二二八和平公園 | |||||||||||||||||
2009 | 台北 | 萬華 | 二二八和平公園 | 鉄道 | 基隆 |
北投 | 烏来 | 台中 | 台南 | 東獄殿 | 台南の廟 | 麻豆 | 高雄 | 老兵記念館 | 二二八和平公園 1947年2月27日、公安局警察と密輸取締り官が密輸タバコを売っていた女性を殴り、品物から売上金からすべて押収したことに周囲が同情、群集がどんどん集まってきた。怖れをなした警察は拳銃を乱射しつつ後退したが、近所の青年が流れ弾に当たって即死、女性も重症を負う。 陳儀が共産軍が反乱しているとして南京の中央政府、蒋介石に第21師団の派遣を要請。 これがいわゆる二二八事件で、本省人と外省人の対立が決定的となった。 本省人にこうした対立について話を聞くと、外省人とは文化や精神がまったく異なる、外省人は台湾人を4等国民扱いする、この事件がなくてもいつかは爆発した、と言う人が多い。古い日本語世代の人が、外省人のことを「支那人」と呼ぶケースも多く耳にした。逆に年配の本省人に対して「中国人」と言うと「中国人じゃない!台湾人だ!」と怒り出す人もいる(表面怒らない人でも、内心は不快に感じるようだ)。ただし、若い世代は国民党の教育を受けているので、日本語世代や二二八事件の体験者世代とは、かなり感覚が異なる。 30代の本省人の知人は、両親は日本語を話せる、二人の姉も日本に留学したりで日本語を話せる、しかし自分は国民党の反日教育が最もさかんなときに育ったので日本は嫌いだった、それで家族で一人だけ日本語ができない、という。イギリスの大学を卒業した優秀な青年だが(このため英語は流暢)、今日本語を勉強しなかったことを後悔している、今からでも勉強しようと本気で思っている、と言っていた。
追記: 7月に聞いた話では、2009年12月に二二八記念館を大改装するという(来年2月28日に新装オープンするらしい)。1945年、日本の敗戦にともない、台湾に進駐してくる国民党の軍隊を迎える台湾人たちが、左右逆の旗を振って迎える写真(当時台湾人たちが”中国”とは何か、国民党とは何かをよく理解していなかったことの証拠として有名な写真)や、犠牲者の写真と氏名を並べた円形の部屋も無くなるだろうと言われている。さらに日本語ボランティアもかなり入れ替えになるのではという噂もある。 この話は台北だけでなく、他の地方都市でもひそひそ話される感じで聞いた。大陸中国や台湾は、やはり政治的にやっかいだと感じる。一般人は潮目の変わる兆候をひそひそ噂し、状況に応じて面従腹背など態度を変えたり自重したりで生きてゆく。しかし一方、そうした政権を担いだり維持させているのも、中国人であり台湾人であるとも感じる。 彼らと話していると、なんでも政治につながりやすい印象がある。文学の分野で、日本には花鳥風月をめでる随筆や恋愛小説、私小説にすぐれた作品が多く、中国は政治小説に有名な作品が多い、国民性の違いだ、と聞いたことがあるが、確かにさまざまな話題を話していても、いつのまにか政治につながってゆく感じがある。もともと好きなのだろう、と思う。お上の采配におびえ、常にびくびくしながら生きている、というよりも、何かそうした「状況を読みそれに応じた生き方をする」こと自体が好きなのでは、という気がする。 記念館入り口にある手形 陳水扁が台北市長の時代は、台北市内の小学生は全員二二八記念館を参観したそうだ。今ではその習慣はなくなり、いまや最も多く記念館を訪問するのは日本人だという。 記念館のトップは国民党の人、そのため、来る日本人に日本の統治時代をほめ国民党時代を悪く説明する展示内容はさすがにまずい、となったのかもしれない(実は今年4月にいったん展示内容が変更されている、と聞いた。私自身は以前の内容を見ていない)。 今回の旅行で聞いた民情などの詳細についてはこちら 追記その2: 2010年6月時点の話では、二二八記念館の大改装は2010年4月1日からはじまった。工事は2010年12月1日までかかるもようで、このため今回は中に入ることができなかった。 追記その3: ざっと見た感じでは、日本時代の民主化運動からの流れが詳しくなり、二二八事件と半分くらいずつの割合になった。当時の写真や一人一人の状況が減り、新聞記事が多く、ビデオ映像をエンドレスで流す箇所も増えた。流しているのは当時の台湾の映像だが、平時の台北の様子などで事件そのものの写真、映像はほとんどない。また、台湾全土に日を追って抗議行動が広がってゆくようすを、ボタンを押しながら見る大きな地図装置が無くなった。文字による解説はあるが、臨場感はない。 解説など内容に関する意見は差し控えるが、ひとつだけ。 このページは2009-2012年の台湾に関するページです |