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木藤古
執筆日:1998/10公開日:2003/3/26
盛岡行きの夜行バスは3台出ていた。このあと野辺地で現地集合した友人たちに聞いても、青森行き4台だった、青森行き6台に乗り切れず八戸行きに押し込んでもらった、寝台車が混んで二人一緒にとれなかったと言っていた。「ほかに交通手段ないから。西は新幹線とかあるけど」「伯母も新幹線を盛岡で乗り継ぐと時間かかるから、ていつも夜行にしている。そのほうが楽だって」と東北出身の知人たち。
盛岡からバスで明通(あけどおし)に出て荷軽部方面へ歩き始める。標高5〜600メートル、高原のようになだらかな起伏に集落が点在する。牧畜が多く、飼料用コーン畑や田圃がある。肉牛やカンカク牛(黒)だと言っていた。サイロのある家も多い。稲刈りはまだ。この年は全国的に米が不作の年であちこちに被害標札が立っていた(畑を借りている茨城では2割減と言っていた)。ところどころに炭焼き場もある。道沿いに渓流が続き、奥入瀬のよう。
木藤古は5軒の集落。バッタリー村のご主人は、昼に近くの村のデイサービスのお婆さんたちが来るので一緒に食べようと言ってくれる。そしてバッタリー(ししおどし形式の殻搗き機)や炭焼き釜、雑穀畑、ブルーベリー畑、馬舎を案内してくれる。刈り取った雑穀を島立てして干していた。粟は軽米系や山口県のものなど、何品種も植えており、岩手の農業大学校の人達とさまざまな品種を植えて研究を始めたところだ、脱粒しにくくおいしいものをめざしている、と言っていた。山口の粟はこの時期もまだ青いままで、「ここでは寒すぎてだめなようだ」と言っていた。
お昼一緒だったお婆さんたちに、これから恐山へ行くと言うと
「あそこはあたる」と言う。今はブースになっているが、まえはあちこちの岩や木の下にいた、それで前の人のが聞けた、前の三人の若い人にはみな同じことしか言わなかった、イタコは背中にしょっているものをおろすと普通の人になるのだが、おろした後彼らに「あなた達は私を試しましたね。その人生きていますよ」と言った、イタコはこちらが求めるものに応じて返してくるところがある、と言う。お婆さんたちの半分近くはイタコに聞いてもらったことがあると言っていた。
一週間ほど滞在している鹿児島から来たという初老の人が、イタコの話に「そういう人達がいるんですか、沖縄のユタか奄美のノロみたいですね、似てますね。会ってみたいですね」と言う。
九戸村へ向かって歩く。ちょうど稲刈りの真っ最中で、はさ木に干している。茨木や新潟の知人は、もう今では天日干しはしない、と言っていたが、このへんはまだやっているようで、田圃に何枚も立ち並ぶさまはなかなか壮観。九戸村はけっこう大きく、高校もある。
(右写真は九戸村のはさ木)
(遠景の写真はこちら)
(九戸村の島立の写真はこちら)
下北
公開日:2003/3/26
1999:恐山 10月の祭りに行く。恐山は例の亜硫酸ガスによる荒涼とした光景、石積や卒塔婆並べはともかく、それ以外にも謎の風習が多かった。地蔵の祠に上から吊るされた小石、手拭がたくさん木に結わえつけられている一帯、五色の組紐の巻かれた串が何本も地面に刺してある一帯などなどがある。うそり湖畔にはいくつもの花束が地面に直接刺してあり、不思議な光景。熱心に湖の西へ向かって拝んでいる人もいる。服が何枚も掛かっているお堂があり、死んだ人の服だという。
境内には無料の温泉がある。お婆さんが大勢いたが、なまりが強くて話はよくわからなかったが、木藤古でもらった雑穀から急に話がはずんだ。みな六ヶ所村から来た、埼玉や東京に子供たちのいる人が多い、昔は粟稗をよく食べた、今年は米はだめ、などまではわかった。
陸奥横浜の長い海岸線を通る大湊線は、海岸ぞいの景色がよい。三度乗ったが、いずれも写真を撮っている人をみかけた。
友人は下北からフェリーで津軽へ渡り、その後ヒッチハイクで小泊のおじさんのところへ行くという。彼女は何度も東京から実家へヒッチハイクで帰っていた。ドライブインのトラックなんかに頼むらしいが、一度も変な目に遭ったことはないという(ただし友人はかなり大柄で強そうに見える)。後日談:船着場から小泊まで直に行く人はなかなかいないため、3回乗り換えたがみんな親切だったよー、と言っていた。
稲の干し方: 青森や岩手、山形では、一本の棒に円錐状に積み上げて稲を干していることが多い。それが福島あたりに来ると、横に棒を渡した干し方になる。新潟新津出身、福島出身の知人に聞くと
「そうそう、大体うちあたりで境目なの、山形よりになるとその丸い干し方」「昭和村は横棒だけど、大体郡山あたりで変わるんじゃないかなあ」と言っていた。
ちなみにこの境、幕末のどさくさにまぎれて独立をもくろんだ、奥羽越列藩同盟の境に似ている気がしなくもないが、どうなのだろう?
2000 八戸線はディーゼル。下りと上りの通過確認が輪っかのやりとりで行われていて、かつての八高線のよう。ポイント切替も古い(下の写真)。8月でもみな窓をあけており、冷房なしでもいいかんじだが、夕方にはかなり肌寒くなった。
八戸駅。「明治XX年開業のこの駅も8月31日で役割を終え、9月1日より新幹線駅ができるまで仮駅舎をご利用いただくことになります」などと張り紙がしてある。二戸周辺も再開発をしていたし、東北本線途中でも「三沢駅新幹線歓迎、小牧温泉」と見たし、盛岡以北は新幹線で大騒ぎだ。
バスで淋代海岸に出たあと、歩いて三沢方面へ。平らな土地で田圃が続く。
三沢からは、小川原湖畔を歩く。大きい湖でしじみが有名、しじみ漁の小船か幾艘も浮かぶ。湖畔にはキャンプ場や別荘地、しかしあまり人影はない。湖の南端には、ドーム型の建造物の並んだ三沢米軍基地/姉沼通信基地が見える。三沢基地には例のエシュロンがあると言われている。
湖の東は30mほど高くなっており、台地が広がる。ゴボウ、ニンジン、キャベツ、大根畑のほか、縦に網を張り、つる植物を栽培していたので聞くと、ナガイモだという。畑と、海岸線に平行した一列の針葉樹林とが交互に続き、防風林らしい(下の写真)。風は強い。
天ヶ森あたりで小川原湖の北端。マテ小屋が見える。北進する国道はトラックがひんぱんに行き交い、歩きにくい。畑か荒地が続く。六ヶ所村支所のある平沼でバスに乗るが、このあたりでも廃業旅館が目に付く。車社会で日帰りできるようになったせいだろうか。古い地図では新納屋、鷹架、沖付などの集落があるはずだが、見かけず、バスは低い丘陵地帯を突っ切って一気に村役場のある尾鮫についた。
六ヶ所村役場は、ちょっとした市役所のように立派だ(神戸の区役所よりはるかに大きい)。あちこちで石油国家備蓄基地交付金と白い立て札のたてられた施設を見る。消火栓が多かったが、ちょっとした小屋だのいろいろある。備蓄基地は尾鮫沼の西にあるそうで、昭和54年にこのあたりに来たときに買った5万分の一の地図には載っていない。五島列島にも石油備蓄基地があったが、備蓄基地は端のほうに作るもののようだ。
さらにバスで北上し泊へ向かう。乗客はおばあさんが多い。村役場を過ぎたあたりから、急にトラックを見なくなる。老部を過ぎると、丘陵地帯の林の中をひたすら行く。途中、自衛隊基地と射撃場を過ぎた。
泊はけっこう大きい集落で、ごちゃごちゃ入り組んだ典型的な漁村。NHKアーカイブスで見た昭和30年代の泊は辺境のイメージだったが、今では新建材を使ったこぎれいな家が並ぶ。ここにも、地方へ行くとよく見かける忠魂碑があり、泊帰還兵一同の建てた御所神社、その隣のお寺には日露、太平洋戦争戦没者を奉る軍服姿の銅像がある。
太平洋側から陸奥湾側へ抜ける山道の途中、突如風変わりなデザインと色の真新しい建物が出現。デイケアセンターと東通村役場だが、回りに集落もなく、なぜこんなところにあるのか不思議。
上田開拓新村あたりで、廃屋と思われる牛小屋、牛乳タンク、サイレージ小屋などを見かける。栃木の八溝山系でも、酪農が奨励された後多額の借金を抱えてどうこういう話を聞くが。一方、白いビニールに丸くまとめた飼料も見かけたので、まだやっているところもあるようだ。
田名部の待合室で、8月末なのに泊も田名部も寒いが「この時期はこんな気温ですか」と聞くと、「そうだね、今年はまあ暑かったが、いつもはこの時期はもう秋だ」と言う。雑穀について聞くと、天皇の五穀豊穣で献上するためにヒエを作っている人はいる、1、2軒指定されて大事に作っている、でもそれ以外は今は自家用に作るくらいになった。つい最近まで、田圃でないところはおかぼと言って粟を作っていた。今は健康食とかいって流行っているようだが、粟はおかゆにしかならんぞ、と何人かで笑う。横浜ではまだ粟を作っている人がいる。
最新版の5万分の一を買う。六ヶ所村の新納屋も鷹架も沖付も消滅していた。ほかにもいくつか消滅した集落がある。その一方、千歳平は大幅に戸数が増え、新しい集落もできている。村内移住でも行われたのだろうか。その他、馬鈴薯原種農場もなくなり、代わりできたのが原発、石油備蓄基地、原子燃料リサイクル施設、むつ小川原港だった。沖付にあった自衛隊基地は、石川とその北に移動していた。
昨年見かけた地元の新聞も、一面トップは原燃のミスに、青森県知事が再び核廃棄物の県内搬入を止めた話、その下には三沢基地の自衛隊機事故。「あ、これ地元紙か。やっぱ違うねー」と一緒に行った友人。青森には、原潜、米軍基地、原燃、石油備蓄基地などいろいろある。なかなか、どろどろしたものがありそうだが、沖縄ほど同情されていないし(理解されていない)、一部をのぞきあまり注目されることもない。
(写真は冬の三沢にて)
山形上ノ山
執筆日:1983/2公開日:2003/4/1
「田舎は神様のおすまいどころ」と祖父が書いていたが、たしかに訪れると石碑、祠、小さい神社のたぐいが多い。石碑には湯殿山、蔵王山、太神楽、十六夜講、馬頭観音などなど刻まれている。
生家の近くに地蔵堂がある。仮死状態で生まれたが、地蔵堂へ連れて行き尻を叩いたら産声をあげたという。天童あたりからもお参りにくるようで、堂内にはあずきをくるんだ袋がたくさんぶら下げられている。
集落は約70戸、うち専業農家は4戸、あとは兼業農家。息子が山形や上ノ山に勤め、農業やっているのは年寄りばっかりよ、と親戚は笑う。このあたりは東京への出稼ぎはなく、細かい仕事が沢山あり、冬の間だけホテルへ行って勤めたりする。蔵王のホテルなどもみなそうだ。昔と比べ平均的になった、すごい財閥もいない代わりにひどい貧乏人もいない。
さらに山奥に入ったところに、泥部という集落があった。戸数5,6戸だが、このあたりの分家筋にあたる人たちだという。いっとき、1,2年だけ分校ができたがすぐ閉校となり、子供はここまで歩いて学校に通ってきていた。それがダムができるというので、ここらへ下りてくることになった。今新築中の家は泥部の人たちのものだ。「地図で見るとずいぶん山奥ですよね」と言うと「奥も奥、すごい奥よ。そんなとこあるのも知らなかった」そうだ。
高校はたいてい農業高校に入る。希望さえすりゃ入れる、そして卒業すると町に勤める。女の子は短大に行き保母さんの資格をとる、「それが一つの嫁入りの条件みてえなもんだな、しかしそういう人が多いから仕事がないんだな、資格ばっか持ってたって仕方ないのよ」
祖父は仙台に出て新聞配達をしたりしながら当時の大学検定のようなものを受け、東京帝国大学に入って卒業した。「でもそういう人はマレのまたマレ。そういうマレの人だったのよ」。
残った弟があとを継いだが、弟も一時期一緒に仙台に住んだり、その後アメリカに渡り、勉学を志したが目を痛め農業を学んだ。戻ってからはこのあたりで最初の葡萄の栽培を手がけたり、先進的なことをやっていた。どちらかというと学者肌だったため、あまり売ることを考えずにずいぶん貧乏したようだ、とおばさんもケラケラ笑う。
祖父は東京に出て学者になったが、「いっとき久一さんはアカじゃったあ、と村で大騒ぎになったことがあったな。でも今から考えると、アカでも何でもなかったんだな。早稲田で教えているときに学生に頼まれてマルクス訳したらしいが、それが密告されて検挙されたそうだが、アカというより何にでも興味持つ人だったんだな。共産主義もけなしたし、右翼でも左翼でもねえ、どっちかっつうと自由主義者だったんだな」
戦後もふらっと気軽に村を訪れた。定宿にしていた市内の旅館は倒産した、造りが古すぎて今には合わなかった。地元の小学校だか中学校にもずいぶん本を寄贈し、自分の息子は今でも市の何とかがあると久一さんのこと出ないかと言っている。
1983年当時、市内や赤湯などにある共同の温泉浴場の入浴料は十円だった。
執筆日:1996/2 公開日:2003/3/19(写真は1995夏のもの)
いま日本国内で、ここ十年ほどの間に、かつてよりきれいになった、開発された、とはっきり言えるところは、東北地方ぐらいなのではないかと思う。新幹線はできた、在来線の車両もきれいになった、街も夜遅くまで営業するようになったで、ずいぶん変わった。
戦前、戦後しばらくの仙山線は、ものすごい山奥を通るローカル路線だった、と父からよく聞いた。十数年前に訪れたときも、左右にせまる山の中、雪とつららの峡谷をへばりつくように走
っていた。降りしきる雪の中、どこに人家があるのだろう、というような無人駅を、詰襟姿の少年が降りて黙々と歩いていった。
今回もその仙山線に乗るべく、仙台回りで行ったのだが、なんか妙に明るい。車両も新しく、仙台、山形間を快速で約1時間で結び、いまどきのスタイルの若い子達が大勢乗って騒がしい。東京〜横浜間の感覚で行き来しているように見えた。近年、降雪量が減っているせいか、雪も薄く、岩肌も見え、深い谷も美しい渓谷に見える。
奥羽本線も変わった。前は戦前を思わせるようなごつい旧式車輛で、乗降口は扉がなく吹きさらし、座席への出入り口に扉がついていた。今は横一列に向かい合わせの座席の新型車輛で、とても飲み食いできる雰囲気ではない。
十数年前の山形市内は、夜8時をまわれば開いている店もほとんどなく、十日町通りもがんぎの下であかりがしろしろとうつり、寂しいことこの上なく、いかにも東北の冬を感じた。しかし今回は、街全体がミニ東京のようで、新庄、上ノ山も同様なのだが、コムサドゥモードやイタリアントマトなんかの入ったビルがある。山形交通のバス停にはかくまき姿のお婆さんがいたりで懐かしいが、繁華街を歩く若者は都会と変わらない。ただ、遠くに連なる雪山が、葉を落とした木々を黒く細密画のように浮かびあがらせて、変わらない。
上ノ山から蔵王のほうへ入ったところに、祖父の出た村がある。
中央の平野部はもとは湖で沼地だったため、山を拓いて畑を作った。中央では米を作り、昔からよくとれた。畑は乾いたところのほうがよい、甘い野菜がとれる。米を作っても年貢に取られてしまうような小作が、山で粟だの稗だのを作って食料にした。
昭和の大凶作では、このあたりもだいぶ荒れた。年貢を出せないと、土地を取られたりした。ここらからも、満蒙開拓団が出て、シベリア抑留だのいろいろあった。親戚は満州に7年いて、昭和23年にシベリア抑留から戻った。
ここは、ここいらで初めてぶどうの栽培を始めたところだ。昔は流通がなかったから、回りで売るしかなかった。リヤカーに積んで、仙台まで売りにいった人もいる。仙台は意外に近い。蔵王を越さずとも、脇道がある。
バスが通ったのは昭和29年。それまでは歩いて上ノ山に出た。小学校も片道4キロ歩いて通った。
昔はニ尺三尺雪が積もったものだが、ここ5,6年、降らなくなった。その代わり、夏がおかしくなった。あがるべきときに気温があがらず、妙なときにあがる、だから何度も薬をまかないとカボチャができなくなった。
上ノ山には、奇習カセ鳥がある。唐傘の一本足お化けのような、藁作りの三角錐をすっぽり被って、片足で踊る。火の用心の風習で、お札がある。
急行十和田の思い出
今はなくなってしまった夜行の急行十和田だが、以前東北地方へ旅行するときには何度かお世話になった。大宮を過ぎるあたりから、サキイカだの日本酒だのが出てきて、おじさんたちがくみかわしている。車掌が扉をあけ「失礼します。急行券乗車券の検札を行います」と言うと「んなもん持ってねえよ」と笑う(実はちゃんと持っている)。そして車掌さんに「仙台何時だ」「一ノ関何時だ」「大船渡乗り換えは何時だ」と口々に聞き、車掌もいちいち答えていた。
いつだったか帰りの十和田に乗ったときのこと。後ろで酒の入った土方姿のおじさんが隣の大学生の男の子相手に話し出した。そして数年前の日本海中部大地震のとき、堤防で昼食をとっていた護岸工事の労働者が大勢津波にさらわれ、そのうち34人が亡くなったのだが、そのとき例の堤防にいたと言う。しかし大学生は、そのできごとを知らなかった。「知らないのか?あんな大きな事件をほんと知らないのか?」とおじさんは信じられないように大声をあげた。そして一人で泣き出した。仲間がいっぱい死んだんだよ、だの言いつつ次第に静かになってゆき、通路にひっくりかえって寝てしまった。
深夜2時頃、回ってきた車掌が苦笑しながら「お客さん、こんなところで寝込まられてもねえ、もうちょっとなんとかならないもんですかねえ」と起こす。おじさんは半分寝ている感じながらも「じゃまにならなきゃいいんだろう」と座席の間にもぐりこんでまた寝てしまった。
(実は私も当時、犠牲者の人数のわりには新聞テレビの扱いが小さいなと感じていた。これが幼稚園の遠足か何かだったら、大災害として報じられたのではないか、土方のおじさんたちだから大勢死んでも扱いが小さいのだろうか、と思っていた。)
ところで東北本線や奥羽本線に乗っていると、よく手のひらの中で何かをがちゃがちゃいわせているのを見た。乗り合わせた人だったり弁当売りだったりしたが、聞いてみるとくるみで、手のひらにつぼがあり、そこを刺激すれば血行がよくなって温まるのだと言っていた。
(写真は新幹線開通前の上ノ山駅)