イ タ リ ア リビエラ巡り 1 ジェ ノ バ |
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2018年春の記録 2018年4月、イタリア旅行の記録 この旅行では、おもにイタリア北西部のリグリア海岸沿いを回った。最初にジェノバ、続いて西リグリア海岸、その後東リグリア海岸各地を回り、パルマを見てミラノ経由で戻る旅だった。 1日目はジェノバの町を観光。この旅行の前半は雨続きで、写真も暗いものが多い。後半は青空の出る日もあり、地中海ブルーを見られたが、天候が悪ければ”リビエラ”も冬の日本海と変わらない、と実感した(苦笑)。 ジェノバについて: ジェノバは中世の海洋共和国としてピサ、アマルフィ、ヴェネツィアとともに栄えた。1347年、ジェノバ交易所が黒死病をヨーロッパに持ち込んだことにより暗転、ペストで人口が減少、経済は崩壊した。以後負け戦が続き植民州をすべて失い、ミラノ公ヴィスコンティ家の支配下に入った。 1492年ジェノバ人コロンブスが新世界を発見(ヨーロッパ社会にとって)、収益の十分の一を地元銀行に寄付したことから、スペイン帝国の衛星都市としてジェノバ経済は回復、再び黄金期に入る。ストラーデ・ヌオーヴェのロッリの邸宅群はこの頃のもの。1656年、再びペストが流行、人口の半分を失い下降線をたどりはじめる。また世界経済の中心が地中海から新世界に移ったため、更に地位低下。今でもイタリア最大の貿易港で、イタリア第5の工業都市ではあるものの、かつてほどではない。 ジェノバが属するリグリア州は地中海気候のおかげで夏は暑すぎず冬は寒すぎず、穏やかな気候のため、リゾート地としても有名で、”イタリアン・リビエラ”としてヨーロッパ各地から定年退職組が移住してきている。なおフレンチ・リビエラにはニース・モナコなどが含まれ、今や”リビエラ”は高級リゾート地の代名詞。(旅行会社のパンフ等参考に編集) 目次: ジェノバ 西リグリア(チェルボ/カンポ・リーグレ) ポルトフィーノ チンクエテッレ ブリニューレ駅前のホテル周辺 右上:ブリニューレ駅 王宮 右上:海戦の絵などの飾られた戦いの間。 左上:ヴェルサイユを模した間 鏡で奥広に見せる 旧港へ向って雨の中歩く 旧港のあたり ストラーデ・ヌオーヴェへ このあと雨脚がひどくなり、ときどき建物に入って雨宿りしながら歩く ストラーデ・ヌオーヴェ 会社やドイツ銀行だったりするので、中に入れない館も多いが、右上はオフィスだが玄関ホールのみ入れてくれた(ピンぼけが残念)。左下も玄関のみ、右下は個人の家だが中庭のみ公開 写真が暗くてわかりにくいが、滝がある ドーリア・トゥルシ宮殿 現在市庁舎になっている 左上:市庁舎2階では、絵画か建築学科の学生たちがさかんにデッサンをとっていた フェラーリ広場
サンロレンツォ教会 黒白の石が特徴的だが、リグリア特産の石で、この後もあちこちでこの模様を見かけた キオッソーネ東洋美術館 街中歩きその1 コルベット広場方向からブリニューレ駅方向へ東に歩く ブティック店並ぶ 市場があった 魚も豊富 ここで乾燥トマトやフンギ、ナッツなどを安く買える 地元スーパー 寿司ロールを売っている。後ろで作っているのは中国人だった 左下:第一次大戦時、フランスの凱旋門をまねてムッソリーニが建てた門 右下:ジェノベーゼ ジェノバの町歩きその2 ホテル界隈 駅北側 BISAGNO川が流れている 左上:上流方向 右上:駅方向 高いビルがホテル 駅のようす 例によって落書きされた電車 駅舎内のようす イタリアの鉄道はイタリア語表記のみ、英語表記はなかった(このあとチンクエテッレで乗ったときも同様)。 左下:ごみ箱 駅の北西(川の西側)が丘になっているので行ってみる 多摩センターのようなかんじのところ 急斜面に建つので急坂、年寄りにはきつそうな町 |
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