ラダック、「小チベット」への旅
1997 NO.2


 

ラダック写真館
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9月14日(日)

 8時半に昨日の運転手と新しいガイドのドルチェさんが迎えに来る。まず旅に備えてビールとウィスキーを調達したいが酒屋がない。インドは禁酒州もあるくらいで、レストランで飲むならともかく一般には買いにくいことが多い。そこでガイドが街中のバーに頼んで、店のビールとウイスキーを売ってもらうことにする。J&K州製のビールとウイスキーが手に入る。

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ラダックの地図
 車は坂道をニュートラルで下ってゆく。車に詳しく運転も上手なユーコさんが、ラダックの車は坂道でエンジンをかけずに下ることが多い、という。ガソリン節約のためだが危険だそうだ。この朝、車のエンジンがどうも調子悪く、ついにインド軍キャンプ、Pink Fortressの前で止まってしまった。運転手の話ではガソリンオイルにケロシンが入っているとかで、トラックをヒッチハイクして油を取りに行った。ユーコさんは排ガス規制や車種等によって混ぜる油が少しづつ異なるので、それで間違えたんじゃないかと言う。入り口の見張りのインド兵が物見高そうに寄ってきて話しかけ、のんびり見物している。

☆本文中に写真がリンクされています

☆タイトルはこれまたユーコが勝手につけたものです。(byユーコ)

 ガソリンを換え快調に走り出した車は、一路国道を北西へ向かう。フィアンゴンパを遠くに見る地域を抜けるとラダックの盆地から出る形になり、ラダック山脈とザンスカール山脈の間をインダス川沿いに下って行く。インダス川は青緑がかった乳白色という不思議な色をしていたが、途中ザンスカールからの黄色い流れと合流、茶色に変わった。このザンスカール上流の真冬のようすがテレビで紹介されていたそうで、”氷の回廊”はここなんですね、とエミさん。酒の調達とガソリン交換で遅くなったため、予定を大幅に遅れて12時頃バスゴーゴンパ着。

 岩山の上にそびえる廃虚に近いこのゴンパもかつての王城だ。ゴンパに登る道のふもとの村でも麦の収穫作業中で、若い男女が良い声で歌いながら屋根の上で麦打ちをしている。本当にラダック人は農作業中によく歌っていた。かつての日本の農村風景もこんなだったのだろうか。ゴンパのラマ達は今日明日とリキルゴンパの祭りに出かけ留守だというので、ガイドが村人から鍵をもらう。登り道はかなり急な坂で、昔の人はたとえお城住まいでも登り降りが大変だったろう(馬や輿で上れる坂でない)。一番上のお堂からは村と国道、山並みが見渡せ、典型的な要衝に建つ山城だ。しかし岩山もゴンパもあちこち崩れ落ちそうで、一番上のお堂へ行く細道など転落しそうだった。お堂の仏像の裏には、小さな素焼きのストゥーパ型の壷が隠れている。ガイドに聞くとツァツァといい、死者の骨が納められているそうだ。これは他のゴンパでもよく見かけた。

 モンゴル写真

 チベット写真

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 東北インド(ナガランド)

 インド/マザーテレサ

 ミャンマー

 中国

 韓国

 台湾の廟

 台湾2009

 ハワイ

 次にリキルゴンパに向かう。川向こうにトレッキング道が平行して走っており、大荷物を背負った白人が一人てくてく歩いているのが見えた。エミさんの話ではフィアンゴンパからの帰り、レーへの道をやはり大きな登山リュックを背負った白人女性がひたすら歩いていたという。「すごいですよね。みんな歩いちゃうんだもん」。日本でも都心まで自転車で通勤したり、都心から二子多摩川辺りまで歩いて帰る欧米人の話をよく聞くが、彼らは気楽に長距離歩く。この後も国道をひたすら一人歩きする白人を時折みかけた。また15人位の老若男女入り交じった欧米人の団体が、身軽な姿でのんびり歩いているのにも出会った。荷物と食事は旅行社が面倒をみるタイプのトレッキングだという。一方、この道でもビハール人達がつるはしを担ぎ、集団でのろのろ歩いている姿を見かけた。

 タイ

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 小笠原

 四国へんろ

 島旅

 
 国道沿いには幾つか軍の施設があり、ヘリポートもある。紛争地帯へ向かう道なので、頻繁に軍用車、軍用トラックが通る。二日前から車で回っているエミさんは軍と地元民との関係を見て、「ラダックの人、平気で軍の車追い越していきますよねえ、プップー、てクラクションならして。チベットでは考えられない」という。確かに追い越しがてら軍用トラックを見上げると、アーリア系の軍人が先へ行け、と手を振って示している。また時折軍用車を止め、なぜか高地の強い日差の下、道路端にしゃがんで休んでいる兵士をみかけた。両腕を膝の上に組み、川を見下ろしている。なぜ腰を下ろして休まないのか、日陰でないのか不思議だった(日陰に長くいると寒いのかもしれない)。カルギル村で戦闘があったというがいまいち緊張感はなく、K社の人もガイドも「いつものことだ、という感じだ」と言っていたという。

 雑穀栽培

 林業/里山

 就農者訪問

 リキルゴンパは国道から数キロ入ったところにある。大勢のラダック人を屋根まで乗せたバスが国道沿いに到着し、次々人が降りている。ゴンパが近づくにつれ、寺に向かって歩くラダック人が多くなってきた。駐車場に車を止め、各地の衣装を身にまとった人々に混じってゴンパへの道を登る。正装している人も多く、写真でよくみかけるチベット風の衣装が多い。山高帽のような被り物、横に張り出す帽子、デザインも様々でカラフルだ。ゴンパは改修されたばかりらしく新しくて立派、建物もかなり大きい。この祭りは、外に建てられた巨大な金色に輝く大仏の開眼法要のためのもので、かなり大規模だ。大仏の前にはすでに大勢の正装したラダック人達が陣取っている。手前は爺さん婆さんから家族連れなど一般人、中央左方に尼僧さん達のグループ、そこから奥は大勢のラマ僧達。ゴンパのあちこちで、せっせとバターやツアンパでお供え物を作っている。運転手もツアンパでできた洋梨型のお供え物作りに参加していた。2時からリゾンゴンパの管長、明日ラマユルゴンパの管長(フィヤンゴンパの管長も兼ねる)の説法があるそうだ。さらに人が増え、身動きできなくなってきた。時間がないので、この辺でリキルゴンパを後にする。駐車場下の広場ではテントを設営中で、明日ここでチャンを飲み大騒ぎするのだそうだ。

 
 サスポール村で昼食後、4時半頃アルチに着く。アルチは飛鳥のような雰囲気で、のどかな山里の道を歩いてゴンパへゆく。11世紀頃建てられたラダック最古の建築物の残るアルチゴンパは、チベットから来たラダック史上有名なリンチェンサンポによって建てられた寺。他のゴンパが岩山のふところや頂上に日干しレンガで建てられポタラ宮殿のような感じ(ただしラダックの方がオリジナル)であるのに対し、平地に木造で建てられている。日本人に人気のゴンパだそうで、三階建や平屋のこじんまりした建物が敷地内に並び、庭もあって日本や中国の寺のよう。堂内は天井中央に小さい明かり取りがある他は窓もないことが多く、暗い。仏画を見るには懐中電灯が必須だ。アルチは仏教建築/美術史上重要なゴンパだが、これが千手観音、千の仏画、と適当に説明するドルチェさんは仏教にあまり詳しくなく、ユーコさんが色々尋ねても説明できず少々がっかり。「今度来るときはニワンさんを指名しよう」とユーコさん。ラマ僧達もリキルに出かけていて誰もいなかった。

 
 ラダックはチベットと異なり時計の時刻が現地時間に合っているので、折から夕闇が迫る。ひと気もなく、静かで落ちついた雰囲気だ。庭のチョルテンを見る。チョルテンの中には中を通り抜けられる仕組みになっているものも多く、内部の天井にマンダラが描かれている。ここのは、くの字型に抜け出る一風変わった作りで中に大きな輿がしまってあった。「あ、これ死者を運ぶものでしょ。うちの田舎にもあった」とユーコさん。「うちも同じ。ちょっと前までは土葬で座棺だったの。だからすぐお墓建てられなくて、何年か経って土がドサっと落ちたらお墓建てるんですよ」とエミさん。

 
 暮れなずむ中、サスポールゴンパに寄る。国道沿のこのゴンパは、村のゴンパ、といった感じで普段は僧侶が住んでいるらしいがこの日は誰もおらず、中に入れなかった。ただ元々行きたかったゴンパは洞窟寺院の筈でこのゴンパと違う。後で調べるとサスポールには山の上にもう一つゴンパがあり、そこが珍しい洞窟寺院だそうだ。Cave Templeと言わないとわからないらしい。

 
 6時半、サスポール村にある、今晩宿泊するテント村に到着。ここにはスリナガル出身のコックが駐在していてマサラ味のインド料理を出してくれる。この日と翌日の昼食もここだったが、野菜やマトンの煮込み、インド版豆腐と玉子の煮込み、インドチーズの煮込み、と彼の料理はどれも香辛料を使った凝った味付けで美味だ。こういう時に、大国の洗練された文化を感じる。私達も買い込んだビールを開け、3人で乾杯しつつコックとガイド、運転手にふるまい、話を聞く。

 コックは夏4カ月間この地に出稼ぎに来ており、普段はハウスボートをやっているという。スリナガルは緑の多いきれいなところなので是非来てくれ、シンガポールからの中国人客も増えており特に春節に多い、韓国人客も増え30人の団体が来たという。ガイドはラダックにも韓国人や中国人が個人旅行で来るようになったという。日本人と違いお寺でもっと熱心に拝んでいるというが、そう言うドルチェさん自身、ゴンパであまり拝まない。ガイドと運転手はラダック語、ガイドとコックはウルドゥー語で会話していた。

 ドルチェさんは何度か「We are mongolian」と私達に向かって言うことがあった。車の中から外を歩いている人を指さし、あの人はAlianだ、でもあの人は私やあなたと同じMogolianだ、等々。しかしラダック人の本音はいまいちわからなかった。チベットのような緊張関係は感じられないが、アーリア系インド人とラダック人が棲み分けていない分両者が共にいることが多く、さしてラダック人だけとこの手の話題をする機会はなかなかないし、稀にあってもドルチェさんなど多少避ける感じがあった(はっきり嫌いというのではない、でも違うことは違う、その説明は外国人には難しい、という感じか)。また確かに実際分離独立運動が行われている地域、カシミールやパンジャブ、アッサム、東北インドの一部ではかなりの規模でインド軍と抗戦しているが、ラダックにはその様子は全く見られない。ただ中国は嫌いだ、インドでは自由だ、とはっきりいう人は多かった。ニワンさんだかドルチェさんだかの、チベット文化は中国よりインド文化に近い、文字だってサンスクリット系でしょ、という話に、なるほどとも思う。

 
   
 

9月15日(月)

 6時起床7時出発、ラマユルに向かう。途中Nurla村を通った時、粟や蕎が栽培されているのをみかける。雑穀を作ろうと栃木や群馬で畑を借りた際、地元の人から昔は粟や黍を作っていたと聞いたが、それもあってか何か懐かしい光景だ。パスポートのチェックポイントを抜けるとヘアピンカーブの続く登りになる。何しろラマユルは標高約4000mの地にあるのだ。道端に「The World highest highway」の表示あり。相変わらず軍用車、トラックが通り、すれ違う度に断崖ギリギリに寄るのでスリルがある。ここでも軍用トラックを山側に止め、自分は崖側にしゃがんでぼーっとしている兵士を見かけた。道が前後左右に水平でないので車は大きく揺れる。勾配が一定でなく、3〜4mくらいの間隔ででこぼこしつつ登りが続くので、車体の長い車は大変だろう。「水準器使わないで目分量で作ってるよね」とユーコさん。「でもインド、てお金さえあればいくらでも仕事ありそうですよねー。特に土木関係の仕事が」とエミさん。

 
 この崖を登り切ったところで、はるか眼下に沈むヘアピンカーブを望んで記念撮影。回りの山々に比べてもいっとう高い地点だ。道はさらに続き、途中ムーンランドという不思議光景スポットがある。石英だか珪質だかの混じった土質の月の砂漠を思わせる一帯が対岸に広がり、夜中になるとそこだけ光って見えるという。さらに進むとラマユルゴンパが岩の上に見えてきた。ふもとの川沿いには村があり小麦畑が広がる。かなり大きなゴンパだ。もうお昼近い。

 
 車を下り、入り口まで登る。標高が高いのでユーコさんはきつそうだ。エミさんは平気の平座、私は多少空気の薄い感じはあったものの、皆に追いつこうと走っていたところをユーコさんから「あ、走ってる走ってる」と妙に感心された。普段は70人位の僧侶がいるが、今日はリキルのお祭りに出かけ4〜5人しかいないそうで、閑散としていた。ここはカギュ派(紅帽派)の有名なお寺で、やはり鍵をあけて主なお堂を見せてもらう。ユーコさんがラマ僧にラダックの仏教教典はどこで印刷しているのか尋ねている。ゴツァンゴンパ(ヘミスの奥)で作っているという。岩山の上の方まで僧坊がびっしり建てられ、アルチのような木造の古いお堂も見える。しかしガイドが鍵がないから見られない、時間も迫っているので帰ろうというので、残念だが後にする。頂上近くに小さな祠がいくつか見え、その前にラマ僧が座っているように見えたが、あれは瞑想場だろうか?

 
 この先がカルギル、スリナガルへの道かと感慨を覚えつつ、来た道を戻る。途中大勢の人を乗せたレー行きのバスに会う。屋根にも人や荷物が乗っており、あの急なヘアピンカーブをこの状態で行くのかと思うと恐いものがある。かつてはレーへの一般的な入り方が、この道を通るスリナガルからのバスだったというが(現在は印パ国境紛争悪化で運行状況が不確定)、かなり強烈な体験だったろう。レーに入る時は、チェックポイントでパスポートチェックがある(出る時はなし)。

 
 国道からリゾンゴンパへゆく脇道に入る。途中ユーコさんが訪問を希望したChulichan尼僧院に寄る。この尼僧院は普段は30名余りの尼さんがいるそうだが、この日は例のリキルの祭りで年をとった尼僧と足の不自由な尼僧が4名残っているだけだった。

 ユーコさんが尼さん達の話を聞こうとガイドに通訳を頼むが、ドルチェさんは面倒がって彼女らに尋ねず自分で答えてしまうことが多い。それでも何とか頼みなだめすかして聞いてもらったところによると、ラダックではここが唯一の尼僧院(ザンスカールにはある)で、子供の頃親に連れてこられ成年に達するとここに留まるか出て行くかを決める儀式があるという。畑で作業し食事を作る毎日で教典の勉強はなかなかできない、ラダックでチベット仏教の哲学士の称号を取った尼僧の話は聞いたことがない、南インドではあるらしい、また尼僧が人前で説教することも全くないという。政治活動について聞くと、ドルチェさんが「若い尼僧は能力もあるし、勿論色々活動している」という。ラダックに独立運動があるのかも交えつつもう一度「彼女達に聞いてみて」と聞くが、直接答えずやはり避けている感はある。それが政治的に微妙だから避けているのか、外国人からしょっ中この手の質問をされ、痛くもない腹を探られてうっとうしいからなのかはわからない。

 ユーコさんは尼僧がここに入った理由を知りたがったが、やはりガイドが「哲学を深め心の平和のため」と答えてしまうので、「尼僧さんに聞いてもらってくれる?」と言うと面倒臭そうに隣の尼僧に尋ね、また同じことを言う。「みんな建前はそうなんだけどね、でも本当の理由が知りたい」とユーコさん、ガイドはそれが本当の理由だと言う。チベットのガイドのNさんはチベットを理解してもらいたいという気持が強く、何でも誠実に訳したり答えたり、その話はまずいですと言ってくれたりしたが、ドルチェさんは面倒臭そうですぐ横を向いてしまい、その度に「excuse me」と注意をこちらに向けて質問せねばならずやりにくかった。「やっぱり今度来るときはニワンさんにしよう」と後でユーコさん。

 
 エミさんは運転手と一緒に尼僧さん達と喋って笑っている。足の不自由な尼僧はエミさんの日本語を上手にキャッチしてはまねてみせ、皆でキャアキャア笑う。最高齢の尼僧が杖をついて登場、彼女が一番偉いそうだが、見た所あまり順列はないようで和気あいあいとしていた。皆エミさんのはめていた、本人曰く「とっても安いんです、これ」というスウォッチに異常な関心を示した。磁石、温度計のついたカラフルなもので、普通の時計には興味を示さずにこうしたちょっと面白い物に興味を示すあたり、基本的な物はもうある程度出回っている感じがする。レーの夜道で道を尋ねた時も、ユーコさんの持っていた蛍光灯のペンシルスタンド型懐中電灯がインド人の興味を大いに引いていた。普通の懐中電灯はすでに持っているそうで、「こういう物はまだないから、売ってくれ」とかなりしつこく頼んでいた。「千円くらいだしあげても良かったんだけど、旅でまだ使うと思って」とユーコさん。そう広い僧院ではないが、古い建物の後ろに尼僧の住む建物やソーラーパネルの設備が建築中だった。礼拝堂を見せてもらって帰る。こ
こにも他のゴンパ同様、A4やB4サイズのダライラマ14世の写真が大きく飾られていた。

 
 リゾンゴンパはさらに奥にある。車止めのあるところまで車で行き、そこからは歩きだ。モンゴルの鷲の口のような岩山の峡谷の間をひたすら歩く。一つ山裾を回ってもまた次の山裾が行く手をさえぎり、なかなかゴンパが見えてこない。ユーコさんは辛そうだ。幾度目か山裾をめぐった時、行く手の正面の山の中腹にゴンパが姿を表す。かなり規模が大きく美しい。ラマ達は今朝この道を歩いて下り、リキルへ出かけ、また歩いて戻るのだろう。車止めのところから30分弱だった。建物群の間に迷路のような道が通る作りで、案内がいなければどこが何だかわからない。堂内は例によって極彩色の弥勒菩薩や阿弥陀仏等々が奉られ、その両側でガアと口を開けたスノーライオンがユーモラスだ。高いところにテラスがあり、登ってきた山塊を見はるかすことができる。観光客は白人の熟年カップル以外見かけず、普段は70名位いるラマ僧も今日は1〜2名、あと小僧さん3、4名を見かけた程度で森閑としていた。

 
 サスポールで昼食後、車は一路レーへ。ドルチェさんは急に元気になり、運転手とはしゃいで喋りまくっている。運転手は歌好きな人で、道々よく歌っていた。「陽気な運転手さんでしたよね」とエミさん。ラダック語しか解さないのが残念だった。途中の村々でバスから晴れ着姿のラダック人が次々下りてくるのを見かける。リキルのお祭りが終わったらしい。途中何台ものバスを追い抜いたが、どれも着飾ったラダック人でいっぱいだった。6時過ぎに宿に着き、残ったビールをガイドと運転手に渡して別れる。

 この日ユーコさんとエミさんは、インド系アメリカ人爺さんと夕食を約束をしていたので、私もお共する。彼とはレーの最初の晩、ホテルの食堂で知り合ったそうだ。おいしいチベット料理屋があると連れていってくれ、ご馳走になる。照明など室内装飾に凝った店で、白人客が多くたまにラダック人グループもいる。お爺さんはマナリのトレッキングから戻ってきた後、あまりお湯の出ないカンラーチェンホテルを避け、一日中お湯の出るホテルに移ったそうだ。コンピュータ会社を退職後、世界中を旅して回っているそうで、こうして色々な人に出会い共に食事をすることが一人旅の楽しみの一つだと言っていた。

 
 この後チャンを取りに行く。7時頃一旦エミさんが行ってくれたらしいが、無いと言われた、「でもいまいち言葉わからなくて状況がわからない」というので3人でもう一度行ってみる。9時半を回っており、一昨日よりさらに暗く人通りも絶え、さすがに一人歩きは恐い感じだ。ラダック人婆さんは本当に取りに来ると思っていなかったらしく、通訳に入った隣のホテルのマネジャーも「あなた達が本当に来るとは思っていなくて動転している。本当にごめんなさい、と言っている」とすまなそうに言う。私も当初から、インドを回る外国人旅行者は、急に予定を変えたり口約束ですっぽかすタイプが多いから、向こうも本当に来るとは思わないだろうな、と薄々感じていたので、しょうがない気がした。しかしラダックのチャンを味わえなかったのは残念。

 
   
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