この歩きへんろ旅行では「へんろみち保存協力会」の発行する地図に大変お世話になりました。
2011年1月29日付朝日新聞の記事で、地図作成と旧道復活に尽力された宮崎建樹氏の訃報を知りました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
徳島編1 2002冬
一番から十番
南北に連なる山なみの合間の平地を吉野川沿いに進む道で、冬はけっこう風が冷たい。森林組合や製材所も目に付く。
三番から四番、愛染院裏の旧へんろ道
十番から十一番
朝暗い中、道を掃いていたおばさんからお接待にとみかんや干柿をいただく。途中道を教えてくれた散歩中の老人は、若い頃はしし狩りをしていたと話してくれた。今でも若い者15人ほどでしし狩りは続いており、夏は脂がなくてまずいから冬に狩る、と言っていた。
早朝の吉野川の潜水橋
焼山寺への道は大変かと思ったが、近郊の山をときどき登っている人ならハイキング的に歩ける感じだ。全身白装束姿で丸刈りの仏教大学の学生や、カメラをかかえた登山者など、冬でもけっこう人が歩いている。4時間半くらいで登ったのでそう遅いペースではないが、それ以上のペースで行く人も多い。
左右内集落では、犬が吠えると同じ数だけ木霊がかえっていた。
へんろころがしと言われる焼山寺への登りと、左右内集落
冬はへんろは少ないが、それでもちらほらいる。団体がいると納経所が混むが、一方お坊さんや先達がついているので、お経の読み方などの参考にもなり、説明を聞くこともできる。 |
十一番から二十番 焼山寺を下りた神山町は石屋が多く、立派な墓石が店頭に並ぶ。温泉もある。中学の青雲寮は、山中遠くから通う子供たちのためのもの。
下校途中の小学生らが次々挨拶してゆく。季節柄みかんをよく売っており、1キロ百円。ゆず、すだちも多い。巨木を積んだトラックがゆく。
左−立江寺あたり、右−鶴林寺へ向かう生名付近
二十番から二十二番
太龍寺へ登る途中、ほぼ廃集落に見えるところがあった。廃屋の玄関にはいくつもの表札が並ぶ。その数30ほど、大家族だったに違いない。文字通りひっくり返った神社の社殿と、鳥居の石柱に刻まれた氏子の文字に、人の去った村を感じる。
太龍寺から降るへんろみち
山中ではあちこちにへんろ道保存協会や鯖大師、岡山愛宕山などによる札がかかり、分岐点でもわかりやすい。こうした札は、この後どの峠でもよく見かけ、お世話になった。 |
日和佐へ向かう道
平等寺から日和佐まではひたすら国道を行くが、トンネルも多い。轟音が不快だが、トンネルは徳島、高知に多く、愛媛以降は少なくなる。
牟岐の警察ではお接待をしているが、11月いっぱいまでと聞いた。
二十二番から二十四番
薬王寺のある日和佐は衰退していた。日本中で急行が停まるクラスの町の衰退が著しい感じで、町の中心部には空き家が目につく。ただ中心から外れたあたりには二階建てアパートが並び、子供服が干してあったりする。需要と供給のミスマッチもあるかもしれない。
日和佐のホテルの温泉は500円で入れる(地元値段はもっと安く、銭湯代わりに来ている)。
宍喰から甲浦にかけて
薬王寺からは長い海沿いの道。途中、小松大師、草鞋大師など、さまざまなお堂や石仏がある。
海南、海部、甲浦はサーファーが集まるようで、垢抜けた感じの店も多い。宍喰の道の駅の温泉は400円。
野根の町並み
野根は古い町。かつてはどの村にも銭湯があり、賑やかだったが今は人が減った。漁師町のほうには子供がいるが、町中や農家で小中学生のいる家は一軒もないそうだ。撤退した高知銀行野根支店の建物が残り、張り紙に平成14年7月閉店とある。
地元名産の野根まんじゅうを、おみやげに購入。
歩きへんろには、車へんろの人が乗っていきますか、と声をかけてくることがときどきある。全部歩く予定だったので乗らなかったが、お接待だからと遠慮せず乗せてもらう人もいる。
徳島県内ではよく、集落で管理している接待小屋が置かれていた。ただし、野宿禁止と書かれていることも多い。置かれたノートを拾い読みすると、
「近頃は民泊も断られることが多く、やっとみつけたここも野宿禁止とは。これから野宿スポットを探さなければならないが、九年前に比べお四国がお四国でなくなってきている気がする」 「亡き母と共に回ります。業を背負って。正月にはどこでどうしているのやら」等々ある。 |