1980年代の台湾旅行


 1980年代の台湾は、韓国同様まだまだ男性天国のイメージが強い国だった。しかし中国語学習仲間に誘われて旅行し、実際に行ってみてとても好きになった。国全体が友好的で明るい雰囲気、行くと元気が出る感じがあり、その後何度も訪問することに。

 最初に台湾を訪問したときの第一印象は、「思ったよりも豊かな国だな」。同じ頃訪問した別の友人は「三十年前の日本と同じだ」と言っていたので、実際はそうだったのかもしれないが、少し前に訪問した中国がそれまでの期待に反して想像以上に貧しい状態(1980中国)だったため(そして不機嫌な鬱屈した雰囲気が漂っていた)、その反動もあったと思う。

台湾では中国の伝統を感じられる点も嬉しかった。本屋へゆけば明朝、清代、その他王朝時代の衣装の挿絵の入った本を見ることができ、中国茶道でお茶を入れてくれる茶館がある。大陸ではこうはいかなかった。当時の大陸は全般に文化の香りがなく、おみやげの刺繍も細工物もパンダなら、有名料理店の冬瓜スープの冬瓜にもパンダが彫られるなど、どこか安っぽかった。
また台湾では、お寺や廟(ミャオ)が生きた信仰の対象としてさかんに祭られていた。現在は本土でも信仰が復活しているが、当時こうした姿は印象的で、お店に入ってもたいてい孫文と蒋介石、または蒋経国の写真とともに(これは当時の台湾の政治状況)、財神や福徳正神の絵が張られていた。


台湾を旅行するときは、台湾の友人たちが案内してくれたり、自宅に泊めてもらうことも多かった。それで生活風習を少しだけ垣間見ることができたので、気づいた点をいくつか。

台湾の人達は人の間の物理的距離が近い。たとえば、知人のお母さんの知り合いの店に行くと、そのお母さんは店員の女の子達のあごをつまんだりして「いい友達」(そしてお客の私達に「だから遠慮しなくていいのよ」)と、平気でお互いの体に触れ合う。
自宅にも気軽に泊めてくれるところがある。彼らが日本へ来たとき、泊めてくれる日本人は少ないことを承知の上で、である。「いいですよ、日本人の家狭いね、私たちわかってるからそういうの気にしなくていいよ」。当然、中国人どうしでも同様なようで、ある知人の家では一時期、苦境の友人を見返りなしで居候させてあげていたこともあった。

日本に留学していた知人の男性は、一度知り合いになった人とは、たとえ十年間音信不通でも、十年後ばったり会ったとき、昔と同じ親しさとトーンで話せる自信がある、中国人はそういうところがある、と言った。「日本人は違うでしょ。会えない場合は年賀状とかをやりとりして、関係が切れないようにするでしょ。でも中国人は違う。たとえば(同じ留学生の)XX君と、その後十年間会わない、連絡もとっていない、突然道端でばったり会った、そうしたら「あ、XX君」「あ、○○君」、昔と同じに話せるし、それまでの関係がすぐ復活する」

台湾の友人の家:
入ってすぐのところに関羽、周瑜、張飛の像が掛かっていた。またあちこちの家庭で、入り口の両脇に「大家恭喜」「四方安泰平和迎福」といった文字の書かれた赤い札が貼られて入る。

タクシー:
日月潭を旅行したときのこと(台湾人2人、華僑一人、日本人4人のグループ)。タクシーの交渉等は3人の中国人の友人たちがやってくれたが、渓頭を出るとき、最初はバスで行こうとしたが、バン型タクシーが安いというのでタクシーに変更。バスが出たとたん、タクシーの運転手らが交渉中のもう一組をバン型に乗せるから、あんたたちは降りて小型ニ台に分乗してくれ、と言う。
華僑のW君が
「中国人、てこうなんだよなー。もうバス出ちゃって、他に方法がなくなると、とたんにこうなるんだよな」
しかし台湾人Q君が大声でやりあいはじめた。私達は中に乗ったまま、どうなるかと見守る。突然彼はさっと立ちあがり、運転台に腰掛けた。W君が「はじめこっちのタクシー、て言ったのに、今になって二台に分乗なんていうのは契約違反でしょ。だからそれならこっちで勝手に行く、運転手なしでこっちで運転して行く、て言ってんだよな。でもホント、向こうが悪いんだよな」
Q君は窓から首を突き出して尚もやりあっていたが、ついにハンドルを握った。
仲の良い台湾の友人Oさんは
「でもQ君、免許持ってないね」と言い、「アイ、Qシエンション(先生)!」と椅子の背を叩いて止めようとする。しかし彼は後ろを向いて一言何か言うと、本当に運転を始めた。車が動き出す。
「Qシエンション!」となおもOさん。
と、突然ブレーキがかかる。前方に停車中の車がいたためだ。ガタン、となり 「マーマ!(媽媽)」と背もたれに顔を伏せるOさん。
Q君の隣に座っていた運転手も思わず苦笑。
停まった時もなお、何か言いつづける外のタクシー側の人に向かい、Q君も再び顔を出してやり返す。そして
「よし、降りよう」と言う。「300元下げたぞ」
「すげえ、1700元から1400元に下げたんだよな。一気に300元とはすごいよ」とお坊ちゃん華僑のW君。
「中国人は大声でやりあうけど、あれ何でもないね。普段でもそうだから、怖がらなくてもいいね」とOさん。

タクシーでもう一つ。一台に乗れる人数は決まっているが、けっこう平気で6人、7人ギュウ詰めで乗ることを厭わない。ただし、いちおう違法。故宮博物館へ行ったときは、台湾の友人2人、日本人3人だったが、運転手の頼みで、警官の多い街中は一人がみなのひざの上に横になって隠れた。台湾の友人らは面白がってきゃあきゃあはしゃいでいた。
懇丁でも7人乗りをやった。運転手は採算が合わないとぼやきつつ、かつて最高で12人乗せたことがある、あのときは警官が全員下ろしたあと、もう一度入ってみろ、入れたら見逃してやる、と言い、また乗って見せて見逃してもらった、と冗談だか本当だか話してくれた。台湾の人はよく笑うが、同行の友人もこの話にずっと笑い転げ、「病気だ」と日本人の友人ら。それにしても台湾人は笑い上戸が多い。

タクシーでさらにもう一つ。当時、台北のタクシーの運転の荒さは有名で、日本に留学していた台湾の友人いわく「台北のタクシー、恐いね。東京から帰るたび思うね。ああ、今度こそ私絶対死ぬ」。

台湾のテレビ:
当時、台視(台湾電視)、華視(中華電視)、中視(中国電視)の3社プラス華視の教育放送で、平日は終日放送ではなく、朝、昼12〜13時、夕方18〜23時まで。宇宙戦艦ヤマトをやっていた。漢字の字幕つき。台湾語しかわからない人もいるため。

夜市:
台湾の夜市は有名だが、「中国人はこういう店で夜中の二時三時までねばるね」と台湾の友人。韓国へ行ったとき早朝や夜7時以降店が開いていないことが多く食いっぱぐれた経験から(1980年代の地方都市、また当時は戒厳令下で夜中十二時を過ぎると外を出歩けなかった)、食料を大量に持ち歩いていたのだが、それを見た台湾の友人は「台湾で食いっぱぐれるなんてありえない」と大笑いし、他の台湾人にも笑い話として聞かせていた。ところで、台湾ではデパートも夜九時(記憶では十時)まで営業していて、屋上の遊園地で子供が夜遅くまで遊んでいた。大人も子供もいつ寝るのだろうと思ったが、「昼寝するから大丈夫」とのこと。

屋台の小料理はおいしい。友人宅の朝食の豆乳、油条もおいしいが、屋台から買ってくると聞いた。家庭の主婦も気軽に屋台の惣菜を夕食や朝食用に買うと聞き、まだ外食や買ってきた惣菜を並べる習慣の少なかった当時の日本から見て、羨ましい気がした。



続く    写真