老兵記念館


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戦争と平和記念公園 旗津地区のフェリー乗り場から南へ下がったところにある(中国語では戦争與和平記念公園)。この公園内に、今年(2009年)5月20日にオープンした老兵記念館=戦争と平和記念公園テーマ館(戦争與和平記念公園主題館)がある。

 この公園は、台籍老兵問題を調べていた許昭栄氏の尽力で完成した。彼自身、日本兵と国府軍兵を経験した老兵で、日本軍と国府軍、さらに人民解放軍の3つの軍服を着る運命となった人たちの台湾帰国を支援したり、国府軍の恩給からはずれている人々の救済に努めた。

 台籍老兵問題については、こちら

 台籍老兵の悲劇の例については、こちら

 こうした老兵のための慰霊碑を建てる土地を高雄市旗津に得るが、高雄市が公園名を「平和記念公園」に変更しようとしていることを知った許昭栄氏は、2008年5月20日、車の中で抗議の焼身自殺を遂げる(許氏の身近にいた人たちの話では、事情はもっと複雑だというが、簡単にまとめた。詳しく知りたい方は、記念館を訪問してみていただきたい)。
 日本軍と国府軍の経験のある台湾の老兵や、高砂義勇隊の遺族らなどは、この命を賭けた抗議のおかげで公園名に「戦争」がついた、許氏も「戦争がなくて何が平和だ、戦争を無いことにするのは許せない」と言っていたが、そのとおりだと言う。また、この事件が世界に報道されたおかげで、高雄市は老兵記念館を大急ぎで完成させた、とも聞いた。

公園の遠景



戦争與和平記念公園碑



許昭栄氏が焼身自殺を遂げた現場



戦争與和平記念公園碑の裏面

陳千武氏は台湾日本語世代の作家で、日本でも
翻訳出版されている

台湾無名戦士記念碑

高雄市より、碑を建てなければ戦争與和平記念公園の土地を没収すると言われ、許昭栄氏が私財を投げうって建てた記念碑。
急ごしらえで建てたため、デザインが素人だ、見栄えがよくないから建て替えるべきなどの話もあるが、記念館側は逆にこのまま残したいとしている。

許昭栄氏を知る日本人は、彼は取材も自力で行っており、車のガソリン代にも事欠くほど経済的に大変だったという。しかし日本人が訪ねてくれば最大限にもてなし、日本人も許氏の状況を理解せず当然のようにそれを受けていた、みなもっと気を配り状況をしっかり見るべきだ、と怒っていた。


二次大戦戦俘船記念碑

第二次大戦中の1945年1月に、戦争捕虜を乗せたエノウラ丸が同盟軍の誤爆により高雄港で沈没し、350名の捕虜が亡くなったことを記念したもの。遺体はこの記念碑付近に埋葬されていたが、後にハワイのパンチボールに再埋葬された

台湾歴代戦没将士英霊記念碑



公園東の海岸

この公園は、産業廃棄物が捨てられていた跡に作られており、海岸に出るのは危険、という。
いつか海岸をきれいにして散歩できるようにしたい、と記念館の人。

音楽祭

7月末に、台籍老兵を偲ぶ音楽祭をやっていたが、観客は少なかった。
記念館として初めてのイベントで、宣伝をほとんどしなかった、次回からは周知に努めて大勢の人を呼びたいと言っていた。

戦争與和平記念公園主題館(老兵記念館)

記念館壁に掲げられた、日本軍、国府軍、人民解放軍の、3つの軍服を着た兵士の像

 館内には、3つの軍服を着た兵士の時代状況がわかるパネル、日本統治時代に徴用や志願で参加した兵士や軍属の種類、当時の兵士の使用した品々の展示、ビデオスクリーンなどがある。
 ビデオでは高砂義勇隊のインタビューを流していた。1時間ほどの作品で、語りは各民族語、国語(北京語)の字幕が入る。日本人がとるインタビューと台湾人がとるインタビューとでは、話す内容が若干異なるのでは、という印象があった。
 この辺の話についてはこちら



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