その1
バンコク経由でカルカッタへ
成田からバンコクへ向かう飛行機の中、隣のフィリピン人が成田に着いたらVISAが偽物だろうと入国を拒否された、と話かけてくる。誰か保証人がいれば日本のVISAが取れるのだが、保証人になってもらえないか、と住所を聞いてきた。断ると、知人でもいいという。それも断ると、隣のフィリピン人とこいつは旅慣れていてだめだ、と話していた。彼らはマニラで降りていった。
現地時間夜の11時頃タイのドンムアン空港着。
夜中なので、空港の外に出るのはやめ、3時頃まで空港のベンチで寝る。大勢いたタクシーの運ちゃんもいなくなり、到着便もなくなったようで空港内は静か。ほかにも、周囲をカートでバリケードして寝ているイスラム教徒の一家や、ビニールを敷いて床に寝ているヨーロッパ系など、人はちらほらいる。
提携の旅行会社でカルカッタ行きのチケットを受け取るため、いったんバンコク市内に出る必要があるので、荷物預かり所の人に荷物を預かってもらう。彼は、「ずっとそこで寝てたでしょ。ここに簡易ベッドがあるから、寝ていいよ」と言ってくれた。ルンピニ公園を見る予定などがあり時間がないので断ったが、親切そうで感じはよかった。
4:15の電車でバンコクへ。タイ人は駅のホームで寝ていた。切符売りの窓口の上にも、おじさんがひっくりかえって寝ている。
5時、ホアラムポーン駅に着くと、まだ暗いのに駅は人であふれ、屋台もやっている。バス待ちの人が大勢並び、車も流れており、活気がある。
ルンピニ公園にも、大勢の人がぞくぞくと入ってゆく。歩く人、走る人、太極拳をやる人などさまざま。空が白みはじめ、拡声器から北京語の体操の掛け声が響いてきた。
インド国内航空のカルカッタ行き航空券を引き換え、エジプトエアで帰国便の日にちの変更とリコンファームを行い、予定終了。当時はこの乗り継ぎが、インドへ最も安く行く方法だった。缶ジュース10バーツ、屋台のパパイヤ5バーツ。
お昼頃ドンムアン空港に戻り、手荷物検査で並んでいると、急に目の前でタイ人係官がトランクを開け始めた。あれあれと見ていると、白人女性一人男性二人が来て "Oh! What a shame!" とか言って騒いでいる。係官はがさがさ荷物をひっくりかえし、紙包み3つと、ビニールに入った20冊ほどのパスポートを探し当てた。係官は有無を言わさぬ調子で鍵のかかったもう一つのトランクを、白人男性に開けさせた。男性は耳まで真っ赤になっている。一回見て何も出てこなかったが、何か話し、もう一度手を入れ紙包みを取り出した。別の係官が来て、3人についてくるよう命じ、どこかへ行ってしまった。
カルカッタに5時頃着。当時は地方空港のような、古ぼけた小さい空港だった。夕方なので町に出るのはやめにして、空港のretiring roomにブッキング。インド人は60RS、外人は70RS。内地人は翌日の航空券がないと断られていたが、この町ははじめてだ、困る、と騒いでいるインド人もいた。宿につくと、彼らはどこかで航空券を手に入れたらしく、これで泊めてくれとまた騒いでいた。
ロビーにいたインド人から、なぜインドへ来たのかと聞かれる。マザーテレサのところへ行ってみたい、何がpoorなのか見てみたい、というと、マザーテレサは確かにすばらしい、でも私たちに必要なのはprogramだ、手当てだけだと何にもならない、自分たちでやってゆけるようになりたいし、それを助けてくれるなら嬉しい、でもお金やものをだけをもらうのは本当は嬉しくない、と言った。そして、中国に行ったことのある話をしたとたんに、中国はどうだ、と聞く。当時ケ小平のもとで発展が始まっていた中国をかなり気にしている様子だった。中国はうまくやり始めている、インドも遅れないようにしないと、と言っていた。
空港の両替所でも、「インドでどこを見るのか」と聞かれた。答えたついでに「バングラデシュにも行きたい」と言うと、「バングラには何もないよ、ジャングルだけだ」といやな顔をした。対立でもしているのだろうか?
マザーハウスに登録
朝8時頃、バス通りに出て近くの人にカルカッタに行きたいと言うと、バスを停めてくれた。運転手はリュックを運転席の横に置くように言い、河を渡り最終駅に到着すると”タクリア”を待てばいい、と教えてくれる。車掌の男の子が運転手の分と一緒にナンとカレーのようなものを買ってきてくれた。
やがて”タクリア”行きミニバスが来て乗る。ミニバスの車掌はインド博物館へ着くと、ここだとおろしてくれた。宿として元から決めていたYWCAに行く。YWCAは、当時、マザーテレサの施設でボランティアをする外国人が、定宿にしていた宿の一つ。シングルがないというので、ダブルになった(80RS)。
各地にあるマザーテレサの施設を統括するオフィスはマザーハウスである。施設でボランティアをするには、まずマザーハウスで登録する必要があるので、カルカッタに着いた翌日、チャンドラ・ボーズ通りにあるマザーハウスへ向かう。
裏道を行くと、ヤギや牛があちこちにつながれている。犬も沢山いて、その辺で人間と一緒に寝転がっている。舗道の真ん中に犬がドテッと寝ていても誰もちょっかい出さないし、犬も安心しきって眠りこけている。その代わり、早朝は犬の声で騒がしい。その後クリスマスイブなど、夜中に街に出たときに吠えたり騒いでいたので、夜行性のようだ。マザーハウスに着いたのは十時半を回っており、今日はもう遅いから明朝早くに来て登録してくれ、と言われた。
(右の写真は1997年のマザーハウス)
Missionary of Charity(マザー・ハウス)のミサに出席するために朝5時に宿を出る。まだあたりは暗く、外に人はいない。明るくなってくると人が出てくるかんじで、まだ暗いうちから大勢人が活動しているバンコクや中国と異なった。当時はまだ大通り以外は舗装されておらず、フリー・スクール・ストリートから裏道をぬってチャンドラ・ボーズ通りに出るまで泥道だった。(1997年にカルカッタを再訪した際、この道がすっかりきれいに舗装されていたのには、時の流れとインドの発展を感じた。)
5時40分頃着いて、2階へあがる。すでに欧米系の人たちと白地の端に青い2本線の入ったサリーと髪を覆う布をつけたシスター達でいっぱいだ。ミサは6時から7時まで。夕拝もあり、これも夕方6時から7時まで。マザー・ハウスは基本的に見学は受け付けないというが、欧米人はキリスト教国だからか、割と自由にノーチェックで出入りしていた。日本人など東洋系の顔立ちはチェックされる。これは聞いていたので、以前からボランティアで参加していた日本のMisshionary of Charityのインド人シスターに紹介状を書いてもらい、最初のうちはそれを門番に見せて中へ入った。そのうち、顔を覚えるとノーチェックで入れてくれるようになった。なお、このミサにはマザー・テレサもカルカッタにいる限り参加していた。
オフィスは8時からと言うので、いったん外に出てチャパティとスナックで0.9ルピーの朝食。その後登録して、午前中シシュバハン、午後プレムダンと決まる。
シシュバハンはマザー・ハウスの隣にある孤児院で、身体障害児の孤児たちを世話している部屋があり、その部屋の担当になった。1日目、そこで食事の世話やおむつ替えをしたり、遊び相手になる。バーバラというボランティアの女の子は私よりも若そうなのに、気を使ってくれ、あれこれ教えてくれた。
12時、子供たちにお昼を食べさせて午前中の仕事は終了、いったんYWCAに戻る。部屋をダブルからシングルに変えてもらったり1週間分の宿代を払ったりで遅くなりで、プレムダンは翌日からにする。
午前中働いてみて、英語のできる子もいるが、(シスターも含め)ほとんどの孤児はあまり英語を話せないことがわかり、ちゃんとボランティアをやるんだったら現地語ができないときびしい、と感じた。そこで、ベンガル語を教えてくれる学校を探すことにした。
このとき外に出ると、パークストリートに大勢人がずらりと並び、何かを待っているようすだった。何事かと見ていると軍隊が通った。通ったのはあっという間で、たちまち「あー、終わったあ」という感じで皆散ってゆく。街角の電気屋の店先で大勢大勢人がたかっているので何事かと思うとカラーTVだった、ということもよくあり、娯楽も少なく、みな暇なのだろうか、と思う。この頃のカルカッタの街には、昼間から成人男性が大勢ぶらぶらしていた。
(注:1997年に再訪した際、プレムダンなど郊外では、昼間ぶらつく人をみかけなかったので、随分変わったと思った。街中は人がいたが、みな忙し気に目的ある感じで、東京と変わらない雰囲気だった。今思い返すと、1987年当時ぶらぶらしていた人たちの中には、定職が無かった人も多かったのではないか。)
街中で学校を見つけては、外国人にベンガル語を教える授業をやっていないか聞いているうちに
、そうした授業を行っている学校を教えてもらった。9番のバスでRamakrishna Mission Institute of Cultureへ向かい、ベンガル語講座について尋ねる。学校の話では、6月22日から6ヶ月間のベンガル語のコースがあるが今入れるコースはない、冬のコースもしばらくないとのこと。途中学校への道をたずね、案内してくれた人が日本語の単語を教えて欲しい、と言った。印刷物に使うと4つの単語をたずね、あっさり別れていった。
YWCAの人々
YWCAの夕食は7時半からで、来た当日、交換留学生として慶応大学に1年留学したことがある、というカナダの女の子が話しかけてきた。今はロンドンの地理学のマスターコースにおり、インドもそのフィールドワークで来たという。今週末ロンドンに帰る、と言っていた。
翌朝、食堂に行くと、昨日のカナダの子が一人で食べている。ダブルは高いでしょう、一緒に部屋に入ってくれる人を探したら、と言うので、シングルがあけば移るつもりだ、なければ救世軍へ行く、と答えると、あそこは汚いし食事もよくない、行ってみてきたほうがいい、と言う。
宿の食事は13Rsで一般より高いが、おいしい西洋風の食事が出た。Yに滞在しているタイプの白人たちはあまり外の一般食堂には入らないようで、外食するときも一定レベル以上の高級レストランを利用していた。出張で利用しているインド人客もおり、みなクリスチャンらしい。日本のNGOや今回の旅行で訪問する予定の、マハトマガンジーロードにあるインドの農村医療関連のNGOの名を知っており、アラハバード大で教えている元アジア学院の先生の牧野さんのことも知っていた。農村に興味があるならシッキムに行くといい、と彼らは言った。
カルカッタに着いて4日目頃、2日間ほど風邪で寝込んでしまった。下痢がひどく悪寒がして、寝ても座ってもつらかったときには、いったいなんだって地球の裏側みたいなところに来てこんな思いをするのだろう、外国に滞在することを甘く考えるんじゃなかった、とつくづく感じる。
夕食はリムカにレモンを入れたのと、スープをとっていた。当時のインドは、いちおう社会主義国で(当時からそのイメージはまったく無かったが)外国資本を入れず何でも国産でまかなっており、そのため、コーラやペプシの代わりにサムズアップ、スプライト系の代わりにリムカ、という国産代替製品があったのだ。
YWCAにボランティアで滞在している白人たちも心配して大丈夫かと聞いてくれる。リーダー格のアイルランド人夫婦は「最初は無理せず午前中だけにしたほうがいい」と助言した。夫婦は初めてYに到着した人に親切で、必ず他のメンバーを紹介してあげていた。
出張滞在のインド人たちはマラリアの薬を飲んでおいたほうがいい、明日も熱がさがらないようならblood testを受けるべきだ、と病院の場所を教えてくれ、さらに「一人で無理なら42号室のリタに頼むといい」と言ってくれた。リタはインド女性だがクリスチャンで英語が堪能、白人たちが夕食に誘う少数のインド人の一人。最後まで、どういう基準で白人たちと一緒に食事をするインド人滞在者と別のテーブルで食べるインド人滞在者がいるのかよくわからなかったが、一つには言葉と宗教があるように感じた。というのはこの後冬休みに大勢日本人が来た時にも、その多くとはほとんど交渉がなかったが、一人敬虔なカトリック信者の若い女性がいて、彼女は英語ができないにもかかわらず、白人たちが親身に世話していたからだ。またベジタリアンのインド人は、自ら別れて食事をとっていることもあったかもしれない。
ところで、マラリアの薬を奨めてくれたインド人に、インド人もここに住んでいて、でもたぶん誰も予防薬飲んでいないでしょ、と言うと、「自分たちは慣れている」と言っていた。
寝る前、アイルランド三人娘のうちの一人が部屋に来て、大丈夫か、熱は、私たちは沢山薬のストックを持っているから必要になったらいつでも来て、RoomNo.58だから、と言ってくれた。彼女たちは看護婦の資格を持っているそうで、マザーテレサのような病院施設でのボランティアの場合、そういう人は役立つだろうなと思う。
熱の引いた朝、食堂でホットミルクを飲んでいると、インド人や白人男性らが「昨日夜遅く到着した日本人が乞食に20RSもあげていた、彼は英語ができない、誰かが面倒みないと」と騒いでいた。
昼、食堂に行くと、初老の温厚そうな日本人男性がいた。彼がその日本人らしい。仏教系の大学の教授で、マドラスでの会議に来たそうだ。マザーテレサの活動にも興味があるのでカルカッタにも寄ったというので、案内しようかと思ったが、もう白人男性たちが連れて行くことを約束してくれたそうだ。彼は数泊で旅立って行ったが、インド人たちもお茶をあげたりしていた。
昼間のYWCAは、ここを寮にしているインド人女学生も学校へ行き、ボランティアも施設へ行くのでほとんど人がいなくなる。風邪で体調が万全でなく、昼間休んでいるとき、一人でベランダに座っている女性を見かけた。新しく到着したボランティアの女性が、カルカッタの現状を見てショックをおこし涙を流して寝込んでしまっている、という話を聞いたが、彼女がその女性らしい。
翌日そのステラが勇気を出してカルカッタの街に出てみたい、一緒にシシュバハンとプレムダンへ連れて行ってくれないか、というので一緒に行くことにする。その日は中を見て回ることで終わり、こちらも調子がいまいちなので早めに切り上げて、喫茶店に入る。彼女はマルタ島から来たそうで、マルタ島にもインド人が大勢いて店を経営し、とても金持ちだと言っていた。ステラはイタリア映画などでよく目にする、太めの気さくなおばさんタイプ。
当時YWCAは、地方出身のインドの女学生たちがカレッジや美術工芸の勉強のために寮として使っており、廊下でつながった隣の棟で生活していた。外国人とは料金体系が異なる。なお、外国人は男性も(ただし夫婦単位)泊まれるが学生は女性のみ。彼女らは夜遅くまで廊下でしゃべったりぱたぱた走ったり、騒がしい。部屋では物音一つたてない白人系と大違いだ。
隣のシングル部屋の白人の女の子は毎日夜11時頃部屋に戻り、朝5時には起きて早朝ミサに参加していた。ハードな毎日だが早朝ミサを欠かさない姿には感心したし、私も最初は夜遅くに何気なくドアをばたんと閉めたり、部屋の椅子をギーと引いたりしていたが、隣の女の子が夜遅く帰ってもほとんど物音をたてないことに気がつき、以降気をつけるようになった。
ちなみにカルカッタの古い建物は石造りで天井が高く、上下の音はまったく聞こえない。これは安宿も同じで、YWCAも救世軍も古い重厚な天井の高い造りで上下は静かだった。ただ両隣の音はけっこう聞こえる。
ある日の晩も女学生らが夜中の12時頃まで走り回ってキャアキャアふざけあっていた。普段はうるさくてもあまり気にならない私も、さすがにこれはひどい、と思っていたところへ、ドアが開き、英語で毅然と注意する女性の声が聞こえた。決して声を荒げるのではなく、その有無を言わさぬ調子に、とたんに女学生らは大人しくなった。
白人の文化はキューブだな、とふと思った。コアになる部分があってそれに照らし合わせてスッスッと判断している感じだ。人とのつきあいもここまでは助ける、これ以上は断る、というラインが明確にあり、プライバシーを大切にする、公共の場では騒がない、等徹底している。一方、インドの子たちを見ているとアジア(特にインド以東の多神教系社会)はしなやか、というか丸く角のないイメージだ。周りに合わせて柔軟に変化する。プライバシー関連でもここから先は入っちゃだめ、という線は別段はっきりしていなくて、でも入っちゃだめな部分はあるんだけどね、というあたり。公共の場でも自分たちの内々を持ち込んで大騒ぎしたり、もつれあってふざけあう様子も、台湾の友人たちの様子にそっくりだし、日本も同じような感じだ。
到着当初のカルカッタの印象
当時のカルカッタの町は路上生活者も多く、道も穴があいていたり汚い水溜りがあったり、犬や牛、ヤギが寝ていたりで、常に緊張を強いられるところがあった。毎日出歩いているとさほど感じないのだが、田舎から戻った時やバングラデシュから戻った時などは、「よっこらせ」とエンジンをかけてから街に出てゆく感じだった。いったんエンジンがかかれば大丈夫なのだが。それで最初のうちは、外を歩くとどうも疲れた。気候的には、11月から2月にかけては、インドで一番よい季節なのだが。(1997年にカルカッタを再訪したとき、その種の緊張をほとんど街から受けなくなったことに驚いた。東京やソウルを歩くように、ごく普通に歩けるのだ。やはりインドは発展している。)
チョーロンギー通りを歩いていると、一人の人がすれ違いざま腰のポケットあたりにぶつかった。スリっぽいな、でもお金入ってないから、とニンマリ。だが部屋へ戻ったらポケットティッシュがない。そうだ、ズボンのポケットに入れておいたんだ、勿体ないからティッシュもハンカチもポケットに入れるのはよそう。
やはりチョーロンギー通りで。両手のまったくない少年が舗道の真ん中に横たわり、じっと大きな瞳で空を見つめていた。
同じくチョーロンギー通りで、道端でおじいさんがサンダルを売っていた。運動靴だとむれるので、皮のサンダルをためす。25RSだという。女物も出してくる。15RS。ためしに皮のほうを20RSでどうだと言ってみる。何となく悲しそうな顔になり、物は悪くない、高く売っていない、というようなことを言う。『地球の歩き方』にも皮のサンダルは20RS〜60RSくらい、とあったので、25RSで買うことにする。すると喜んで運動靴を新聞紙に包み紐をかけ、おし抱くようにthank youと渡してくれた。このサンダルは滞在中重宝し、日本に帰ってからも使えた。
銀行 (写真は1997年のチョーロンギー通り)
銀行を探しにチョーロンギー通りに出ると、昨日の両手のない少年が横たわって眠っていた。脇に置かれた皿の上には数パイサコインが一つだけ入っていた。
ユナイテッドインディアバンクで1万円を937RSに換える。このときのインドは、その頃の中国によく似ていた。天井が高く、重厚だが古めかしい建物、エアコンではなく天井でゆっくり回る巨大な扇風機。システム化されておらず、やたら(それも古そうな)ファイルが山のように積まれている。街の感じも似ていた。1980年に初めて中国へ行った時、ボロボロの服を着た人が大勢おり、上海ですらつぎはぎだらけの布団を大事そうに抱えているのを見て、かなり衝撃を受け、外を歩くのが怖いような気がしたが、それにまさるとも劣らない。
銀行からの帰り道、またあの少年を見かける。母と妹を思われる女の子がそばにおり、少年はうなり声をあげなから両手のない上半身をゆすってみせ、今度は大勢の人が通りしなにコインを入れてゆく音がチャラチャラした。見事に両手がなく、それ以外はまったく健康なすらりとした肢体をしている。事故か、またよく噂に聞くようにわざと切断されたのか。当時、物乞いもカーストで定められており、他の職に就くのは難しいので、お金を稼げるよう、親が故意に肢体不自由にすることがある、という話があった。
当時のインド通は、さもそれが残酷なことのように話していたが、受験で子供を自殺においつめるプレッシャーを与える日本の親と、どう違うのか、という気がした。いい学校からいい会社へ、より稼げるよう、食いっぱぐれないよう、というのと同じではないか。どちらも歪んでいるだろうが、その社会システム、価値観の中に実際身をおいて生きてみないと、本当のところはわからない。
裏通りに入ると、今度はくる病と思われる少年が地にひれふしていた。かと思うと、サドゥーと思われる人物が歩いてくるのに出会う。一人は全身花輪で飾り、人々が振り返って見ていた。
東京銀行(当時)のカルカッタ支店で両替をしてみる。1万円823Rsで、先週のユナイテッド・インディアン・バンクより100Rsも少ない!これはこの後もそのくらいの差があった。手数料がかなり違うようだ。このため、東銀では2回ほど両替しただけでその後はずっとユナイテッド・インディアン・バンクを利用していた。ただ、ユナイテッドで両替するとえらく時間がかかった。為替相場を調べるのに時間がかかるとかで、大体半日がかり。お茶配達の人の持ってきた小型カップのチャイを飲みつつ、窓口の人とだらだらおしゃべり。一方、東銀オフィスは天井の低い近代的なビルの一角で、エアコンが入っている(これだけで当時のカルカッタとしてはすごい)。ファイルは積まれておらず、コンピュータが何台も入っている(87年当時はまだまだワープロ、スパコン(スーパーコンピュータ)の時代でパソコン時代ではない)。窓口の人も、こちらのパスポートを書き写しながら四方山話をする雰囲気はなく、事務的にさっさと写す。勿論、オフィスでよく見かけるお茶配達の人々もいない。だから両替も速い。
中央郵便局
日本の友人や家族からの手紙は、中央郵便局留めにして受け取っていたので(当時はメールのない時代)、中央郵便局へ週に1度通っていた。局は官公庁や銀行の並ぶ大手町的な街、BBD.BAGにある。ここへ行くと、よくここで見かけるおじさんが勝手に世話を焼いてくる。彼は一種の怪人物で、郵便局に行くたびに会ったが、最後までよい人なのか悪い人なのかわからなかった。日本人からの手紙や書置きの束を持っており、中には日本語で「親切なんだけどどういう人なのかわからない、多分いい人なんだろう」と書かれたものや、機関紙で紹介されているコピーまであった。ガイドブックによく載っているボロバザールは実は高い、サリー買わないか、とどんどん話が発展してゆき、断るとそれ以上入ってこない。その辺のテクニックがうまい。また次々話しかけて、名前、宿泊場所、何をやっているかを聞き出してゆく。郵便局で日本人を見つけては話しかけ、基本的に小物販売と仲介で食べているのだろうが、目つきの鋭さが気になった。一度売っているカードを買ったが、1枚1Rs、帰って女学生らに相場を聞くと50パイサが普通だという。最初のうちは必ずこうして、買物の値段を彼女らに確認した(ちなみに25Rsのサンダルは悪くない、同じようなもので30Rsするものも多いと言っていた)。
その後もよく見かけ、こちらが買物をしないとわかるとつきまとわなくなったが、ハアーイ、と必ず片手をあげて挨拶してきた。
電話局
カルカッタに着いた翌日、電報局へ行って日本へ電話をした。カウンターの係に頼んで自宅へ国際電話をつないでもらうが、40分ほどして「その番号は今ない」と言われる。でも自宅だ、と言うと「多分回線が混んでいるんだ、もう一度やってみる」と言い、20分ほどでつながった。声が遠くて会話は難しいが、いちおう家族は安心したようだ。局内はかなり混んでおり、みな気長に電話がつながるのを待っていた。
サダル・ストリート
救世軍やホテル・マリアなどの安宿街で有名なサダルストリートへ行ってみる。当時は舗装されていなかった記憶があるが、単にゴミやほこりで汚れていただけかもしれない。乾季で土ぼこりの舞うほこりっぽい通りで、乞食やわけのわからない人が大勢たむろっていた。日本語で「どこいく、どこいく」「サリーあるよ宝石あるよ」と声をかけられ、あまり環境のよい感じでない。ガイドブックにもあるラッシーで有名な店に入る。中は日焼けして旅なれた感じの白人男性ばかり、Yにいるボランティア目的の白人たちとはかなり異なる感じだ。
カレッジ・ストリート
本屋街のカレッジ・ストリート。冬のカルカッタは、夕方5時を過ぎると急速に暗くなるので、6時頃着いたときは真っ暗だった。屋台のような小さい本屋がずらりと並ぶ通りで、ランプや電気を灯し、けっこう客も多く賑わっている。売っている本はほとんどがベンガリ(ベンガル語)。カルカッタの詳しい英語の地図を探していると、ある本屋が少年を使って探しに行かせてくれた。その間、座って待っているとき、紙切れを持った男たちが次から次へとやってきては、本屋から数百ルピーとおぼしき札束を受け取っている。当時、インドの平均日収は20Rsといわれており、安宿1泊3〜15Rs、YWCAシングル60RSの時代。本屋は私の視線に気づいたのか、ふいに「Do you know Bengali?」と訊ねた。Noと答えたが、いったい何をしていたのだろうか。少年が地図を見つけてきてくれ、代金を払って7時頃宿に戻る。
その他街中
路上生活の人たちは、井戸や水栓のそばで、場合によってはどぶ水のような溜り水で髪を洗ったり服を洗ったり、食器を洗っていた。男性は道路わきにしゃがんで用を足している。
シシュバハンやプレムダンへ行く途中に、ところどころごみの山があった。元はゴミ回収スポットだったようだが、積みあがって背丈を越えるくらいに成長しているところもある。そうしたところでよく、ごみを選り分けている人たちがいた。まだ使えるビニール袋、箱、その他を徹底的に集めている。ある意味、完全なリサイクルだ。当時露店で入れてくれるビニール袋やストローは、こうした”リサイクル品”が多いと使わない外国人もいたが、それはそれとして、こうしてごみを徹底的に解体して利用し尽くすシステムがあるのも大事ではないか、という気がした。
ガイドブックには、道を尋ねてもいい加減な答えが返ってくることが多い、とあったが、学校探しやストリート探しでそのへんの人に尋ねても、けっこうみんなきちんと答えてくれる。ただ、町で道を聞いても英語が通じないことが多い。空港から乗ったバスの運転手も片言で、車掌はまったくだめだった。オフィスで通じがいいかどうかの差くらいで、街中で英語の通じる率は、日本と似たりよったりの気がした(注:これは滞在期間を通じて同じ印象だった)。
また昼間から多くの子供が、あちこちうろうろしている。物を売ったり、遊んだり、路上で親としゃがみこんでいたり、店でボーイをしたり。学校に通っていない子が多い。インドだと思えば当然の風景だが、極東の現状から見れば平日昼間の子供は異様だ。マザーテレサの施設のそばにも、お金をねだる子供が多かった。その子達をいかにふりきるかが、施設を出入りする際の問題だった。手や服、袖口をつかんで十人近く群がってくる。これがストレスになる人も多かった。
夕方のお店でも、学校帰りの制服姿の少年たちが騒ぎつつジュースを飲んでいる脇で売る側の少年がいる。当時中国では天安門広場の街灯の下で大勢の貧しい若者が勉強しており、その光景が有名だったが、インドはカーストがあるのでそう単純ではない感じがした。売る側の少年は学校に行きたいと思っているのだろうか。通りを、運転手つきの車に乗ってゆく人から、荷車にものすごい大荷物を積んで2,3人で押して行く人まで、さまざまな人がゆきかう。その青年たちはどう考えているのか。
トラムの中でよく飴を売っているおじさんを見かけた。飴の入った壷を匙のようなものでコンコン叩いて注意をひきつけているが、滅多に売れているのを見たことがない。あるとき、飴売りのおじさんが壷をかかえてチョーロンギー通りをふらふらと歩いているのを見かけた。大した稼ぎでもないのだろう、地道にこつこつ生きてゆくのも大変なことなのだ、とつくづく思う。
マザーハウスへ向かう途中、白髪の老人が子供を4人乗せて人力車を引いていた。車やトラムのクラクションを受けながら、人力車は走っている。リキシャワーラーはすごい運動量だ。乗っている人はインド人の上層階級が多い。ワーラーは皆細い棒くいのような足で、皺だらけの顔の人も多い。
フリースクールストリートなどにはよく所在なげにしているリキシャワーラーがいて、外国人が通るとカランと鐘をならしてみせる。その音を聞くたびに、すまなくなる。なんだかそのへんの乞食より、こうした人たちのほうに喜捨(バクシーシ)したくなる。社会構造が違うため強いられた世襲の物乞いもいるということなので、いちがいには言えないが。当時プレムダンのブリッジNO4の周りはかなりのスラムで、そうしたところにリキシャが3,4台おいてあるのを見かけた。こういうところに住んでいるらしい。
外がそんな感じなので、マザーハウスでのミサは、外の喧騒との違いが際立ち、不思議なほど静謐だった。またこういう中だからこそ、マザーテレサはインドだからこそ存在しえたようにも感じた。