愛媛編2  2003春-2004冬
五十三番から五十九番
 円明寺からは海沿いの道。瓦の町菊間、タオルの町亀岡等続く。菊間近くの太陽石油のそばには石油の地下備蓄基地がある。

左-菊間近辺の海、右-丘陵の市墓地、ここを越えると今治
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瀬戸内側に入ると、お接待を受けることが多くなった。季節柄みかんだったり、飲み物にと数百円だったりする。お店の人も「お茶でも飲んでゆきなされ」と声をかけてくる。松山-高松間ではなんだかだと1日3、4回は受けた。ふと、四国の人はほかへ行ったとき、お接待を受けることはあるのだろうか、と思う。


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 今治近辺も札所が多い。早春になると、冬場は少ない中高年のおへんろや車へんろもちらほらいる。車や団体で回る人は白装束で正装した人が多い。小物入れ、鈴とばっちり揃えている。逆に歩きへんろに正装は少ない。私も杖と上着だけで、街中では上着も脱ぐことが多かった。

 今治あたりからへんろみちマークをあまりみかけなくなり、電柱などにマジックで書かれた矢印やお寺の番号が目印になる。

60 畦をゆくへんろみち
(今治市内)






道端の祠


五十九番から六十番
 国分寺を過ぎると、横峯寺までの道は遠い。国道から世田薬師側に入り、ひたすら田圃の広がる中をゆく。

丹原
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宿でほかの歩きへんろや個人の車へんろと一緒になると、情報交換になる。そんな話をいくつか(個人的な内容は改変してあります)。

宿での話1: はじめてのへんろを逆打ちでやり、そのまま2回目を続けているという若い女性
 はじめての逆打ちは大変では、とよく言われるけどあまり考えていない、わからなくなったら国道を行けばなんとかなる。
 岩屋寺にスタンプラリーになっていませんか、と書いてあったけど本当だ、若い子なんかでお辞儀もせずお経もあげないのを見ると何しに来ているのかと思う。自分は信心深い家庭に育ったからお経は1時間あげる。般若心経だけでは1時間もかからないが、ほかにも色々お経をあげている。速さを競っているんじゃないんだから。
 逆打ちの人は愛媛から始める。長いし雲辺寺、横峯、岩屋寺と高い山が続くから、先やっておいて香川が最後だとあとで気が楽。その点、松山を最後にしたので失敗した。横峯を奥の院から登るのはきつかった、でもそのほうが道に迷わないからよい、という人もいる。

 おへんろしていると色々な人に会う。今日も逆打ちに二人会い、あとで待ち伏せされて案内するよ、と言いつつお金を要求された、別のへんろには若いもんがずっとこんなことしているなんて、逃げているだけだと説教された、みんな悩みがあってやってんだから言われる筋合いないねと内心思った。
 関西は嫌いだ、関東以北は貧しい生活をしていたから人がいいけど、関西は少し前までは日本全体で見ればよい生活をしていたから、人が悪いとは言いたくないけどそうだと思う、へんろなんてしてんの、と無愛想だったりする。でもいたこは”取り憑かれているから”自分も信用していない。へんろのほうがいいと思う。
 ただ、こうしてずっと旅しているのも疲れた、今は早くおわりにして働きたいと思う。


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 国道沿いの廃業店舗


五十九番から六十番
62  予報では雪だと言うので心配したが、宿の人は積もるといってもたいしたことない、と言った。
 丹原は結構長い商店街を持つ田舎の町で、昭和三、四十年代は賑やかだったろうと思われる。
 途中軽トラ停めて作業していたおじさんたちが、「全部回るとどのくらいかかる」と聞いてきた。「普通は四十日前後みたいです」と答えると「そんなかかるんかい」と言った。「歩いて回ってるんか。私は車で25回回った」など、愛媛もけっこう声かけてくる人が多い。

63 中山川

 駐車場から数センチ雪が積もった山道を登る。山門への階段はアイスバーン状態。横峯寺に着くと急速に冷え、手が霜焼けのようにふくれて感覚がなくなった。手や口を漱ぐひしゃくにも氷柱がつき、凍っている。

雪の横峯寺


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六十一番から六十五番
 香園寺はコンクリート造りの大きな寺で、地元の参拝客も多い。前神寺そばには温泉宿があり、銭湯代わりにもなっている。こうした宿に泊まる温泉廻りを兼ねたへんろもいる。



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牛頭天皇を祀る碑(前神寺そば)


新居浜の旧道

西条から新居浜に入ったあたりで、背中の曲がったお婆さんがリュックを背負い、杖をひいて歩いていた。首に袈裟をさげ、おへんろで回っているという。足元はズックだが、両足首とも腫れている。その足とスピードで1日どのくらい歩けるか。身なりはこざっぱりして野宿しているようすはない。
しばらくゆくと、家の前に立ったおばさんが声かけてきた。泊まってもらってもいいけど、まだ昼だしねえ、と言うので、そのお婆さんの話をした。「西条?それじゃここらへ来る頃には夜になるね。民泊しながら回っているんだよ、きっと」と言った。


 三角寺へはひたすら旧道をゆくが、立派な家が多い。凝った塀や、庭に池や築山があったりする。畑にはほうれん草、キャベツ、チンゲン菜、ネギ、大根、麦。麦は高畝にしている。カマボコ型の高畝マルチの畑はたばこ畑。

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左-寒川の旧道、右-旧道との別れ道の三界萬霊塔

宿での話2:
 宿の人の話では、お遍路には奥さんを亡くしその弔いに回る初老の男性が多い。歩きは男性が多く、特にその世代が多い、逆は見ないという。最近泊まった人では、殺したい人がいた、母がその人のせいで亡くなったのだが、歩いているうちにだんだんどうでもよくなってきた、という男性がいたり、離婚したばかりで色々考えたくてきたという若い男性もいた。母親の病気の快癒を願って回る男性も多い。

 確かに宿や道の途中で会う歩きへんろは、圧倒的に男が多い。納経所にも「XXさん、お母さんが亡くなられたそうなので至急帰ってください」と張り紙があったり、「この人を探してください」と顔写真が貼ってあるのをよくみかける。



六十五番から六十六番
 伊予路をゆくと、小さい何々大師堂が平成何年に地元の手で立て直されていることも多く、やはり豊かさを感じる。中でお婆さんたちが御詠歌を歌っていたり、今でも使われている。一方、相変わらず不動産屋が連絡先として記された空き地、売り地は多い。そして老人施設、デイケア施設も多い(これはへんろみち全体を通じてそうだった)。
 三角寺への登りは地元の人の散歩コースになっている。

三角寺への登りから伊予三島を望む
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 三角寺を下り、境目峠を越えると徳島県に入る。
 通しで来る人はこのあたりへたいてい32〜5日で来る、若者には30日を切って来る人もいると聞いた。

 佐野の集落にも統廃合で無人となった農協や廃業店舗が目につく。ひなたぼっこをしていたお婆さん達が声をかけてきた。「昔はもっと賑やかだった」「その角にも宿屋があったしな。その先にももう一軒。おへんろは今のが増えたが、昔は商人(あきんど)が多かった」。広場には駅があったというので「電車が通っていたんですか?」(関東はかつて軽便鉄道が通っていた所が多いので)と聞くと、バスだという。ただそこで国鉄の全国どこの駅の切符も買えたので、あたしらは駅、駅と呼んでいた、と言った。ここも道ができて人が出て行ったところだという。

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左-雲辺寺への道、右-雲辺寺

 雲辺寺も山上の寺、へんろみちの中では最も標高の高いところにある寺だ。最初は急だが、その後は平坦で歩きやすい。ただ、季節柄まだ雪が残り、車道に出る最後の坂がアイスバーンで軽登山靴ではまったく歯が立たず、一気に下まで滑り落ちそうな恐怖を覚えた。雲辺寺を越えると香川県。

六十七番から七十番
 山を下ると鶯が啼く初春の村。畑のおばさんも気軽に声をかけてくる。

 大興寺と神恵院の間でうどんやを見つけた。地元の人が出入りしており、駐車場が狭くご迷惑おかけしてますの張り紙に、流行っているかと入る。中は混んでおり、斜め向かいのおじさんがここのはうまい、仕事柄丸亀ならどこ、観音寺ならここと決めている、地元の人や俺らみたいな作業着姿のがうろうろしている店に行くといいよ、と言う。
 その後も讃岐路を行くと、畑の中のビニールハウスや、民家の軒先にビニールをかけた形のうどんやを見かけた。店によっては「うちは歩いて回られる方にはお接待させていただいています」というところも何件かあった。さほど信心深くない体験派へんろなので、お土産用にうどんを買うと、後からお守りをくれたりした。


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大興寺への道

へんろ宿:
冬歩いた高知では宿で一人のことも多く、ほかに宿泊客がいる場合は市内だとビジネスマン、田舎だと工事で長期滞在の人達が多かった。愛媛以降は春歩くことが多く、宿泊客はおへんろが多かった。観光会社のお遍路ツアーのバスが何台も乗りつける巨大なへんろ宿では、百人近い人数が大部屋で次々食事をとっており壮観だった。

へんろには宿に着くと、何よりも先に杖を洗う、というしきたりがある。古い宿だと必ず指摘される。はじめは形だけやっても、という気がしたが、どんなに疲れても休む前にまず杖を、としているうちに、これはどんなに疲れていてもまず他を考える一種の訓練かもしれない、と感じるようになった。こういう小さい忍耐力の訓練は意外に大事かもしれないず、昔の生活にはこうしたさりげない、人生を生きる上での訓練方法が処々にあったのではないかと思う。



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