震災ボランティア日記
  1. 1日目
  2. 各役所(2日目)
  3. 避難所1日目
  4. 避難所2日目
  1. 避難所3日目
  2. 避難所4日目
  3. 最終日

1日目

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 大阪駅では、芦屋−阪神間運転中止と張り紙され、列車の運転状況がアナウンスされている。窓からの風景も、尼崎あたりから次第に青いビニールシートで覆われた家、半壊した家などが目に付くようになる。甲子園口で下り、かつて通っていた小学校へ向かう。二見公園の西半分に仮設住宅が建てられつつあった。こんな狭いところにまで、と思う。周囲は塀や道路の敷石の崩れは目に付くものの、建物はそうでもない。小学校のほうへ進むにつれ、斜めに傾いたアパートなどが増えてきた。傾いた1階に2階が乗っているような家も多い。
 小学校は避難所になっており、自衛隊の給水車が出ていた。ボランティア詰め所に行き、持ってきた物資を渡すが、西宮はけっこう物資は足りているんですよ、と言っていた。

 西宮北口に近づくに連れ、全壊半壊の家が多くなってきた。北側の商店街は軒並みつぶれており、自警団の腕章を巻いた人が二人歩いている。この近くに当時よくテレビに出ていた西宮体育館があった。商店街を抜けた角には、4,5階建てのビルがあり、1階部分が半分つぶれて斜めに傾いていた。これがはじめて見る傾いたコンクリートビルで、この後いくらでも見ることになる。

 別の小学校へ行く途中、おばさんがどこ行くの、と声をかけてきて、途中まで一緒について教えてくれた。そして病院へ行くと言って別れていった。ここにも自衛隊の給水車が出ていて、近所の人がショッピングカーにポリタンクを積んで集まってきている。学校に入ると、子供が駆け寄ってきて「あ、ボランティアの人だ」「ボランティアに来たんでしょ、ありがとう、手伝うよ」「荷物持つよ」と口々に言って荷物を持ってくれた。ここでも本などを渡す。もう一箇所にも寄ったが、西宮の避難所は全体に森閑としていた。

 夙川べりに着く。あちこちに仮設トイレが設置されていたが、川沿いにもあった。大阪の衛生班が回ってこまめに消毒していた(この日だけで2,3回見た)。川沿いにもシートと段ボールがはられ、老人が一人その回りを掃いていた。荷物が重くなってきたところだったので缶詰をもらってもらえないかとたずねる。老人は手をとめ、いただけると嬉しいと言った。缶詰、山食用のパックをいくつか渡す。老人は何度もおおきに、おおきに、と言った。彼が一番喜んでくれた気がした。バスを聞くと、向こうの大通りを神戸まで通っているという。礼を言ってそちらへ向かう。なぜあの人たちは避難所へゆかないのだろうと疑問が残った。
 電車は西宮北口までしか通じていなかったので、夙川駅に乗降客はない。教えられた大通りに出てずんずん歩く。通りは尾根道のように小高くなっているので、見渡しがきく。まだこのあたりは、給水車も多く、中には手持ち無沙汰風の車もあった。一方、人が並んでおり、何だろう、と行って見ると給水車だったりもした。給水車やゴミ収拾車、電話や水道の工事車は、各県やあちこちの市町村から来ていた。仮設トイレも、芦屋ではまだ立派だったが、このあと東灘以西に入ると、折畳式ビニール張りの簡易なもので、板橋区、新宿区など東京各区のものが使われていた。汲み取りもちゃんと回ってきていた。

 道から南が下がって見渡せ、そちらのほうが被害が大きい。線路を越え、南に入る。東灘区に入ると、家がバシャバシャ、軒並みつぶれ、こなごなになっている。瓦屋根の形がかろうじて残っていることが多い。道が狭いため、つぶれた家で歩けないところも多く、歩けるところは人通りも多く、あちこちで小型のショベルカーが動き、何か騒然としている。
 進むにつれ、本当にこれは大変だ、という感じがしてきた。大通りもあちこちでアスファルトがめくれあがり、道がでこぼこしている。敷石もはずれたまま。国道二号線も、沿道の家が軒並みつぶれ歩道を塞ぎ、車道まで出ないと歩けないところも多い。二号は車も多く渋滞していた。道路脇には、バイク便、ボランティア募集の張り紙が所々にある。川向こうは消防署、そして東灘区役所だ。

 区役所は搬入車と多くの人でごったがえしていた。3階のボランティア受け付けに行く。あとから来る人たちに、どこが人手が足りないかを伝える必要があったので、いちおう各区役所を回ってみる予定だった。ここでは土日は人が多い、月曜から金曜まで働ける人がほしい、と言っていた。土日だけの人は断られていた(あるいは自分で各避難所を回って探してくださいと地図を渡されていた)。避難所は基本的に9時から6時までで、宿泊を許さないところも多く区役所に泊まることになる、という。
 西宮を回っていたので、この日はここまで。この当時、もっとも神戸よりまで通じていた阪神の青木駅へ向かう。駅に「XX避難所、ボランティア募集、寝るとこ、食糧あるよ!」とポスターが貼ってあった。

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各役所(2日目)

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 朝、芦屋の山側を歩くが、このあたりは外見上は被害が少ない。人通りも少なく閑静だ。小高いところから、海側の阪神の線路向こうに見事に傾いたビルが見える箇所があり、女性二人がそのビルをバックに写真を撮っていた。
 南へ下り東灘に入ると、再び騒然としている。昨日駅のポスターでみかけた避難所に寄ってみた。ボランティアの受け入れ状況についてたずねると、リーダーを呼んでくれた。テレビでも、被災者の大学生が中心になって自治を行っているユニークな避難所として紹介されたらしい。彼も月金で来てくれる人がほしい、と言った。「土日は多くて、はっきり言って困っている。その分、大きな仕事を入れるようにはしているけれど、今日も人が余っている」「二月いっぱいはマスコミが騒ぐから人が来てくれるだろう。だから足りている。できれば3月以降来てくれる人がほしい。本当は長期がよい」彼自身も3月末までは続けるつもりだと言った。「一ヶ月くらいいられる人がいれば、その人にコーディネータをまかせられる」そしてさかんに、「一家族だけが火事で焼け出されたら、その人たちは泣き寝入りでしょ。運が悪かっただけだって。今回はそれが30万人も出た、てだけで基本的には変わらない。本人たちが自分でやるべきですよ」と言った。「被災者であっても、自分から避難所の仕事を手伝うようになって働く人も出てきている。自分たちのことだから、最終的にはボランティアに頼らないでゆくべきだ」また当日いきなりでもOKだが、できれば連絡してほしい、寝る場所や食糧はあるがボランティアも増えているので寝袋持参できるといい、区役所へ行くよりも個人的に避難所に連絡したほうがボランティアを受け入れているところは見つかるだろう、と言っていた。

 さらに南へ下る。崖下に建つ細長い木造2階建てアパートが崖側に傾斜して倒壊しており、2階から住民が出入りして瓦礫をかきわけつつ家具を運び出している。道端に運び出された家具がずらりと並び、人々が座りこんでいた。保健所の腕章をつけたおばさん3人連れがときどき道を回っていた。また、地図と板を持ち各家の被害状況を書きこんでいるヘルメット姿の男性もよく見かけた。ヘルメットにはXX建設など大手建設会社や工務店の名が記されていた(その後倒産したゼネコンもあり、そのニュースに、あの時ボランティアとして危険度診断をしていた社員たちはどうなったろうかと思ったものだ)。そしてアパートやビルなどに、入って良いか注意が必要か、立ち入り禁止か書かれた緑、黄、赤の紙がべたっと貼られているのをよく見かけた。あちこちの電柱に「震災なんかに負けへんで!東灘商工会議所」という張り紙が貼ってあった。これは各区共通らしく、その後も灘区版や長田区版を見かけた。

 二号線を灘区役所へ向かうが、沿道の家が崩れ歩道が埋まっていることが多く、歩きにくい。そうした家の前でよく椅子や一斗缶が置かれ火をたいて人があたっていた。六甲道付近のビルも斜めに歪んでいることが多く、一見正常に見えても、連絡橋のどちらかの口がずれている。
 灘区役所につくが、区役所内はそうわさわさしておらず、わりと落ち着いた感じだった。1週間以上の長期の人がほしい、できれば力仕事ができるので男性のほうがよい、避難所へいきなり個人的に行っても、断られることが多いですよ、区でもいきなり来られても断るかも、と言っていた。

 中央区へ向かう。六甲からは何本も細い川が流れている。たいてい川沿いに公園があり、簡易トイレが設置されテント村ができている。テントの食べ物屋や古着の配給所も多い。深緑色の車高の高い自衛隊の車も、そういうところに駐車している。たまに「お風呂入れます」などと書かれていることもあり、自衛隊が設置したようだった。
 三宮に近づくにつれ、人通りも車も多くなる。歩道沿いに大勢の人が並んでおり、JR、阪神、阪急の通じている駅まで行く代替バス乗り場だった。

 中央区役所へ行く。ここのボランティアはボランティア自身がコーディネートしているようだった。大勢の人が行き交う中、話を聞こうと女の子に声をかけると、コーディネータ役の男の子を呼んでくれた。長期のほうがよいが、短期でもかまわない、飛びこみでも構わない、と言う。仕事は朝9時から9時半までの間に吸い上げているので、それまでに来てほしい、仕事はたくさんあるので人手が足りている、ということはない、泊まる所、食糧はあるという。また一ヶ月くらいの長期でできる人がいれば、調整をまかせられるので助かる、とも。

 三宮駅前の陸橋の上は、土日のせいか、人が鈴なりで渋滞していた。周囲のビルが軒並み斜めに歪んだり、途中階がつぶれたりしている中、写真を撮っている人もけっこういた。アーケード街では営業している店も多少ある。三宮北口のペンシルビルが立ち並ぶ一帯も同様だったが、ロータリーはバリケードで塞がれ、入れなかった。地表がでこぼこと波打っている繁華街を、地元の子かけっこう若いカップルがものともせずに歩き回っている。ところどころ、営業しているブティックなどもある。
 兵庫区へ向かう。神戸市役所が南に見える。新館は無事に見えるが、渡り廊下でつながった部分が崩れ、旧舘の途中階がつぶれていた。
 二号線の西、見渡せる限りの沿道の中層ビルがあちこちに傾き、目がおかしくなってくる。公園から賑わっている商店街に入ってすぐが兵庫区役所だ。入り口のすぐ左がボランティア詰め所だった。

 ここも若い学生ボランティアがコーディネートしていた。区役所出入り口をおおぜい人が行き交う騒然とした雰囲気の中、ボランティアは防寒具に身を包み立ったまま、「人手が足りなくて、きのうまで大変だったんです。今日は日曜で人が来てくれているんですけど」「基本的には土日より平日に人がほしい」「学生主体なので3月まではやれる人がいるけれど、4月以降は人が足りなくなると思うんです」「寝袋は必要です」「でもとにかく人が足りなくて大変、ぜいたく言っていられないから短期でもかまわないから来られるなら来てほしい」と言っており、直通の電話番号まで渡してくれた。

 長田区へ向かう。兵庫区のボランティアは、兵庫区は有名じゃないから人が集まらない、とぼやいていたが、けっこう1ブロックごと丸焼けの箇所も見かける。細い道は両側から家がつぶれて瓦礫で埋まり、瓦礫をかきわけ人一人通れる道がついていることもあるが、瓦礫をよじ登って通る人も多い。車の通れる道は限られている。

 あたりが暗くなる頃、長田区役所をみつける。今までの区役所は建物は無事だったが、ここはひびが入り一階の基礎部分がずれていた。区役所に入るといきなり、避難している人が大勢毛布を広げて寝ている。消毒薬のにおいもする。一人のおじさんが「全員の合意をとってから。それまでカメラ回さないでください」と言っている。テレビカメラが入っているのだ。二人は撮影をやめた。ボランティア室は4階なので階段を上って行く途中、二人のおばさんが、ああいう取材の連中が来ると気を使って大変よ、というようなことをぶつぶつ言っていた。
 いまボランティア会議中、というので外にいるボランティアから話を聞く。ここはYMCAが主体になっていると言っていた。「とにかく人が来ちゃって。今日も九州のほうからいきなり数人来たんですけど、やってもらうことがないのでここに1日いてもらったくらいで」「一週間います、なんていう人はざら。一ヶ月いられると言っている人も多いですから短期の人は正直いらないんです」兵庫区は人手が足りなくて大変だ、と言っていたので、隣なのにずいぶん違いますね、と言うと「僕らも先週まではそうだったんです。でもマスコミのおかげでどっと来るようになって。そうですね、足りているわけじゃないんです。足りないほうがもっと困るし。前もっていつ来るかわかっていれば、短期の人でも歓迎だな、やっぱ」「寝袋はいります。食糧はたくさんあるけれど、この調子で人数が増えれば足りなくなるかも」「やはり、正直女子よりは男子のほうがいいです。いろいろトラブルもあるし。女子は事務やってもらおうかと思っているんです」最初回りで見ていた他のボランティアたちも、次々よってきて教えてくれた。

 須磨区、垂水区も気になったが、時間的に無理なのであきらめた。区役所内にいたおじさんが「焼け跡見た?その大通りを300メートル南へ行ったところが、よくテレビに出ている一面焼け野原になったところだよ。あと区役所の西へ行ったところがまた、須磨のほうへずっと焼けているよ。見てくればよかったのに」と言った。

 神戸駅の代替バス乗り場は、依然おおぜいの人が並び、騒然としている。JR行きは150mくらい並び、2時間待ちという。阪神まで行くと、少し列が短い。ひょっとして、と阪急まで行くと、すぐに乗車できるくらいの列だ。何だ、この差は?思わず投書で(当時まだネットはなかった、パソコン通信くらい)「阪急は穴場だよ」と教えたくなってしまった。バス乗り場としては確かに少々歩くのだが、2時間待ちよりは速く着くはず。
 宿に着いてから、ボランティアを送る予定のグループにこの日の内容を電話で伝えた。状況によって人手が足りているかどうかはすぐに変わる可能性があるので、やはり事前に連絡はすべきだとも添えた。

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避難所1日目

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 9時過ぎに某区役所に到着。区役所内はすでに人であふれている。受け付けで避難所を指定される。

 避難所では配給所が本部になっていた。職員が区役所経由の人だから、とスタッフを紹介してくれる。仕事は自分で探してください、という感じだったが、すぐに配給のバナナが黒くなりそうなのでジュースにするから手伝って、と声がかかり、体育館に避難している中学生と大学生ボランティアと3人でミキサーをまわす。”被災者”(避難している人たちはこう呼ばれていた)にも避難所のスタッフになっている人がけっこうおり、倉庫係、食事係などが決まっていた。中学生は回りの大人をよく見ており、「作ってもらって飲んでいるんだからさあ、自分たちでコップ洗って当然だと思わない?」と言い、紙にそう書いて貼り出した。「自分で洗わないかんの、ならいらない」とおばさん。「何あの人。自分でやって当然だと思わない?」と中学生。中学生はよく、自分たちでやるのが当然、と言っていた。そして配給所に座って番をしたり回りを掃いている老人を示して「あの人な、あんまりしゃべらないけど、黙ってきれいにしてくれる。よく人を見ている人だよ」と言った。
 大学生は京都から来たそうで、「大阪、て全然普通でしょ。壊れていなくて普通に機能していて。神戸の人が買い出しに行くと、頭がくらくらするそうです。あまりのギャップに」と言った。

 避難所の雰囲気は、何となくインドのマザーテレサの施設に似ていた。集団生活、着の身着のままで財産を持ちこんでいない人たち。学校の水飲場が洗面、洗濯場になっている感じも同じだった。配給の番をしながら避難所の人たちと話す。おじさんは「東京の物をずいぶんもらったよ。神戸ももっと備えがあればずいぶん違ったのに」と言うので「昨日ずっと回ったけどこれだけの地震が来たらかなり備えていてもだめだと思った」と言った。それでも「いや、神戸ももっとちゃんと備えていたら全然違ってた」という人は多かったが、過大評価の気がした。みな、まさか神戸で地震があるとは思わなかったと言っていた。各地からボランティアに来てご苦労様、ありがとう、というので、今度こっちで震災があったら来てください、と言うと、「いきますう」と独特の語尾のあがるイントネーションで笑う。
 被災者スタッフのおばさんは「ホカロン一人5つ。ラーメンは一人一個」とさかんに言う。「みんながめついでー。変装して来る女もいるよ。あたしじーっとにらみつけてやるけど知らーん顔して何度も取りに来る」その女性は有名らしく、おじさん達もああ、あの人あの人、と言う。あの人二人住まいなのや、なのに沢山もってゆきよる、不安でしゃーないんやろ、等々しゃべっていた。

 避難所の中の人も外の人もよく物を取りに来ていた。配給所に出している分が足りなくなれば、番の人が倉庫から出してきて補給する。犬のエサを取りに来る人も多かった。物を取りに来る人がいる一方で、服を数枚、何を少し、という形で少しづつ「使ってください」と寄付してゆく人もいる。そういう物を入れた袋や、犬のエサの袋を捨てようとしていると、「その袋ください」という人がいる。物を取りに来ても入れる物がないのだ。帽子を被ったおじいさんも、「その袋いただいてよろしいですか」と言う。「どうぞどうぞ」と渡した。何事もなければ悠悠自適の隠居生活を送っていたろう感じの老人だ。人の良さそうな顔をして、目を大きく見開いてこちらを見つめる。あんなに目をまん丸くするのは、涙をこぼれ落とさないためかのようだった。毎日お昼過ぎに、ゆっくり歩いて配給所に来た。

 その後中学生が古着をハンガーに吊るすというので、手伝う。確かに良さそうなものを見やすく並べると次々はける。頭のいい子だなと思う。避難所の学校では全体を2グループに分け、1日交替で授業が行われていると言っていた。避難所の人たちはボーイスカウトのことをボーイさん、と呼んでいた。ボーイさんがお風呂を作った、というので見に行く。床はスノコを使い、普通の風呂釜の下にバーナーが仕掛けてある。「あんなことできるんですね」「うん、ホウロウだとできるらしい」とここのボランティアの中心になっている男の子。パイプも通り、蛇口をひねればお湯も出るようになっている。ボーイさんは知り合いを通じて、土日を利用したボランティアで何度も来てもらっているが、その仕事ぶりはこういうとき本当に役に立つ、震災直後の物のないとき、ドラム缶式の簡単なお風呂をあっという間に作り上げた、火の起こし方も早い、と言っていた。
 3時頃、花を届に来た女の子たちがいた。パンジーの鉢植えを100個ほど置いて行き、おじさんたちは「花?」という感じだったが、避難所スタッフの女性たちは「なかなかいいじゃん」と並べはじめる。通りかかったおばさんが「花か。心がなごむわね。これもらえるの?」次々おばさんやおじいさん、おばあさんが持って行く。
 ガールスカウトの炊き出しが入り、手伝っているうちに6時。ガスが通じていないので、メニューは限られてくる。区役所へ戻る。

 夕食は持参でもよいし、援助のお弁当も積み上げられていて自由にとれる。水が出ないのでペットボトルの水を大切に使う。トイレも、近くの川の水を汲み置きした大型バケツからひしゃくで流していた。毛布も積み上げられており、自由に使える。

 3階のカウンターで、女性職員が「ごめんなさいね、せっかく神戸に来たのに、いい思い出残してあげられなくて」と言っている。どうやら神戸で学生生活を送っていた男の子が故郷に帰るかで何かの証明をとりに来たか切り替えに来たらしい。もう8時近いが窓口はやっている。避難所の職員も、この間やっと休みがとれた、それまで休みがなかった、と言っていた。
 ボランティア控え室に行き、みなどこで寝ているのか聞くと、3階はうるさいので2階がよい、長いすもあって早く行けばそこで寝られるし、という。別の女の子も3階はたばこ吸う人が多いから、2階のほうがよい、と言っていた。バイク便ボランティアの男の子達も多い。前を横切るときは挨拶してくれたりきちんとしている。二人連れが通りすぎがてら、お疲れ様、と声をかけてきたので聞くと、これから高槻までバイクで帰ります、一週間ぶりなんです、と言っていた。

 区役所の外には無料電話が4,5台設置されていた。地元の人が深刻な話に使っていることが多く、たいていふさがっており、しゃがみこんで話す人などさまざまだ。
 電話近くの荷物の搬入口には数名の若いボランティアがいた。「長田区役所に避難民がいっぱいいるでしょ。あそこすごいよな。どうするんだろ」「追い出せないでしょ」「あそこは昔からそういう土地柄や、図々しい人が多い」と話しているのが聞こえた。
 区役所には夜9時を過ぎても電話がかかってきていた。皆夜遅くまで働いていおり、ここに寝泊りしている職員も多かった。

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避難所2日目

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 結局3階のほうが床がカーペットで寝袋でも寝やすいため、3階の床に寝ることが多かった。9時頃避難所へ。
 昨日の中学生が「やあ!」とやってきて、昨日大阪のプロの人たちも来て、お風呂を作ってくれた。これでボーイさん達が作ってくれたお風呂とあわせて二つになった、でもボーイさんたちのお風呂のほうが水の効率がいいんだよね、プロの人達のはきれいなんだけど水をたくさん使うし、沸かすのも面倒、と話してくれた。リーダーも「とにかく水が大変なんです。だから水の効率がいいというのは大きいんです」と言っていた。風呂用の水は毎日ポリバケツを軽トラに積んでとりに行っている。

 本部の人が避難所脇の張り紙を整理している。区報、お風呂情報、犬を預かるボランティア団体、移動先、連絡先、仮設住宅情報などいろいろある。よその県からの県営住宅へどうぞというお知らせには、XX県なんかに誰が行くか、こういうのは全部まとめないと場所とって困るな、とブツブツ言っていた。
 補給所の番をしがてら、居合わせた被災者スタッフにどういうボランティアがありがたいか聞いてみた。「まず、震災直後に入ってくれた男の子。彼には本当に感謝している。名古屋の子だけど、わざわざ来てくれてずっといてくれている。それからやはり、直後にすぐ来て炊き出しやってくれた女の子がいて、彼女にも感謝している。これだけの大人数、本人も初めてだったろうけど、てきぱき指図してくれて、あたしたちどうしていいかわからず呆然としている時に、若いのにようやってくれた。それからボーイさんたち。大勢来てくれてお風呂作ったり大掛かりなことをやってくれた」やはり長期でやれる人のほうがいいですね、と言うと「それは絶対。1日2日来る人もいるけど、せっかく来てくれてもここのシステム教えて終わり。こっちも忙しいしそうそう教えていられないし」じゃあ土日だけというのも、というと「あ、土日なら土日だけ必ず毎週来てくれる人はやはりありがたい。おとといも、そういう人が来てくれたおかげで、あたしら休めるし、久しぶりに買い物にも行けたしな」ボランティアリーダーも、ずっと避難所にいると心身共に疲れてくるので、一週間に一度大阪に戻って気分転換をしてくるという。

 午前中に給水車が来るので、ポリバケツを出して入れてもらう。飲料水と生活用水とは分けている。その他、市や民間から援助物資を運ぶトラックがやってきては、果物、パン、ラーメン、ジュース、飲料水を運び入れる。個数はあらかじめ決められている。一方避難所のほうでも、必要なものをリストにして渡している。
 お昼にキュウリにマヨネーズをかけて齧っていると「それいいねえ」とおばさん。「野菜が足りないな、よし、きゅうり」とおじさんがリストに書き足した。
 番をしている中には、若い女の子もいた。ボランティアか聞くと、この体育館に寝泊りしている被災者の短大生で、今日はここの当番なのだそうだ。きれいにお化粧をして、みじめさは微塵もなかった。

 けっこう外から「電話ありますか」「避難者名簿ありますか」と人が訪ねてくる。中学生くらいの男の子3人が「あの、花がある、て聞いたんですけど」とやってきた。「ごめんね、もうなくなっちゃったの」「はい」と去っていった。
 ドッグフードやキャットフードを欲しがる人は多かったが、小分けにする袋を持たずあきらめる人も多かった。そこでホカロンなど配給品の入っていた小袋を集めて小分けにしたところ、どんどん持って行くようになった。昨日のようすから、袋をほしがる人がけっこういるようなので、大きめの袋もあちこち回って集めておき、配給所の入り口に置いて自由に持って行けるようにした。これも次々はけた。

 避難所は、お昼と夕食の配給時に外からどっと人が集まってきて混雑する。そのときついでに配給品をもらって行く人も多いので、忙しい。切らさないように倉庫と行き来する。倉庫係の男の子もてきぱきしており「果物はもう今日は終わりにしよう」だの指示を出し、物の出入りをノートにチェックしていた。
 午後空いてくると、短大生と古着の整理。ごちゃごちゃに入っていると探すのも面倒になると思われるので、男物、女物、子供用と三つに分け、さらにズボンと上着、スカートやパンツと上着、とわけてゆく。背広などいいものはどんどんハンガーに吊るす。マルチーズを連れたおばさんも来て「こんな夏物誰も着いへんわ」「こんな柄誰が着るか」と文句を言いつつ仕分ける。夏物は夏物でまとめて段ボールに入れて別にした。

 人がいなくなり一段落した頃、昨日の帽子を被った老人が来た。そしてホカロンを指さし「これもらってもいいですか」と大きく見開いた目でじっと見上げるようにしていう。「ええどうぞどうぞ」。こういう老人たちが気になった。短大生と話していると、彼女も痛手は受けているのだがこの人は大丈夫だ、まだまだこれからだ、と思えてくる。おじさんやおばさんは上手に愚痴ったり悪態ついたりしている。服を取りに来るおじいさんたち、洗い場で洗うおばあさんたちは、静かで泣き言を言わない。どこかあきらめたような、力を失った静けさだった。先の老人がまた来て、「この袋もらってもいいですか」という。配給の毛布の入っていた大袋だった。「どうぞ、使ってください」「布団を入れる袋がないからね、布団を入れるのにちょうどいい」そしてゆっくりゆっくり、戻っていった。なぜ布団を入れるのだろう、家があるなら押し入れがあるはずだし、と思った。川べりでテント生活をしていた老人を思いだしたが、何をどこまで踏み込んでいいか迷うところだった。本当は山谷でやっているような、巡回方式のニーズもありそうな気はした。

 4時過ぎに炊き出しボランティアが始まる。この日はおでん。また人が来てわさわさと忙しくなる。倉庫からジュースを出して並べていると、「その段ボール頂戴。トレーにするから」というおばさんがいた。成るほど、と気づき、缶ジュースの入っている段ボールは二つに割れる形のものが多いことから、トレーを作った。そして炊き出し机の脇に「トレーにお使いください」と張り紙して置いたところ、「これは便利ね」とたちまち全部なくなってしまった。
 さらにトレーになりそうな段ボールを集めていると、避難所になっている学校の先生が来て「この段ボール持っていってもいいですか?」「どうぞどうぞ」「いつもここにあるの?」「はい、段ボールは沢山あるんでこのへんにおいてあります」「よく使うので、明日から定期的に取りに来るわ」と明るく言って段ボールを持って出ていった。すると他のおばさん達も来て「段ボール頂戴」と言うので「どれでも好きな物を持っていってください」と言うと、あれこれ見て「これがいいわ。ゴミ箱がないのよ」と言った。成るほど、段ボールもいろいろ使う人がいるんだ、とそれまで配給品を取り出した後つぶしていた段ボールをどんどん集めて積み上げてみた。するとそれなりに掃けていった。

 4時過ぎとはずいぶん早い食事だなと思ったが、6時頃、業者がお弁当を持ってきて、その配給も始まった。お弁当をもらって区役所に帰る。

 一緒に寝場所を確保した大阪から来たボランティアは、大阪府知事が物議をかもす発言をしたでしょ、いつまでも頼っていないで自分たちで何とかしろ、て、でもあれはわかる気がする、て人多い、と話した。そして、避難所によっては西成あたりの路上生活者が流れ込んでいることがある、と言った。「うちの避難所にもいるのよね。体育館の中に立派な段ボールの家造っちゃうのよ。他の被災者はそんなの造れないじゃない。さすがプロだな、ていうのを思わず造っちゃって『おっさん違うだろー』て」
 彼女は実家から西成はチャリで行かれるからよく通るんだけど、段ボールで立派な家を造っているんですよね、小さな棚なんかを段ボールでかわいく作ってあるのが見えるんですよ、と言った。

 そこへ、一人のおばさんが人懐こく話しかけてきた。中部の県から来た、子供に止められたがボランティアに出てきた、などなど言う。そして大阪の子に「あんたうちの姪そっくり」とじろじろ顔をのぞきこむようにした。その後も一方的にしゃべりつづけるので、適当にあしらっていると、今度は隣の女子大生4人組に集中しだした。しばらくして彼女達はすっと立ち上がって出て行った。
 するとカウンターの中で働いていた区役所の職員が来て「あの人、少し変じゃないですか?」と聞く。「さっきの女の子たちも逃げていっちゃったんでしょ」「そうだと思います。最初気さくな人かと思ったんですけど、何か妙にハイというか」職員も、「そう、始めは気さくな人かなという感じだったんだけどね。一週間位いるんだけど、ようすが変だから帰ってもらったほうがいいかもしれない」
 翌日、彼女は保健ボランティアの精神科医に連れられていった。

 この日もカウンター内には被災者からの電話が夜遅くまでかかってきており、ガチャンガチャンとナンバーを押す音が聞こえていた。灯りが消えたのは2時、職員が毛布を敷く音がした。

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避難所3日目

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 避難所へ行くと、昨日の短大生が声をかけてきて、今日は面接だ、と外へ出ていった。

 服などの援助物資が到着すると、さっそくおばさんたちがやってきて物色して持って行く。男性は昼間は避難所にいないことも多く、良い配給品は昼間いる人達の手に入りやすい。今思うと、一部昼間はプールしておき、通勤者の帰宅時間にあわせて並べても良かったかもしれない。
 古着を仕分けていると、しみのついたセーターや使い古しの下着もあって「あたしらも贅沢言ったらいけないけどな、こりゃあんまりや」と一人のおばさん。
 一般に古着は男物が少なく、滞在期間を通じてそうだった。季節柄、ジャケットやジャージーを欲しがる人も多く、そうしたものは入ったら目立つようにハンガーに吊るした。
 トレーを作ったり、大袋入のものを小分けしたりで午前中が過ぎて行く。

 お昼の炊き出しはカレー。パック入りルー開けを頼まれる。よく働くエネルギッシュな被災者の姉さんスタッフがてきぱきとさばく。「食券ないんとだめなんか」と男性の声。「はい、ごめんなさいねー、食券ある人のが先です」と姉さん。「食券はどうすればもらえるの」「避難所の人だけです」「なんでや!」「中の人から先です。外の人はあと」と校長。「なんでや!こういうときうちも外もないだろ!」「中の人は何でももらえて、あたしら外で暮らしている者には何も回ってこないのよ。ずるいわ」男は怒鳴り、女は言葉はやわらかいが苛々した口調で言う。「避難所の人達でローテーション組んで、自分たちで作っているんですよ。ちゃんと後でお渡ししますから、もうちょっとお待ちください」と校長。食券がなくても「くれ」と要求して列を離れない人がいたりで険悪な雰囲気になったが、なんとか終了。「別にあげるのがいやなわけじゃないんだけどな」と姉さん。「もらえるのが当然みたいな顔して取りに来よるから腹立つんや」

 その後一息ついていると、おばさんが一人でおひつを洗っていた。大きいし大変そうなので手伝うが、水道がつかえないのはやはり不便だ。ひしゃくで汲んだ水を効率的に使って洗う。隣でおばあさんが何か洗っている。ご飯類は落ちにくいため、やかんのお湯も使っていたのだが、おばあさんの洗い物にもお湯をかけてあげる。おばあさんは喜んだ。すると姉さんが「個人の洗い物にお湯を使っちゃだめ」そうだったのか。団体生活のルールは守らなきゃ、と出過ぎた行為を悔いる。

 午後は姉さんと一緒に、体育館内を回って味噌汁の炊き出しで使ったプラスチックのお碗を回収した。1階はだだっ広い中に布団がずらりと敷かれていたが、2階はつい立てで囲っている人が多かった。姉さんは中にいた子供に声をかけ、小学生の母親だとわかる。ずいぶん、若く見える。いや実際若いのだろう。

 再び配給所にいると、中学生がやってきた。そして「あのおばさんがこれも捨てる、あれも捨てる、てきかないんですよ。これまだ使えますよね」と未使用のホカロンや服を見せる。「どれも使えるし、着られるよ」「みんな疲れてきていてるのかなあ、もう三週間もたつし」と中学生はつぶやいた。

 6時になり、区役所に戻ると、昨日一緒に寝場所を確保した人が、割り当てられたところは仕事がない、そちらもあまりない、て聞いたけどどうですか、というので、探せばいくらでもあるよ、と言うと、実は男の子3人と一緒に区役所に黙って移ることに決めたんです、と言う。それで見送りに行く。男の子は「暗くなると治安が悪い、て聞くから遠くまではいいですから」と言う。「痴漢や物取りが、被災民やボランティアめあてで出るんですよ」そして避難所暮らしが一ヶ月近くになってくると、そういう頭の切れかかっている人が出てくる、と言った。さらにどこそこが危ないなど危険地帯がある、と具体的な地名もあげていたが、真偽のほどはわからない。そのほか、震災直後は控え室の奥が遺体安置所となっておりすごかったらしい、区役所にはまだ身元不明の遺体が一体、ドライアイスで保存されているらしい、など、だんだん話が都市伝説めいてくる。さいごに女の子が握手を求めてきて「またお会いしましょう」、そして大通りから南へ進んでいった。彼らが行くと言っていた避難所は北にあるはずなので、あれ、と思いそう言ったが、南側にあると言う。地図でも確認したので間違いない。避難所を間違えているか、南北を取り違えていたのだろうか。
 ついでなので、まわりを歩いてみる。街灯が通じていないので大通りをはずれると暗い。商店街のアーケードは残っているが、両脇の店はほとんどが崩れ落ちていた。アーケードと崩れた建物の間から星空が見える。内部は真っ暗、通るのが怖いようなのでためらったが、よく見ると細かい光が動いている。入って見ると、懐中電灯片手に通勤のおじさん、おばさん、若い子がちらほら歩いている。一緒について歩いてみた。しんと静まりかえり、不思議な雰囲気。途中、横道から二人連れの若い女性が出てきて、角の壊れた店を眺めている。その手前の無事な家の戸を叩くと、おじさんが一人出てきた。「ここの人はどうしたのでしょうか」とたずねている。これほどの被害を受けては、一ヶ月二ヶ月かそこらでは、おそらくこのままの状態だろう、という気がした。大通りに出て、2号線とぶつかる正面のビルに「がんばれ神戸」という大きな垂れ幕がかかっている。本当にがんばれ、という気がした。でも、本当に、がんばれるんだろうか、とも思った。

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避難所4日目

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 避難所へ行くと、仮設住宅当選者の発表日だった。9時に行ったときにはもう一通り見終わっていたようで張り紙の前には誰もおらず、配給所のおじさんおばさん達も誰もその話題を口にしなかった。あとで生協ボランティアに聞いた話では、ここからは一人しか当たらなかったという。

 午前中は同じような配給所の仕事と炊き出しに追われる。お昼前、細身の少し○ヤっぽい男性が来て、持ってきたビニール袋にホカロンを沢山詰めこんだ。お昼近くで人も多く、一人の初老の男性が「一人5個やで」とするどく言った。「なんや」と男。「他の人も必要なんや。一人で沢山持っていったらあかん」「なんやと」古着漁り常連メンバーのおばさんが駆け寄ってきて「やめてえな、けんかやめてえな」とおじさんを引っ張る。「なんか文句あんのか」「一人で沢山持っていったらあかん!」おばさんは泣きそうになりながら「やめてえな、あんたあ」と引っ張り続ける。結局男は返さなかった。しかしそれ以上は他の物もとらず、出ていった。一触即発なところがある。

 午後から某県が派遣した生協ボランティアの学生達が入ってきた。職員がそのうちの女の子を連れてきて、いろいろ教えて引き継いでやってほしい、という。さっそく配給物資の補給、洗い場の清掃、炊き出しの手伝い、古着の仕分け、トレー作り、小袋への仕分け、使える袋や段ボール集めなどなどを伝える。生協ボランティアは長期なので、避難所のテントに泊まる、と言っていた。

 夕方、一人のおばさんが段ボールをもらいに来た。体育館の窓が寒くて、新聞紙を貼ったがまだ寒い、という。

 区役所へ戻り、2階の張り紙を見て回る。電車の開通区間や代替バス、臨時の海上交通(関空や大阪行き)、港までのバスなどの交通手段情報がある。仮設住宅当選者も貼り出されていた。ほとんどが年寄り(60歳以上)だが、まれに30代の女性、40代の男性もいる。優先基準も貼り出されており、60歳以上のみの世帯、母子家庭、障害者、幼児のいる家庭、となっていた。中年夫婦も見に来ていた。「当たっていないか、もう一度見よう」と男性。この時間になっても見に来る人がちらほらおり、「30代の人が当たっているのにねえ」などと口にしては去っていった。電話のところでは、おばさんが「仮設、だめだった」と誰かに話している。その脇には「今日神戸に着いたのー」とあちこちの友人に電話をかけている若いボランティアがいる。

 9時頃2階に戻る。まだあかりの着いたカウンターには、罹災証明について問い合わせているおじさんがいた。そういえば避難所でも、おばさんたちが、どこそこで罹災証明を取ったほうがいい、それがあると見舞金がもらえるから、と話していた。
 ソファに行くと、座っていた男性が携帯電話で「○○テレビのXXですけど、何とかさんに取材申し込んだんですけどかんばしくなくて」と話している。その奥では女子大生ボランティア4人組がリンスはどれがいい、シャンプーはどれがいい、と話しては歓声と笑い声をあげている。

 やはり3階に移ったほうがよさそうだと移動する。カウンターの中からは「○○テレビの人が来ているから言動に注意するように」という声が聞こえる。「もうみんな帰って来たか」「XX中学の某さんがまだです」「あの人よくやるなあ、いつも12時近いからなあ」「ええ、朝も6時からです」
 ボランティア受付コーナーの隣では、小柄なおばさんが椅子をつなげて寝ていた。彼女もボランティアだろうか?一旦、トイレに行く。そのとき、そのおばさんも来た。「ボランティアですか?」と話し掛ける。いや、行方不明者を探しに外から来た、という。今晩は区役所に泊めてもらい、あした警察の人が来て一緒に探すという。おばさんは諦観の漂う静かな笑顔で話す。そして「あなたはどこから?」と聞いた。
 カウンターの中では、ある避難所の長期ボランティアについて、彼は避難所で認められているのか、色々問題が起こっているようだが、個人的に仕切っているようならそろそろ帰ってもらおうか云々話している。ふと、生協の子は頼りになりそうなので、最終日の明日は早めに切り上げて長田区以西を見てこようか、と考える。

 どうにも眠れないので、大通りに出て六甲の方向へ歩いてみる。六甲の山並みが黒く夜空に浮かび、その中腹に灯りが輝いていた。転勤で住んだ子供の頃、家の窓からよく見た山並みだが、中腹の夜景がこんなに美しく見えるとは、本来なら山から神戸の夜景を見るのに、と思いつつ、しばし見とれた。もう少し近づこう、と横道を入る。崩れた家屋の間にはさまった駐車場に、テントが一つ張ってあった。ろうそくの光と、神棚のようなものとお供えがその中に見えた。テント脇には「私はここにいます」という紙に氏名が書かれ、貼られていた。

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最終日

執筆日:1994/2公開日:2003/4/2

 朝、配給品で朝食をとっているとき、隣に座った男性二人と話す。某工大の建築の先生で、二週間前に一度、建物の危険度測定に来た、でもそのときはノウハウがわからず手間取り、大変だった、それで今回、友人の建築士と一緒に来たという。何人かの建築士がボランティアで2,3日滞在し、判定を手伝っている、行政のオフィスで写真判定で全壊か半壊かの判定を行う作業も行われるようになり、はかどると思う、と言っていた。

 9時に避難所へ行くと、生協ボランティアの子が「お早うございまーす」と元気な笑顔を向けた。朝はパンの配給だったんですよー、等々話してくれる。
 昨日窓のそばが寒い、と言っていたおばさんが気になり、彼女がそう言っている、ということは他の人も寒いのではないか、と体育館へ行く。窓際は出かけて留守の人も多く、よくわからない。何となく気になって職員と校長に話した。すると校長は、あるボランティア団体がおいていった断熱マットが大量にあるから、あれ布団の下に敷いたらどうだ、と言い、取りに行った。「これを下に敷きや。ぬくいで」と言い、おばさんたちもおおきに、と言いつつ敷き始める。いない人の分は男の子たちがどんどん敷いていった。生協ボランティアとマットを運ぶ手伝いをする。

 一段落ついたところで、校庭に出ると、お風呂の給水タンクの上からいつもの中学生が「やあ!」と手をあげた。そして下りてきて「この格好見て」という。毛糸の帽子、グレーのセーター、紫を帯びた紺色の細身のパンツ、足元にはレッグウォーマーまでして今の子っぽく決めている。「ぜーんぶ、古着だよ」

 この日の炊き出しはたきこみご飯で、戦場のように忙しかった。姉さんが音頭をとって大釜3つにご飯をたき、大鍋に移して酢をまぜる。これが力仕事。3グループに分かれ、おじさんも自主的にやってきて、瓶詰めをあけて中の具を出してくれる。具を入れて再びかきまぜる。急に姉さんが「その瓶は次の分!もうおっちゃんええわ!向こう手伝うて!」と券を受け取り配給するほうを指差す。もう配給が始まっており大勢詰めかけている。おばさんたちは「あのおっさんいつもめちゃくちゃするんやわ」「かえってじゃまになる」と平気でポンポン言う。おじさんはのそのそ移っていった。なんだか皆とても個性的。関西だからか、こういう状況だからか。
 この日は配給順を巡った混乱はなかった。校長が炊き出しを30分早め、外の人が来る前に中の人に配ることにしたためだ。外の人が来ても断らず、その代わり「皆もらったか」と体育館で聞いて回っていた。さいごに姉さんがお釜のおこげを「これがおいしいんや」をそぎ落とす。
 こうして戦場のような炊き出しは終わった。皆でおこげを食べていると、「ちらし寿司ある?」と一人のおじいさんがやってきた。「もう終わった」と校長。「終わっちゃったの」「おこげならありますけど。いいですか?」と見せる。それでいい、と持っていった。そういえば、昨日今日とあの帽子のおじいさんを見かけないな、とふと思った。

 昨日決めたとおり、早めに挨拶をして出ることにする。校長と職員、生協ボランティアにだけ挨拶をして出ると、生協ボランティアの子がやってきた。彼女も男性スタッフと一緒に外に出るという。「少し息抜きしようと思って、元気村行ってきます」途中まで一緒に行き、昨日みつけておいたバス停で代替バスに乗る。来た初日と異なり、バス専用レーンはほぼ守られてすいすい走った(土日だったため渋滞していたのかもしれない)。あちこちに警官が立って整理している。車はぎりぎりに走ってくるし排ガスも多く大変な作業だ。
 長田区役所にいたおじさんが話していたところへ行ってみよう、とJRで鷹取駅に出る。兵庫駅を過ぎたあたりから線路が崩れ、上りと下りの使えるところをつないで単線で運行していた。かなりの徐行。あちこちに火事跡が見え、新長田駅周辺は一面焼け野原、駅舎もなく、通過した。駅を下り三宮方向へ向かう。一面に焼けたところでは路地は見えず、大通りしかない。通りを挟んだ逆が焼けていないのを見ると、大通りが消火帯になっているのがよくわかる。当時言われていたが、本当に写真で見る東京大空襲あとのようだった。
 空が暮れなずみはじめる。サイレンが聞こえた。消防車が東からやってくる。あれ、と見るうちに10mほど先に停まった。「あ、火事や!」回りにいる人たちも騒ぎ出す。確かにこげくさい。さらに2台消防車が来た。周囲から走って見に来る人も多く、にわかに騒然としてきた。

 代替バス乗り場へ行くが、依然JR駅行きは200mで2時間待ち、阪神も150m、阪急へ行っても同じくらい並んでいた。それなら歩いて一つか二つ先の停留所で乗ろう、と早足で歩き出す。大通りの混雑を避けるため、街中は裏通りを行く。同じ考えの人は多いようで、リュックの若者から鞄を持ったサラリーマンまで、けっこうみんな歩いている。そして足元にはスニーカー。一つ先の停留所は混んでいたので、灘の停留所で待つ。しかしいったん早足で追い越した人たちが、停留所で止まらずに再び追いぬいて行く。十分待ってもバスは来ない。十分間隔で動いているはずで、しかも3社分あるはずなのだが。仕方なく再び歩き始める。斜めのバイパスを北へ進むが、国道を直進してゆく人も多い。
 また臨時停留所があった。このあたりなら途中下車の人もおり乗りやすいはず、としばらく待つがやはり来ない。脇の水道でバケツを洗っているおじさんに、バスはここで待っていいのか聞くと「私にはわからん。さっきも何人か待っとったけどね」。その脇を背広姿の男性、スーツの女性、若者らが再びもくもくと追い越してゆく。ちら、とバス停のプレートに目を向ける人もいたが、みな立ち止まらない。再び見限って歩き始めた。元気村を越え、倒壊した住吉神社を越え、やっと前方に、数日前に開通したばかりのJR住吉駅が見えてきた。歩く人の列は、だいぶ途切れ途切れになってきてはいたが、それでもまだ駅まで続いていた。

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ボランティア日記その2:[マザーテレサの施設にて]


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