カルカッタの少年

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うずしきようこ

 今から十年ほど前、カルカッタに数カ月滞在したことがある。深夜空港に到着すると、古びた建物に照明も薄暗く、停滞したムードが漂っていた。翌朝街に出ると、乾季の土ぼこりが舞い、旧式の車から吐き出された黒い排気ガスで、空はいつも霞んだように薄く曇っていた。
 滞在中は毎日孤児院と救護施設に歩いて通った。路上はいつも、飢えた眼でさまよう人、施しを求める物乞い、煮炊きする路上生活者で大混雑、道端から差し出される手やまとわりつく声を振り払って先へ進むのも、一仕事だった。
 東パキスタン分離独立当時よりは良くなったというものの、街にはまだまだ路上生活者が溢れていた。通りや橋沿いに延々と並んで暮らしており、歩道縁には彼らが炊事洗濯をし用を足した跡が青緑色の帯状に続いていた。街中至るところに人の背丈を越えるゴミの山が積まれ、牛や羊が口を動かす脇で低カーストの人々がゴミを拾っていた。そして店で物を買えば、ゴミ山からリサイクルしたビニールに入れて渡された。
 子供が大人に混じって働き、父親から自分のカーストの仕事を見習っていた。いつも同じところ同じ物乞いがおり、癩病やくる病の体をさらし、足の萎えた男が手製の台車に乗って移動していた。彼は、信じられないスピードで両手で地面を漕ぎ、道行く人の服を掴み、施しを受けるまで離さなかった。

 ある目抜き通りに、両手のない十二、三歳の少年が仰向けに横たわっていた。彼の両腕は左肩先数センチを残して、刃物で切り取ったかのごとくきれいに無かった。少年は人が通ると上体を起こし、唸り声を上げて体を揺すった。ときに炎天下、疲れたのか眼を閉じて眠っているように見えることもあった。両腕の無いほかは、しなやかで均整のとれた体の美しい少年で、それがかえって奇異だった。側行く人はさりげなく身をかがめ、一パイサ二パイサと脇の小皿にいれていった。
 ある日帰りが遅くなり、夜十時頃その通りにさしかかった。この頃の十時はもう深夜の感覚で、店は閉まり人通りも無かった。ふと歩道の前方に、物乞いが生業のカーストとおぼしき人々が十数人、車座になって談笑している。近づくと例の両手の無い少年も年下の少女と快活に喋っている。二人はふいに立ち上がると、じゃれあうように大人たちの間を駆け回り始めた。年老いた女性がたしなめ、少年は元気に何か言い返し、敏捷に飛びはねた。
 その後少年のそばを通るたび、彼のことを注意して見るようになった。少年は人が通るとやはり唸り声を上げて体を揺すった。その時必ず、ちらりと横目で小銭皿の中身を確認していた。そして日中、大通りに横たわっている間は、一言も言葉を発しなかった。

 十年ぶりにカルカッタを訪れる機会があった。久々に降り立った空港は近代的なビルに改築され、天井も高く明るい照明が眩しかった。街も一変し、おしゃれなブティックやレストランが出現、車も最新型が多く、道も路地裏に至るまで舗装され、同じ季節に来たはずが乾季のほこりっぽさも消えていた。
 あれほど多かった物乞いも路上生活者も、不思議になるほど見かけなかった。種種雑多な人々で混乱していた通りや橋も、整然と行き交う通行人で、すっきりと広く感じられた。道行く人は皆忙しげに目的をもって移動している様子で、もう他人に興味を示すこともなく、立ち止まったり話しかけてくることもなかった。
 人々は何がしかの職を得、筵編みの簡易住宅に住むようになり、ステップアップしているようだった。ゴミも堆肥として近郊の農村に運ばれ、ゴミの山も青緑色の水たまりもほとんど見なかった。働く子供も減り、かわりに制服姿が増えた。都市部は学歴社会になり、もうカーストで職業を選ばなくなりつつあるのだ。
 拍子抜けした気分で街を歩き回るうち、あの少年のいた通りに出た。ここは今も目抜き通りで人通りも多い。しばらく行くと、前方に青い敷物が敷かれ、その上に男性が俯せに横たわっていた。彼も両腕が無かった。左側だけ上腕部が三角形に十センチほど残っており、その部分で地面を叩いて唸っていた。道行く人は以前と変わらず多いが、皆せわしげで彼にさして興味も持たない様子で空気のように通り過ぎていた。敷物の回りだけ避けるように空間が空き、布の上の小銭も数えるほど、それも今はもうあまり使われないパイサ銭ばかりだった。
 彼の姿は小綺麗になった街にはそぐわなく見え、私も立ち止まれず、そのまま流れに乗って通り過ぎた。

(『すい星』九号掲載)

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