二二八和平公園


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二二八和平公園
 1945年、日本の敗戦後、国民党の軍隊が台湾に入ってきた。彼らは阿山仔(外省人)と呼ばれ、300年ほど昔、明王朝末期に福建省から台湾に移住した民の末裔である甘薯仔(本省人)とは区別される。外省人が支配層となってかなり圧制を敷いたことや、文化の違いなどもあり、外省人と本省人の仲は悪化していった。

 1947年2月27日、公安局警察と密輸取締り官が密輸タバコを売っていた女性を殴り、品物から売上金からすべて押収したことに周囲が同情、群集がどんどん集まってきた。怖れをなした警察は拳銃を乱射しつつ後退したが、近所の青年が流れ弾に当たって即死、女性も重症を負う。
 これに憤慨した群集が警察車両を破壊、警察署を取り囲む騒ぎに発展。日ごろの不満と恨みが一気に噴出して、数日にして全島に反政府運動が広がる暴動となった。

 陳儀が共産軍が反乱しているとして南京の中央政府、蒋介石に第21師団の派遣を要請。
 3月8日、支援部隊が到着したあと、反政府勢力の摘発と弾圧に発展し、白色テロを行ったとする。李登輝政権が誕生し、戒厳令解除と民進党が合法化されるまで、暗黒の時代だったとする(本省人側から見た場合)。
 国民党が軍事力で鎮圧した際には、台湾人エリートを暴動との関連を調べずに逮捕殺害するケースが相次ぎ、2万人以上殺害された(行方不明者も多く正確な数はわからない)。
 しかし、南京から送り込まれた白崇禧国防部長は調査した結果、これは反乱ではない、台湾のリーダーを殺すな、裁判をかけていない者を殺すなという命令を出し、終結する。
 陳儀はこののち失脚、その後共産党へ内通したとして処刑された。

 これがいわゆる二二八事件で、本省人と外省人の対立が決定的となった。
 また二二八事件に触れることもタブーとなった。
 1988年に李登輝が国民党総裁となり、1990年、二二八事件遺族と会見、政府による調査を開始し、1997年2月28日、二二八記念館が開設される。
 2000年に民進党政権が誕生。

 本省人にこうした対立について話を聞くと、外省人とは文化や精神がまったく異なる、外省人は台湾人を4等国民扱いする、この事件がなくてもいつかは爆発した、と言う人が多い。古い日本語世代の人が、外省人のことを「支那人」と呼ぶケースも多く耳にした。逆に年配の本省人に対して「中国人」と言うと「中国人じゃない!台湾人だ!」と怒り出す人もいる(表面怒らない人でも、内心は不快に感じるようだ)。ただし、若い世代は国民党の教育を受けているので、日本語世代や二二八事件の体験者世代とは、かなり感覚が異なる。

 30代の本省人の知人は、両親は日本語を話せる、二人の姉も日本に留学したりで日本語を話せる、しかし自分は国民党の反日教育が最もさかんなときに育ったので日本は嫌いだった、それで家族で一人だけ日本語ができない、という。イギリスの大学を卒業した優秀な青年だが(このため英語は流暢)、今日本語を勉強しなかったことを後悔している、今からでも勉強しようと本気で思っている、と言っていた。





公園内のようす



 二二八記念館は、日本統治時代ラジオ局(台北放送局)だった建物。1997年より記念館として運営されている。
 日本語世代のお年寄りが日本語ボランティアを勤めていて、案内してくれる(無料)。非常に熱心で質のよいボランティアの人たちなので、ぜひ話を聞くことを勧める。


二二八記念館









追記: 7月に聞いた話では、2009年12月に二二八記念館を大改装するという(来年2月28日に新装オープンするらしい)。1945年、日本の敗戦にともない、台湾に進駐してくる国民党の軍隊を迎える台湾人たちが、左右逆の旗を振って迎える写真(当時台湾人たちが”中国”とは何か、国民党とは何かをよく理解していなかったことの証拠として有名な写真)や、犠牲者の写真と氏名を並べた円形の部屋も無くなるだろうと言われている。さらに日本語ボランティアもかなり入れ替えになるのではという噂もある。

 この話は台北だけでなく、他の地方都市でもひそひそ話される感じで聞いた。大陸中国や台湾は、やはり政治的にやっかいだと感じる。一般人は潮目の変わる兆候をひそひそ噂し、状況に応じて面従腹背など態度を変えたり自重したりで生きてゆく。しかし一方、そうした政権を担いだり維持させているのも、中国人であり台湾人であるとも感じる。

 彼らと話していると、なんでも政治につながりやすい印象がある。文学の分野で、日本には花鳥風月をめでる随筆や恋愛小説、私小説にすぐれた作品が多く、中国は政治小説に有名な作品が多い、国民性の違いだ、と聞いたことがあるが、確かにさまざまな話題を話していても、いつのまにか政治につながってゆく感じがある。もともと好きなのだろう、と思う。お上の采配におびえ、常にびくびくしながら生きている、というよりも、何かそうした「状況を読みそれに応じた生き方をする」こと自体が好きなのでは、という気がする。

記念館入り口にある手形

右端が陳水扁のもの



 陳水扁が台北市長の時代は、台北市内の小学生は全員二二八記念館を参観したそうだ。今ではその習慣はなくなり、いまや最も多く記念館を訪問するのは日本人だという。

 記念館のトップは国民党の人、そのため、来る日本人に日本の統治時代をほめ国民党時代を悪く説明する展示内容はさすがにまずい、となったのかもしれない(実は今年4月にいったん展示内容が変更されている、と聞いた。私自身は以前の内容を見ていない)。

 今回の旅行で聞いた民情などの詳細についてはこちら

追記その2: 2010年6月時点の話では、二二八記念館の大改装は2010年4月1日からはじまった。工事は2010年12月1日までかかるもようで、このため今回は中に入ることができなかった。

追記その3
2012年2月に二二八記念館を再訪。

左は和平公園内の白色政治テロ受難者記念碑

左下は日本時代の展示、左右逆の旗を振って迎える写真がなくなった代わり、右下のようになっていた




 ざっと見た感じでは、日本時代の民主化運動からの流れが詳しくなり、二二八事件と半分くらいずつの割合になった。当時の写真や一人一人の状況が減り、新聞記事が多く、ビデオ映像をエンドレスで流す箇所も増えた。流しているのは当時の台湾の映像だが、平時の台北の様子などで事件そのものの写真、映像はほとんどない。また、台湾全土に日を追って抗議行動が広がってゆくようすを、ボタンを押しながら見る大きな地図装置が無くなった。文字による解説はあるが、臨場感はない。
 事件については白崇禧国防部長による慰安を前面に出し、陳儀を悪人とし、蒋介石が命じたり関わったことではないとする。経済不安、祖国復帰への期待の高さとそれを裏切る汚職と無能、日本の植民地化が長かったことによる文化の違いなどから齟齬が起き、事件の背景となったと解説、その後5月には戒厳令を解除して発展が始まったと結ぶ。
 犠牲者の名簿はあったが写真つきではなくなった。最後の部屋では、被害者の子供などへのインタビュービデオ証言がかなりの数用意されており、ボタン一つで見ることができる。さらに、国民党の李登輝総統が二二八事件について謝罪する映像、民進党の陳水扁総統が記念館を開設する様子、国民党の馬英九総統が事件について悼み演説している映像を延々流していた。
 入り口の李登輝、陳水扁らの手のひらの跡は残っていた。

 解説など内容に関する意見は差し控えるが、ひとつだけ。
 ビデオ映像が増えることにより、一見わかりやすくなった、当時の様子が目の当たりにできるようにみえる。映像のほうが、静止した写真や被害者の描いた絵よりも資料価値は上に見える。しかしこれが結構曲者かもしれないと感じた。ビデオはあくまで平時の様子で、事件の内容についてはナレーションで語られる。全体の印象はマイルドだ。静止した写真、被害者の描いた絵のほうが臨場感があった。
 ビデオは編集、ナレーション、音楽とメッセージ伝達の手法を数多く駆使する媒体だ。流れを作って受け手を受身にさせてメッセージを流し込む。写真や絵はポンと剥き出しで出されるので、受け手によって受け取り方がかなり変わる可能性がある。映像、ビデオはわかりやすいようで、危険な面があるのだな、と今回改めて痛感した。



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