イ  ン  ド  滞  在  記

( コ  ル  カ  タ )
マ ザ ー テ レ サ の 施 設 に て

その3

もどる    つづく

食事のはなし

 風邪の治りかけたある晩、どうしても中華そばが食べたくなり、道すがらみかけた中華料理店HowHuaへ行く。味も懐かしい食べなれた味、何よりも会計のところで熱心に計算している頭のはげた、いかにも東洋系のおやじ、という姿を見たときに、なぜか涙が出るほど嬉しかった。どうもおなかの調子が悪いのは、風邪など病気のためではなく、食事(香辛料か油)にある気がした。というのは、HowHuaで食事をしたら、ぴたりと下痢が止まったからだ。YWCAの食事もおいしいが、やはりどこかマサラ味なのだ。
市場  中華料理の件から、ある程度自炊にして体調を保つことにした。ボランティアの行き帰りその他であちこち見て回っているうちに、野菜など生鮮食料品の市のたつ通りや、電化製品の店の並ぶ通りなど、専門店街の場所が大体わかるようになってきた。基本的に品物はバザールではなく、こうした地元民向けの市か専門店街で買うことにする。まずはBBD.BAGの北にある電化製品街でコイルヒーターを買う。そして近くの金物店で大型のマグカップを購入。

 (左写真:市場の魚をさばく縦置き型の包丁に注目。)

 朝はたいてい、パンと野菜スープ、ミルクをとった。朝食用のパンは、インド人クリスチャンの女性から教えてもらった店でミサやプレムダンの帰りに毎日買った。彼女は、このほか地元の人がよく行く安い中華料理屋も教えてくれた。その店の中に入ると、中華街でもないのにけっこう中国人がいる。みな広東語を使っており北京語はだめとのことだった。当時インドでも中華はヘルシー、と人気が出はじめており、焼きソバの屋台もあった。ただし屋台の味は例のマサラ味。

 お昼は中華料理屋でチャーハンを買ってYに戻って食べたり、自炊したりした。白人たちはYの食堂で食事したり、カリンポンのケーキやヘルシーストアで買うチーズとビスケット(一食分25Rsくらいする)をよくかじっていた。ボランティア仲間で店に行くこともある。シシュバハンで知り合ったロンドンの看護婦という女の子が、ブルースカイカフェで食べないか、他のボランティアの子たちも来ておしゃべりしている、というので、サダルストリートへも何回か行った。あるいは近くにおいしいケーキ屋があるからそこへ行こう、とパークストリートのFluriesにも何度か通った。1ピース3〜5Rsくらい。日本人ボランティアたちもフルーリースと、シアルダーそばにあるグプタというケーキ屋でよく買って食べていた。ただグプタは、年明けに従業員がストライキに入り、しばらく買えなかったことがある。このあと知り合ったインドに長期滞在している日本人達は、フルーリースとキャサリーンのケーキをよく買っていた。私は個人的に、シシュバハンやマザーハウスへ行く途中、Ripon通りの入り口近くにある菓子店のインド菓子が好きでよく買っていた。ココナッツ味でかなり甘いが、慣れてくるとおいしい。一口サイズの水気を含んだ感じで、チャイによくあい、インド女学生らも大好きでときどきおすそ分けした。カルカッタを離れるときには50ルピー分お土産用にどっと買いこんだ。おじさんは淡々と100個のお菓子を箱に詰め込んでくれた。

 一方、街中の地元の人の行く食堂や屋台も心惹かれたので、そこで食べることもあった。欧米人はあまりそうした店には行かないようだった。入っているのを見かけたことがないし誘われないし、こちらも誘わなかった。高級インド料理か欧風料理、安い場合はサダルストリートにある店など、外国人がよくゆく店は決まっていた。
 地元の人しか行かないタイプの店であればあるほど、インド人が興味を持って集まってきてしゃべろうとする。こういうときに、ベンガル語ができるといいなあとつくづく感じる。もっとこういう人たちの話を聞いてみたいからだ。チャパティ30〜40パイサ、ローティ40〜50パイサ、パラータ75パイサ〜1.3RS、サブジー60パイサ〜1.5Rs、マサラ味の屋台コロッケ80パイサ、マサラ味の煎り豆袋1Rs、羊肉の串焼きのプーリー巻き1.2Rs、じゃがいものスナック1.5Rs、一般的なターリー(定食)2Rs、ビーフカレー4RS、マトンビリヤーニ6Rsなど。
 屋台で売っている食べ物で、ほかにも気になるものがあった。たとえば細長い茶色の包みを5Rsでよく売っていた。食べてみると、マンゴーの干したものだったが、サンギッタやニノは買ったことがないという。
 土方のおっさんたちがよく道端で食べている、プレムダンでも使用しているようなアルミ皿に盛ったカレーは一皿2Rs。味はまあまあ。同じく道端で工事のおっさん兄ちゃんたちがよく食べている豆の粉だかを水で煉ったもの(名称不明)は一皿1Rs。辛いソースをつけてくれ、それがあると食べられるが、なくなると単調な味で食べ切れなかった。おじさんたちは2Rs分くらい食べていた。やはり高いもののほうがおいしい、というのが基本原則。決して”ぼっている”ばかりではない。普通のドアなしの庶民の店でも、そうメニューにバラエティーがあるわけではなく、皆ほぼ同じようなメニューで毎日を過ごしているようだ。その点、中華は安い店でもバラエティーがある。ただ、カルカッタでは中華は高い。安食堂でも5Rs以上はする。

市場

 プレムダンからの帰り、橋を越えパークサーカスのロータリーに入る手前に、ミルクスタンドがある。こうしたミルクスタンドはカルカッタ市内に何箇所かあり、タッパーを持参して、帰り道によくミルクを買った。スタンド前には常に5,6人並んでおり、半リットル1.55Rsでコインを買う。コインを入れるとミルクが出る仕組みで、受け口にやかんやブリキ缶を置いて受けた。持参のタッパーは1コイン分より少々容量が小さかったので、いつも後ろに並んでいる人に分けるようにしていた。加熱機がコイルヒーターしかないため、ミルクは湯煎にした。
 週に2回ほどはバスに乗ってS.N.Bernarjee Roadで降り、ここの野菜市で野菜を買う。玉ねぎ、じゃがいも、カリフラワー、人参など、よく知った野菜が売られており、朝食用のスープにしたり、中華麺の玉と一緒に煮てスープ麺にした。玉子も売っており、ゆで玉子にしたり、玉子とじにした。何軒かためすうち、玉子や野菜を買う露店は決まってきた。玉子は1Rsと少々高めだが、おじさんのものはおいしく、黄身がしっかり濃い黄色で濃厚な味だ。キャベツも2Rsと高めだが、他の地元客も大勢いて、ちゃんと量り売りしてくれる。基本的にカルカッタの玉子は、日本の玉子、有機卵や有精卵に比べてもおいしい気がした。バナナ3本1Rs、レモン6個1Rs、玉子1ヶ0.5〜1Rs、カリフラワー1盛1〜2Rs、じゃがいも1盛0.7〜1.5Rs、玉ねぎ1盛1.35Rs、青菜1盛1Rs、トマト1ヶ1Rs前後、キャベツ1ヶ1〜2Rs、人参3本1Rs。基本的に野菜は、外人だと逆にまけてくれることが多いようだ。
 夕食は自炊か買ってきたチャーハン(5〜6Rs)、ときどきボランティア仲間と行く外食。そうした店ではタンドールチキン25Rs、サラダ7.5Rs、コーヒー1杯7.5Rsとかする。

 日用品、たとえば洗濯用洗剤に女学生らが薦めてくれたSurfなどは、帰り道にそのへんの雑貨屋で買ったり、ときどきニューマーケットに出かけて塩(500g75パイサ)やChow(中華麺の玉の製品名、1玉1Rs)を購入した。マギーというインスタントラーメンもあり、3.75Rs、味はまあまあ。
 食堂や街中の菓子店などは、朝6時半か7時頃から夜8時か9時頃まであいていることが多い。みなよく働く。

市内散策

 さて、マザーテレサの施設とミサの生活もいいが、それだけだと事務的に通う感じになってきて、施設と宿の往復だけで終わってしまう。宗教的な生活を求めたり、使命感からボランティアに打ち込む場合は、そのほうがよいのだろうが、私の場合は街や普通の人の生活にも興味があった。どうしても外の混沌にも惹かれ、ついそちらに足が向く。そこで、木曜は休みと決め、カルカッタの街を歩き回ることにした。

 まずはプレムダンそばのブリッジNO4。橋の上はいつでも混雑していたが、夕刻は特にすごかった。毎日橋のたもとで杖をつき鈴を鳴らし、物乞いを求める老人がいる。橋の舗道には路上生活者の腰丈くらいの高さの黒テントが並び、女性が子供と一緒にしゃがんで七輪で煮炊きをしている。そのすぐ脇を大勢の人が右へ左へ行き交う。シシュバハンもそうだが、プレムダンでは炊き出しとときどき古着の配布があるので、人が大勢集まってきていた。マザーテレサの施設の回りは、いつも何かを求める人でいっぱいだ。

ブリッジNO4    駅
ブリッジNO4とパークサーカス駅(1997)。当時はこの橋の上に常時、大勢の人がたむろっていた。

 橋の下に駅があり、線路の両側にスラムが広がっていた。駅のそばに井戸がある。少年がバケツ一杯の水を汲みにやってきた。彼は何度も来ては、水を入れたバケツを頭に乗せてスラムへ戻ってゆく。井戸端で足や体を洗ったり、たむろっている兄ちゃんたちが、手漕ぎポンプを押してあげたり、バケツを頭に乗せるのを手伝ったりする。女性たちも来て、お互いポンプを押して助けあっている。駅の人はじょうろに水を汲んで土手にまいていた。やはり何度も水汲みすることになるが、急がず、生活用水や体を洗う人を優先させて待っていた。
 この駅から1駅乗ってシアルダーまで行ってみた。扉のない鈍行車両で、中は混んでおり、バスと同じく出入り口にはみだしてつかまっている人も多い。すれ違う際など、よく怖くないなと思う。バスでも、わざと体いっぱい手も広げて 楽しんでいる人を見かける。動いているバスや電車に飛び乗ったり、みなけっこうはしっこく、中国で見かけた”むしろ” は滞在中一度も見なかった。ただし、女性たちは違う。ひらひらしたサリーを着ているので、バスもトラムも女性が乗るときは完全に停車して車掌も気を使う。彼女たちは日本や韓国のようなタイプの女性とは異なる。カルカッタでは、電車やバス、トラムに女性優先席があるのだが、そこに男性が座っていると、ここに座るのは私、とはっきり要求する。譲られても当然、という感じでツンとしたまま。よく言えば媚びないし、西洋女性のようでもあり、気取っているようにも見える。キラキラする鼻輪、イヤリング、腕輪、ネックレスをつけていることも多く、ということはその手のスリはいないらしい。

 カルカッタの街は同業の店の並ぶ通りが多く、おもしろい。マハトマガンジー・ロードの南は、紙屋、傘屋、カード屋、トランペット屋が並んでいた。中華街近くには時計屋ばかりの並ぶ通りがあったし、シアルダー駅からちょっと入ったガングリロードには金の宝飾品店の並ぶ通りと銀細工の店の並ぶ通りがあり、よく見に行った。きれいな高級店から小さい細工屋までさまざまで、銀細工は大体1g6.3〜5Rsで、ある店で香炉やネックレスを買う。商談がまとまるとチャイを飲んで(これが習慣のようだ)雑談する。店の主人も奥のじいさんも、店に来ていたお客も感じがよかった。さいごにナマステ、と手を合わせてくれる。
 そのちょっと南には、インド特有の柄の印刷されたカード店の通りがあり、ここでときどき郵便カードを買った。店の前に分厚いカードサンプル本を広げた出店が出ており、柄を見て注文すると奥の棚から持ってきてくれる。最低25枚1セットから。ここでも買い上げると、ナマステと手を合わせた。

 目立たないが中華街もある。BBD.BAG北、電気製品街の先に少しある。みな見かけはぼろい家で、ものすごいバラックのそばだが、彼らは賢いからどこかに蓄えているのかもしれない。現に立派なオートバイに乗った中国人がやってきて、見た目ボロの門の中に入れていた。店も構えは汚いが、中にはストックが沢山積まれている。

 ハウラーめざして、Syam Bazarから路地から路地へと歩く。途中、トラックばかりがとまっている通りがあり、トラック野郎の街かな、と思ったり、材木街、なぜかやぎが沢山各戸口につながれている通りもある。やがてハウラー橋に出、そのたもとには沐浴場があり、牛も人も一緒に水浴びをしている。橋のたもとでバスを待っていると、8人ほどの男が竹で編んだ板に白装束に死体を乗せて、掛け声をかけつつ走っていった。
 ハウラー周辺。Grand Trunk Roadを北上する。大通りにしては田舎道。最初は商店街だが、続いて煙がもくもくの煙突が並ぶ鉄鋼工場群、日曜というのに皆働いている。Early(綴り不明) Colonyという集合住宅のようなところを過ぎると、さらに田舎っぽくなり、Belur Mathに到着。

山羊

 YWCA周辺の裏町を早朝歩いていると、ヤギを十数頭連れたおじさんに会うことがある。三々五々、それぞれヤギを連れてチョーロンギー通りのほうへ向かう。どこへゆくのか見ていると、さらに通りを越えてメイダン公園に入った。ここは芝生が多く、放牧しているようだ。こうした裏町には、解体したヤギを店先に吊るした肉屋が数多くある。
 メイダン公園をぬけカルカッタの南西方向、Kidderpore RoadからKarl Marx Saraniを歩く。水路を越えるとかなり下町的な感じになり、さらにもう一本越えてHide Roadへ折れると、大きな工場が続き、周囲も田舎っぽくなってくる。線路を越えたあたりは木々の間に家、牛、豚がいる農村でいい感じだった。

 YWCAの南側、Shakespeare Saraniの周辺は大使館やユニセフ会館、銀行、会社、政府のオフィスが多く、当時店はほとんどなかった。高層マンション街でもある。路上生活者もまったくおらず、整然としている。
 バリガンジ駅から西、カーリガート方向へサリーや服、布、毛糸を売る店が続く。途中南に折れ、Hazra Roadの周辺を行くと、世田谷杉並のような住宅街だ。Hazra Roadに沿ってずっと行き、川を越えると大邸宅街になった。このアリポアのあたりはシェークスピアサラニの南にあたる。ベルベデーレ・ロードもかなり大きい敷地を伴う建物が続いていたが、表札がなく個人宅か何なのか不明だったが、一本南のジャッジコート・ロードの邸宅街は表札が出ているので、個人宅らしい。路上生活者の溢れる一方、こうした暮らしもあるのだ。

 どうもパークストリートの北と南でカルカッタの街は変わるようだ。BBD Bagとパークストリートの間、街の中間部は道も狭く路上生活者も多い。道には人があふれ、洗濯したり水浴びしたり、食事をし、犬や子供も多い。北西は、大通り沿いは商店街で一歩中に入ると中層の建物や市場や小さい店の広がる一帯で、安アパートという雰囲気。北東は長屋のようにつながった一階屋と路地が続く。バリガンジ駅から西、街の南東は世田谷杉並のような住宅街で、きれいな中層アパート(一棟一棟距離を保って建てられている)か一戸建てが多い。たまに路上に水道があっても誰も体を洗っていないし、野良犬もみかけない、普通の住宅街。たまに子供が遊んだり歩く人がいるくらいで、一番歩きやすかった。アリポアなど南西は一戸が大きくなり街路樹がおい茂り人気がなく、暗くなるとさびしい感じだ。

 シアルダー駅からパールハーバー行きの列車に乗ってみる。1時6分発が出てしまったので、2時28分まで待つ。インド人も1Rs弱の小さなパンをかじってお昼にしたり、豆を香辛料や調味料としゃかしゃか混ぜたもの、葉っぱに乗せた豆のカレーなどをつまみつつ、待っている。何となく構内放送と勘で乗る列車はわかった。おじいさんが、右は日がさして暑い、左に座るといい、と教えてくれる。列車は停車駅ごとに乗客が増え、ついに超満員、暑くてすさまじい。周りは知り合いでもないのに新聞を読みまわししたり、立っている子供を膝に乗せたり、例の豆袋を分け合ったり、適当に和気藹々やっている。農村地帯に入ると、空気の匂いが変わった。ちょうど稲刈り時期で、すでに刈られた田が延々続くところと、ちょうど手刈りしている最中のところとがあった。みな黙々と働いている。駅に停まるたび、物売りが乗り込んできてパン、豆、バナナ、時計、飴などを売る。子供も多い。みな澄んだ大声で呼ばっている。6,7歳の子供が頭に乗せて商売している姿に、何となくエジソンの伝記を思い出してしまった。商売しているからには算術ができるわけで、その点では小学生よりも進んでいることになる。
 列車は延々農村地帯を進む。全体的にカルカッタの住人よりも貧しげで、裸の子供を抱えた母親もいるしサリーもぼろぼろだが、布は古くても洗っている感じで汚くはない。女性がものすごい大荷物を頭と背でしょって乗り込んでくる。子供も重そうな荷物をずるっと列車から引きずり下ろし、顔をゆがめて頭に乗せ、歩き出す。
 本当にパールハーバーに着くのかな、と思い始めた頃、4時半に終着駅に着いた。ここはなぜか改札の人がいた。しかし乗降客が多いので、全員ではなく目星をつけた人に切符を請求していた。
 適当に人の流れに沿ってゆくと海に到着、例のシャカシャカ豆を買って(辛いがおいしい)夕焼けを待つ。大勢のインド人ものんびり海をながめていた。ここは海の夕焼けが美しいことで有名。すっかり日が沈むと、三々五々散り始める。駅へ戻る途中、76番エスプラネード行きのバスが走っていることを発見。まずはバザールで魚フライとよく皆が食べているスープのようなもので夕食。スープはじゃがいもと豆のダールで60パイサ、これは安い。6時半にバスに乗って帰るが、男性は年寄りでも女性に席を譲ってくれる。最初は断ったりしたが「どうして座らないんだ」というようなことを言われるし、仕方なく座り続ける男性たちも何となく居心地が悪そうにしているので、座ることにしたが、これは滞在中、どうも感覚的に合わなかった。バス代は2Rsで列車より安い。しかも宿のそばの通りで降りられる。パークストリートに8時半に着いた。

 ところでこうした探索の帰り道、すっかり暗くなったチョーロンギー通りであの両腕のない少年が数人のおばさんと4,5人の子供たちと一緒に円陣を組んで座り、しゃべったり笑ったりしているのを見かけた。
 その後昼間通りに横たわる彼を見ると、うなり声をあげながら体をゆすりつつ、ときどき半分体を起こして皿の中の小銭を勘定するかのように見ていた。彼は両腕がない以外はまったく健康な少年だ。

メイダン公園      メイダン公園

日本人ボランティアたち

 12月も中旬に近づくと、YWCAにも日本人が増えてきた。やはりマザーテレサの施設でのボランティア目的の人が多く、学校が休みに入った教師や、会社を2週間ほど休んで来た人たちだが、シシュバハンやプレムダンではまったく会わなかったため、また休日も街中探索やミニバス旅行をしていたため、最初はあまり話す機会がなかった。

 ある日、シャワー室に張り紙がしてあった。日本人はカモにされている、YWCAでもそうだ、不当な扱いを受けている人もいるから、九時に話し合おう、と書かれていた。日付と時間も漢字で、インド人たちにわからないよう、すべて漢字にした、との但し書きまである(あとでアンジェリーに「これ何?」と聞かれた)。
 サーカス見物から戻るのが10時過ぎになり、廊下のベンチで話している数人を見かけ「どうだった?」と聞く。どうやら、一人がダブルからシングルへの部屋のチェンジを拒否されたらしい。チェンジを拒否された子は男に間違えられたようで(確かにボーイッシュな人)、マダムに談判に行ったら日本人だけ差別してりるわけじゃない、ダブルに一人で入っている人は沢山いる、それに今シャワー室を直したりお金がかかる、日本人はお金持っているから払って欲しい、と言われたそうだ。その話に、男に間違えられたというはずはない、男なら泊められない、と思ったが、実は彼女はよくわかっていた。
「作為的にやっているのは確実なんや」とその男の子みたいな子は言う。「ただ、今シングルありませんよ、ダブルしかありませんよ、と言われれば素直にすっと入るのは日本人だな。『えー、ほんまでっかー、あるんちゃいますか』いうて『ほならよそゆきますわ』とはなかなか言えんもんなあ」マダムは私日本人だけ差別してるんちゃうで、日本人好きやで言うとった、あまり日本人だからぼられた、言わずに、言うだけ言ったからようす見ようという。
 しばらくして彼女は”部屋が空いた”そうでシングルに移った。

 この件から日本人ボランティアたちとも話すようになった。けっこう何回も来ている人もおり、ボーイッシュなあっくんはこの年の6月に一ヶ月カーリガートでボランティアをしていた、というし、クリスチャンのカズコさんは、三冬目だという。あっくんは、6月に来たとき目の前で人が亡くなったことがある、食事の世話をしているとき、すーっと亡くなった、あの経験が大きいという。カズコさんはずっとカーリガートとシシュバハンでやっているそうて、「最初来たときは、インド人ワーカーも少なくて、ボランティア一人で5人くらい食事の世話をしていたから、忙しかった。子供も愛情に飢えている感じで。でも今は働く人も増えたし、だいぶおちついている」と言う。また、3年前にいた障害児はみないなくなっており、「どうしたんだろう、養子にでももらわれたのかな」と言っていた。
 日本人が増え、言葉を交わす人も増えてくると、どうしても夕拝の行き帰りも日本人同士になってくる。一緒に店にゆくことも増え、Golden Spoonあたりでコーヒーを飲みつつ、新宿や大阪の話、世界旅行の話で日本語で盛り上がっていると、なんだかインドにいる気がしない。

 日本人だけで店に入り、アルコールを交えて飲み食いしていると、男だけのインド人グループからちょっかいを出されたことがあった。タンドリーチキンで有名なその店には、カップルで来ているインド女性が2人いるだけで、あとはすべて男だけのグループ。他のグループもビールや酒で盛り上がってくるうち、こちらのテーブルにビールの栓が投げ込まれた。あっくんは、「インド人の酔っ払いは怖いからね、やばくなったらがまんしないですぐ出よう」と言った。タブーの多い社会は、その分爆発すると怖い。
 あっくんはインドには何度も来ているそうで、いわゆるインドにはまった一人。「核をこれだけ生産しながら、普通の人の生活からはそれをみじんも感じさせない。別に隠しているわけでもなんでもない、開放してないわけではなく開放しているのに、みなサリーやパンジャビを着ている。核も作るし医療技術も世界最先端なのに、それを感じさせない昔ならがの生活をしている。これだけ強い国ないで、これだけ豊かな国もないで、本当は豊かなんや、この国は」
 プレムダンでイギリス人女性が担ぎこまれた話をすると、彼女は日本人もよくいなくなるらしい、と言った。今日もカーリガートで国を捨てたと言って、ネパールで物を仕入れてはインドで売って生活している日本女性の話を聞いた、という。
「ものすごい腹立って、何が国を捨てたや、自分の国で生きるほうがカンタンなように見えて一番難しいんや、よその国行けばしがらみもなくなるしそら楽やで、特にこの国はひとに構わんしいつまでもいたくなる妙な雰囲気があるんや、でもすべてを捨てるなら日本で捨てろ、そしたら私も認めるで、その方がよっぽど難しいんや、よその国来て自らの国やすべてを捨ててドロップアウトしたら、そらシスター怒るわ、自分の国にいたらそれなりの生活してたかもしれん人がよその国へ好んで来て好んで世捨て人の生活してる、そのベッドは誰かほかの人が使えるかもしれんのや、好きでドロップアウトしたのと食べていかれなくなって行き倒れるのと大違いやで、その女も国を行き来しとるいうことはパスポートが生きているゆうことやないか、そんなん国を捨てたことになるか」と憤慨していた。

 教師というマリさんは逆にインドに批判的だった。その国の言語に英語が入ってくるということは、高度な文化に自国の文化が耐えられない、ということですよね、と言った。「ヒンディーも日本語も外来語が増えているということは、それだけ現代の文明に対応できていない言語だということですよ。その点、中国はすべて漢字に置き換えるから相当頑固な文化だと思う」
 また元植民地の国は宗主国から数百年ばかにされ続けてきたわけで、本当は頭いいと思うが、ばかにされ続けてきたことに慣れて甘んじている感じを、人々から受ける、と言っていた。カーストの問題にしても、人々からエネルギーは感じるのに、そのエネルギーのはけ口がなく、ぐるぐる回っている印象だ、とも言っていた。そして「マザーテレサは頭のいい人だね。着々と組織化して、自分がいなくてもやってゆける状態に作り上げつつあるもんね。シスターもブラザーも育てているし」と言っていた。
 あっくんも、初めてインドに来たときはインドが嫌いになりかけたと言う。口では「はい、チーズ」なんてにこにこして写真とりながら、机の下では足でけとばしてやることなんて、今でもしょっちゅう、と笑う。
 インド国内をあちこち回った経験のある人多く、列車で旅行しているときスリに会いやすいが、外人だけじゃない、インド人家族も必ず誰か男性が夜起きていて警戒しているよ、だの、デリーの安宿で会った日本人の男の子はいかにもトロそうな子で、インドを旅しているうち持っているものをほとんど皆インド人に取られてしまった、もうあげるものないから代わりに電車の中で日本の歌を歌ってるんだってさ、という話を聞く。あっくんは、行きの飛行機で隣になった日本女性が、「今度でインドは7回目、でもインドは好きだけどインド人は大嫌い」と言っていた、でもそれは失礼だしそんなのおかしい、自分の心の中の勝手なインドに酔っているだけだと言った。

 京都から来た子はおかしい。平気で「私なんてぼられっぱなしや、ええカモや、持ってるもんならくれてやるよ、でもそう持ってへんしな。」とけろけろ笑う。
「インドの人、て皆いかにもだますぞというのが見え見えでだましに来はるのな。日本人ならもう少し上手にだますやん。おかしいな」「今日マザーハウスからYWCAまでリキシャを5ルピーから4ルピーにねぎったん。でも5ルピー札しかなくて結局5ルピーだったん。そうしたら顔中とろけそうな笑顔作って手振ってくれて、笑えたわ。写真とりたかったくらいや。5ルピー札持っておつりない言うてもじもじしてはんねん。ほんまおかしかったわ」
「今日も郵便局のばばあ、そうやで、おつりちょろまかす。10パイサがどうのこうので、あっち行けいうのや。で行ってもまた向こう行けいうのや。もうわからんからそのへんの人に聞いたら、もう10パイサ切手買わんといけないらしいのや。オフィスの人よりそのへんの人に聞いたほうがようわかるわ。」
「よくバザールなんかで”ワタシ日本人の友達いる”、とか言って近づいてくるのいるやろ。日本人の友達なんて珍しないわ。私かてそんなんいっぱいいるわ」
 ジュムは京都の子とその友人になんとか接近しようとしていた。それで通訳を頼まれたりしたが、京都の子は彼女は図々しいと嫌っていた。インド人は親切にすると必ず見返りを期待する、と言う。ジュムから何かもらったら、部屋に来てカメラを出し、電池を入れてくれと言う、次にフィルムを入れてくれと言う、さすがにそれは断った、「大人の常識越えて頼むのな」「日本の大人のね」と言うと、とケタケタ笑い出し、「おもろいわ、言葉通じへんかていろいろあるのな」
 欧米人については、「あのな。はっきりしてるわ。親切なんよ。見返りは別に期待しとらんしな。その代わり、できへんことははっきり、できへん言うしな。かといって冷たかないで。みな親切や、ハウラーのミスヘレンもな、パトリシアもな、いつもニコニコしとるしな。だからハウラー行くと気が楽やわ。ミスヘレンやろ、インド人のボランティアやろ、シスターやろ。何も気い使わんですむし、言葉で傷つけあうこともないしな」。(彼女はハウラーのブラザーハウス−Missionary of Charityの施設の一つ−に通っていた。)
「アメリカ人のおっさんで偉そうにしているのがいるんや、でも私がミスヘレンと親しいとわかったらコロッと態度変わってな、私かて面食いや、あんなハゲ好きじゃないからええけどな」

ミルクスタンド      ミルクスタンド

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