就農者訪問
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奈良赤目塾(2001年)
赤目自然農園は、自然農法を学ぶ人たちが自主的に運営している。農業委員会経由で3町数反を借り、月に一度自然農法の提唱者川口さんを呼んで指導してもらっている。今年で11年目になるという。
赤目駅から歩いて40分、集落の奥まった部分の、耕作放棄された棚田を借りていた。三々五々、月に一度の日曜実習に参加する人が車や徒歩で集まってくる。土曜の晩は山荘に泊まって不耕起農法の話を聞いたりお互い話あえて楽しいよ、土曜は40人くらい、日曜は100人くらい来る、とある会員。会員は棚田の一画にそれぞれ十坪ほどの土地を借りて、好きな作物を栽培している。氷かき器を持参して、かき氷を振舞う人がいたり、和気藹々とした雰囲気。
作業小屋の隣が実習の説明で使用される畑と田圃。10時半から、マイクを使って講義が始まった。1枚の畑にプチトマト、いんげん、もう1枚にカボチャ、ささげが植わる。トマトは枝の間に棒を入れて間を広げていた。カボチャの周りの草を刈りつつ、月1度だから仕方がないが、本当は花芽のつくこの時期には動かしてはいけない、成りかけの実が折れていたむ、ひげ根が抜けるので勢いが弱まるという。刈った後に刈り取った草を敷き、小さい鍬で少し耕作して雑草の根を切った後、35cm株間でキャベツの苗を植えた。今は乾燥しているので水をやる。ぬかを株間と畝間に肥料として蒔く。田に移動する。田の除草も、抜かずに根元から刈る。夏は勢いがあるので、10日に一度来て世話をするのが理想的という。極力手は加えず、しかし負けないように助ける考え方。ある会員が、
「自分の田はもう穂が出ているが雑草が茂っている、どうしたらいいか」と質問した。穂が出てからはできるだけ田に入りたくない、根を痛めるし開花のじゃまになる、開花は晴れなら11時頃、曇りなら午後開く、との答え。
「なら夕方刈ってもいいか」と聞くと、それでもあまり入りたくない、実がついて少し垂れてきてから刈った方が、今刈るよりもいいかもしれない、と言っていた。
稲は普通4月末から5月はじめに田植えだが、自然農法では早い人で6月10日、遅くて6月末、昔はこの時期だった。約2ヶ月遅れだが生育は早い、通常早生で9月始めに刈り入れだが自然農法でも10月には実る、除草も早生は7月末、中生は8月始め、晩生でもお盆前がぎりぎり、それまでに草を刈っておいてほしいという。
サツマイモ、ジャガイモ、粟、黍、トウモロコシが植わる畑に移動。サツマイモはひげ根を切ったほうがいい、とつるを上げる。アンデス種のジャガイモを収穫、草刈りし、その跡地に人参と大根の種をまく。このとき多少耕しており、基本は不耕起だがもぐらの穴ででこぼこしているので耕す、状況に応じて耕したり耕さなかったりする、と説明していた。種まき後、鍬の背で鎮圧。裏が平らになった鍬はなかなかないそうで、柄の突出た部分を切り、楔を買ってはめ込み、一晩水につけてふやかした後固定して作ったという。畝間、株間にぬかをまく。野菜は肥料がいる。回りに刈った草を敷く。会員たちが農作業をする中で出てきた疑問点に答える時間がある。本の印象と異なり、きさくで冗談好きな人だった。また代々農家というのもあるか、朴訥とした印象だった。籾殻は固いので水田に返す、家庭ごみも畑の畝間においてよい、1ヶ月に一度だとナスやキュウリは難しい、などなど答えている。
ジャガイモもナスもテントウムシダマシにやられた、という人に「そうだな、両方ともナス科だからね」「一緒に植えちゃだめなんでしょうか」「いや、別々に植えてもやられるときはやられるな」「どうしたらいいんでしょう」「どうしたらいいかな、そうだな、ちょっと考えさせてください」という感じ。午後から会員の人が、会員希望の女性や見学者たちと一緒に畑を案内してくれた。赤目塾は会費制ではなく基金をもうけ、入れる人、入れない人、さまざま、その中から地代、通信費などを払っている。法人ではないし、講師にも謝礼は払っていない。スタッフも全員ボランティア。土地は上にある40軒ほどの集落の人たちのもので、6、7軒から借りている。荒らしておくのはご先祖様に申し訳ない、と都会の人が来るのを喜んでくれている。最初は荒れていたが、会員たちが自力で田畑に戻していった。人数が多いのもあり、結構すぐきれいになった。田圃は2、3年荒らすと水路がだめになる、3年あらすと使えなくなることが多い。人が多ければワイワイ皆で直せるが、一人だと大変だ。もともと上に溜池があり、そこから給水して棚田にしていたようだが、その池が今壊れている、田をやっている人もいるが、乾燥しやすいので米は難しいかもしれない、とのこと。周囲にめぐらされているトタンの柵はイノシシよけで、ずっと悩まされているという。ここは皆自主独立で、基本は自然農法だという以外、何をやってもよい。土曜に柵作りや道の草刈など共同作業があるが、強制ではない。
宮崎綾町(2001年8月)
宮崎からバスで綾町へ。ここに自然農法と関連のある賢治の学校がある。川沿いに平野がのびる地形から、多少山のほうに入ったところに町がある。約1時間で着き、その後徒歩で道に迷ったりで50分かかって到着。時前に連絡すれば宿泊もできる。常駐スタッフが数名、そのほか研修生だか学生がいると言っていたが、訪問したときはほとんどお盆で帰省中でいなかった。通いのスタッフもおり、地元の人もいれば県外から住みついた人もいる。
スタッフの人は、子供の学校などで賢治の学校の活動をしている人の講演会や上映会を行ったことがきっかけで、その学校や自然農法のことを知った、そしてその学校の人が前の町長と意気投合し、そういうことならここに土地があるから、と綾町にも学校を作ることになった、と言っていた。
賢治の学校は東京青梅や熊本などにもあるそうで、ここはまだ昨年始まったばかり、畑が安定するのに10年かかるというから、まだまだこれからだ、と言っていた。綾町は夜逃げの町と言われていたところ。それを前の町長が照葉樹林を観光資源にしたり、自然を大切にして人の集まる町に変えた、という。人口5千人だったのが外から人が来るようになり、7千人くらいで前後している。工芸の町にもしよう、ということで工芸家も外から来て定住している。就農して10年以上たち、果樹園を安定して運営している元東京の勤め人夫婦などもいる。前の町長は7期務めて、綾町を全国的に有名にしたそうだ(『結いのこころ』という本に詳しい)。ワンマンその他の批判もあるが、人口を5千人から7千人にしたのは、やはりすごいと思う、庄屋の生まれだが自分の財産を切り売りして町に役立てたとも言っていた。町長は開校式の数ヶ月前に亡くなった、という。
ここで働いていると、いろいろな人が訪ねてきて話せるのも楽しいという。ご両親がこの奥の西米良出身という人もいたので、民族文化映像研究所で西米良の焼畑の映画を見たという話をしたら、
「やっぱり東京、ていいですね。親の世代に出てきているから、そういう話ぜんぜん知らないんですよ」と言っていた。田圃を案内してもらう。田圃は農薬の問題があるので、どうしても一番奥の田になる。ここでもイノシシが出るので、昨年やむなく電流柵を通した。宮崎では年々稲刈りが早まって、お中元に新米を送るのが流行っている。田植えも4月か3月末。畑は宿舎の周囲にあり、まだ完全な自給にはいたっていない、と言っていた。
丹波の山猿塾(1999年8月)
福知山線でもよりの駅へ。稲は穂が出始め、休耕田は高畝の枝豆畑が多い。集落への道を老人に聞くと「ああ、あの山猿なんとかちゅう」とすぐにわかって教えてくれた。谷戸のような地形で、谷合の扇状地をゆっくり登る。途中、山際の道路沿いを、鹿避けの高圧電流柵が延々続いていた。こうした柵は関西や四国でよく見かける。「夜7時から朝7時まで通電、注意!」とあるが、外灯もないし、夜知らないでいたら、うっかり触ってしまいそうだ。また、田の畔のそちこちに黒く焼いたあとがあった。後で聞くと、草を刈った後虫がいるので焼くのだという。これも関東ではあまり見かけず、西のほうが虫が多いのかと思う。
30分くらいで到着。家も自作しているので、遠目にもすぐわかった。家を自力で建て、自給自足生活についての本も出している人なので、参観者もよく来るようだった。このすぐ近くの出身で、同級生のいるこの集落に入りやすかったという。集落のほとんどが彼と同じ姓だというし、じっさい遠い親戚なのではないかと思うが、それでもよそ者だ、入るときは誓約書がいるような保守的なところだそうだ。農会には入っていないと言っていた。ただ結構、さまざまなことで区長さんや地区の人と行き来がある。間伐材やイノシシ猟、外からのゴルフ場計画に対する皆での対応などの話に、やはりこうしたところでのつきあい方を子供の頃から身につけている地元の人、そしてその世代の人だ、と感じた。これのあるなしは、大きい。
家の建て方は本に詳しく、畑についてもフォーラムの山猿塾の記録に詳しいが、以下に何点か書きとめる。
もともと本を何冊か出していたジャーナリストだが、畑も家作りも山仕事も、基本的にすべて自分で行っている。有名になると奥さんまかせになる人もいる中で、この姿勢は一本筋が通っていると感じた。畑も家も随所に、こういう生き方をすべきだからしている、という一本通った印象を受けた。ちなみに奥さんは、別に職業を持って働いている。一冬に約600本の間伐材を薪として燃やすが、裏の山の持ち主から頼まれて間伐したり放ってあったのをおろして使っている。ここらはずっと棚田だったところに杉を植えていった、そして今は世話できないでいる。している人もいるが。
水は山の水なので水利問題もない。だから冷たいので水口の稲は育ちが悪い。
田は秋に蒔いた麦を5月末に刈ったあと、鶏を入れて雑草を食べさせ、6月に田植えをする。除草は一度もしていないが、それでこの程度しかはえない(たしかに、わずかのヒエとアオイのみで、除草剤をまいたようにきれいだった)。昔は麦との輪作だった、それが除草にいい、という。下の畑は大雨で虫が勢いづいて白菜の苗を食べてしまったが、上の畑には虫が出ない、こんなに近くてもとても違う。年によっていろいろ変わるので、なんでも分けて植えるようにしている。トマトも3箇所、ナスも2箇所、というように。タネはきゅうりもレタス、ゴボウも花を咲かせて自分で採っている。大根、白菜、みな3世代目だという。買ってきて蒔いたF1の2代目は半分以上妙なものが出たりするが、何代かするとおちついてくる、最初のF1ほど大きいとか甘いとかではないが、この土地にあったものになってくる。よく自家採種は混ざるから難しいというが、混ざってもいいと思っている。
畑にはトマト、ナス、きゅうり、しし唐、ニラ、ネギ、里芋、オオバ、イチゴ、豆、カボチャ、西瓜、サツマイモ、白菜、大根、ニンジン、サニーレタスなど種類も豊富。知人が管理する果樹園として、ビワ、イチジク、柿もある。雑草はほとんどない。有機栽培だが、篤農家のような印象だ。そして養鶏をやっていた。平飼いだがけっこうたくさんいる。斜面で効率よく鶏糞を集められるようにしており(写真)、雑草と混ぜ発酵させて肥料を作り、土壌を改良していた。これはあちこち見た中でもっとも効率的に見えた。雛も自分で採っている。父親が養鶏をしていたことがあり、何となく方法は覚えていたという。この世代の人たちはそうした知識の蓄積量が、その後の世代とではまったく違うと感じた。
虫の多い畑では、幼虫を一匹一匹ひねり殺していた。アジア学院や自国で有機栽培の畑作をやっているカナダの知人も一匹一匹殺していると言っていたし、茨城で土地を借りている農家の老人も、農薬のない昔は朝早く起きて夜盗虫をひねり殺すのが苗の時期の日課だったと話していた。それしか方法がない、木酢液をかけたりいろいろしたが、だめだという。土の中から涌いてくる感じで、あとからあとから出てくる、それが上の畑はふしぎと出ない、それだけ違うという。
山のけものが畑を荒らしに来る、イノシシはサツマイモ、鹿は稲を食べる、ウサギは豆など、狸が穴をあけるとそこから鹿が入ってくる、網だけでは破られるので金網も張るようにして、家を含めた畑全体を金網で囲い、道への出入り口には扉をつけた。ただ、イノシシはマムシを食べてくれる。別のところで聞いた、新規就農者はコリゴリだ、定年帰農のほうがいい、なぜかというとその世代は人付き合いができるから、と聞いた話をすると(兵庫西部とある町)、
「それはあたっていると思うね。このへんでも、新規就農は歓迎しないことが多い。せっかく支援して就農してもやめたりとか、いろいろあるようだし。農地が余ったら、できる人が請け負うとか、村の中でなんとかしよう、という動きが出てきている」と言っていた。
このあたりも専業はいないが兼業はいる、「現金収入のある仕事を確保しつつ、農業をやるのでもいいと僕も思うね」「そして世の中の人が少しづつ自力で生きるようにすれば」という。まったくのしろうとが、いきなり家を建てるのは難しいと思うが、十何冊本を読み、あとは観察だ、それがジャーナリストとしての自分の商売だ、と言っていた。
三十六年ぶりにここに戻ったら、昔とすっかり変わっていた、農法も、景観も。下手な耕地整理が行われ、棚田には植林、里山だった向かいのあの山にも植林。ここの人は「昔と変わらない光景でしょ」といい、妻も「いいところね」と言うが、昔を知っていて、また三十六年ぶりなのですっかり違ってしまったことがわかる、そういう自分の感覚を大事にしたい、と語っていた。
(写真は集落への道)八ヶ岳中央農業実践大学校
1997年に就農希望者向けの約一週間のコースに参加した。ちなみにこの農業大学校は各地にあるような県立ではない。(写真は小淵沢から学校への道)
高校生から定年帰農希望者まで、さまざまな年代の人が合宿して農業体験を行うので、なかなか面白かった。一ヶ月のコースになると作業も大変だというが、一週間の場合は、朝に収穫作業を行ったあと、午前中座学、午後に畑に出て実習を行う程度なので肉体的には楽だった。それでも、30代の男性などでも鍬を使うとすぐ疲れているのでびっくり。おそらく慣れの問題で、変なところに力を入れているのだと思うが。また、サラリーマンは体が固くなっていることが多く、しゃがんで作業をする除草や間引きのとき、30分もしてくると腰を下ろしたり立膝をついたりしていた。くるぶしが固くてしゃがめない人もおり、最初から腰を下ろして作業をしていた。よく町中で座ったりしゃがんだりする若者を見かけるが、サラリーマンのおじさんも「若い子は体柔らかいね。彼らスタイルができないとだめなんだな」とか言っていた。
50代以上の人達は仲間意識が強い、というかすぐに打ち解けて仲良くなる。彼らが音頭をとっていろいろ飲み会だのを開いてくれた。それで夜はほぼ毎晩、先生や正規の学生や助手の人達と飲み会。豚につかれて意識不明で病院にかつぎこまれた話だのをしていた。学生は地元よりも沖縄から北海道まで全国から集まっているらしい。研修生の中には、脱サラ就農希望者やすでに土地購入済みの定年帰農希望者、実家が農家でという男性などさまざま。うち一人の女性は、長野北部に土地を借りて文筆活動を行う男性と共同生活を始めていた。なぜ長野かというと、山があるから、ここの景色が好き、もともと関西で女性の総合職第一号だった。がんばった、あたしがこけるとあとの子が続かないと思って、でもああいう業界は成績がなんぼの世界、それさえよけりゃ人柄は良かろうがいけずだろうが関係ない。あちこちの会社に切り込み隊長のように入った、営業成績もそれなりにあげた。でも結局当時の総合職の人、ほとんどやめている。会社をやめたあと、1ヶ月インドに行った。その後市民団体の職員になり、会員を増やし、市から助成金も降りるようになった。職員を常勤で二人雇えるようになり、男性と事務の女の子が入り、ああもう私の居場所はないな、とやめた。そして長野に来た。借りている畑は5a、そば打ちを習ったりしている。仕事を探したいが、そばに凝っていて、厳選した日本酒をつけ、1日20人くらいの客に絞った蕎麦屋でもやりたい。でも連れ合いは店を出すことに反対している。彼女は「エネルギーのある人は一生に四回仕事を変える」と言っていた。
ただ、農作業はまだ慣れていないようで、疲れた感じになり、後半の日の朝、起きてこなかった。講義のあと、おじさんの一人が「おい、あの人帰っちゃったぞ」もう一人が「あの人、来たときからなんか不健康そうな顔色してたね」と言っていた。好きな農業をしているには、陰のある感じではあった。高校生のアケミちゃんからは、いまどきの学校の話をいろいろ聞かせてもらった。
学校で目立つ格好をしてキムタクみたいにしているタナカ君が学校へこなくなりがちになった。音楽の先生が彼から相談を受け「友達がほしい、友達がほしい」と言っていた、みんな声かけてあげてね!というので、仲がいいことになっている人から連絡とるようにしたら、学校へ来るようになった、みんなタナカ君がそんなこと考えていたなんて、とびっくりした。
生徒会は漫研にちかくオタクばかりでエバンゲリオンの人形がずらーっと置いてある、生徒会の部屋に行ったら漫画描いていた、役に立たない、何もしない、暗くて不気味な生徒会だ。
男子高生もルーズソックスをはいているというのは本当だ、茶髪、ダブダブパンツ、おへそにピアス系の子達だ。座ると見える、聞いてみたら「女ばかりおしゃれしてくやしい」とか言っていた、ただ、ルーズにも細い足用と太い足用とがあり、男子は足が細いので細い足用でないとずり落ちるそうだ。
彼女はここの学生ともっとも年齢が近いせいか、「あいつ、ぶってるよー」とか思われているんじゃないか、などととても気にしていた。また同じ研修生の年配者についても、
「都会の子に農業教えようとか、都会の子都会の子、てみんな言うけど」と不安そうな顔をして言う。「あたし、確かに農薬のこととか考えている人はいると思うけど、みんなただ買ってくるだけだと思うんですよ。スーパーに売っているから買ってくる。そんな考えていないと思うんですよ」
「あたしもそう思う。こういうところに来る人は一部で、消費者、て言っても一枚岩じゃなくていろいろいるし、大勢は気にしていないと思う。自分の仕事もあるしそんな暇もないよ。これからも考えたり気にしたりしないと思う」と言うと、
「ですよね。あーよかった、こう考えているの、あたしだけかと思った」このほか、Uターン組ですでに畑を始めている人、エンジニアだが実家が農家で継ごうか迷っている、ただいつも両親が疲れているのを見ていたので子供の頃は絶対に継ぎたくなかったという人、子供のための農業体験施設を作りたいという初老の男性、最初林業に興味があったが体力的にきついのでやめ畜産をやりたいという人、自然食への興味から夫婦で就農を考えている若い二人、などがいた。こうした話は、収穫のときや夜の飲み会でよもやま話にしていた。
正規の学生や助手さんたちは、授業と実習の配分だの将来的なことだのについて、いろいろ意見があったり考えたり悩んだりしているようだった。(写真は学校の畑)