台湾旅行:2009 2010
シアルの旅の部屋



読み物

1.政治 2.大学
3.プロ野球 4.台西
5.日本軍/国府軍/解放軍の
  3種の軍服を着た老兵達
6.台籍老兵の悲劇
7.中国人か台湾人か 8.台湾語
9.どの話題が危険か 10.潮の変わり目
11.山の人 その1 12.山の人 その2
13.戒厳令 14.ある日本語世代老人の悲憤
15.拉丁 16.便衣隊・・・
17.日本語世代なきあと 18.国民党将軍の子息の話
19.NHKの台湾番組騒動で感じたこと 20.台湾人の祖国建設熱
21.相反する意見の並列について

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政治
 友人いわく
「今台湾人は政治的動物」。
 中国から来た要人を引きずりおろして殴った。緑が民進党、青が国民党、昔は本省人は独立派、外省人は国民党とはっきり分かれていたが、今では入り混じっている。Aさん(本省人)は民進党、Bさん(本省人)は国民党、宴会で一緒になると喧嘩になるので大変だ。

 別の知人の話でも、以前は本省人対外省人と明確だったが、今は統一派にも本省人がいるし、独立派にも外省人がいるという。
 以前は集会は非合法だった。隣もどういう人かわからないため、マンションでも挨拶しなかった。戒厳令下で知り合いになるとひどい目に遭う。どういう人かわからないときは近づくな。そういう時代だった。
 以前は本省人と外省人は友達にならなかったが、今は表面上は争わずに付き合う。
 中国人ですか、台湾人ですが、YesNoは人それぞれだという。


大学
 1980年代、友人を訪ねて何度か台湾に行っていた頃は、台湾には20校程度しか大学がないと聞いた。それで日本に留学する人も多かった。

 それが今では200校前後あるという。
 日本も大学の数が増えた、定員が増えたと言われているが、さすがに20年で10倍ということはない。

 しかし受験戦争は厳しく、今回会った台湾の友人知人らも、よるとさわるとこの話題で持ちきりだった。有名な高校に受かりそうな子を持つ人は元気だし、そうでない人は心配してばかり。
 大学に受かっても、レベルの低い大学だと本人も親も満足せず、他の大学への転入試験を受ける。この転入試験そのものの需要が大きく、第二の受験戦争化している感じがある。
 何校もの転入試験を受けるし、どことどこは転入試験のレベルが同じ程度で、日程はどことどこが重なるから、どことどこを組み合わせて受ければよいか、等々戦略を練っている。

 台湾には良い私立大学がない、だから国立大学でないと大学でない、と思っている人も多い。


プロ野球
 王健民は台湾人の希望の星、と台湾の友人。かつては大活躍していたが、怪我をして半年休んだ、もう復活できないかもしれないとみな心配しているという。

 台湾は野球王国、北京オリンピックで敗れたときは
「国の恥」と大騒ぎだった。
 なにやら日本と似ているが、WBCはどうだったか聞いてみたところ、WBCそのものを知らない様子だった。知人(女性)は特にスポーツファンではない。

 知人いわく、以前はみなよくプロ野球を見ていた。しかし、台湾人や中国人は博打好きで野球の試合にも賭ける、すると黒社会が入ってきて八百長試合をさせるようになる。
 負けるはずのチームが勝ったりすると、黒社会の人間が、勝ったチームの監督や選手を殴ったり襲ったりして怪我をさせる事件も起きた。
 観戦していても、ベースがすぐそこなのに(わざと)転んだり、ゆっくり走ったり、いかにも”演技”しているのが見え見え、見ていてもつまらない、それでみな見なくなったという。
 台湾のプロ野球チームは6チームからさらに数が減って4チームになってしまった。

 台湾にいるとき、台湾のプロ野球ニュースを見ていたら、激しいダンスを踊って応援する若い女の子が話題になっていた。
 農牛何とかチームのサポーターだという彼女は、DISCOダンスを激しくしたような動きで踊り狂い、見ていて結構面白い。
 観客も試合そっちのけで見とれており、選手らも笑いながら指差して見入っている様子が映っていた。


台西
 台北、台南、台東はあるが、台西は見当たらないねというと、台湾の知人が
「あるよ、とても有名」と笑った。
 地図では小さいが、黒社会(やくざ)で台湾一有名な町だそうだ。


日本軍/国府軍/解放軍の3種の軍服を着た老兵達
 -台籍老兵問題

 日本の敗戦後、国民党の国府軍が台湾に入ってきた。国民党は兵隊が足りず(特に海軍はないに等しく、日本海軍の経験のある台湾人は重用された)、甘言を弄して志願兵を集めたり、だましたり、物理的にさらったりして国府軍に仕立てた(このへんの事情については、高雄市文献委員会の出している『台籍老兵的血涙故事』に詳しいインタビューが掲載されている。編集者の薛宏甫氏は關懐台籍老兵曁許昭栄文化協會のメンバーでもある。この本を読むと、国府軍兵士となった事情は各自上記のとおりさまざまであることがわかる。いわゆる慰安婦問題でも、志願だ、いや同意のもとだ、いやさらわれたのだ、とさまざまな話が錯綜しているが、これと同じだろう。つまり、自ら応募した人もいれば、だまされた人も、本当にさらわれた人もいるのだろう)。
 さらに、二二八事件が起きたため、日本軍で働いた経験のある人は弾圧されかねない雰囲気があり、身の安全をはかるため、国府軍に応募した人も多かった(二二八事件では、高砂族(先住民族)や客家がより迫害されやすかったことなどもあり、国府軍に応募し大陸に送られた台湾兵には、少数民族である高砂族や客家の人も多い)。

 彼らはその後大陸に渡って、共産軍との戦いに投入される。徐州戦役で大敗した国府軍は、大陸を撤退して台湾に逃れることになる。このとき一緒に戻った人も多かったが、そうでない人もいた。
 途中で共産軍の捕虜になった人は、その後人民解放軍に参加させられ、逆に国府軍と戦うことになった。また海南島では国府軍の撤退時に約4万人の台湾兵は置いていかれ、飢餓と貧困の中悲惨な状態だった。自分たちでジャンク船を調達して帰った者もいたが、暴風雨が多く危険を伴った。米軍に爆撃され棄船となっていた日本郵船のはりま丸を自分達で修復して超満員で台湾へ向かう。香港に寄ったとき、連合国の救済機関が惨状を認め難民であるとして救済船アンナを派遣、ようやく台湾に帰還した。それも間に合わず残った者はその後共産軍に「解放」され、人民解放軍に投入される。
 こうして国共内戦が終了し中華人民共和国が成立した後も、そのまま大陸に残留し、台湾に帰りたくても政治状況から帰れない台籍老兵問題が発生した。

 やがて朝鮮戦争が勃発すると、台湾軍は「中国人民志願軍」として最前線の北朝鮮に送られた。激戦だったため、戦死率も高かったという。
 からくも生還した人々も、その後の文化大革命で日本兵だったこと、国府軍だったこと、台湾出身であることから黒五類に分類され、懲役、労働改造送り、中ソ国境送りなど迫害されることになる。

 その後文革も終了し、台湾と大陸の間に交流が生まれ、老兵たちの親戚訪問が解禁となる。しかし、大陸出身の外省人老兵の返郷は容易なのに比べ、台湾出身の本省人老兵の返郷には厳しい制限が課せられていた。
 その後紆余曲折を経て、やっと故郷台湾に戻ることができた元日本兵国府兵人民解放軍戦士経験のある台籍老兵もいたが、高齢のため現地で亡くなる人も多く、また諸事情から今更故郷に戻れない人も多かった。戻ったものの、(文革などの後遺症だと思うが)周りの人が食べ物に毒を入れているのでは、と疑心暗鬼になり、精神的に病んでしまった老兵の話もある。
 今でも大陸に残留している台籍老兵は多い。

(以上、『知られざる戦後(元日本軍、元国府軍台湾老兵の血涙物語)』許昭栄著 台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務局、『台湾兵影像故事』陳銘城/張国権編著 前衛出版、『台籍老兵的血涙故事』薛宏甫著 高雄市文献委員会、『海南島歴検記』林渓和著 私家本 より抜粋)

台籍国府兵の人数:第70軍団 8-9000人、第62軍団(独立95師団含む)3000人、21師団 800人、海軍技術員兵大隊 300人、その他(海外留用、青年軍、医務員)500人

台湾に戻った中国残留の台籍老兵 700人
中国残留のままの老兵 200人(1995年12月当時)

中ソ辺境に流された台籍老兵 25人(うち4名病死、1名自殺、2名帰台)(1994年12月当時)

(以上、『知られざる戦後(元日本軍、元国府軍台湾老兵の血涙物語)』許昭栄著 台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務局より、詳細な名簿あり
なお、許昭栄氏の大陸での取材を含めた遺品資料は、麻豆の真理大学で整理している)

 こうした台籍老兵の悲劇を伝える記念館が2009年5月に高雄市旗津地区にオープンした。

台湾の元日本兵の聞き取り:台湾老兵インタビュー集(2009)


台籍老兵の悲劇
陳力芬 基隆出身。日本統治時代、「誉れの軍夫」として通訳で大陸へ行くが、体格がよいため重機関銃隊に配属される。日本の敗戦に伴い台湾に復員。
 二二八事件に参加し逮捕され、憲兵隊長によって陸軍に回される。第70師団第384旅団第3連隊重機関銃隊に配属され大陸を転戦、徐州戦役で国府軍は敗戦、中共軍の捕虜となる。
 今度は人民解放軍戦士として国府軍を追撃、舟山群島まで南下、もうすぐ台湾海峡を越えられる、と思ったとき、朝鮮戦争が勃発。部隊は北へ移動。
 1950年10月 中国人民志願軍の一兵士として鴨緑江を渡り北朝鮮の温(井?)へ、ゲリラ戦を行う。第二次三十八度戦奪還戦役で重傷を負い、奉天に後送され療養。回復後、軍隊へ戻される。
 1966年5月 文化大革命が始まり、「日本軍閥の残余分子」「国民党の特務」「台湾のスパイ」の罪状がつくが、中国人民志願軍参加と差し引く形で懲役は免れる。中ソ国境「紅星農場」に送られ、思想と労働改造の毎日を送る。
 紅星農場で井戸に投身自殺。

羅登輝 大正9年生、台中州豊原出身。
 1943年9月 日本の横須賀海軍第4特別陸戦隊に配属され、三等巡警(実質は戦闘員)、1945年4月二甲分遣隊一等巡警、約2年軍夫として従軍する。
 日本の敗戦にともない、国民党政府軍に強制留用される。三亜市国府軍航空基地陸軍上士(軍曹)。
 1949年 海南島にて、台湾へ戻るために軍職を辞す。台湾入国ビザを申請するも返事なく、やむをえず海南島楡林で台湾行きの船を待ちながら木工店を営む。海南島の国府軍はひそかに台湾に撤退、台湾兵はそのまま置き捨てられる。
 1950年8月18日 人民解放軍に「解放」される=捕虜になる。解放軍に編入され、「台湾幹部訓練団第3中隊」の学員として大陸へ送られる。
 1951年9月 華東直属集中訓練隊に配属される。
 1952年7月 「表現がよくない」として「炊事兵」に降格される。

★1947年-1949年 中国共産党は台湾攻略を考えており、中共軍の捕虜となった元国府軍台湾兵2000人を台湾攻略に備えて人民解放軍に編入し、一部について華北、華東の軍政大学で短期促成幹部訓練を行い、残りの大部分は各地の台湾幹部訓練団にて訓練を行った。彼らはマルクス思想の洗礼を受け、浙江省、福建省の沿海基地へ送られた。
1950年6月25日 朝鮮戦争が勃発し、アメリカ第七艦隊が台湾海峡を防御、このため中共軍の台湾解放は白紙になった。★

 1955年 江蘇軍区訓練団第4大隊第2中隊で再び戦闘員となる。
 1960年1月11日 元日本兵、元国府軍兵、台湾人の三重身分を擁有しているとして「歴史反革命」で逮捕、懲役10年、労改(労働改造)2年6ヶ月の判決を受ける。妻子も「黒五類の家属」と判定される。
 1962年6月 病気のため人民公社へ配置され、群長監督の下で治療。
 ★1966年-1976年 文化大革命★
 1970年1月10日 釈放され、2年6ヶ月の労改(労働改造)に従事。
 1973年12月 「表現 馬馬虎虎(成績、まあまあ)」で自由の身となる。
 1987年末 返郷探親が始まり、国府軍退役老兵(外省人)が40年ぶりに故郷へ戻るようになり、彼らに手紙を託す。
 1988年初夏 家族と連絡がとれるが、制限のため帰台できず。
 1989年12月25日 台湾の息子が入境許可證を持参するが、「落葉帰根」ならず永眠。
 (文革中、自分の履歴を書いて壁の中に隠していたため、年月日なども詳細に残っている)

女性たち 日本の敗戦にともない進駐してきた国府軍は、学校や役場の空家に駐屯、女教員や女職員、民家の少女に対する誘拐、暴行や、その他恐喝、滅門(一家皆殺し)が多発する。
 これは、国府軍兵士が戦勝者として威張る、軍規の乱れ、近水楼台(駐屯地で女性と接する機会が多い)ことによるもの。
 一方、台湾女性の側も、北京語を学びたい、物品に引かれる(食料や貴金属など)などで国府軍兵士に近づくことがあった。
 1946年-1947年 第62軍は東北の錦州、整備第70師団は山東省魯西と徐州の援軍のため移動することになり、台湾女性らを連れて行った。
 しかし、すでに大陸に妻子のある将兵も多く、東北や国共内戦最前線に女性連れで行軍することはできず、こうした台湾女性らは捨てられたり売られたりした。彼女らも父母の反対を押し切って来たため、台湾に戻ることはできない。このため、売春に走るものも多かった。

 この項、『知られざる戦後(元日本軍、元国府軍台湾老兵の血涙物語)』許昭栄著 台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務局 より抜粋
 


中国人か台湾人か
 在日台湾おじいさんと話していたとき、「中国人は・・・」と言うと
「アンタおかしなこと言うね!」と怒られた。「中国人じゃないよ!」
 戒厳令時代は台湾と言うと国として認めていないのか!と言う人も結構いたので、気を回したつもりで
「すみません、中華民国という国だから」というと
「そんな国知らないよ、シナ人と一緒にするな!台湾人だ!台湾人に対して中国人なんて言うとアンタ怒られるよ」
 なるほど、と思ったり、立場によってそれぞれ主張が激しいな、と感じたが、台湾人や中国人と話しているとどうしても政治っぽくなってくる(政治から離れられない)のは、この主張の激しさにも原因のある気がした。

 大学の先輩に外省人の華僑の人がおり、彼女は自らを常に「中国人」と言っていた。考えてみれば「中国人」と言う立場は外省人のものだ(彼女に本省人の言っている内容を話すと微妙に不快そうだったことを思い出す)。

 外省人本省人の違いは知っているつもりだったが、中華民国よりも台湾、と主張するほどとは、正直思っておらず、認識不足だった。
 それにしても、人によって立場が異なり、それに沿わない発言にははっきりと異を唱える。日本人なら自分の立場を理解していないなと感じても、どうせ外国人だから、どうせたまに話す程度の人だし、まあ話の進展に支障をきたすほどの誤解でもないからいいや、とその場で受け流しその場限りの会話を続けるが、台湾や中国の人は絶対譲らない。相手の立場を知らないと話をするのも大変だ。

 「政治」の項でも書いた、「戒厳令下ではどういう人かわからないから、マンションでも挨拶しなかった。戒厳令下で知り合いになるとひどい目に遭う。どういう人かわからないときは近づくな」という感じが何となくわかる。今は、あとで密告される云々の理由からではないが、口論にならないためにも、相手の立場を事前に知っておいたほうが無難だ。
 「Aさん(本省人)は民進党、Bさん(本省人)は国民党、宴会で一緒になると喧嘩になるので大変、二人の席が隣同士にならないように気を使う」という本省人の友人の話もよくわかる。
 こういうふうだから、台湾人や中国人と会話すると、どうしても政治性から離れられないのでは、とつくづく思う。


台湾語
 台湾語は、台湾南部のほうが今でもよく使用している。台北では国語(いわゆるマンダリン、北京官話)を話すことのほうが多くなった。

 本省人の年配者らも、「若者が台湾語を話せなくなりつつあり、残念だ」と言う。
 知人の30代の本省人も、流暢に台湾語を操っているように聞こえるが、本人いわく「自分の台湾語は発音がおかしい、外国人が話すような台湾語だ。語彙も少ないし」と言っていた。やはり学校で北京官話で教育を受けていることが大きい、本省人としてそれは寂しいと思い、今では努めて使うようにしている、と言っていた。

 年配の台湾人(本省人)の話では、戒厳令の頃(台湾の戒厳令は38年続き世界最長)は学校で台湾語を使うと罰則があった、という。
 日本統治時代の「国語の家」(台湾語を使用せず日本語を使うことを奨励)政策と、まったく同じことを国民党政権も行った。また大陸中国では、ウイグル族の暴動があったこと受け、学校での漢語教育を強化すると発表し、ウイグル族がウイグル文化の破壊だと反発していると新聞に出ていた。ここでも同じことをやっている。
 逆に言うと、言語を強要しているところは、対外宣伝では美字麗句を並べていても植民地的性格が強い、ということの証しではないか。


どの話題が危険か
 ある本省人のおじいさんに話を聞いていたときのこと。日本の敗戦を知ってどう感じたか聞いていると、「がっかりした、大体支那事変がいけない」と言った。
 そして支那事変を拡大せず国民党と手を打つべきだった、そうすれば戦争にならず、台湾も失わずに済んだ、日本の領土のままだった、支那事変で失敗した、と語った。
 その後、「あの発言はまずかった、自分の発言から削除してくれ」と言う。
 一般的な話で特に内容的に問題があるとは思えないし、また国民党批判でもなく当時の日本政府の方針がどうこういう話なので今の日本政府も問題にするとは思えないのだが、
「政府の政策を批判した。これはまずい。あとで何かあると怖い」と何度も言う。
 本人の希望なので当然削除することにしたが、国民党ダメ、と話した部分は気にせず、「政府の政策を批判した」部分に敏感なことが気になった。ちなみに日本政府を恐れている様子はまったくなく、「政府の政策を批判」という点が気になるようだった。間接的な国民党批判になると思ったか、漠然とした「ダメ」はOKで政府の政策批判がNGなのか。

 彼は二二八事件当時嫌な目に遭っているので、その取調べがトローマになっている人だが、中国社会では、何を言うと危険なのか、わずかに垣間見た気がした。


潮の変わり目
 二二八記念館の項でも書いたが、2009年12月から二二八記念館の展示内容が変わると聞いた。別の人は12月じゃない、来年2月28日に変わるんだと言うが、おそらく内容変更のため12月に閉館、翌2月28日に記念日に合わせて新装オープンというところではないかと思う。
 この話はあまり大っぴらではない、という感じで聞いた。地方都市で別の人に聞いてみたところ、その話は聞いている、とやはりあまり大っぴらではない感じでうなづいた。また別の人は「どこでその話聞いた」と一瞬身構えた。

 記念館に展示された、1945年の日本の敗戦にともない、台湾に進駐してくる国民党の軍隊を迎える台湾人たちが、左右逆の旗を振って迎える写真(当時台湾人たちが”中国”とは何か、国民党とは何かをよく理解していなかったことの証拠として有名な写真)もはずされるだろう、犠牲者の写真と氏名を並べた円形の部屋も無くなるだろうと聞いた。日本語ボランティアも国民党の人と入れ替える話が出ているとの噂もある。

 ある先住民の人は、「今また、(政治的に)ちょっと怖いね」と言っていた。

 二二八事件についても、今また総督府で話してはいけないことになった、どんどん言論の自由がなくなっている、とも聞いた。

 李登輝と陳水扁が舵を取った民主化の方向から、再び締め付けの方向へ風が吹き始めている感じがある。

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 ちなみに、この話を日本で何人かにしたところ、確かにゆり戻しを感じる、「こんな政権を再び台頭させた台湾人にもかなり失望している」という人、「そんなことはない、民族間の融和も海峡間の交流も進み、生活環境も好ましい状態になりつつある、民主主義が未熟なのはもともとのこと、若者たちの間で二二八事件への関心が低いのも昔も今も変わりない」という人、さまざまだ。在日台湾人(本省人)も「今では言論の自由は保証されている、国民党の悪口言ったって大丈夫。そうでなけりゃ抗議デモに何十万人も集まるわけがない」と言った。


山の人 その1
 台北在住の、現在80代のおばあさんの話だが、彼女の曾お爺さんは山に近いところに住んでいた。当時、山の人が首を狩りに下りてくる。それで山の人と戦っていた、と言う。
 「首を狩って食べるのではなく拝む」という。

 昔は山に入るには警察で許可が必要だった、首を狩るから危ない。今はいらない、入れ墨もしなくなり、普通の人と変わらなくなった、と彼女は言う。


山の人 その2
 "山の人"と話していると、少数民族で一番弱い立場故に、すべてに気を使っている、と感じるときがある。
 台湾人(本省人)は、国民党の悪口を平気で言う。二二八事件を直接体験した年配者であっても(元日本兵だったり、高学歴など迫害対象となった人たちでも)、今は平気で「国民党、ダメ!」と吼える。しかし先住民の人たちは、日本時代も良かった、国民党政府も良くしてくれる、という話し方をする。そのあとで別の人から、実は彼は二二八事件のとき投獄された、などこういう目にあっているのだが、と聞かされる。そして「でもその話はしないね」と言う。
 またある先住民の人は、「今また、(政治的に)ちょっと怖いね」と言った。二二八記念館の改装の話にしろ、李登輝、陳水扁が舵を取った民主化の方向から、再び締め付けの方向へ風が吹き始めていると、敏感に感じているようである。

 ところで老兵記念館(正式には戦争與和平記念公園主題館)で見た高砂義勇隊のインタビューは、日本人がとるインタビューと話す内容が異なる気がした。
 日本人の元兵士などが高砂義勇隊の人たちから聞き取った話などを自費出版などで読んだことがあるが、日本軍にいたことを誇りに思ったり、今でも大和魂があると語る内容が多い。一方、台湾人の取ったインタビューでは、日本軍を誇りに思うとは言わず、参加したが何ももらえなかった、補償してほしいなどの言及もある。

 どちらが本音なのかは、難しいところではある。NHKの例の番組にもつながる部分だが。

 従軍慰安婦問題を調べている川田文子氏が書いていたが、ある韓国人従軍慰安婦の女性は、川田氏に対し「やはり50年以上つきあった国だから、日本に対しても懐かしい情はあるよ」と語った。一方、在日韓国人の女性に対しては、日本に対する恨みが泥のように沈んでいると語ったという。どちらが本音なのだろう、やはり自分には本音を話してくれないのか、と考えたが、その後、どちらも本音なのではないか、と思うようになった、という内容だった。

 どちらのほうがより強いだの強弱はあるだろうが、どちらも一抹の真実を含んでいる。人の心は、単純に黒か白かで分けられない部分がある。
 そのため、自分の立場にあったほうをフューチャーして利用する人もいる。


戒厳令
 台湾の戒厳令は、二二八事件以降、1987年に蒋経国によって解除されるまで、38年間続いた。これは世界で最も長い戒厳令だ。
 30代の本省人の知人は「38年も戒厳令が続くなんて奇跡だ。たいていの国では2,3年で解除される。中国人は奇跡を作り出すことに長けているよ」と笑った。


ある日本語世代老人の悲憤
 陳水扁は拘束される正等な理由なく二百数日間囚われている、中国人はこういうことをやる。日本時代にはこういうことはなかった、日本時代は法治国家だった。中国はだめだ、陳水扁やその妻の罪もでっちあげだ、何も悪いことをしていない。陳水扁の拘束に抗議して百万人もの台湾人がデモをしたのに、マスコミも中国人なので報道しない。どの分野でもトップは中国人ばかり、昔は国民党でないと学校の先生にもなれなかった(現在は異なる)。
 陳水扁がまずかったのは民主化を徹底しなかったことだ。一時期民進党がトップになったが官僚は国民党の中国人ばかり、片手落ちで不徹底だった、それで今やられている。中国人は汚い、証拠もなく二百何日も拘束とかする、ずっとそうだ、汚い。

 日本も少し悪いことをしたがいいことのほうが多い、今の台湾は日本が作った。悪い人が来ていい人だったことがわかった。中国人が来なかったらわからなかった。日本時代は夜もドアに鍵をかけなかった。今は鍵をかけても怖くて眠れない。
 日本人が来ると、日本は悪いことをした、としか思っていないから、そんなことない、いいことをした、と話している。

 中国人は絶対に謝らない。ドイツはアウシュビッツの記念館などを作るが、二二八事件についても、今また総督府では話してはいけないことになった。どんどん言論の自由がなくなっている。二二八も日本がやったと嘘を言い始めた。馬英九は中国共産党と手を結んだ。

 中国人は嘘をつく。中国人は口では良いことを言う。心の中で思っていることと、口で言っていることが異なる。中国人と付き合うのはとっても大変。日本人は誠実を重んじるから、だまされるのは日本人。
 日本人に対しても、今は利益があるからニコニコして良いことを言うが、つきあってももう利益がないとわかったら、とたんに鬼の顔になる。

 台湾は中国の植民地になるだろう。若い人は自覚がない。ずっと植民地だったからアイデンティティーがない。スペイン、オランダ、鄭成功、清、日本、蒋介石。また誰か他の人が来ても、生活できればいい、と言う。
 国民党が選挙で勝ったのも、お金で買ったから。国民党は台湾に来たとき、日本の財産を接収し、台湾で強盗をした。蒋介石はお金を貯めこみ、国民党は世界でも一番金持ちの党になった。そのお金で勝った。
 台湾人は自覚がない。台湾人は目覚めなければだめだ。でも目覚めないだろう。台湾は中国のものになるだろう。そうなったら、世界の平和のバランスが崩れる。
 


拉丁
 中国の軍隊は拉丁で悪名高い、と許昭栄氏は書いている。拉丁とはそのへんの民間人をさらってきて兵隊にしてしまうことで、こうしたことは、他の本でもよく目にする。良い鉄は釘にならない、良い人は兵隊にはならない、という中国の諺を学んだこともあるが、中国人は歴史的に軍隊に入ることをステータスだとは考えていなかったと聞いた。
 以前は兵役制度がなかったこともあるが、これが台籍老兵問題にも関わっている。兵役名簿が厳密でなく記載の無い人もおり、戦死しても弔慰金が出ないなどがある。国府軍に組み込まれるときに、さらわれた、だの、工員だと聞いて集まったら閉じ込められ兵隊にさせられた、だまされたなどの話も拉丁の風習の延長だろう。

 日本軍が中国大陸に展開していたとき、クーリーと呼ばれる軍夫を使う場合に、その辺の人を捕まえて使ったなどの話も、このあたりを考える必要がある。もちろん、意思に関係なく捕まえ軍夫に徴用したことについて、対外的な言い訳・口実にすべきではないとは思う。しかし、国内的にこの戦争について考える場合、もし自分があの時代の精神・風潮の中、こうした風土の土地へ行ったとき、疑問をもってやめることができたかどうか、考える必要がある。自らは安全な立ち位置から批判する安易な考察・意見は、不毛で意味がないからだ。

 ところで、日本の敗戦後、台湾に進駐してきた蒋介石の軍隊を見た台湾の人たちは、ボロを着て鍋釜を背負ったみすぼらしい軍隊に、また文字の読めない兵隊の多かった軍隊に(当時の台湾の識字率は80%を超えていた)がっかりした、という話をよく聞く。彼らの多くもこうした拉丁に近い人たちではなかったか、と思うのだ。1949年、徐州戦役で負けたあと台湾に引き揚げた国府軍は実質敗残兵なわけだし。
 満蒙開拓義勇軍ではないが、その多くは貧しさから軍隊に入った者もいたろうし、さらにさらわれて台湾まで来た人や、県の自衛隊だの保安隊だの軍閥や土匪の捕虜もいただろうと思うと、彼らは彼らで過酷な運命の転変を経ている、外省人の側にも外省人の物語があるのだろう、と思う。


便衣隊・・・
 二二八事件の遺族であるAさんとBさんは、国民党からお金をもらうようになり、国民党を悪く言わなくなった、他の遺族や被害者らは彼らを裏切り者と思っている、と同じく被害者のCさんが言う。
 私はAさんが今でも国民党をボロクソに言っているのを直接聞いている。一方、Bさんは確かに国民党関連の部分はスルーして話していた。つまり、Cさんの言っていることは半分合っていて半分異なる。

 いろいろな人があれこれ言うので何が本当かわかりにくい。Cさんの言っていることが本当、実はCさんのほうが国民党の手先でABさんの悪い噂を流している、いや国民党系の人がCさんにABさんの悪口を吹き込み二二八遺族被害者間の離反を図っている、などいろいろ考えられる。

 このとき、さすが便衣隊のいた国の人たちだな、と感じる。よく中国大陸で戦闘経験のある日本人老兵の話を聞くと、便衣隊というのがいて、敵か味方かわからない、お金次第でどっちにでもつく、両方に対してスパイしていたりする、という話を聞かされる。

 以前、台湾大好きで50回以上台湾に来ている、という日本人と一緒に台北を回ったことがある。カラオケ好きのその男性は、あちこちの公園の野外カラオケに参加しており、そうしたカラオケ仲間の知り合いのお爺さんがいた。名前は知っているが、どこに住んでいるかなどはわからない、お互い言葉があまり通じないしというが、行くと必ずいて、ときどきまるで自分の心を読んでいるかのように先回りしているんだよね、と言った。なんとなく気になって、ふーんと思った。
 彼らがみなで歌っているところを写真にとっていたら、そのおじいさんがあきらかにカメラを意識して顔が写るのを避けるように下を向いた。他の爺さんたちは屈託なく顔をあげてわーわー歌っている。気にし過ぎかもしれないが、ひょっとしてこの日本人男性はマークされているのでは、と感じた。国によっては入国回数の多い外国人はマークされることがあると聞いたこともあったので・・・。

 この話を半年ごとに日台を行き来している台湾人(本省人)にしたところ、「その可能性結構あるね。思想的なことではなく、麻薬やってないかとかそういう意味で」と言った(そういえばその日本人男性が以前、日本のパスポートを売らないかと持ちかけられ、結構値段がいいから一瞬売ろうかと本気で考えた、と言っていたことを思い出す)。
 そしてその台湾人は、「自分が日本に留学していた頃は、留学生仲間の中にそうした国民党のスパイがいましたよ。彼らは留学生たちの思想をチェックしていました」と言う。それは自発的にやっているのか、お金で買われてやるのか聞くと、当然お金で買われてやっている、と答えた。

補足: 台湾人と結婚した日本人に、二二八事件の遺族同士があの人は国民党からお金をもらっている等々噂している話をしたところ、
「そうなのよ、台湾の人はちょっと立場が違うとすぐお互い中傷するのよね。そしてそういう噂に台湾の人たち自身が右往左往している。台湾の人と付き合うのはとっても大変。それがわかってから、私はどの立場の人とも距離を保つようにしている。片方の話だけを聞いていても、本当のことはわからないから」と言っていた。
 かつて日本軍も便衣隊には悩まされた、お金次第でどっちにでもつく、という話をよく聞くが、確信犯的なスパイ活動をしている、というより、基本的に噂が流れやすく、当人達自身もそれに振り回されやすい社会なのだろうと思う。戦時はもちろん本当のスパイもいただろうが、この程度のレベルの人たちも多かっただろう。社会の違いから、日本軍の疑心暗鬼の対象となり殺された人も多かったのではないか。



日本語世代なきあと
 このページの内容は、本省人から聞いた話が大半で、特に日本語世代の台湾人が語っているものが多い。
 人口の20%を占める外省人はもちろん別の意見を持っているし、また若い世代も国民党の教育を受けていることもあり、同じ本省人でも日本語世代とは意見が異なり、ここまで親日的ではない。

 今回話を聞いたある日本語世代の老人の家族は、「おじいちゃんは日本人大好きなの。日本人が来るといつもとても喜ぶの」と言っていた。植民地だから完全に平等だったことはありえないのだが、その後の歴史の皮肉から懐かしく思うのだろう。ある老人は「悪い人たちが来てはじめて、いい人だったことがわかった」と日本統治時代について語った。

 おそらく、日本人や日本社会を信頼するこの世代の人たちが消えたとき、台湾は、日本にとってまったく別の国になるだろう。台湾が長いこと親日的だったのは、彼らのおかげがあると思う。その子供世代あたりまでは(私の友人たちも入るが、40代くらいまで)両親の影響を受けているのでかなり親日的だが、その下の世代になってくると様相が異なる。
 30代の本省人の知人は、両親は日本語を話せる、二人の姉も日本に留学したりで日本語を話せる、しかし自分は国民党の反日教育が最もさかんなときに育ったので日本は嫌いだった、それで家族で一人だけ日本語ができない、と言った。その後二二八事件のことが公に語られるようになり、考えが変わった、今では日本語を勉強したいと思っていると言う。

 教育の力には恐るべきものがある。家族の考えよりも影響力がある。今後政府がどういう教育を行ってゆくのかわからないが(それは日本も韓国も世界中の国で同様なのだが)、直接”日本”を体験し日本人や日本社会を知っているこの世代が消えると、台湾にとって日本は普通の外国になるだろう。


国民党将軍の子息の話
 中国語学校時代の同学に、父親が国民党の将軍だったという人がいる。彼の父は保定出身で元は軍閥だったが、蒋介石と協力関係を結ぶようになった。県長や北京市長などを経て、日本の東京裁判の国民党側代表となり、そのまま日本に残り台湾は一度も行ったことがない。蒋介石とはあまり仲が良くなかったようだ、という。
 かつて、国民党支配地を周恩来が通過する際、蒋介石から暗殺命令が出た。しかし彼の父は「今戦うべき敵は日本軍だろう、中国人同士で殺しあってどうする」と黙殺した。不安がる部下に、蒋介石には見つからなかったと報告すればよいと言い、よくあることで彼もわざわざ南京から調べに来る余裕はないはずと読んでいた。
 日中国交回復で成田北京間を初めて飛行機が飛ぶことになった。死ぬ前に一度故郷を見ておきたい、と日本航空のテストフライトに乗って中華人民共和国に入った。このとき、当時のことを覚えていた周恩来が国賓待遇で出迎えた。その後息子の彼が訪中したときも、周恩来の奥さんや葉剣英が存命中は国賓待遇で迎えられていた(蛇足だが母親(日本人)と彼が訪中した際は中国語北京放送のトップニュースで伝えられ、ting写で北京放送を聴いていた別の同学が驚愕したことを覚えている。当時の人民日報でも一面写真付で報じられた)。
 知人は立場的には外省人になるが、台湾は知らず、上記のように蒋介石とは仲が悪くむしろ共産党の一部と懇意にしていた複雑な関係にある。その彼の意見だが
”台湾の本省人は国民党のことは決して良くは思っていない。それはそのとおりだ。
戦後(1949年)、中国大陸から逃げ出した外省人は台湾を中国復帰のための臨時基地だと考え、40年間そう扱ってきた。
軍隊の立て直しのための基地でしかなかった。
政治面においても、内モンゴル、チベットや新疆などの事務所があり、台湾の人々とは全く関係ない分野にお金を費やしていた。
そのため、台湾の公共建設、電車、地下鉄などができたのは、ごく最近のことだ。あれだけ豊かな国なのに、地下鉄ができたのはごく最近というのは、どう考えてもおかしい。それだけ、そうしたところに回すべきお金を、中国復帰のための軍備に費やしてきた、ということになる。
今日の台湾の発展は地元(本省人)の努力の結果だと言える。”
と言っていた。
 ちなみに、将軍の日本での生活の生計は、本人が日本で不動産を営んでたてており、国民党からは一切お金をもらっていなかったという。国民党政権の日本での窓口のような立場にあり、国民党政府から日本に来る人はみな必ず知人の父親を尋ねてきていたが、退役軍人の恩給等も一切もらっていなかった。このため、老兵の恩給云々の要求にも、国民党はそういう政権だ、将軍ですらもらっていないんだから無駄だと言っていた。


NHKの台湾番組騒動で感じたこと
活東庵掲載:2010.2.8
 NHKの番組「JAPANデビュー第一回 アジアの”一等国”」について以前ここでも書いたが(台湾の元日本兵)、その後何人かとこの問題を話す機会があった。

 NHKのプロデューサーを知っているという人で、右翼の騒ぎ方は問題だが、NHKのほうも実際取材を受けた台湾人が怒ったり疑問を感じている状況を認識すべきだという立場の人いわく、NHKはいつものメンバーの右翼が騒いでいる程度にしか捉えていない、という。

 いろいろ人と話しているうち、感じたことがある。
 それは典型的な戦後左翼・リベラルの人たちは、人間理解の仕方が独特だ、ということだ。人は心の底に隠された本心がありそれが”本音”である、普段の見せる態度や意見は、権力や強者に怯えたり処世術から仕方なく見せている”偽物”でしかない、という理解の仕方である。人の心の奥底に怒りを伴う純粋でゆるぎないコアがあって、その周辺にあたりさわりのない普段見せている顔がある、とする。

 実はかつて、青臭い頃の私もそういう捉え方をしていた。でも、本当にそうだろうか?その後さまざまな人に出会ったり経験したり、本を読んだり聞き取り調査をしたり他の意見を聞いたりしているうち、そんなに単純なものではない気がしてきた。

 たとえば、従軍慰安婦問題のすぐれた聞き取り調査を行っている川田文子氏が書いていた話が良い例になるかと思うが、ある韓国人従軍慰安婦の女性が、川田氏に対し「やはり50年以上つきあった国だから、日本に対して懐かしい情はある」と語った。一方、在日韓国人の女性に対しては「日本に対する恨みが泥のように沈んでいる」と語ったという。川田氏はどちらが本音なのだろう、やはり自分には本音を話してくれないのだろうか、と考えたという。しかしその後、どちらも本音なのではないか、と思うようになった、という内容だった。

 このほか、一回目の聞き取り時と二回目の聞き取り時で、同じ事象に対して真逆の内容を話すケースがある、という話を聞いた。体調の良いときには、理由として威勢のよい言葉を言い、その何年かあと再取材したときには、「死にたくなかったから」と言ったので驚愕した、しかし考えてみれば本人も高齢でかなり弱ってきていた、そうした体調もあるだろうし、どちらが嘘でどちらが本当とも言えない、どちらも残すつもりだ、と言っていた。

 この場合、人によっては「日本に対する恨みが泥のように沈んでいる」、「死にたくなかったから」というほうが本音だ、という捉え方をするのだろう。
 しかし私は、川田氏のようにどちらも本音、というかどちらも本人の”本当の”心の動きだという気がしている。元気なときにはポジティブなことを、弱っているときにはネガティブなことを言う、ということは誰にでもある。その場合、弱っているときのほうが”本音”なのだろうか?しかし人は元気なときも元気なときとして存在し生きており、周りに影響を与え、周りから影響を受けている。
 心の奥底に混じりけのないピュアな確固たる本心が存在する、というよりも、どちらも平行して存在する、その間で揺れながら生きている、そんなイメージが、今ではあるのだ。

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 NHKの番組に対する抗議ビデオを見たことがあるが、NHKの取材を受け番組で流された柯さんが、見る人に誤解を招く真意の伝わらない伝え方をされた、と怒っていた。
 NHKの番組の中で柯さんは、中学校の同窓会(当時の中学はエリート)に出席した際、当時台湾人であるが故に馬鹿にされ悔しい思いをした、と涙を見せていた。私はあの涙は本物だと思っている。
 台湾の親日ぶりを強調する人は、日本語世代の台湾人が悔しい思いもしていた点を掬い取らないことが多い。あの番組がその部分を取り上げた点は評価するのだが、では何が問題なのかと言うと:

 あくまで推測だが、柯さんとしては、昔からの日本人の友達は今でも良い友達、それに変わりはない。その彼らに「当時台湾人であるが故に馬鹿にされ悔しかった」ことがあったことも、心に留めてもらえたら、(そしてできれば、「そうだったのか、友達の君にそんな思いをさせてすまなかった!」と思ってもらえれば)という思いだったのではないか、という気がする。

 それがあの番組の描き方だと、親日的で友人のように振舞っている柯さんが、実は心の底ではこう思っており日本人を恨んでいた、という流れになってしまう。
 そしてこの捉え方は、かなり危険と思うのだ。というのは、この捉え方だと、彼は表面的には友人だが実は違う、という解釈になる。人によっては裏切り者ととるだろう。そしてこれは、「味方だと思っていたが実はスパイだった」、「結局XX人とは本当には知り合えない」といった考えにつながってゆく。

 確固たる”本音”が底にあり、その上を処世部分で覆い隠している、その処世部分はあくまで虚構、仮の姿だ、という直線的な人間理解は、どこか危険な気がしてならない。

 そしてこの考え方は、”本当の自分”探しの心性にも通じる気がする・・・。



台湾人の祖国建設熱
活東庵掲載:2010.5.6
 ある老華僑から、戦後、日本在住の台湾人の間にも、在日朝鮮人のような祖国建設熱があった話を聞いた。それによれば:

 昭和27,8年頃 日本にいる台湾人の間で新中国建設熱がさかんになった。ちょうど台湾で二二八事件があり、蒋介石による独裁政権が戒厳令を敷き白色テロがあいついだこともあり、多くの台湾人が日本から大陸中国に渡った。
 しかし1年後、日本人と結婚していた台湾人の間で、まず日本人の奥さんが里帰りと称して日本に戻ってきた。続いてそのつてで、夫も日本に戻ることができた。
 当時、本人にも新中国建設に対する憧れがあったが、戻ってきた人たちの話を聞いて、これは行かないほうがよい、と判断して行かなかったという。

 独身で行った人、夫婦とも台湾人の場合は、東大を出ていようがなんだろうが、その後みな消息不明になってしまった。
 自分はその時期、ちょうど大学生だったので行かれず、助かった。しかし一年早ければ、おっちょこちょいだから行っていただろう。
 そうすれば文化大革命で、日本から来た、台湾人だ、なぜ日本兵になった、資産家階級の出だ、等々吊るし上げられて大変だったろう。今こうしてみなとしゃべったり、楽しむこともできなかっただろう、と言う。

 在日朝鮮人の帰国事業(これも北部出身の人よりも南部出身の人が多かったようだが)は有名だが、台湾人の新中国建設のための帰国事業については初めて聞いたので驚いた。世界全体がそういう雰囲気の時代だったのだろう。
 日本政府による後押しがあったかどうかは不明。老華僑は「日本政府は関係ないよ!」と言っていたが、「朝鮮の帰国事業だって日本政府は関係ない!」と言う人なので、よくわからない。


相反する意見の並列について
2010.9.29
 台湾の少数民族に関する映像作成を手伝っている女性に会った。女性を知る知人は「彼女は反日教育を受けた世代だから、もともと日本を嫌っている人たちの話をとろうとしていた、原住民にそういう人はいないと言ってもきかない。実際行って会わないと口で言ってもわからないと思ったから何人か紹介して直接行かせた」と言っていた。知人も女性もどちらも本省人。
 彼女は「原住民に取材に行くと、みな日本時代のほうがよかったと確かに言っている。でも反対のことをいう人がいない。日本時代はよくなかった、と言う人もいるはずだと思うんですよ。そういう人を見つけられれば両方の意見が載りますよね。そのほうが映画としてもよいものになるはずです」と言った。

 それは確かにその通り。取材源も偏りが出ないよう、一人に頼らないほうがよい。
 一方、最近のマスコミが必ずやる、「両方の意見を載せる」という手法が、客観報道として絶対的に正しい手法なのだろうか、とふと感じた。

 このあと、たまたまアメリカの9.11絡みのTV報道で、犯人やイスラム過激派に対する怒りをあらわにする遺族を紹介したあと、憎しみを連鎖させてはいけないと犯人を憎まない遺族を紹介する内容を見た。その報道を見ながら、でも割合的にはどのくらいなのだろう、と感じた。あくまで推測だが、犯人を憎まない遺族はかなり少数なのではないだろうか?勿論、大多数の怒れる遺族だけを報道するのは片手落ちで、そうではない人もいることを知らせることは重要だと思う。ただ、扱う時間の多少、どちらを先にもってくるか、などで受け手の印象は大きく変わる。相反する意見を両方とも紹介するだけで、アメリカ社会の実際の雰囲気や空気は伝わるだろうか?「一般的な雰囲気や空気なんてない」と言ってしまえばそれまでだが、気になる。極端な話、会った人すべての話を並列に賛成、賛成、賛成、反対、賛成、ニュートラル、賛成、反対、というように羅列するほうが現実に近いのでは、という気すらする。
 「とりあえず相反する意見を両方とも紹介しておけば客観的で深みのある報道になる」という感じが、報道スタイルの流行になっているというか、解決策として安直に利用されているのでは、という疑問が生じている。

 ところでこの女性と話しているとき、「原住民の人は日本にも今の台湾政府にもすごく気を使って話すよね」と言うと、彼女は「彼等は国民党にすごく気を使います。気を使って話します」と言った。そして「今も植民地でしょ。どっちの植民地のほうがいいかと比べて日本が良くなっているんですよ。でも植民地は植民地でしょ。本音は独立したいですよ」と言った。独立したいとまで言っている原住民に会ったことはないので、ふと誰の話をしているのかよくわからなくなった。「本省人は平気でいろいろ喋るけどね」と言うと「今でも国民党はいろいろありますよ」と言った。




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