霧    社      2


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霧社 霧社の町の様子や霧社事件関連の史跡については、2010年のこちらに掲載

 霧社行きのバスは、ちょうど情人節(バレンタインデー)前とあって農場や翠峰で休暇をすごす若者らでごった返していた。

左下は、台湾中部大地震の際霧社の人たちが逃げた広場
右下:広場付近から霧社のメインストリートが通る尾根を見上げたところ

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左上:霧社の北を流れる眉渓  右上は北側斜面のようす     南を流れる萬大渓の写真はこちら

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左、下:日本統治時代の霧ヶ丘神社
現在は徳龍宮になっている

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上:徳龍宮裏の山上に集落がある 戦後大陸から渡ってきた国民党系の人たちが多く住む。翠峰への横断道路沿いの集落も戦後渡ってきた外省人の集落だという。

 霧社は岬の尾根のような町で、北を眉渓、南を萬大渓が流れる。眉渓は台中へ、萬大渓は日月潭へと向かう。霧社の町からこの両側の川底まではかなり標高差(250mほど)がある。しかしかつて、ガスが来るまでは、毎日曜ごとに川まで降りて薪を拾っていたと聞いた。ちなみに山中で薪を探す場合、川がもっとも適しており、登山雑誌やアウトドア本でも、焚き火のノウハウとして薪は渓流や川で探すとある。
 薪は一日かけて眉渓や萬大渓で集め、1日2回、直径7,8センチほどの丸太を3本背負って霧社まで登った。人手の多い家は全部上げるが、うちは母と自分、長男だけなので残りは下の倉庫に預けておく。そして朝早く、母が倉庫まで降りて持ってきた。
 薪拾いは近所みなでワイワイ集め、冗談言いながら担いで登った。薪拾いは女が多い、みなで男をからかったりする。薪をとってくると父が低いいすに座って腕の長さに切った。太い木は細く引いて切った(鉈で割るのではない)。薪は常に壁いっぱいくらいに並べていた。それでも雨が続くとなくなってしまう。母が亡くなってからは薪拾いの人数が足りなくなり、サクラの山の人から買った。
 サクラの人たちは炭は作らない。中レキ(土へんに歴)だかに、平地の人が山を持ち炭を作る人たちがいる。竹細工は竹のあるところの人たちが竹やぶを持ち籠などを作る。竹山などがそうだ。
 1970年代後半にガスが来た。電気は日本時代からあった。最初は日月潭から来ていたが、萬大渓にダムができそこから来た。ランプは本当に子供時代だけ、ランプの油が切れることもあったのでろうそくは必ず用意していた。



埔里鎮牛眠里

 知人をたずねて牛眠里へ行った。牛眠里は埔里の北、牛眠山のふもとにある。
 たまたまやはり牛眠山の出だという別の知人は、こう話した−7歳で父母を亡くし親戚のところにいたが、居づらくなり15歳で外に出た。追い出されたようなもの。父母の土地7公畝は親戚にとられた。その後法事で何十年かぶりに牛眠山へ戻ったとき、そのことを指摘した。自分も向こうもわだかまりがあった。父母の位牌はまだ向こうにある。そのうち取りに行くつもりだ−人が良いといわれる台湾人だが、さまざまな人生がある。

左下:霧社から流れる眉渓にかかる牛眠橋。この橋を渡ると牛眠里。左手、西側にはサトウキビ畑や椰子畑が広がる。   右下:町の中心にある廟

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右下:牛眠里の町 後ろに牛眠山が見える  右下:ハウスで花卉栽培

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