。当時すでにオルグなど古い言葉だったが、それでもまだ残滓があり、そうしたことがあった。
その“闘争”に一時間だけ授業を貸してほしい、という二人に、さすが中国語の先生というべきか「そういうことならいいでしょう」と授業の討論会変更に許可を出した。
二人が交互に述べる現状説明と支援のお願いに、男子学生らは結構乗って、賛成にしろ反対にしろ熱くなって議論していた。オルグに来た男子学生のほうは緻密な理論家といった感じで、ときおり手にした棒で机の上をはじきつつ冷たく解説していた。女子学生のほうはいかにも“革命物語”に出てきそうな、はつらつとした女性で、目を輝かせて語る。すごいな、こうした人たちを本物で目の前で見ているよ、と興奮してやりとりを見ているとき、隣に座っていた女子が
「あの女、あっちの男が好きだからやってるんだよ」と言ってケケ、と笑った。
帰国数日前、ついにN氏と学生側全員とによる話し合いがもたれた。普段は理論武装して怖い印象のN氏だったが、このときは案に相違してやさしかった。興奮した意見に対して
「うん、まあそうよね」とまで言った。しかし「君ら大学生だろ。なんでそうまでしなくちゃならんのか」「大学生なんだからそこまで要求すんなよな」
「まあそれもそうですね」Oさんも自然とうなづいていた。「彼は教育者じゃない」という彼女の持論がうまくまるめこまれた感じで、さすが元全共闘で委員長をしていたという噂だけに、そのへんのもってゆきかたはうまいなと感じた。
その晩、食事のときにN氏と同じテーブルになったKさんやMさんらが
「彼は話すと迫力がある」「あの雰囲気はとても口では言えない」「私達にはずいぶんいろいろと話してくれた」と感激していた。中国の事情の解説からはじまり、今は名前が残らなくてもいい、百年後に認められれば、教授になると余計な時間をとられるばかりで研究できない、だから地方の大学で教えながら研究を続けたい、等々話したらしい。
Kさんは
「あれはいい男だよー。ああいう男には惚れちゃう」とまで言っていた。
それに対しT君らは
「でもあれは誰でも良かったんじゃない?要するに話し相手がほしかったんだよ」としらけていた。
そして翌日。N氏は学生らに向かって大いに解説を開始した。これはこうで有名、あれはかつてこうだった、これは実はこうなのだ、等々。OさんはN氏を“変える”ことができたのだろうか。とにかく、このあと最後までN氏は“知識”を伝えることに協力的だった。
帰国間近の食事の席で、N氏と同じテーブルになった。
N氏に声をかけるのは怖かったが、気になっていたことを聞きたかった。それは、文化大革命が始まったとき、多分N氏はもう高校生くらいだったはずで、そのときどう感じたか、ということだった。
N氏は質問に一瞬詰まったようだった。そしてゆっくりと、
「あれが始まったときはねえ、興奮したね。一体何が始まるんだろう、て。何かとても新しい世界が開けるんじゃないか、てそんな期待があったね」
N氏はまた例の遠くを見るような表情になった。そして、この旅行が終わったら大学を辞め、教職に付く決心がついた、と言った。
ところで、N氏は大学紛争時代、ほとんど母校には行かず、京大と東北大を行ったり来たりして、好きな授業を聴講していたという。「国立大学なら誰でも聞かせてくれるよ。要は熱意だからね」高校は京都だったが三年間で合わせて十日も行っていない、高校へ行こうとしてもこん棒持ったやつが待っていた、とも言った。日本の高校や大学にも、そうした時代があったのだ。
(『すい星』十三号掲載)
『すい星』発表作品
九号[カルカッタの少年]
[台湾の廟]
十号[カゲジ]
十一号[端神(1995)] [端神(2000)] [山武の陸田]
十二号[菅井新聞店]
十三号[卒業旅行]
創作作品
[目次] 評論
[目次]
旅行記
[中国1980]
[胡同]
[北京1999]
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