その4
マザーテレサの施設でクリスマス
ウシャが鏡に興味を持ち、さかんにあちこち映して大騒ぎしている。タオルや毛布でサリーのようにして飾ってやると大喜びで得意がってシスターを呼び止める。でも12時で帰ろうとすると泣き出してしまった。
ある日、ボランティアのロレーンがバピ、サミュエル、もう一人女の子の3人を屋上へ連れてゆこう、と言う。バピはおそらく部屋の最年長で、重度の精薄で寝たきりだった。ロレーンは3人を簡易車椅子に乗せると言うが、シスターたちははじめ、バピを車椅子に座らせることを渋った。しかしロレーンは持ち前の明るいハイテンションで皆を引き込み、バピが落ちないよう毛布で縛って支えた。屋上へ行くと、孤児院の子供たちが大勢遊んでいて、車椅子の3人を見ると駆け寄ってきた。そして大勢でワイワイ車椅子を押してゆく。サミュエルは当然大喜びだが、バピも口をあけて笑っていた。シスターたちは"He can understand"と驚き、バピに向かってベンガリで「わかるのねー」と言っているようであやして笑っていた。その後部屋に戻ったあともロレーンは、サミュエルをマッサージして立つ練習をさせていた。
翌日もサミュエルが車椅子に乗りたがり、乗せてやると大はしゃぎして喜んだ。しかしシスターやインド人ワーカーのおばさんたちはあまりいい顔をしない。ロレーンもやがていなくなるし、おそらくその後を続けてゆくことの難しさを感じていたのだろう。
プレムダンは面白いキャラクターの宝庫で、いつも黒っぽい服を着ている腰の曲がったお婆さんがいる。腰は曲がっているが、いつも元気にその辺をちょこちょこ歩き回っており、物を散らかしたりするので注意すると、気難しくてすぐワアワア言う。でも仕草がユーモラスで憎めない。ジャングルで発見されたとのことで、言葉は全くしゃべらない。マリアはShe is so sweetと言っていた。
ドラビタ系の少女はだんだんパイサ、パイサ、と言わなくなり、そのかわりアンティ、と手をさしのべた。その手をとると、支えにしておきあがろうとした。その後、庭にでて座りたがるようになり、ときどき抱きかかえて連れて行った。彼らの後ろには、どういう人生が広がっているのだろう。言葉ができれば、尽きない物語の泉がそこにあることがわかる。
マリアとはよく話した。彼女は英語が流暢で、話し相手を求めていたのだろう。プレムダンでは病気や障害の軽い人は食器を洗ったり、一緒に働いている。これはあくまで自主的なものだが、中でもマリアはいつも一人で掃除をしたり、病気の重い人のおまるを助けたりしていた。マリアの夫はアメリカ籍のイギリス人で、青い瞳、赤い髪だという。それで英語ができるのだと言った。先週木曜に気を失って倒れた、私も患者だ、でも働くのが好きだからいつもシスターやアンティを手伝っている、それで私も嬉しい。
マリアは働き者だが、ときどき具合の悪くなるときもあった。ある日、彼女の容態がかなり悪く、口をきけない状態だった。今までほとんど友人のように対等な気がしていたのが、急に助けを必要とする側と助ける側に分かれてしまったようだった。プライドの高い彼女には苦痛かもしれないと思い、なにか悲しかった。
ある日、プレムダンへ行くと、いつものネパール婆さんのベッドが空だった。シスターに聞くと昨日亡くなったのだという。そういえばあの悲しい目をした坊主頭の女の子も見えない。今日二人亡くなった、一人は若かったからあなたの言うその人かもしれない、と言った。
クリスマスが近くなってきた。シシュバハンでもクリスマスの飾り作りに忙しい。ウシャ、ラジュ、サミュエルもはしゃいでいる。この3人は、普通の子に混じって遊んだほうがよいように思う。でも長期的に適切な人手でもなく、手がまわらないだろうし、あまりあれこれ要求するのも難しい。
プレムダンでもシスターたちはクリスマスの飾りつけに忙しく、みんなキリキリしていた。食事のときも患者の注文に「Don't disturb us!」と言っていた。たしかに患者の注文をいちいち聞いていると、規則を破ることになるケースもあるし、身も持たない。
あるお婆さんがバスルームと頼むので、トイレかと思いつれて行くと、何かいろいろ言っており、別の要求があるようだ。言葉がわからないし、でもDon't sisterと言うので、マリアを呼んだ。こういう時に頼りになるのは、彼女しかいない。マリアは「この人は水を浴びたがっている、でもそれは許されないことだ、外へ連れ出そう」と言う。すったもんだの末、何とかお婆さんにバスルームから出てもらった。「年寄りの言うことを聞きすぎないほうがいい」と彼女は言った。
明日はクリスマスイブ、という日、一週間ぶりに夕拝に出ると、歌の練習をやっていた。ここしばらくやっていたそうで、イブの昼は日本人ボランティアだけでマザーハウスに集まって歌の練習をする、という。
イブの朝、早朝ミサに出る。かなりの出席率で、シスターはもちろん外国人も大勢来ていた。ミサの終了後、マザーテレサが一人一人と握手をしてくれた。欧米系の人はマザーに何か話しかける人もおり、マザーも短く答えていた。この日も、ミサと握手の終了後、マザーに何か個人的に相談している欧米人の姿があった。これは通常のミサの後にも、ときどき見かけたが、そうしたときマザーは真剣な表情で聞いていた。いわゆる”運動”をやっている人は貧しい人や恵まれない人にやさしく豊かな人、恵まれた人に厳しいところがあり、日本で会うのもそういうタイプが多かったので、その姿に意外な印象を受けた。マザーは目の前の人がアメリカ人だろうがインド人だろうが、旅行者、ボランティアで来た人だろうが行き倒れてかつぎこまれた人だろうが、同等に対しているようだった。相手に対して価値判断を下していない様子で、こういう姿勢もあるんだ、と思った。
12時半にマザーハウスにまた行き、クリスマスソングの練習をする。外人グループもそれぞれ練習しており、シスターたちも2階や3階のバルコニーに鈴なりになって練習していた。2時半にシシュバハンへ出発。
大勢で各部屋を回り、子供たちをだいたりしながら歌を歌う。日本人グループは赤鼻のトナカイときよしこの夜を歌った。他国の人もそれぞれの国の言葉でクリスマスソングを歌う。さらに近くの、乳児院と学校を兼ねた建物にも寄った。障害児の部屋にも行き、みなで歌っていると、重度の子供たちもおだやかに笑っているので不思議な気がした。
さらにトラムでプレムダンへ向かう。
プレムダンに着くと、マリアや坊主頭のローラらがmy anti comeと喜び、祝福のキスをしてくれ、という。ドラビタの少女も庭に出たいというので、抱えて座らせる。みなでクリスマスソングを歌い、フランス人のはげたおじさんが
のって入所者相手に踊ったり、イタリア男性も即興でオペラを歌ったりする。アイルランド三人娘たちがそのへんの雑貨屋で買ったという、おもちゃのイヤリングやヘアピン、ネックレス、時計(Seikoと入っている)を大量に持ってきて、患者たちに配った。うるおいの少ない生活のせいか、こうしたプレゼントを入所者の人たちは本当に喜ぶ。また、それを見抜く彼女たちの的確な目にも感心する。
さらに一行はカーリガートへ向かうが、のどが渇いたと一緒にいた何人かでジュースを飲みに立ち寄っているうちに、カーリガートはあきらめて先に帰ることにした。クリスマス前後は日本人だけでなく、白人ボランティアも増える。帰る道々、ルクセンブルグのECで働いている、というベルギー人女性と話す。クリスマスは2週間、店もすべて閉まって丸々休みだし、1ヶ月の休暇ならとりやすい、それでみな来るんだ、という。若い子は6ヶ月休みをとったり、仕事をやめたりして来ている、でも自分は30歳を過ぎているから新しい仕事を探すのは難しい、25歳のとき、それまでの仕事をやめて銀行に勤めようとしたが、若い子か経験のある人をほしがりだめだった、と話してくれた。どこも同じようなものらしい。
深夜12時にマザーハウスでミサがあるので、いったんYに戻って寝る。起きたら12時10分前、大慌てでとびだし、マザーハウスへ。深夜のカルカッタは少々怖かったが、クリスマスイブということもあり、結構人も出ていた。ミサのあと、アイルランド人夫婦がやってきて「日本人が二人来ているが英語ができない、話を聞いてあげて」と教えてくれる。それはよいのだが、どうも母娘のようで写真をとりまくり「マザーの写真を3枚撮った」とか騒いでいる。「今日着いたばかりなんです、オベロイに泊まっている、どう帰ったらいいかしら」と心細げに言う。自分で自分の始末ができないなら来るなよ、来たように帰ったらいいじゃん、と一瞬思ったが、あっくんが
「タクシーがいいんじゃないですか」と言う。
「でもタクシーもなんだか怖くて」と帰りかけた私たちに一緒についてくる。あっくんは
「オベロイに泊まってはるんですか、豪勢なとこやん、すごいですねー」
「日本から予約できるところはここしかなかったんです」
とパークストリートまで一緒に帰る。そして
「こっからタクシーでも2Rsくらいで行くと思うけど、歩いても10分。二人いれば大丈夫」
「人から話しかけられてもムシ、走るようにさっさか歩く。気弱そうな顔していたらあかんで」
あっくんは深入りはしないが親切だ。そういえば私も来たばかりの頃みなに世話になったし、もっと来たばかりで右往左往している人に親切にしないと、と思うが、どうも甘えた感じの人には腹が立ってしまう。
このとき、ロンドン在住のユダヤ系という少女のような人も一緒だった。帰り道を急いでいると、足のきかないいざりの乞食がよってきてマニーと言った。彼女は「OK」ととてもやさしく言い、いくばくかのお金を彼に渡した。そのあと、彼女は「It's so funny」と言って話し出した。彼はいつもパークストリートにいて、この日の昼間も彼に会ったこと、でもそのときは頭に来て彼に差し出された手を邪険に払いのけたこと、そのあとそのことがとても気になり、彼にすまなく思っていたこと、もしまた彼に会ったら絶対に今度は邪険にせずにいくらかあげようと思っていたこと、そして今日(というかもう明日になっていたが)また彼に会えたこと、などを淡々と話してくれた。
クリスマス当日、シシュバハンに行くと、孤児院の子供たちがクリスマスの歌と踊りをするそうで、障害児部屋にも来てくれた。子供たちにクリスマスプレゼントがあり、ウシャがサングラスをもらって得意げにかけていると、年嵩の孤児の少年が来てすっと取っていってしまった。ウシャは大泣き、シスターがあれこれ他のおもちゃを持っていったがだめで、なんとか片方のつるの壊れたサングラスを見つけてウシャに渡す。するとまた例の少年が来て、ウシャのサングラスをじろじろ見、手まねで自分のはつるが二つ、お前のは一つ、と示し誇ってみせ、またすっと行ってしまった。でもウシャは気にも留めず、サングラスをかけたまま、手で漕いでくるくる回ってあちこち見回している。少年はシスターに注意されても自分のだと言い張ったようだ。この少年の姿に何となく「インドだなあ」と感じる。
午後プレムダンへ行くと、マリアが今日はクリスマスだ、私のために働いてもらえないか、と言い、あの橋のところに夫がいる、クリスマスプレゼントを彼に渡してきて欲しい、という。彼女はプライベートにプレゼントを貰っており、その一つを夫に渡したいのだ。外に出てプレムダンの前の通りに出ると、言われたとおり、赤いバッグに白いシャツ、黒いズボンの人がおり、青い瞳だった。日焼けした顔はインド人の老人とほとんど変わらない。Marry Christmassと声を交わし、包みを渡して戻る。シスター達には見つからなかった。マリアは午前中来るアンティからクリスマスケーキをもらったと、ロール菓子を切ってくれた。いつも橋の上にいるのかときくと、「夫には仕事がない。That's why he is a street man」と言った。「私たちには家がない。だから一緒に暮らせない」
YWCAに戻ると、長期滞在しているインド人お婆さんが「クリスマスケーキ」と言ってインドの菓子パンを切ってくれた。アンジェリーたちもおり、このあと夕食会をするそうで気になったが、ボランティア仲間のほうですでに約束が入っていた。
夕食は事前に食事会に申し込んだボランティアたちでクリスマスディナー。このときは人数が多く、キャッツとチャイニーズレストランに分かれた。取りまとめてくれたのは例のアイルランド人夫婦、メアリーとジョンだが、参加者はYWCAに限らず他のホテルの人もおり、人種もさまざま、日本人ボランティアもインド人もいる。ミシェルを誘いに行くと、彼女は申し込み忘れた、今日知って参加したいと言ったが人数が一杯だった、アメリカ人おじさんのギャリーが自分が残るから代わりに、と言ってくれた、でも自分は英語ができないし、ギャリーが行くほうがみなのためにもいい、自分は手紙を書きたいし休みたい、ここはちょっとうるさい、いつも休めますか?と言った。彼女はクリスチャンだし、私が行くよりもいいのではないかと思ったが、意志は固かった。
ここしばらくミシェルは、マザーハウスのミサではなく、YWCAそばのカトリック教会の夕拝に行くようになっていた。インド人の家族が大勢来ているそうで、宿から近いというのも疲れない、と言う。路上生活者や物乞いの多いカルカッタの町を歩くのは疲れるようだった。
キャッツで夕食後、サダルストリートにあるホテルのオーナーが、Missionary of Charityに寄付してくれたお返しに、みなでクリスマスキャロルを歌いにゆこう、ということになる。サダルまで行き、ホテルでオーナーやクリスマスディナーを楽しむ人たちの前で7,8曲歌う。あっくんは英語はそう達者ではないが、こういうときの盛り上げ方がとてもうまい。関西人のノリで多国籍の老若男女を相手に、おどけてタクトを振り、パワフルにみなをまとめあげる。何事かと見ているそのへんのインド人たちからも拍手喝さい。
メアリーとジョンがサダルにいたリキシャに乗って写真を撮ってもらっていると、交通渋滞がおきた。別のリキシャワーラーが怒り出し、そのリキシャを隅へおいやり、持ち主のワーラーや夫妻に何事かまくしたてている。「写真撮るならホテルの前のじゃまにならないところでやれ、自分もリキシャだ、自分だって写真撮ってもらってお金がほしい」とさかんに怒鳴っている。そこへあっくんが割って入り、「アイムソーリー」と言って深々と頭を下げた。そのタイミングとしぐさに、ワーラーおじさんも気勢をそがれたのか、少し大人しくなった。他の外人男性諸氏も入ってきてなだめ、その場は収まった。
街の風景
カルカッタではよく、オフィス、工場などで組合運動らしい集会を見かけた。赤旗がなびき、XXUIONと書かれた横断幕が垂れ下がり、お立ち台の上でマイク演説している人がいる。AJCボーズロードとパークストリートの交差点あたりで夜、赤旗を後ろに貼り演説しているおじさんをよく見かけた。その前には何人もの男性が椅子に腰掛けて聞き入っている。あるいは昼間、鎌とハンマーと星のマークのついた赤旗のもと、大集会で演説している人もいる。BBD Bagのそばで毛沢東のイラストの入ったビラが何枚も貼ってあるのをみかけたこともあった。
小規模デモは多い。女学生たちに聞くと、カルカッタには共産主義者が多い、という。
一度、バスに乗っているときに大規模デモに遭遇した。警官もあきらめており、レイクタウン行きのバスは当初エスプラネイドを西へ抜けようとしたが、不可能とわかると「パークストリート、パークストリート」と叫びながら方向転換し、再びチョーロンギーを南下、AJCボーズロードからシアルダーへ入った。進路変更とわかると乗客が騒ぎ出し、途中慌てて降りて行く人もいた。東からエスプラネードに戻るが、先ほどまでスイスイ流れていたチョーロンギー通りはすでに大渋滞している。エスプラネードには人々を満載したトラックが続々と到着し、デモに加わる。さらにSNバナジーロードのほうからも押し寄せてくる。ベンガリかヒンディーかわからないが、赤い垂れ幕を持ち、何事か叫びながら行進してゆく。これが中国なら何に対するデモかわかるのだが、悲しいことに、みな何に対して怒っているのか、さっぱりわからない。帰ってから女学生らに聞いてみたが、彼女らもわからない、という。基本的に彼女たちは政治に関心がないようだった。サンギッタもニノも「Indian people are so lazy-no. They have legs, arms, but still begging-no」と言った(noはベンガル人がよく英語の語尾につける言葉。日本人英語で「I like Americaね、だからI study Englishね」とやるのと同じ)。レイクタウンからの帰り、楽しそうに笑いながらトラックに乗って帰ってゆく人々とすれちがった。一体なんだったのか、非常に気になる。
1997年の国民会議派の集会と、その同日夜のようす
夜街を歩いていると、通り沿いの狭い一室で、マイクで講釈している宗教家らしいトルコ帽姿の爺さんがおり、その前には狭い部屋の中、大勢の人が聞き入っている。モスクも多い。一定の時間になるとスピーカーからコーランだかお説教だかが流れる。郊外へ行くと、サイクルリキシャに乗った人が、大きなスピーカーを前に取り付けて何事かしゃべりつつ流しているのに出会う。宣伝か選挙か宗教かはわからない。
滞在して1ヶ月ほどたった頃、カルカッタの町にも台湾のように廟のような祠が街中にあることに気づいた。気づくと急に気になりだし、見慣れた街のあっちにもこっちにも見つかる。このへん、面白いと思った。来た当初に目につくものと、しばらくたってから目につくものが異なる。人によっても違うだろう。だから旅行してきた人が「いやー、目につかなかった」と言っても、だから存在しない、とか目立たない、ということにはならない。大型のものは人が入れる大きさで、屋根つきの前庭があり、白い像が安置されていることが多い。このほか、身の丈か肩くらいの高さの祠も道端によくある。やはり像が安置されている。あるいは、舗道わきに小さい像が2体置いてあったり、石がおかれてその前に花や線香が供えられている。日本感覚だと、子供が交通事故にあったのだろうか、とも考えるが、ベンガリがわからないでの不明。線香を縦にふったり、両手を合わせて拝む様子は日本や中国に似ている。よくバスの車掌なんかも、走っているバスからコインを投げ入れ、すばやく拝んだりしている。
バザールの店でも、必ず壁の上のほうに神棚があって一対の神様が祀られている。赤い電飾ランプをともすあたりの色彩感覚は中国のようだ。
インドの街は生存競争が激しい。だまされるのは外国人だけではない。
ミルクスタンドに子供ばかりが並んでいるときがあった。そこへ男の人が割り込んできてコップを置く。子供らはだめだめと騒いで自分たちのやかんやコップを置くのに、おしのけて自分のコップを置き、さいごまでミルクを入れて立ち去った。
メインストリートのチョーロンギー通りには、子供の物売りも多い。信号待ちのあたりにたむろってスナックやガムを売っている。あるとき、子供が他のお客に気を取られているすきに、通りがかりのじいさんが少年が肩から提げた木箱のふたをそっとあけ、中の豆袋を抜き取った。それを見ていた私と目があったじいさんは、ばつが悪そうににやっとした。
プレムダンの帰り、オートバイに乗った青年が帽子をとばした。すると落ちた側の通行人がさっと拾って持っていってしまった。青年が慌てて単車を停めたときには、もう誰が取っていったかわからなかった。
ミニバス旅行
休日には、街中で見かけるミニバスの終点までよく乗ってみた。ミニバスは小型のバンのような茶色のバスで比較的近距離が多い。80番など番号のついたバスは大型のバスで行き先が1、2時間かかる遠距離のことが多い。バスの始点はおもにBBD Bag、そして鉄道駅のシアルダー、ハウラーである。
BBD Bagから、まずは空港からカルカッタへ来るときに乗ったタクリア。鉄道の線路はカルカッタ南東、バリガンジで線路が分かれるが、南へゆくほうの最初の駅タクリアのそばで終点。Raja Subodh Mullick Roadを下り、途中曲がってJadavpur駅へ歩く。そのまま線路を越えると、完全な田舎。あちこちに池があり、牛や人が水浴びしている農村の風景だ。Garfa Main Road、B.B.Chandra Roadと歩き、いつのまにかカスバに来ていた。バリガンジ駅に出たのでバスで戻る。
この周辺へゆくバスはほかに、Ekdaura Park行き、バリガンジ駅脇のバザールに着く。
やはりバスの行き先でよく見かけるレイクタウン。カルカッタの北東にあたる。ここものどかな田舎町で、運河に沿った道がなかなかよい。対岸へは渡し船が人や自転車を運んでいる。Bidhan Nagar駅のそばを抜け、ウルタガンダのあたりを歩いてもう一本運河を渡り、バスで市内へ戻る。
やはりバスの車掌がよく呼ばっているガリア(車掌はバス停に近づくと待っている人たちに向かって「ガリアガリアガリア!」「エスプラネードエスプラネード!」とさかんに呼び込みをやる)。カルカッタ南東、Jadarvpurのさらに先の小さな町が終点。適当に歩き出す。いつもまにやら周囲は完全な農村風景、背の高い椰子や棕櫚系の植物がつくつく突き出たジャングルまで出現。恐竜でも出てきそうな光景だ。乾季とはいえ、池が多く水であふれている。白装束の死体を板に乗せて運ぶ男たちの一行に出会い、簡単な楽器で演奏する人たちもついていた。火葬してガンガー(ガンジス川)に流すので、インドの村にお墓はないという。2時間ほど歩き周り、NO80のバスで帰る。
ソルトレイク。湖を期待したが、ないようで新興住宅街だった。碁盤の目のように道が縦横に走り、真新しい家々。洋服を着た若い女性が歩いている。このバスは通勤バスなのかもしれない。しかしちょっと歩くと牛がうろつきはじめ、後は農村風景に。ソルトレイクから市内に向かう方向には、アパート群がある。3〜5階建てばかりで、時に現代建築かと思うような、不思議なデザインの建物もある。
ハウラーから出るバスにも乗ってみた。
Nazar Bazar。Jessore Roadをレイクタウンよりもっと先へ行ったところだった。
トリガンジ。カルカッタの南で、終点は団地の多い町だった。
ジャパニゲート。IndoJanani行きのミニバスに乗る。道路が混み、運転手同士、さらに乗客も交えて怒鳴りあいだ。人が多いと皆苛つく。ジャパニゲートに近づくと、折から帰宅時間帯にあたり、工場群から大勢人が出てきてぞくぞくと歩いている。徒歩、自転車、オートバイ、リキシャ、車やバスも混じって大渋滞だ。完全に人の波が車に勝っていた。ハウラーを越えこのあたりまで来ると、バスの屋根に乗る人が出てくる。市内では見かけない。また、市内では戸口につかまる人はよくいるが、後はいない(禁止されているのだろうか?)。しかし、このあたりまで来るとバスの後も鈴なりだ。ものすごい警笛を鳴らしつつ、バスは人ごみをかき分けてゆく。少し道が空いてくると調子をつけて鳴らし、完全に遊んでいた。
1時間強でジャパニゲート着。何とかHospitalが終点で、ここがジャパニゲートだというが、病院とアパートと草地しかない。ただかなり大きい池があり、池の向こうにあるアパートは夕暮れの中、水の中に浮かんでいるように見え、幻想的で美しかった。戻ると工場があり、そのあたりを行く人はその工場がジャパニゲートだという。WAX工場らしい。ベンガリがわからないので、なぜこの地域にジャパニゲートという名がついているのかは不明。
シアルダーからAlipor Court行き。カルカッタ西南の街路樹の鬱蒼と茂る通り。周囲は大邸宅(だと思う。オフィスや官公庁とは思えない)がはるかに続く。大使館もあるようで、向かいは工芸美術館のようだった。さらに歩くとアリポアズーに着く。ここがガイドにも載っている白虎のいる動物園。
Prince Anwar Shah Rd.行き。ゴルパーク、タクリアを通り、右へ曲がってカーリガートの東南で終点。南側は工場で、のどかな郊外の雰囲気。しかしどんどん歩いて地下鉄の通る大通りを越え、カーリガートの方へ向かう一帯、住所表記がトリガンジのあたりは、古そうな遺跡、モスクのような建物、古い不思議な門などがあり、町全体が古い気がした。BBD Bagの北もバザールが多くごちゃごちゃ入り組み、古くから発展した感じだが、このあたりも古くから人が住んでいた感じのところだ。歩くと面白そうなところは多い。この日はトリガンジの小さな市場で卵と野菜を買った。
以下はパークスストリートなど、途中から乗ったものだが、おそらくほとんどの始点はBBD Bagだと思う。
シャン・バザール。このバスは混んでいた。大概のバスは、早朝でもない限り混んでいることが多いが、子供を抱いた女性が乗ってきて、狭い隙間に無理に座ろうとする。すると、両隣のおばさんや少女が怒り出し、少女など露骨に女性を突き飛ばして追い出そうとした。それでもその女性はめげずに座ると、今度は目の前に立っている人の鞄がじゃまだと怒り出す。立っている人は両手でつかまらなければならないほど、バスは揺れるし道も悪いのだが。その人も負けじと言い返している。譲り合いで折り合いをつけようという雰囲気がまったくなく、見ていても疲れる。子供も強い。小さい子を連れた人が乗ってきて、その子を席に近づけても、座っている少年少女がじゃまだと押しのけたりする。たまに、目の前の席が空いても他のおばさんに譲り、自分は立っている人を見ると妙に感動する。
さてシャン・バザールは街の北だった。Bagh Bazarストリートを西に歩いてラビンドラ・サラニを南下。バグ・バザール周辺は住宅街だが庶民的で東京の下町の感じだ。貝殻を沢山置いて腕輪を作っている店が何軒も続く。店の脇の小道を行くとアメ横のように小さい店が入ったバザールだったりする。
中心部では大通りのラビンドラ・サラニも、このあたりは裏通りのようで、塑像を作る店、金具店、石細工店などが並ぶ。ハウラー橋の脇をぬけナユーダ・モスクを過ぎると、楽器店街。
Barak Pore。まずトラムNo.8に乗り終点まで行く。川べりに到着。この川のまわりはどこもスラム。橋を渡り、78番のバスでBarak Poreへ。このバスも異常に混んでいた。着いた先は、周囲は芝生の広がる広いのどかな光景で、あちこちに工場か病院か、建物がポツポツ建っている。歩くうち、どうも軍隊のキャンプ地らしいということがわかってきた。通りすがりの軍服姿の人に聞くと、Campと言った。ジープの止まるセンターオフィスがあり、制服を干してある宿舎があり、軍事訓練中の学校もあった。その隣には子供のための普通の学校。軍人が見張っていたが、のんびりしている。施設の周りは牛だらけで、ずっと歩いてバザールに着く。バス81と85も通っていたが、どこ行きか聞いても英語のわかる人がいない。やはり現地語ができないと、としみじみ感じる。お昼を食べ78番でシャンバザールに戻る。
なお、シンシモア行きはシャンバザールの先で、このバラックポアの手前が終点。
バッジバッジ。77番のバスだが、日本人ボランティアと一緒に行ったので話ばかりしており、通り道を覚えていない。2時間かかって終点に着く。その先には河があり、さらに皆川の中に入ってゆく。見ると渡し舟があった。のどかでいいねえ、と川べりを歩き、電車の駅を見かけるが、なかなか来そうにないので、まだバスで戻る。行きも帰りもかなり混んだバスだった。
やはりよく呼び込みで聞いて、気になっていたピクニックガーデン。39番バスで行く。プレムダンを越え、タプシアを越え、ピクニックガーデン・ロードに入る。終点で降りるが、期待したガーデンはない。しばらく歩き回って地元の人に聞くと、案の定ノー・ガーデン。甲子園の類で地名のみか。歩いて戻り、線路を越える。不思議な警報音だった。皆無視してくぐって渡っているので、こちらもそうしたが、どちらを見ても列車の影も形もなかった。
Day's Medical。この行き先のミニバスもよく見かける。ピクニックガーデンで渡った線路の先が、このミニバスの終点だった。Beck Baganの少し先。このとき、帰りのバスの運転手がすごかった。次々とバスやトラムを追い越し、途中Day's Medical行きのミニバスを追い越したときに、その運転手と喧嘩していた。信号待ちで停車中、二人のベンガル人が飛んできて、窓の外から運転手に何度も殴りかかりながら口げんかしている。それでも運転手もまったくめげない。もう一台のD.M.行きミニバスとカーチェイスのようになり、車線無視で反対車線まで使いつつ追い越し追い越されしつつ、ロイドストリートに入った。何でそこまでするかな、と思う。車掌もとにかく騒いで客を乗せようとする。お客が多いほうが、給料がよいのだろうか?(この疑問は、後にカルカッタ通に聞いて判明)