高知編2  2003冬
三十一番から三十六番
 竹林寺、禅師峯寺は山の上にあり、竹林寺への旧へんろ道は梅畑や植物園の中をゆく。
 禅師峯寺と雪蹊寺間は、渡しを使うのが本来のへんろ道で、渡しは県営、1時間に1本(朝夕は2本)で無料。オープンフェリーで車、バイクも乗れる。
 清瀧寺も山上で見晴らしがよい。登る途中、薬子の乱の高岡親王跡地がある。インドへ行くため、この地に魂だけの墓を作ったという。
 1月の朝はこのあたりでも氷点下のことが多かった。野宿派へんろは寒かろう。

左-清瀧寺からの眺め、右-塚地峠
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三十六番から三十七番
 何通りか道があるが、浦ノ内湾を海沿いに進む道は景色も美しく、車もあまり通らない。ただし夏は暑そうな道。この日須崎まで食堂が1軒も見つからず、地図に載っている店も軒並み廃業した感じで(それとも冬季休業だろうか)、よろずやで購入したパンとバナナで昼食。沿道でポンカン、文旦を1袋2、300円で売っている。

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浦ノ内湾

 岩本寺へは国道直進もできるが、塚地峠、佛坂峠、焼坂峠、そえみみずへんろみち、と坂越えの旧へんろみちがある。登り口には草刈奉仕団の参加者名簿札が並び、こうした人たちが歩きやすいよう旧道を整備してくれている。

そえみみずへんろみち
20  佛坂峠のふもと集落は、3時にはもう山陰に入り、夕暮れの雰囲気だった。石垣下のひなたにお婆さんが3人座り、その先では4人のお婆さんが立ち話。本道の坂を登ったひなたにもお婆さんがいる。なごやかな一方、村のたそがれも感じる。峠下には岩不動がある。

 焼坂峠は鎖場があったりして結構急だが、そえみみずへんろみちはさくさく歩ける(このほかへんろ道ではないが本みみずという道もあり、大野見村を通る)。


そえみみずへんろみち頂上
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 国道ができトンネルが通る前は、こうした峠みちが唯一の生活道路だった。荷物を背負ったへんろ行は、同じ山道を商品を背負い行き来した昔の人に重なる。

 山道を歩いても危険な感じはなかった。むしろ車の通れる道のほうが危ないかもしれない。
 宿の人から聞いた話だが、車で山中に連れていかれそうになったへんろが、途中、山で芋掘りをしていたお婆さんを見つけ、車の中から窓を叩くまねをし拝む格好をしたら気付いてくれ、ナンバーから15分で犯人がつかまった、とニュースでやっていたという。



伊与喜の旧道


三十六番から三十七番
 国道でトンネルのあるところは必ず峠越えの旧国道か県道がある。トンネルを直進することも多かったが、伊与喜では旧道を行ってみた。車も少なく、轟音鳴り響くトンネルより気持ちよいが、登り下りがあり距離も余計にかかる(車の通る道の場合。歩行者しか歩けない道だと、急坂だが逆に距離は短くなるケースも多い)。また、夏は頭上から蛇が落ちてくることもある。


三十七番から三十八番
 ひたすら海岸沿いの国道の道だが、このあたりで遭遇した冬場の雨について。
 傘をさすと視界がきかず、トラックが通ると風であおられる。合羽をはおると蒸れて歩きにくいが、冬の場合着こまないと立ち止まったり風が強まると急速に冷えるのがジレンマだった。

白浜あたりにて
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 高知以西は道路工事で道が変わっていることも多く、へんろみちマークが減る。四万十川の橋へ向かうあたりもわかりにくかった。窪川−中村間はけっこうしゃれた喫茶店があった。

左-四万十川、右-伊豆田トンネルを抜けた下ノ加江付近
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寒波到来のため吹雪の足摺岬
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 金剛福寺は寺の手前で2泊し、中1日で往復するパターンをとる人が多い。東周りもできるが、初めてなら東回りは考えないほうがよい、という。東回りの1日往復も可能だが、道もわかりにくく時間がかかり、交通機関も少ないのがその理由。
 足摺岬の白山洞門には戦争末期、B29が爆弾を落とした。亜熱帯植物園がある。


地元の人の話:
 旧へんろみち脇の林の中にときどき見かける石組みはかつては田畑だったことを示し、減反で桧や杉を植えていった。その棚田のあとは元同級生の家であそこに家があった、この家も清水に出て行った、そこは中村に出た。昔は主に麦、芋を作っていた。

 海岸はかつては子供の遊ぶ浜だったが、埋め立ててフェリー乗り場になった。高知行きだったが1年もたなかった。今は大阪の業者が借りて養殖に使っている。浜には今でも海亀が産卵に来る。

 農業は誰もつがない。農業は女の人がやらんといかんからね、子供でお金のかかるときは男親が働きに出て女親が畑守る。漁師さんは今でもなりたい子がおるけんね、続いとるが水揚げは昔に比べ減った。朝、市場のサイレンが鳴るが、水揚げの多いときは遅く鳴るし、少ないと早い。
 漁港にはガラスの入った建物がある。野宿の人がいると教えている。

 昔はタケや立ち枯れの木を薪にしたが、今は誰もとらない。神社と寺の杜には手をつけなかった。そこの木を薪にするとよくないことがおこると言われた。

 昔は、このあたりの人は子供の頃、土佐清水まで歩いて教科書をとりに行った。今は小学校で配っとるけどな。



三十八番から四十番
 金剛福寺から延光寺への道は廻っても廻っても山また山が続く。廃集落に見えるところ、廃線の錆びたバス停を過ぎ、河内神社をこえると三原村。山あいのわずかな平地を数珠つなぎに集落が続く。宇賀の先に平成6年に作られた茶堂や、地元の人による接待所がある。
 村は茶畑も多く硯石も有名らしい。船ヶ峠を越えると下りになり、牧場があったりで視界が開けた。ダムとトンネルを抜け、平地に出る。ふもとの目印の稲荷大明神は鳥居が崩壊していた。

 この打戻コースは長距離間宿がないく、徳島の平等寺などとともに歩きへんろにとって難所区間だったが、NPOによる運営による宿泊施設が三原村に出来た。平等寺近辺も今は宿があり、また桑野に出てもよい。

 宿毛もさびれており、アーケード商店街は半分以上が閉まっていた。小学校の塀には宿毛出身の有名人の写真と説明書きが並び、吉田茂の名もある。

左-松尾峠、右-峠を越えた愛媛側集落にて、大根干しのようす
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 松尾峠を越えると愛媛。この峠道もかつては松並木の植わる幹線道路だったが、松は戦争中供出で切られ、根も油をとるため掘り起こされた。


 高知ではよく、丸い石だけのお墓をみかけた。何人かの人に尋ねたところ、自分の宗派でないのでようわからん、という人が多くはぐらかされたりしたが、ある宿のおかみは、「山のほう、田舎に多いわな。昔はお金のない人やそんなことに興味のない人は、墓石建てずに石だけ集めた。墓石は最近、最近いうても2〜300年はたつけど、最近のもんや。その前は五輪の塔みたいだったり、名前がついとらん。で誰だかようわからんなる。でも田舎は家系図あったりするからな、最近塔の裏に名前彫ったり、新しく墓石建てたりする。でもそんなことどうでもええ人は今でもやらん。お金なくてやらんこともあるけどな。庄屋の家でも昔は石だけだったりする。石や墓に榊だけまつってるのは神道や。仏教徒はしきみと花を添える。でも神道多いよ。山のほういくと今でもけっこういる。」

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