端神二000

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うずしきようこ

   五年後、雑穀の栽培方法を見学するため再びこの地を訪れた。雑穀の収穫時期を見計らい季節は夏の終わり、盛岡から在来線に乗り換え、途中駅で下りバスを待つ。東北新幹線開通以降、県南と県北とでは景色が一変する、と言われるほど南北で格差がついたという岩手だが、主要駅ですら周囲にサテンもコンビニもなく、古い昔ながらの“商店街”という雰囲気が残っている。
 端神へ行く途中、高原の丘陵地帯に広がるタバコ畑の中に赤い高黍を見つけ、寄った。農家の庭先で老夫婦が黍を木槌で叩いて脱穀している。おばあさんがどうぞどうぞと畑についてきた。昔は雑穀をよく作ったがしばらく米やタバコをやっていた、四五年前からタバコも大変だし農協からも雑穀のタネとりやらないかと言われ切り替えた、という。最初横浜の娘に黍送ったら旦那に“岩手のお母さんが鳥のエサ送ってきたぞ”と言われた、でも今じゃ産直に出しても売れるし、去年は地元の小中学校の給食にも出した。雑穀栽培は鳥対策が大変で、ここでも黍と稗に防鳥ネットを張っていた。「去年ネットの中に二十羽も入った、ネットに掛かったのがもがいて、ほかのスズメは隣の屋根から心配そうに鳴いている、かわいそうでネットを切って逃がしてやったらほかのも安心して一緒に飛んでいった、おじいさんからは食べに来たのに逃がしておまえばかかと言われた」鳥の恩返しとかあるかもしれませんねと言うと「そういえば今年は五羽かそこら見かけたくらいでほとんど来ない、そのおかげかな」と笑った。
 バス停に戻る途中廃屋となった和風旅館があり、倒れた戸の奥の暗がりに破れた障子、落ちた畳が覗けた。バス停の前も廃業旅館だった。

 宿は五年前と一変していた。あれからほどなく町営の温泉センターが建てられたそうで、ログハウス風の豪華な建物となっていた。週末ということもあり、車で来た日帰り入浴客で賑わっている。雰囲気は東京近郊のヘルスセンターと変わらない。宿泊施設も併設されており、別の人の経営していた古い温泉宿はデイケアセンターとなった。
 翌日端神へ向かう。道はすっかり整備されていた。ところどころに“水車まであと何キロ”と書かれた真新しい水車の形をした木の立て札が立てられている。あるいは“名水四十八カ所めぐり、○○の泉”の札もある。今この地域は町の観光資源となっているようで、温泉センターにあった観光パンフレットでも伝統の残る地として筆頭に紹介されていた。
 水車祭りでない端神は静かだった。縁側で何か食べているおばあさん二人、一軒だけある店の番をする老人以外は人を見ない。車道から山側に登った高台に広がる、日当たりと眺望の見事な畑を見て回ったあと、下の店でジュースを買った。老人も話し相手を待っていた。
 しばらく雑穀栽培の話をし、三十軒の集落のうち子どものいる家は三軒だの、橋のたもとの食堂は「杉乃井食堂ね、あそこも旦那を亡くして奥さん一人でやっている、今ははやらないよ、インスタントでも何でも買ってきて家で食べてしまう」だのよもやま話をしていると、老人は向かいの本宅を見て行くか、と言った。典型的な南部の曲屋で、集落にはまだ多くの曲屋が残されていた。昔はどこも牛を飼い、子牛をとって生計を立てていた。今でも十軒ほどがやっている。夏はこの上の広い牧場に放しているのでここらにはいない。昔は皆して世話に行ったが、今は一人で行く。他の会社に世話をまかせる人もいる。
 入るとすぐ囲炉裏を切った部屋で、古い柱時計が掛かっていた。右手の張り出しで牛を飼い、多いときで六頭ほどいたという。今も木の扉に白墨で書かれた飼料のメモが残っていた。左手は居間で、鴨居はぐるりと着物姿の老人老女や軍服姿の青年の遺影、各種の賞状で囲まれていた。天井からは神棚が吊るされお札、牛の像、仏像の頭のようなものが奉られていた。その奥は大きな仏壇のある部屋、床の間には昭和天皇皇后の御真影、掛け軸には勲章姿の将軍たち。
 老人はこれは私の人生の履歴だと言った。東北電力の検針、集金に務めた感謝状から民生委員、その他各種地区委員に対するものまで二十枚近い賞状だった。一番の自慢に思うのが長年の民生委員に対する厚生大臣からの表彰状だった。
 昔は雪がよく降った。一度降ると消えずにまた積もるのでかなりになった。一番の大雪は昭和二十年三月。一メートル以上積もり、終戦最後の春まだ召集があり、出征兵士は町へ出られず戸鎖の先から峠を越え三陸海岸に出て出征していった。昔は雪が降ると皆で歩いて戸鎖まで道をつけた。四十人くらいで歩いたか、あそこは昔ここらの中心地だった。村役場があったから何かと出る用事があった。
 老人はふいに「神棚のところに石の頭があるだろう」と言った。かつて山の上にあるおじんじょうさんが火事になり、おじんじょうさんの頭が落ちてなくなってしまった。そこで別の石で頭をつけたら、すぐそこの小川でこの頭が見つかった。どうやって山の上からここまで落ちてきたのかフシギだ、もう頭はついているのでここに飾っている。火事の後ここまで転がり落ちたのでは、と言うと、そうかあ、あの山からここまで転がるか、と納得しないようすだった。仏の頭のように見えるが、おじんじょうさん、てお寺ですか、と尋ねると神社だという。でも仏様の頭のようですね、というとそうだ、と言った。

 戸鎖に出る。五年前と同じく、酒屋とよろず屋的なスーパー、そして橋のたもとの杉乃井食堂があった。古びた紺ののれんの奥に、数脚の椅子と一人新聞を広げる女性の後ろ姿が見えた。

(『すい星』十一号掲載)

付記

 文中「端神へ行く途中寄った」とある老夫婦のところは、実際には軽米町。エッセイのため、字数制限と流れを折りたくないことから明記しなかった。ここも雑穀を栽培しており、二戸から軽米町へ行く途中には、ミレットパークという雑穀を紹介する施設も見えた。軽米特産のサルナシジュースはおいしい。サルナシはキーウィの原種と言われている。雑穀は水車で搗いていた、昔は米より雑穀のほうが多かった、タネとり以外は産直に出してよく売れている、などと聞き、以下に栽培方法を記す。

栽培方法 ヒエ、キビなど毎年植える場所を変えている、早くまきすぎると背丈だけ伸び、遅いと台風でやられる。
キビは5/25にまき7/22に出穂。キビは普通210日、9/2頃刈り入れ。刈った後4、5日天日干しして叩く。キビの刈り入れは先が黄色くなってきたら握ってこぼれるくらいのとき。
ヒエは5/26にまいたが芽が出ず6/10にまきなおし、9/10〜15頃刈り入れ。
粟は5/28にまき10月半ば刈り入れ。
畝間2尺5、6寸、土寄せのとき片側にカリ、片側に燐酸をまくと穂肥になる。土寄せは1回、まびきは2回、まびかないと分株して細かい穂が出て収量が落ちる。まびきが間に合わないときは、無理して抜かずに、できるだけ下から刈る。まびきは太すぎるものは途中で穂が出ずに止まるし、伸びそうなものを残す、細いものは結局だめ、間隔にこだわるより、いい苗がかたまっていたらそれを残すほうがいい、穂があちこち向いて自分で調整してくれる。
ヒエによくできるコブは、子供の頃大人が悪いものだと言っていなかったから大丈夫だろう。
アワノメイガは6月半から7月はじめに出る。
刈り入れ後の茎は、裁断して石灰と窒素を混ぜて堆肥にする。
精白はヒエは専門に頼むが、粟、キビは下の店で買ったマルマスの精米機に雑穀用の網を買って使えば精白できる。
キビに黒っぽいタネが混じることがあり、それははじいている。

 端神へ行く道。8月末だったが、もうキビの刈り取られているところもあった。鳥居水車から山側に入ったところに、広い雑穀畑があった。大豆、トウモロコシ、タカキビ、ヒエ、キビを栽培していた。倒伏防止にはロープを張っていた。畝間2尺。寺は戸鎖のはずれにあるが、今は青空寺。

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『すい星』発表作品
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 十号[カゲジ]
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 十二号[菅井新聞店]
 十三号[卒業旅行]

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