その2
マザーテレサの施設シシュバハンとプレムダン
午前中はシシュバハンでボランティアをし、いったん昼事をとりにYに戻ったあと、午後プレムダンへ通う毎日だった。ただし、日曜はボランティアは休み。両施設とも、シスターやブラザー以外にワーカーのようなインド人が何人も働いており、基本的にはボランティアなしでもやってゆける体制になっている。プレムダンへは最初、歩いて通い、シシュバハン片道25分、プレムダン同45分で大体毎日10キロ前後歩いていた。その後プレムダンへはトラムやバスを使うようになり、だいぶ楽になった。
朝のミサは早いのでたまにしか出席しなかったが、マザーハウスでの夕拝にはできるだけ出るようにしていた。そのほうが、気のせいかもしれないが、シスターたちも白人たちも親しくして、受け入れてくれる感があった。
シシュバハンは孤児院で、その中の身体障害児の部屋に通う。朝ベッド掃除をしたあと、食事の介助とおむつ替え、遊び相手が主な仕事で、当時部屋には20人くらいの子供がいた。年齢は赤ん坊から15歳くらいまで、通っているうちに子供たちも慕ってくるようになり、小さい子とは片言のベンガル語や英語、ボディーランゲージであれこれ話したり笑って遊ぶ。年嵩の子とは手拍子遊びをよくやっていた。精薄の子、肢体不自由の子の両方にとって訓練になるらしい。一度年寄りのシスターが、この子は親がいる、この子はいない、昔は捨てられている子供を拾ってきたが、今は親がここの存在を知っていて連れてくる、と説明してくれた。
小学校3,4年くらいかと思えるサミュエルは脳性麻痺のようだった。体が不自由で言葉も最初は聞き取りにくかったが、よく聞くとボランティアに対しては英語をしゃべっている(もちろん子供同士やインド人シスターたちとはベンガリ)。教育を受けているわけでもなく、入れ替わりの激しいボランティアから聞いて覚えたと思われ、かなり頭のいい子なのではないかと思った。ただその分、難しいところもあった。頭がいいのに体がきかないのは、かなりつらいものがあるだろう。ときどき苛ついて泣くことがあった。彼より年上の子はあと二人いたが、二人とも重度の精薄で、そうした精神的な難しさはなかった。一人好きなシスターがいるようで、食事の介護は彼女にしてもらいたがった。いかにも厳格なクリスチャン、というボランティアだと大人しくそのまま介護されたり、やり方が気にいらないと泣いたり反抗したりしたが、インド人シスターや私には「彼女を呼んで」と言う。最初恥ずかしいのか、思わせぶりにあごで彼女のほうを示してみせたりして、その様子がかわいい。
シマとウシャとラジュは軽度か中度の精薄と肢体不自由だった。それはお互いわかるようで、いつも3人で一緒にいた。一人にジュースをあげると「ウシャにもこのジュースあげて」、「ラジュやシマにもこの被り物かけてあげて」と言う。ウシャは小学校2,3年くらいの少女、足が棒のように細く、一人では歩けずつかまり立ちも無理だが、明るくとてもお転婆。両手をしっかり持って支えてやり立たせると、楽しそうにパタパタ足を動かして歩く。彼女はこれが好きだった。歩いたり走り回りたいらしい。普段はお尻をおとして手でこいで移動するが、それがけっこう速い。そしておしゃべり。いつもニコニコ笑ってボランティアやシスターに話しかけ、眼鏡、新しい服、飾り、何にでも興味を示す。ただまとまった文章は話せない(ベンガリも同様)。ボツボツ単語を発し、ボディランゲージでつなげてしゃべる。ラジュはもう少し年下の少年だが落ち着いている。哲学者のようで、いつも一人でぶつぶつ何か言ったり歌いつつ一人遊びしている。彼は歩けないが、つかまり立ちはできる。あまりしゃべらず、指示に対しては、わかっているのかいないのか判然としない部分もあるが、「ウシャにもこうしてあげて」「シマにもあれあげて」と言う事がある。人をよくみていて、思いやりは一番ある。シマは幼稚園ぐらいに見える(実際はわからないが体も小さい)男の子で、3人の中では一番精薄の度が強いように見えた。ただ彼が一番歩けて、ぱたぱた不安定に走ったりする。ぼんやりしていていることもあるし、お互い手で叩いたりコミュニケーションをとって遊んでいることもある。言葉は話さないし、他の子の気を使うこともない。
ウシャは活発な子だが、時折とても寂しそうな顔をした。最初ラジュがわざとウシャにジュースをあげたがらず、ボランティアもウシャは先にもらっているのでだめ、と言うと、はじめはだだをこねていたがそのうち大人しくなり、ぼんやり外のほうを眺め始めた。ラジュもその変化に気づいたのか、「ウシャ、ウシャ」と自分でスプーンですくってあげようとする。それでウシャにももう一杯ジュースを持って行くと、そのときはこっちを向いて飲むが、全体的に沈んだ寂しげな様子のままだった。
プレムダンへの道は遠い。銅像のあるロータリー、パークサーカスまで来ると、いつももうすぐだ、と思う。ここにトラムの車庫があり、トラムを利用するようになってからも、ここから歩いた。ここを過ぎるとブリッジN04があり、その橋を越えた先にプレムダンの施設があった。
ここは有名なカーリガートの「死を待つ人の家」で生き残った人たちが収容される施設という。病人や老人が多いので、水や食事の介助や、患者の話相手になることがおもな仕事だった。夕方5時には出てください、このあたりは暗くなると危険だから、と言う。たいてい4時過ぎに夕食が始まり、最後食器を洗って出るパターン。そのせいか、ボランティアはほとんどいなかった。一度来ても「ここは何もない、ボランティアは必要ない、つまらない」とみなよそへ移ってしまう。やはりカーリガートが一番人気があり、みな行きたがった。この年の冬続けて通ったボランティアは(午後の場合)、あとに紹介するフランス婆さん以外見なかった。通っていたところには女性しかいなかったが、男女で病棟が分かれていたのか、男性用施設がほかにあるのかは確認していない。
(注:プレムダンの項で書く人名は、場合によって仮名にしてあります。差し支えのある可能性もあるため。また欧米風の名が多いのは、実名もクリスチャン風の名だったためです。)
プレムダンでは人と話すのが楽しかった。人と話すたび、翌日行くと「アンティ(おばさん)!」と駆け寄ってきてくれるところがあった。
工場跡地だという建物の内部には、ベッドがずらりと縦横何列にも並ぶ。基本的に自分の持ち物はほとんどない。寝たきりの人も多い。一方、比較的元気な人が他の患者の面倒を見て助け合っているようなところもあった。目の不自由な人も多く、白く濁った目をしていたり、完全につぶれていたりする。そうした人を他の患者が手を引いて庭まで連れて行き、トイレに案内した。外に出られる人は、午後はたいてい庭に出て三々五々座っていた。庭は広くて木も多く、気持ちよかった。一方、ベッドに起き上がったり歩けるが、外には出ようとしない人もいた。
いつも「アンティ!」と不自由な足で駆け寄ってくる坊主頭の女性が、クリスマスにマミーとダディーが家へ招いてくれる、と言った。すると同じく入所者のマリアが、いや、来ない、今まで一度も来たことがないのに来るわけがない、そう考えているだけだ、でも来ないんだから考えるのをよしなさい、と言った。押し問答の末、坊主頭の女性は泣き出した。マリアは涙を拭ってやりながら、この人の実母は死んでしまって継母だ、実父もこんな重病の娘をここへ置いていったきり一度も会いに来ない、クリスマスだからと来るわけがない、と言った。
マリアは、自分も大病をした、どうして夫が面倒をみきれる?それでここへ来た、3人娘がいるがサインをさせられ、子供たちはマザーテレサにとられた、と言った。She took my daughtersと言ったとき、彼女の顔は怒りに痙攣していた。"I'm laughing and talking now, but that's why I'm crying sometime"と言った。夫は毎週日曜に会いに来るという。娘たちは施設で育ち、上の二人は結婚し、一番下は学生だと言っていた。
歌の好きな人は多い。坊主頭のローラも、Bring back Boneyを何度も繰り返しよく歌っていた。杖をついたうつむき加減の若い女性が、隣に来て歌ってくれという。隣に座ると急に顔をあげ目を見開き、白く濁った目をぐりぐり動かしてみせた。たぶんいつもこうやって、新しいボランティアを試しているのだろう。よーし、と思い手を握って昔はやった五木の子守唄を歌った。すると彼女もベンガリの歌を次から次へと歌う。彼女は新しいボランティアが来ると必ず、白く濁った目を動かして「ハロー、ハロー」と言ってみせた。しかし基本的に話し好きで、よくすっと隣に来て腕を組んできては、ベンガリで一方的に話続け歌を歌う。
寝たきりで、そばを歩くと必ず呼び止め「パニ、パニ」と言うお婆さんがいた。水を持ってゆくとthank youと言っておいしそうに飲む。しばらくして通りかかるとまた、パニ、パニと言う。あるときシスターから「彼女は寂しがっていつもパニパニ言うだけなので、あまり水を持ってゆかないで。そのへんにこぼしてしまうから」と言われた。
やはりベッドから動けない入所者の一人に、象皮病の少女がいた。まだ10代か20代始めと思われ、片方の足が健康な足の5倍近い幅があった。昼間は上半身を起こして座り、長い髪を梳かしながら歌を歌っていた。話好きなようで、歩ける他の入所者のおばさんたちがしょっちゅう回りに来てはおしゃべりしているのを見かけた。ベンガリしか話せないようなのでほとんど話さなかったが、一度ココナツオイルが欲しいと言われたことがあった。
やはりいつもベッドに座っている東アジア系に近い顔立ちのお婆さんがいた。親近感を感じて声をかける。彼女はネパール人だった。多少英語が話せるので、ときどき話すようになった。あるとき、彼女は私を呼びとめ、small small moneyをくれと言った。10ルピー、7ルピーでもかまわない、いい食事がしたい、ここのはだめだ、と涙を浮かべて言う。応じるわけにはいかなかったが、シスターに言うな、怒られるから、と言った。
いつも涙をためたような目で寝ている、黒いドラビタ系の顔立ちの少女も、目があうと熱にうるんだような瞳でスモールパイサ、と手を伸ばした。下あごのないお婆さんも、手まねでお金を求めた。どこへも買いに行けないのだが。
よく一人で座って、ぼんやりした様子で何か歌っている女性がいた。あるとき隣に来て、私はsuicideを図った、と深いくびれの残る手首を見せた。彼女はほとんどベンガリでそのときの話をする。家族の面会が許される日があり、この日は女性の妹が付き添っていた(家族も5時には施設を退出する)。妹もほとんどベンガリなのでよくわからなかったが、husbandがどうこう言っていたので、おそらく夫のことで自殺を図ったらしい。
いつも悲しい目で黙って座っている坊主頭の女の子がいた。ある日、彼女が私のベルトポシェットを見て初めて興味を示した。そこでポシェットをはずして渡すと、手にとってしばらくながめたあと、また返してはじめてにこにこと笑った。これで彼女と話すきっかけができれば、と思う。
プレムダンでは、毎日シスターたちと一緒に食器洗いをする。シスターはほとんどインド人で、皆陽気で働き者、ときどき口論もしている。食器洗いには、ごみを燃やした灰を洗剤に、食べ終わったココナツの繊維を干したのをたわし代りに使っていたが、これがなかなかの優れもので、けっこうよく落ちる。日本でも昔灰で洗い物をしたと聞いたことがあるので、いざというとき便利かもしれない。
ときどき、プレムダンのトップのシスターがサリーに青い線が入ったシスターを連れて施設を案内していることがあった。青線の入ったシスターは位が上で、マザーハウスから見に来たのだという。マザーテレサが来たときもあったが、朝教会にだけ寄りこちらには来なかった、と入所者が言っていた。
ある日、施設の一番上のシスターがマザーハウスに戻る、とのことで、皆で花輪をあげたり、額づいて足にふれ挨拶していた。これらの挨拶は普通のインド人でも子供が親に対してなど、よくやっているのを見かける。基本的に、Misshonary of Charityはかなりインド文化を取り入れ、インド化されていると感じた。
ボランティア仲間
ある晩、また女学生たちが夜遅くまで話したり笑ったり、ドアを乱暴に開閉して廊下を走り回っていた。この日はステラが出てゆき、「シーッシーッ」と言った。ステラは怒ると顔が怖いので、女学生らはたちまち部屋へ駆け込んでしまった。
翌朝、女学生らがベランダで「あのおばさん、シーシー言って注意したよね」という感じの話をベンガリでしているらしく、「シーシー」口真似しつつケラケラ笑っている声がした。するとステラがドアを開け「Excuse me」と言った。女学生らはきゃあー、というような絞め殺した声で悲鳴をあげ(これがおかしかった)、でもイングリッシュじゃないよベンガリベンガリ、等々口々に囁きつつ部屋へ駆け戻った。白人たちはインド女学生はawefulと言っていた。
こんなこともあって、ステラと女学生らの仲が悪化した。またステラはインドの気候も食事も合わない、路上生活者を見るのがつらい、マルタは豊かな国ではないが、これほどでもないという。オーストラリアに弟がいるのでもともとクリスマスをそこで過ごすつもりだったが、予定を早めて航空券が取れ次第、オーストラリアへ向かう、と言っていた。
ステラは英語がさほど流暢でなく、イギリス人やアイルランド系の多いYWCAの外人グループの中で、多少浮いている感じがなきにしもあらずだった。そのせいか私に親切なところがあり(単に英語を母国語としない者同士はしゃべるスピードも遅く語彙も少なく、わかりやすい、というのもある)、メッセージを取り次いでくれたり、近くの店で買ったというケーキを一緒に食べないかと誘ってくれたり、食堂やベランダで話す機会も多かった。そうした雑談で、彼女は私を評して「あなたは何でも経験してみることが好きなのね」と言った。確かにここへ来たのもそのとおりで、鋭いなと思った。
彼女は12月はじめにオーストラリアへ旅立って行った。部屋の前の住人が残していったバケツを私が羨ましがっていたことをちゃんと覚えていて(洗濯に便利なのだ)、プレムダンから戻ると私の部屋のノブにぶらさげておいてくれてあった。
シシュバハンに来ているフランス婆さんが、プレムダンにも行きたいから案内してくれ、3時にホテルパラゴンに来てくれ、と言う。彼女はほとんどフランス語しか解さず、耳も遠いので、かなりコミュニケーションが難しい(「プレムダンプレムダン、3時、ホテルパラゴン、OK?」という感じ)。しかしシャカシャカ元気で、独特のキャラクターだ。
パラゴンもカルカッタの安宿として有名なホテルだったので、興味もあり行ってみる。最初、パラゴンに泊まっている白人は、Yとかなり違う気がした。赤く日焼けし、ラフな感じがする。ヒッピー寸前(すでにヒッピーか?)という感じで、目がギラギラした男性や、うす汚れた感じの女の子がいたりする。フランス婆さんはそんな中でも、我が道を行く、で通しているようだった。
婆さんはパークサーカスまでの近道を知っているとかで、かなりの裏道をすたすた行く。時折その辺のインド人に金歯の見える独特のニカッとした笑顔でハロー、と声をかけるが、立ち止まらずそのままずんずん行く。外人目当てのインド人も近寄る間合いがとれない。
施設ではよく働く。シシュバハンでは、なかなか食事を食べない子を上手にあやして食べさせてしまう。いつもどうやって食べさせるかに苦労していたので、そのやり方になるほどと感心した。プレムダンでも、粗相をした老女を上手にあやしつつ服をさっさと替えさせる。おそらくこのとき皆の爪が伸びていることに気づいたのだろう、次回一緒に行ったときは爪切を持ってきて皆の爪を切ってあげていた。このほか老人にスプーンで食べさせたり、次から次へと仕事を見つける。介助はとても有能だ。別れるときは思い切り抱きしめてキスしてくれる。嵐のように来て嵐のように去ってゆくところがあった。
2回目にパラゴンに行ったときは、こじんまりした家庭的なホテルかも、という気がした。12月中旬に入ったせいか、日本人もそろそろ増え始めており、パラゴンにはフランス人と日本人だけ、という感じがあった。フランス人も固まってフランス語を話す傾向がある。婆さんにもアフィーという友人ができており、二人はここにいる日本人、ノブユキともう一人はとてもいい日本人だ、今度彼らと一緒に身障者の作業場へ行ってみよう、と言う。
朝9時に救世軍Room No.8に集合してアフィー、ノブユキ、フランス人2人の計5人で、パークサーカスの近くにあるANKUR KALAに行く(婆さんはこのときホテルでお休み)。ここは貧しい人、特に夫と死別したり夫に逃げられた女性のためのバティック工房で、インド女性アニーが代表を務めるNGOだ。最初この婆さんがノブユキをここに連れてきたそうで、彼女はもともとフランス人の団体で来ていて、マザーテレサの施設をあちこち回ったことがあり、それで色々詳しいのだと言っていた。
12月に入った頃、YWCAにフランス人ミシェルが来た。40代後半の、とても礼儀正しく女性らしい人で、敬虔なカトリック信者のため、施設でのボランティアよりも朝夕のミサを優先させていた。たびたび夕拝の行き帰りに一緒になったが、あるとき「あなたの分のケーキがあるから一緒に食べよう」と誘ってくれた。食欲のないときも、「部屋にブラウンブレッドとソーセージのストックがあるから、食べたければ分けましょう」と言ってくれる。
食堂で食事をするときは、よく彼女と一緒に食べたし、昼や夜、ベランダの椅子で話すことも多かった。
ミシェルがカーリガートに行きたい、と言うので、一度一緒に行ってみる。シシュバハンなどは10時からだが、カーリガートは7時半からボランティアできるそうで、8時の朝食を手伝えるらしい。Yのボランティアの話では、8時3分の地下鉄に乗ると8時半につけるという。
カーリガートではまず、患者の体を洗い、ベッドを拭き、パウダーを塗ったり薬をあげ、昼食の介助、という段取りで仕事をしていた。このときは日本人ボランティアも大勢おり、数が多いので手持ち無沙汰な感じもあった。
カーリガートの帰り、乞食を見かけたミシェルは、ベルギー人の神父から聞いた話として、インド人は現世が悪い状態なのは前世に悪いことをしたからだ、だから今善行を積んで来世をよくしようと考える、彼らはいくつも人生があると考えている、だから今の人生をよくしようとは、なかなか考えない、という話をした。また、よくインド人から、キリスト教徒がよくないからキリスト教を信じない、と言われる、だから私たちキリスト教徒はそのことを真剣に考えなければいけない、とも言っていた。
クリスマスの近づいたある日、彼女が北インドのカメルに一緒に旅行に行かないか、と言った。彼女はカルカッタはほこりっぽく体に合わない、カメルは山に近い空気のきれいなところで、ベルギー人神父さんが薦める保養施設がある、しばらくそこで休みたい、と言う。
パークストリートの交差点。この角によくボランティア仲間で行ったフルーリースという有名なケーキ屋がある(わかりづらいが赤い警官ボックスの左)。この交差点を左へ行った先がYWCA。
寮のインド女学生たち
インド人女学生らは、よく気軽に声をかけてきた。大声でしゃべったり廊下で騒ぐこともあるが(YWCAの人々やボランティア仲間の項を参照)、基本的に良家の子女という感じで信頼できる子たちだった。白人と話しているのはほとんど見かけなかったので、東洋系の顔だと話しかけやすいらしい。
彼女たちの親はツイン部屋1日40Rs(一人分かツイン料金かは聞いていない)を払っていると言っていた。これはインドでは結構な金額。自分たちは中流だ、中流が一番教育熱心だ、でも人口が多くてカレッジを卒業しても役に立たない、という。街中でよく見かけるサリー姿に長髪を団子にしたインド女性と異なり、みな洋装でパンツルックだったりする。髪の短い子も多く、マニキュアもしているし、当時流行っていたマイケル・ジャクソンもマドンナも勿論知っている。
お姉さんタイプのアンジェリー、スリムで今風、おしゃれなサンギッタ、大人しく控えめなニノ、とだんだん個々人もわかってきた。アンジェリーはよく、適正価格を教えてくれたし、ベンガリの単語も教えてくれた。やはりパニ(水)、パニ、と寝たきりの老人から言われても、パニが何かわからないと手伝えないのだ。サンギッタは軽い雑談によくつきあってくれ、妹のようにかわいいところがあった。恋愛がらみの話が大好き。
クリスマスが近づくにつれ、女学生たちは「クリスマスを盛大にやろう」と言う。
中に、バングラデシュから来ている女学生がいた。お母さんと一緒に住んでおり、カーストが高いのか何なのか、使う英語が命令形になるところがあった。インド人女学生らとはほとんど交わらず、いつも一人でいるかお母さんと一緒だった。基本的に電熱器を使って廊下の電源で(各部屋に電源はなかった)自炊していた。バングラ女学生ジュムもインド女学生らを嫌っていた。「彼女らはthiefだ」と言う。一方、お嬢さんというか、貸したコイルヒーターを水が蒸発したままつけっぱなしにして焦がしてしまったり、というところもあった。
日本人がYWCAに増えてきたとき、友達がほしいのか、よく通訳してくれと頼まれた。いわく、買ってきたサリーを廊下の机の上に置きっぱなしにしていたがそれはとても危険だ、サリーを150Rsで買ったというが50Rsで買えるところを知っている、部屋を出るときは鍵をかけろ、Yの食堂は高いから外の安くておいしい食堂を教えてあげる、買い物は一人でゆかず現地の事情をわかる人と一緒に行け、そしてthose Indian girls are thief, thief、私はパンティを3枚、母はサリーを盗まれた、と言う。サンギッタたちは、スプーンなんかをそのへんに置いておくと、そのまま使ってしまうところはあるが、盗んでいる感覚はないと思う。しかし、ジュムは彼女たちを信用していないようだった。
そしてこういうとき、ジュムは早口の英語でまくしたて、「Tell her!」とあごでしゃくるようにして言う。最初はいい家のお嬢さんでこういう態度しかとれないのだろう、と考えていたが、いくらこちらも英語が母国語でないとはいえ、毎回毎回これだと、だんだんカチンとくるようになる。
施設やマザーハウスの行き帰りに良く通ったリポン通り(写真は1997年)。