カゲジ

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うずしきようこ

 千メートル級の山々の連なる四国山脈を分け入った奥には、つい先頃まで焼き畑の行われていた村が点在する。たいてい単線のひなびた駅からローカルバス、町営バスと乗り継ぎ、さらに山道を数キロ歩かないとたどりつかない、交通の便の悪いところにある。

 バスも年々本数が少なくなって、と町営バスの運転手は言う。数名の乗客は年寄りばかりで、今どうや、二千四百対何とかで激戦や、一票差や、と町長選挙の話をしている。途中、本道からはずれた集落に迂回しつつ、XXさんは最近また倒れたの、と運転手が話しかけた。おじいさんは、XXさんはずっと入院しちょらんかったか、と答えた。運転手は、一度高知の病院に入院したが、退院してしばらくこのバスで買い物に出ちょったぞ、それが最近見かけんの、と言って黙った。
 終点で運転手は、村はこの先だ、誰か年寄りがおるやろ、と上を指さした。ここからさらに数キロ、木々の間に点在する段畑には、唐黍、田芋、そして粟、黍、高黍など雑穀類が日を浴びて静まりかえっていた。野菜畑はけもの避けの青ネットに囲われていた。車も通らず人も通らず、しんとした山道を行くと、視界が開け、石垣の合い間に建てられた家々がつづら折りの道に沿って山上へとのぼっていた。
 やはり人影はなく、廃屋になった家屋が目につく。あちこちに積まれた刈り草の三角錐が、夏草に埋もれて崩れかかっていた。集落の一番上、村はずれの一軒も廃屋で、隣に真新しい墓石が建っていた。その先は林道で、ナンバープレートをはずされた車が何台も並び、ツタが這いのぼっていた。来た道を戻り、雑穀畑に寄ると、お婆さんが一人座っている。声をかけると、今日はそば蒔いたところだ、と立ち上がった。藁がとれない土地で刈り草で編んだという古風な背当てを着ており、四十度以上ありそうな急斜面の畑を案内する。雑穀は豆と混ぜて蒔くんだ、土を抑えるには刈り草を鋤込むといい、地這きゅうりやかぼちゃが勝手に生えたがよく成っているよ。今じゃすっかり農業も変わってしまった、ここらの斜面は皆焼いたんだが、年寄りばかりだし、どこも植林されて焼ける山もない。山仕事は景気が悪いし、子供らも皆山を下りた。雑穀を作っているなら、そばと高黍の種があるから持っていくといい。
 帰りのバスも行きと同じ役場勤めの運転手だった。誰かおったか、あの集落にも昔は分校があり、三十年前には三百人からの子供がいた。それが今はこのバスで学校に通う小学生はどこそこに三人、二人、一人、計六人だ。あと二十年もすればたいがいの村はなくなるな、みんな百まで生きんじゃろ。町の選挙に自民党何々党カンケーないよ、みんな家の近いほうに入れるからな、でも多分両方とも自民党系なんだろうな。

 次の村も鉄道の駅から民営バス、町営バスと乗り換えて町役場に出、さらに別のバスで山中に入る。橋のたもとでバスを下りたあと、川沿いに二時間弱山道を上った。家も畑もまったく見ない林の中を行くと、やがて目線より高く、山腹に集落が広がった。畑や耕作放棄された棚の間を、さまざまな方向へ急な石段が通じている。段畑の隅には村のやしろの札が立てられ、立ち寄った廃屋の戸口には蘇民将来子孫門也の札が貼られていた。お堂脇には平家落人集落の由来を記した立て札が倒れかかっている。はじめは無人に見えた集落だったが、畑の畦に入ると、こんにちは、とお婆さんが声をかけてきた。焼き畑はもうやっていない、最後に焼いたあと檜や杉を植えていった、檜や杉は燃えやすいから火を出すわけにはいかない、と言った。そして、今木材は安いがこのあとどうなるんだろうか、と呟いた。昭和三十年頃、村は萱葺きから瓦葺きに変えたが、下から瓦を歩いて運んだ、一回に二十五枚づつ何度も、やはり茅葺きは一旦火がつくと一気に燃えるからね。最後に残った孫がこの前学校に通うため高知に下りたが、ここで生まれたのになんでここで生きていかれんの、と言っていたよ。そういえば林業組合に外国人が来たよ、役場からこの村の小学校跡まで自転車で来て、そのあとはバイクで登ってゆくんだ、すごいよ、自転車のが気持ちいい、て、木を切るのも電ノコでなくナタで切るよ、仕事のあとは奥さんの母親の車椅子を押して散歩してる、よくやるね、てみんな感心している。

 次の村を訪ねるため、橋まで戻りバスに乗る。やはり乗客はお婆さんばかり、一人手術をしたのか顎のないお婆さんがいた。途中一人また一人と降りてゆき、そのお婆さんと二人残り、終点で一緒に降りた。彼女は荷物を背負い、カゲジXX線林道と書かれた道を杖をついて下って行く。この先、川までおりてまた山をのぼったところに集落がある。本道を峠へと登る私が下へ向かって声をかけると、おういと返事があった。

(カゲのつく地名は焼畑村の斜面でよく耳にする) 

(『すい星』十号掲載)

付記(一九九八年)

 仁尾ガ内で聞いた話の続き。雑穀は昔は作ったけど今はほそぼそだ、畝はたてずに適当にぱっぱと蒔く、小豆とキビを混ぜて蒔く、昔からそうだ。米やトウモロコシでもそうだが、タカキビも苗をたてて30cmくらいになったら上をちぎって植えかえる。三角形に植えて昔だったら中央に肥やし、今は化成をやる。そのまん中の土地は土寄せにも使うので、水と肥料がたまる。マルチはするが、藁がないので草でする、ちゃんと草刈り用の場所があって皆そこから刈って来る。雑穀の精白所は下の町にある、昔は水車だった。
 斜面で土が流れるから、土を抑えるには木の葉と刈り草を鋤込む。今年は天気が良くて米にはよかったが、田芋が小さい。ここらで農業をやるのは大変で、お茶や唐辛子をやっている人はいる。かつてはみつまたもやったが、今では火の焚き付けに使っている。新規就農者はいない、聞いたこともない。ただ下に別荘をたてている人はいる。
 霜は12月に降り、1月が一番寒い、雪も積もってなかなか溶けない。今は冬だけ下の子供のところに下りて過ごしている。買い物は週に二回、行商が入るし、あとは車かバスで町に買い物にゆく。

 椿山で聞いた話の続き。焼畑をやっていたところは向かいの山、植林されたところ全部、どこでも。その指さす先はかなりの急斜面だった。向かいの山へゆくには、いったん谷を下りて川を渡るかぐるっと奥へ回るかしかなく、大変だったという。穀物は重いですよねというと、「重い重い、大変だった」。精白は水車で、神社のそばに今でも残っているのではないか、という。
 歩いて来た道は、昔は馬車が通っていたそうで、今では行商の車がきて買い物にいい。下に分教場のあとがあるが、お婆さんが子供の頃は50人くらいいたが、今では子供は一人もいない。空家はいっぱいある。やはり新規就農者は聞いたこともないと言っていた。

 須崎駅から檮原へのバス。しばらく川沿いの道をゆっくり登るが、桂集落へ向かって急な登りになる。集落自体が山上近くに位置し、雲上の村のよう、村を抜ける道も家と段段畑の間を縫ったヘアピンカーブの連続だ。向かいの山並みも、中腹に田畑と人家が見え、下のほうは森林に覆われている。川ぞいの集落に見慣れた目には、なかなか不思議な光景だ。
 いくつかトンネルと超えると、千枚田と茶堂がある。昔地元の人達が旅人を接待したところで、昭和40年代まではこうした茶堂での接待が行われていた。坂本竜馬が脱藩するときに使ったという旧道を行った先にも、古い茶堂がある。檮原もかつては焼畑を行い、粟、キビ、モロコシを食べていた、主食だったという。焼畑はもうどこもやっていないね、ただ焼畑で作った大根はおいしい、豆腐でいうと木綿と絹漉くらいの違いはある。このあたりはお茶をやっているところも多い、品質が似ているので高知のお茶は静岡茶として出ている、などなど聞く。

 瓜生野から水押まで歩いたときの話。バス停にいたおばさんも、昔はこのへんでも焼畑をやっていた、という。その指差す先は、やはり傾斜60度、70度にすら見えるところで、あんなところでですか、と聞くと、あのくらいでもトウモロコシとか植えたのだという。このおばさんからは古いモチタイプのトウモロコシの種をもらった。瓜生野から水押へ抜けると愛媛県に出る。県境はトンネル。道端にときどき、丸太を利用した蜂の巣が置いてあった。

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