台湾旅行:2012
シーアルの旅の部屋



読み物

1.帽子の歌姫鳳飛飛 7.多民族会席
2.台湾人日本人にお願いにゆくよ 8.登山用品店
3.情に流されやすい人々 9.台湾人さまざま
4.霧社事件とニニ八事件 10.蒋一族の噂
5.外省人 11.町中走り回ったよ!
6.原住民の話 

この旅行の写真はこちら

帽子の歌姫鳳飛飛
 2012年2月半ばに台湾へ行ったとき、当地のTVでもっともよく流れていたのは1月3日に死去した歌手鳳飛飛の映像だった。鳳飛飛は1970年代から80年代にかけてヒットを飛ばした、帽子の歌姫のニックネームで知られる歌手。80年代しばしば台湾へ行ったとき、気に入って買ったカセットにも彼女の曲が随分と入っている。
 今見返しても”ni家大門”、”我是中国人”など懐かしい曲が並ぶ。もっとも、私が当時一番好きだった歌手は江玲だが。鳳飛飛も歌のうまい人だった。”ni家大門”など声もよくリズム感も抜群、基本的に台湾の歌手は歌唱力がある。
 なんとなく懐かしくて生前の画面やお別れの式典に見入ってしまった(というか駅でもバスの中でも、ついているTVみなこれだったこともある)。

 もう一つ、2012年2月にTVで盛んに流れていた話題は、NBAで活躍するジェレミーソン。ハーバード大卒の台湾系米国人で、NBAに入るも無名の選手だったのが出場できなくなった選手の代わりに出たところ、目覚しい大活躍、一躍スターになった時の人。やたらNBAの映像がTVで流れていた。


台湾人日本人にお願いにゆくよ
 ある台湾人と話していたとき、「さいごは台湾人、日本人にお願いに行くよ」と何度も言った。最初は”はあ”と聞いていたが、あまりに何度も言うので、「それは内政干渉になりませんか」と指摘した。「なんで内政干渉なの、困っているから頼みにゆくのは当然でしょ」と言う。
 ふと孫文らの革命時に多くの大陸浪人が出現したが、こうした面があったのでは、という気がした。そこに軍人も含まれていたからさらにややこしくなった。当時に関する本を読むとXX政権の人からこう頼まれた、満州や蒙古の王族がこう言ったなどの話が出てくる。こうした頼みに、よく言えば義侠心に富む、悪く言えばいいところを見せたい人が一肌脱ごうと内乱の片側に加勢するようになる。加勢した側が勝利すれば恩人として人民大会堂に呼ばれ日中友好の功労者としてもてなされる日本人となり、負ければ勝利者側から侵略の手先と呼ばれる日本人となる。
 こうしたことが起こる原因のひとつに、中国人自身が外国人だろうが何だろうが気軽にというかこだわりなくというか、味方してくれと頼むところがあると思う。

 中国人は砂だとよく言われる。人の数だけ社長がいるともいう。中央政府があっても国内独立国のようなところができてくる。戦前、蒋介石系の軍閥の一人だった閻錫山も山西省太原を拠点に山西モンロー主義を敷き、一種独立国のようだった。知人の父もやはり蒋介石系の保定の軍閥だったが、必ずしも命令に従わず独自判断で動いていた。文革中の内乱でも百万雄師という独立状態の地域が出現した。いま(2012年3,4月)問題になっている重慶の党書記にしても、重慶は一種独立国のようだったという。
 よく元日本兵の話で、日本軍に対し村の長老から村の安全を守ってくれと頼まれた、他の軍隊を追い返すと感謝されたと聞くのも、あながち嘘ではないと思っている。一方、宣撫工作をしてなついたと思っていた村人らが八路軍やら中央軍やらに内通し裏切られた、という話もよく聞く。しかしこれも”侵略軍だから裏切った”というものとは異なる気がする。どこかの陣営に属していても、独自に情報収集に努め、独自判断で行動を決める。誰かや何かにべったりにならない人たちなのだという気がする。一度決めたらひたすらそれに従って邁進するのではなく、常に情報収集を怠らず、常に現状認識の更新を続け、前回判断にとらわれずに最新判断を下すのだ。そこが、周恩来の指摘する「日本人は一度やると決めたら必ずやる」という性質と異なる点でもある。


情に流されやすい人々
 ある台湾人が、
「二二八事件のときは台湾人が隣の人を密告した。参加していないのに隣の息子が事件に参加したのを見たと言う人がいると、その翌日トラックが来て息子を連れてゆき帰って来なかった。残された奥さん子供はかわいそう。夫がいなくなりどうやって食べてゆける、生活が苦しくなり自殺した奥さんもいる。その後子供は親戚に分けて預けられた。台湾中でそうだった。台湾人は意地が悪い、山の人は密告なんかしないのに」
と言うので、なぜそんなことするのか、お金がもらえるのか、その後役人に引きたれられるなどあるのか聞くと「何もない」という。
「隣はいろいろ仲が悪いでしょ、それでそういうことをする。密告されたほうは本当にかわいそう」
 密告した人はその後普通に暮らしているのか聞くと、
「周りから責められ、部落の長からお前の密告のせいであそこの息子が殺された、と責められた。そのときその人はだまーっていたよ。中には居づらくなって引越した人もいるが、そのまま暮らしている人も多い」
 物を売ってあげないなど村八分はないか聞くと、「ない、台湾人そんなことしない」。そしてかわいそうかわいそうとまた言うので、かわいそうというより、証拠がないのに捕まえて処刑する社会システムそのものがまずいのでは、司法がしっかりしていれば密告もしないはずと言った。

 陳元総統の奥さんが交通事故でやられた話になった。この話は詳しくないのでこの会話情報のみだが、民進党びいきの人いわく、犯人の運転手はつかまったがうやむやにされたという。その運転手はお金に困ってやった、今では胸が痛むと言っているという。”胸が痛む”や”金に困ってやった”はいいが、それはそれとして傷害事件ならまず訴追されるべきですよね、捕まったんですかと聞くと、犯人はそのまま普通に暮らしていると言った(実刑を受けたかどうかは不明)。
 話していて情に流されやすい人が多い、自分がひどい目に逢ったときに相談すると親身になって聞いてくれ癒されるだろう、が故に問題点がそれてゆき、うやむやになってゆく部分もある気がした。


霧社事件とニニ八事件

 2011年に霧社事件が映画化され、事件関連の史跡に史跡めぐりの標識が建てられていた。地元の原住民は、日本では公開されないね、中国でも無理だろう、政府に反抗する話だから、と言っていた。別の台湾人の年配者は、あの映画の半分はうそだと言った。
 霧社事件の遺族にあたる原住民は、「原住民はほがらかだ。過去のことをあまりとやかく言わない。将来のことしか考えない。でも中国人は違う。やられたことを百年でも覚えている。日本人は大変だね」と言った。

 ある台湾人が「日本が支那事変を始めたのが間違い、あれがなければ台湾は今でも日本のもので外省人にいじめられずにすんだ。日本が戦争をしたおかげで台湾人は外省人からひどいめにあった。台湾人がひどいめにあったのは、日本人が起こした南京大虐殺に怒った蒋介石の軍隊が日本人に支配された台湾人をいじめたからだ。台湾人本当にかわいそう」と言った。


外省人

 ある台湾人いわく:
 戦後すぐ外省人が入ってきた。外省人は同じ長屋にも住んでいたがまったくつきあいなかった。職場でも普段は朝の挨拶だけで話さない。どういう生活をしているか知らなかった。
 外省人は声が大きい。天井が割れるよう、勝つまで議論する。なんでああなのか、自分が勝つまで絶対に譲らない。


多民族会席
 霧社で食事をしたときのこと。メンバーはブヌン族一人、タイヤル族2人、セイダッカ族一人、外省人一人、そして日本人の計6名。日本語のわかる人は自分以外に一人、英語が一人、あとは中国語(国語)。
 ギリシャの財政危機だのあれこれ話しているうち、外省人が南京大虐殺の話を持ち出した。40万殺されたと騒ぐので、「この前まで30万だったのにいつのまにか40万ですか」と私は言った。セイダッカ族が「40万はありえない、せいぜい3万だ」と言った。外省人は「数字はともかく、心の問題だ」と少しトーンが下がる。私は「やったことは悪いが事実はきちんとさせなければいけない」と言った。外省人は「とにかく南京大虐殺について話しておきたかった」と言った。

 またあれこれ話しているうち、原住民の一人が「鄭成功は日本人でしょ」と言い出した。どうして、という話になり「お母さんが日本人だから」と言う。その外省人もお父さんが外省人、お母さんが山の人なので、お腹から上は外省人、下は原住民、とブヌンやタイヤルの人たちが冗談に言って笑う。一人が、同じ立場の高金素梅は原住民と言っていると日本語で言う。
 セイダッカの人いわく、セイダッカ族は親戚同士の結婚を許さないから蕃社の外の人と結婚する、今はお互い結婚するので民族はなくなってゆく、とのこと。かつてセイダッカは男は額に、女は口に刺青をした、民族のしるし、ブヌンはしない、ブヌンが頭がよい民族だということになっている。他の人いわく、山の人は冗談が好き、しょっちゅう冗談を言っている、漢人はあまり冗談を言わない。ちなみに台湾の身分証明書には、民族名を書く欄がある。

 このメンバーで、試しに純粋中国人伝説の話(こちらに記事あり)をしてみた。すると外省人が急に「そうだそうだ!」と騒ぎ出した。ほかの人たちは「えっ、なになに?」という感じ。そこで外省人が「純粋な漢民族は足の小指の爪が2枚あるんだ、自分も2枚ある!」と叫ぶ。「2枚ある、てどういうふうに?」とタイヤル族、そこで外省人がとくとくと説明を始める。声が大きいので他のテーブルの人たちもみな振り返っていた。日本人でも2枚あると言っていた人がいるし、ハーフでも2枚あるということは、純粋漢民族のしるしもあやしいのかもしれない。

 かつてはブヌン、セイダッカ、タイヤル、みなお互い敵だった、日本時代は差別があった、今はブヌン、セイダッカ、タイヤル、漢人みな兄弟、というところでお開きになった。


登山用品店
 戦前から霧社に住む人の話では、日本時代、夏になると台中の女生徒らが大勢来て霧社に一泊し、翌日翠峰に登り一泊、次に合歓山で一泊、そこからレイ山(?、漢字不明)に抜けて下りバスで台中に戻っていったという。合歓山から花蓮港へ下りる道もある。
 翠峰は標高2200mくらい、合歓山は3200m、しかし女学生でも歩ける山なのか、と思う。尾根を行くというので、昔からの道か、原住民が生活道として使っていた道なのだろうか、と疑問に思って聞いてみると、「日本人がつけた道だ、合歓山に派出所があった、管理のためだ」と言った。尾根道をつける、というのは、なんとなく日本的だと感じる。ラダックやシッキムなどヒマラヤのトレッキングコースは山腹に道がつき、あまりアップダウンなくゆく道が多いように感じたからだ。写真で見るだけだがスイスなどのトレッキングコースもそうした感じではないかと思う。尾根道、というのは雪の多い日本で雪崩の害を防ぐ意味もある。また日本は岩山が少ないこともある。
 ちなみに翠峰はバスの最終駅で今では気軽に観光で入れることができる。

 現地の人いわく、以前霧社には登山の人がよく来た。合歓山から奇莱山へ行く、しかし大学生が大勢落ちて亡くなり、今は警察が道を塞いで通さない、という。みな冬山で来た、雪を見に来る。滑って落ちたり、霧が出ると道がわからなくなる(いわゆるホワイトアウトか)。谷が深いから親が捜しに来て見つけても上まで運べなかった、そこでその場に埋めて骨になったら持って帰ることにした。たった一人の孫を亡くしたお婆さんもいた。
 奇莱山は3430mほど、どの程度の雪山なのだろう。

 霧社にも若干登山用品を売っているところがあるが、やはり台北のほうが多い。常宿にしている旅社の太太に聞いてみたところ、カルフールの西にある専門店へ連れていってくれた。サーマレストマットは日本より安いのがあった(ドイツ製)。ほかの衣類やゴア製品、ザック、寝袋などは換算すると日本と変わらない。
 このあと、台北駅東に登山用品店の集まっているところがあるので行ってみた。何軒か入ってみたが、フリース類で2、3千元からゴア5千から1.5万以上、日本のモンベルなどもあり値段は変わらない。カラビナ類、ヘッドランプなども同様、台湾だから安いということはない。テント、寝袋、マット類は種類も少なく結構高い(しかもマイナス対応が少ない、−10度までしかない)。
 登山友は有名店のようで客が大勢いた。台湾でこの値段は高いと思う。物価が日本円と台湾元の換算レート3:1ではなく、食料品やバス代などから6〜10倍くらいの差に感じるので、相当金持ちの道楽になると思う。太太もサーマレストマットをとても高い、と驚き、まけられないか、とお店の人に言っていた。ちなみにカルフールの西の店は、店員がダウンとフェザーの違いやフィルパワー云々を詳しく説明してくれた。若い女の子だったが専門性が高い店と感じた。また−10度以下の寝袋は、この店でしか見かけなかった(軍隊用か、と思うほどごつかった)。
 スパッツ、山食はあまりない。ゴアの冬用スパッツを登山友で見つけたが2種類のみ、アイゼンは見かけなかった。ロープもあまり見かけない(1店で見た)。いわゆる山ガールファッション(スカート、カラフルな縞模様のレギンスなど)はなかった。
 アイゼン、スノーシューなど冬山用品をあまり見かけない(見落としたかもしれないが)、ということは、奇莱山で滑落するわけだよなあ、という気はする。

 帰りの中華航空で、台湾紹介のビデオを流しており、その中に奇莱山の映像が出てきた。うっすら雪を被った尾根が南北に続いていた。


台湾人さまざま
 息子の嫁は子供ができたから道徳上仕方なく結婚させた嫁だが、息子が交通事故で亡くなると向こうの親が出てきて娘を返してほしいと言ってきた。子供はいらない、まだ32,3歳だから再婚させるつもりだと言うので、返してやった。
 でも再婚はしなかったらしい。子供は一度も見に来ない。子供らも母の日は母親代わりのおばにお礼をする。産みの親にも何かしてあげなさいと言ったら、あの女のことは母親とは思っていないよと言った。

 自分の夫は女たらしでいつも女がいた。それで苦労し、子供ができても黙っておろした。夫はそれを知り、怒って2センチもある太い針金で殴った。それで離婚を決意した。そのとき
「この子はあんたの血をついでいるから、あんたと同じ女たらしになるからおろしたのよ」と言ってやった。
 自分は女だがビジネスの才があり、家を二軒建て一軒を人に貸している。もう男はこりごりだと話があっても再婚するつもりはない。

 自分は親の残した土地がある。そこに町外の人とビルを建てた。土地は自分が出し、建物は町外の人が出した。小さい3軒が町外の人のもの、大きい2軒が自分のもの。台湾ではビルを建てるとき、よくこういうやり方をとる。


蒋一族の噂
 蒋介石は200万の軍隊と4人の妾を連れて台湾にきた。蒋の最初の奥さんは毛沢東のお姉さん。その子供が蒋経国、ロシア人と結婚し3人の息子ができたが長男は国際梅毒で早死に、他の二人も病死、そのとき台湾人はみな二二八のバチが当たったと言った。蒋経国の孫はアメリカにいる。
 蒋は毛の姉と別れたあと浙江財閥の宋美麗と結婚、宋は子供はつくらない、政治は妻が握ると約束させ、4人の妾は宋が選んだ。蒋の最後を世話したのは妾の一人、感心な妾だ、宋は何もしなかった。宋は蒋介石が死ぬとすぐ金塊とともに飛行機でアメリカへ逃げた。


町中走り回ったよ!

 ある客家人の老人の家を訪問する約束をした。一度行ったことがあるのですぐ行けると思ったが、道に迷ってしまい、途中で電話を入れ、次の予定が押しているので今回は行かれそうもない、と謝りつつ断った。すると老人は「今どこにいる、バイクで迎えに行く」と言う。電話をしているコンビニの前で15分だけ待つことにし、15分待ったが来なかった。電車の時間もあるので、ここはあきらめて宿に戻る。
 すると宿に電話が入っており、今から宿まで行くという。いや本当にもう時間ないから、と言うと、一体どこにいたんだ、コンビニ探して町中走り回ったよ、車にぶつかりそうになったりしながら、とくどくど話し出した。こちらも待っても会えなかったので少々不機嫌だったため、町中、て台東の町はでかい、15分少々で町中走り回れるわけないだろう、中華系特有の大げさな表現、白髪三千条かよと突っ込みを入れたくなった。が、ふとまてよ、と思った。(”中華系”とは、台湾関係で”中国人”と書くと”外省人”ととられるので、台湾人客家人福建人なども含めるカテゴリで中華系と書く)
 おそらくこれは、一生懸命探しましたというアピールなのではないか。こちらが責められているように感じて切れてはいけない。逆にこのくらい大げさに言うことが、できるだけのことはしました、という表現なのではないか、と感じた。
 ということは逆に考えると、日本人風のしらっとした態度は、逆に中華系の人々に物足りなさと不信感を与えるのではあるまいか?実際には一生懸命探したとしても、それを大げさに相手に言わない、むしろ負担感を与えぬよう控えめに言うことが日本の美学だが、こうして大げさにアピールすることが文化の人たちに、実際はかなり探し回ったとしても「いちおう探したけどね、だめだった」としれっと言うと、文字通りに受け取られ、中国人は大人だから「そうですか」と表面はにこやかに対応しても、内心は「本当に探してくれたんだろうか?」と不信や不満を感じているかもしれない。
 戦時中、スパイ容疑などをかけられ命乞いする中国人を日本軍が切る話があるが、本当の場合はともかく、濡れ衣の場合でも、中国風のくどくどした釈明を、日本人は逆に嘘臭く感じ切れることもあったのでは、と思った。日本人は短気だとよく言われる。自分もその気があるのだが。


原住民の話

 昔高山族は出草、首刈をしていた。清朝の役人が来ると殺していたので役人らは山へ来なかった。原住民は国とは関係なく暮らしていた、国とは何か知らなかった。

 日本時代は差別があった。文化も否定されたが、日本のよいところもあった。教育をつけられたのはよかった。

原住民固有の文化について:
 日本時代に日本人が当時の様子を記した記録が残っており、そこから固有の文化を復活させようという動きがある。
 言葉については、若者はもう各部族固有の言語を話せない。1950年代生まれの人はまだ話すことができる。固有言語の辞書について、アミ族はあるらしい。セイダッカ族やタイヤル族は2,3年後に出るかもしれない(2012年の話)。




2009-2010年の台湾の様子   2000年の台湾の様子
2009-2010年の写真   2000年の写真



Mail us: oinu_dd*yahoo.co.jp(*→@に変更)