イ  ン  ド  滞  在  記

( コ  ル  カ  タ )
マ ザ ー テ レ サ の 施 設 に て

その5

もどる    つづく

クリスマス後の日々

 クリスマスから新年にかけて日本人ボランティアが増え、シシュバハンにも結構来るようになった。例のオベロイの人たちもいる。日本人と香港人のグループも1週間ほど来ていたが、彼らは陸路、中国からネパールへ抜けてインドへ来たそうで、チベットからネパールに向かう途中、チベット人と中国人の間の悶着をよく目にしたという。口論、こづきあい、一度はバスに乗ろうとしたチベット人を漢民族の人たちが髪の毛をつかんでひきずりおろしているのも見た、と言っていた。香港人の女の子も、あれはひどかった、あの国はひどいと言っていた(注:当時はまだ香港とMain land Chinaは別の国だった)。

 クリスマスの翌日、人手もあるので、久しぶりにサミュエルとバピを車椅子に乗せることになった。サミュエルはもちろん、バピが口を大きくあけて笑う。バピはベッドに寝ているときはうなったりする程度でほとんど反応を示さないのだが、座らせるとこれだけ反応がある。ということは、もっとリハビリできそうな感じはあった。ただそれをするには専門知識も足りないし、やり方もわからなかった。
 プレムダンでも25日に行くと、マリアや坊主頭のローラ、濁った目をくりくりまわす女性らがAnti!と寄って、今日昼間、ジョンとメアリー夫妻やロレーンたちが来て、シスターたちも一緒に歌ったり踊ったりした、とても楽しかった、なぜ一緒に来なかったんだ、と話してくれる。その後いつものように掃除や水の配布、歩行の介助をしながら、マリアが「外の人が来るときはいつも新しい服をもらう。食事もいい食事になる。そうやって外の人にきれいなところを見せる」「今朝シスターに、ボランティアのドクター夫妻からもらったサリーを見つかった、誰からもらったか聞かれ、ドクター夫妻だと言うと、頼んだのかと聞かれ、そんなことしない、彼らが個人的に私が好きでくれたんだと答えたところ、私はあなたもあなたの夫も嫌いだ、こういうことが続くようなら出て行ってもらうことも考えると言われた」「私は他の人のように座ってアンティこれしてくれ、シスターあれしてくれとか言わないのに、I'm not sitting around, I'm always working for other patients.」と言った。そして「昨日イギリス人が来た、足がとても悪い」とそのベッドの脇へ行った。
 ベッドに横たわっている女性も、日焼けしてインド人のように見えるが、青い瞳だった。彼女は話が聞こえたのか、だまって毛布をめくって足を見せた。が、すぐに毛布を被って横たわっている。あとでマリアになぜ彼女はここへ来たのかと聞くと、I don't know、病院からここへ来た、どの病院かは知らない、何かの理由でdrop outしたのだと言った。この日はもう一組患者が来たようで、家族と思われる人たちがそのインド女性の周りに座って話し込んでいた。彼女が本当にイギリス人なら、大英帝国の力で救われてもよさそうなものだが、という気がした。でも考えてみれば、外国の片隅に吹きだまっている日本人だって普通はそのままだろうから、そういうものなのかもしれない、とも思った。
 マリアは疲れたようすで、目の下のくまがいっそう黒ずんで見えた。今思うと、マリアはひょっとして英印混血だったのかもしれない。数は少ないが確実に存在する植民地時代の落とし子に、目の下が黒ずむ人種的な特徴があると中根千枝氏の著書で読んだことがある。(ところで京都の子も、ハウラーでも白人ボランティアが大勢来る日はティータイムがあったりする、と言っていた。)

 クリスマスの翌日、ミシェルが牧師から、北インドの情勢は危険だ、行かないほうがいい、と言われたので、カメルへ行かれなくなった、誘っていたのにごめんなさい、とがっかりした様子で言った。
 それから数日後の朝、ミシェルに会うと風邪を引いたとかでだいぶ具合が悪そうだった。その晩かなり嘔吐している様子で、このあとかなり悪くなり看護婦のアイルランド3人娘らが医師を呼んでいた。こういうときYの白人たちの結束は固く、ミシェルの病気が見世物になっている、と話し合っているようで、興味本位のインド人や日本人は部屋に入れなかった(女学生らも悪気はなく、ときどき挨拶しているので気になっただけと思うが)。
 アイルランド娘の一人が、ミシェルを病院に移すかもしれない、本人ももうフランスに戻りたがっている、と教えてくれた。その後、病気の峠をこえ、ときどきバルコニーに出てくるようになった。
 新年を迎えた数日後、明日フランスに戻るという日に、バルコニーであれこれ話した。彼女はカメルにも行きたかったし、いろいろやりたいこともあったけど、体の調子がこれでは無理ね、と言った。そして「人生はroutineだ」と言った。欧米人から人生がroutineだという認識を聞くとは思っていなかったので、え、と思った。彼女は「仕事も普段はルーチンだ。でもルーチン、で大事でしょ」と言った。その翌日フランスに戻っていったが、このあと自分が帯状疱疹を患ったとき、その程度でも結構辛い思いをしたので、あの病状でベオグラード経由でフランスへ一人戻るのは心細かったろうと思う。

 カルカッタの大晦日は、多少ホテルにA Happy New Yearのイルミネーションがあったり、道端でキラキラ帽子を売っていたりする以外は、特に何もなく静かだ。
 元日もいつもどおりで、シシュバハンとプレムダンへ。施設でも特に行事はない。街中も店は普通に開いているし、SNバナジーロードの市もいつもどおりやっている。リキシャも道路工事も露店の人も普通に働いている。ミルクスタンドのお兄さんだけが、Happy New Yearと言ってくれた。
 シシュバハンへ行くとき、マリアの夫が炊き出しに並んでいるのを見かけた。背が高く髪も赤い金髪で、他のインド人に混じるとやはり目立った。なぜか暗い気持ちになる。
 シシュバハンでは、ラジュを一人で食べさせてみることになった。この日以降、食事の介護は極力せずに見守るが、けっこう一人でも大丈夫なようだ。ウシャ、ラジュ、シマの歩行訓練も始まった。サミュエルもときどき車椅子に乗せる方向になった。バピは乗せたいが体を支えにくいこともあり難しかった。孤児院の子供たちも、ときどき歩行訓練の手伝いにやって来たりする。
 こうした訓練や、新しく来た障害児の赤ちゃんたちに離乳食を食べさせたりで毎日が過ぎていった。ときどきシスターたちが紙芝居を演じて子供たちに見せてくれたり、ウシャやシマ、孤児院の子供たちと凧で遊んだりすることもあった。ウシャはAnti!と慕って甘えてきてくれるので、特別扱いにして一緒に遊んでやりたい気持ちもあったが、いずれ私もここを去る。あまりウシャばかり可愛がっても、かえってあとで残酷なような気もした。それでできるだけ赤ん坊の食事の世話をしたりするようにしていたが、この判断で正しいのか、よくわからなかった。いずれ別れるにせよ、思い切り甘えられるときに甘えさせたほうがよい、という考えもあるからだ。

 プレムダンでは新年早々、坊主頭のローラが泣いていた。クリスマスにも正月にも家族が迎えに来てくれなかったという。マリアが「だからそういうことを考えてはいけない、と言ったのに」と叱りながらなだめている。私もハンカチを出して涙を拭いてやると、しばらく泣いていたローラの眼が突然キラリと輝いた。泣くのをやめて「このハンカチをくれないか」と言ってニヤっとした。患者一人一人にスペシャルなことはできない、と断るが、皆なかなかしたたか、「インドだなあ」とまたまた感じる。
 プレムダンでも患者の水やトイレの世話、歩行の介助、シスターの盛り付けした食事を配り、皆が食べ終わると集めて食器洗いの毎日が続く。合間あいまに入所者たちと話しているとき、英語の発音が悪い、と彼らから特訓を受ける。Goodの発音がよくない、と何度もやり直し。dを発音しないようにすると、やっとOkが出るが、彼女たちは大喜びでインド英語を教えてくれた。

 京都の子が、いつのまにかYWCAでナガ人の女学生らと親しくなっていた。実はこれまで、ナガの女学生らがいることにまったく気づかなかった。ベンガル系は自分から積極的に外人棟にやってきて窓が開いているとのぞきこんだり(白人はこういうことをやらないし、いやがる)、話しかけるが、ナガの人たちはそれがなかったからだ。日本人に似たモンゴロイドの顔立ちの彼女たちは大人しいが、親しくなると親密になるようだ。みなクリスチャンで、ヘレンはかなりいい家の娘のようだった。そのほか、ボーイッシュなリクシー、シンシア、そしてシッキムから来たまったく日本人と同じ顔の色白の女の子がグループになっており、ベンガル系女学生らとは一線を画していた。
 彼女たちはサリーは着ない。あれは私たちの民族衣装じゃないから、という。顔立ちが日本人、中国人のように見え、外国人と間違えられるし、内国人と違う待遇を受けることが多い。内国人にはオフィスも親切だが、外国人には意地悪だ、値段のことでもそうだ、外国人と同じように値段をふっかけられる。私たちはインド人にはなりたくない、もともと違う国だった。イギリス統治で一緒にされ、独立後もそうされただけだ。
 ヘレンは以前ここに滞在していた日本人から送ってもらったものが何かよくわからないから見てくれ、という。細木数子の占いのカード、浴衣、雑誌「主婦と生活」、家計簿などなど、「なんでこんなもの送ったんだろうね」と京都の子も言う。彼女はこうしたことのお礼にヘレンからお菓子とお茶をご馳走になり、皮の財布も買ってもらったそうで、「金使いあらいでー。なんでもポンポン買うしな、チャイ屋でも100ルピー札ポンと出しはるしな」と言っていた。

 2月に入り、ビザも残りわずかとなり、そろそろカルカッタ近郊の農村やバングラデシュを見に行くことにして、Misshionary of Charityでのボランティアを終了する。YWCA最後の日は、ボランティアたちと一緒に夕食、ゲリーがクリスマスのときに撮った写真を焼いて渡してくれる。ロンドンのユダヤ系の子がダブルに一人でいたので、シングルが開くことを告げて彼女の荷物を先に入れ、その後マダムに報告するよう手配した。マダムはぶつぶつ言っていたが、みなお互いシングルが空くとダブルに一人でいる人に教えてすぐに入れるよう融通しあっていた。
 シシュバハンでは、割りとあっさりお別れだった。シスターたちにとってはボランティアの入れ替わりは日常茶飯事で、明るく「今までご苦労さま」という感じだ。ウシャやラジュは話がわからないようで、いつもどおりAnti!遊ぼ!と手を伸ばしてきた。それで午前中いっぱい一緒に遊ぶ。サミュエルもよくあることのように、淡々とありがとうと言い「Take care」と言った。
 プレムダンでは、シスターたちは同様だったが、マリアとローラは泣いていた。特にマリアは相当がっかりしたようすだった。使命感のあるタイプのボランティアには愚痴を言いにくいようなことを言っていた。施設を出るときもあまり何も言わなかった。何かすまないことをしたような気がして、心が重かった。

カルカッタ市内のNGO訪問

 YWCAの食堂で夕食を一緒にとるグループの一員のインド人クリスチャンが、中華街によく知るNGOがあるから、と案内してくれた。以前見つけた中華街の一本南に孫逸仙(孫文)Roadがあり、ここがメインの中華街。彼の話によれば、1952年頃はカルカッタにも大勢の中国人が住んでいたが、中印国境紛争以降、みなカナダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア、香港、台湾に移ってゆきだいぶ減ったという。中国人と言っても、ある者は非常に金持ち、ある者は貧しい。カルカッタのベストシューメーカーの何人か、ベストヘアドレッサーの何人かは中国人。
 中華街を過ぎると2つビルがある。その間を入った奥にスラムがあった。彼はかつてここに住んでいたことがある。住人をよく知っており、集まってきた人と座り込んで話し出した。女性がtea?とチャイを持ってきてくれる。見たところ、住人はみなベンガル人のようだ。
 彼の父はムスリムで裕福だったが、16歳のとき啓示を受けクリスチャンになった。それで勘当されゆくあてもないとき、たまたまここに住んでいた友人がOK、貧しくて何もないけれどshareして住めるだろう、とおいてくれた。一つのベッドに二人で寝て、食べ物は近所の人が分けてくれた。そのうち、子供のための映画を撮らないか、という話がきて、映画を製作しお金が入った。その後NGOを立ち上げ、4人の人を常駐で派遣し、子供たちに勉強を、女性たちにミシンの扱い方や刺繍、保健衛生を教えている。竹とビニールでできた小屋があり、昼間は子供の学校、夜は身寄りの無い7人の子供の寝床になっている。ただお金をあげたのでは、ここの人たちがbeggerになってしまう、だから教育にお金を使っている。

郊外の農村のNGO訪問

農村

 農村の保健衛生に携わるNGOの人の手配で、カルカッタ郊外のNGOオフィスに1週間ほど泊まれることになった。シアルダーから南へ向かう電車に乗り、1時間弱の駅で降りる。そこからサイクルリキシャでオフィスへ。周囲は完全な農村、当時大気汚染がキラー濃度、と言われたカルカッタに比べて空気もさわやかだ。田んぼの広がる中、サイクルリキシャが行くが、村に近づくと林になる。村は林の中にあった。高い木、池、そのそばに建つ家、と典型的なベンガルの農村。オフィスの一家も村の住民の95%もバングラデシュからの移民だという。住民はキリスト教徒も多く、オフィスの主人もそうだった。元からすむヒンドゥー教徒の住民もいるが、古い住民は貧しいそうだ。
 奥さんは日本人はスパイスがだめとか魚が好きとか聞いていたようで、魚のカレーを作ってくれる。魚は高いと聞くので、申し訳ない気がした。夕食後はテレビの前で、家族全員で楽しみにしている連続ドラマを見つつ団欒。親戚の人たちも来ていて、オマーンで出稼ぎをしていて一時帰国している人だのがいた。とにかく仕事がないのが一番の問題だと言っていた。

 この滞在の翌日から、帯状疱疹が出て痛みがひどくなり、辛かった。このため、この小旅行ではあまり農村を歩き回れなかったのだが、代わりにインドの医者を体験する。最初は何の病気かよくわからず、まぶたから額にかけてはれあがり、水泡は出来ているし、ピリピリ痛むのでかなり焦る。しかし、オフィスの主人も奥さんも、子供がよくなっている、たいしたことない、とのんびりしている。オフィスの女の子が村に医者がいる、とまずシスターが経営するナーシングホームに連れて行ってくれるが、留守だった。次に普通の村医者に行くが、彼も留守で、Homeopatheticの医者へ行く。どういう医術がよくわからなかったが、18世紀頃のヨーロッパ人の医者の肖像のかかる部屋で仁丹のような薬を何種類も用意していた。その薬を水に溶かして飲ませる。さらに砂糖と一緒に紙にくるんで4,5袋持たせてくれた。どの病気でも一律2Rsだという。女の子の話では、貧しい人々が頼りにする医者で、この医術はいったん悪くしてからだんだんに良くするもので、時間がかかって勧められない、という。そして隣駅に近代医学の病院があるから、そこへ行こう、ということになった。
 3時の電車で隣駅へ行き、ロンドン帰りの医者のいる病院へ行く。彼は、インドへわざわざソーシャルワークに来たのだから、と診察代をとらなかった。私は医学用語の英語がだめだったので、このとき帯状疱疹の病名はわからなかったが、水疱瘡のウイルスが関係していることと疲れて体力が落ちると出やすいことはわかった。薬を5種類出してくれる(薬代は払う)。英語で書いてもらった診断を帰国してから日本の病院で見せたところ、この診断で正しい、処方も正しいと言っていた。
 オフィスに戻り、いったんカルカッタに帰ると言ったが、がっかりされ、たいした病気ではないと言うので、そのままオフィスに泊めてもらうことに。最初の数日はほとんど何もせず寝ていたが、奥さんがお湯で患部を温めて湿布してくれ、これでだいぶ楽になった。それまで冷やしていたのだが、温めるとよいようで、冷やすとかえって痛みが増すようだ。

池

 オフィス兼用の住宅には、昼間から親戚だの友人だの村人が次々やってきて、チャイを飲みつつしゃべっていた。人の行き来はかなり気安い。ただ、寝る前の戸締りは厳重で、一階の出入り口には鉄のカーテンドアがついて、しっかり鍵をかけていた。最初日本人がいるからかな、と思ったが、いつでもこうしていると言う。インドの農村は日本の農村とかなり違う。金持ちそうなレンガ造りや漆喰塗りの家は窓に鉄格子がはまっている。鍵をかけずに外出できる日本の田舎の感覚とはまったく異なる。
 体調がよくなってくると、一家の12歳になる男の子が友人宅に連れていってくれた。彼は勝手に友人宅に上がり込み、どんどん中まで案内してくれる。家の中でその家のおばさんに会っても、おばさんも平気で当たり前のように対している。日本も昔はこんな感じだったのかもしれないが、今ではありえない気安さだ。一方、友人はリモコンだのゲームだのおもちゃを沢山持っているので、それを上手に利用しているようなしたたかさも感じた。
 村の女の子たちは、カルカッタに通って働いたり、学校に通っている子もいた。女の子たちは、昼間は駅まで歩くが、日が暮れると必ずリキシャで帰る、夜は危ない、という。彼女たちや一家の男の子は、カルカッタの男はよくない、と口をそろえて言う。外人だけじゃない、私たちにもI love youだの色々言ってきていやな思いをしている、と言っていた。

 体調が回復した最後の日、オフィスの人に村を案内してもらった。
 田んぼで稲株を掘り起こしている人々がいるが、あれは牛糞すら買えない貧しい人々が燃料にするためだ。村で生活向上プログラムを図るのは大変だ。みな自分のことしか興味がなく、村や国のことまで頭が回らない。不正直でずるいところもある。運転手として1日30Rsプラス食事で村人をやとったこともあるが、かえってよくない。気を長くもって徐々にやるしかない、とそんな話をしてくれた。

ジョーグラム

 カルカッタに研究目的で滞在している日本人から、ベンガルで外国人の泊まりやすい田舎はシャンティニケタンとジョーグラムだと聞き、ジョーグラムへ行ってみた。ハウラーから直行はなく、カラプールで乗り換えるのだが、さいごまでどの列車がカラプール行きかはっきりせず、右往左往した。まわりのインド人も同様で、放送を聞いては羊の群れのようにあちこち移動していた。11時27分、カルカッタを出るとすぐに田んぼの風景、水の張られた田も多く、トラクターで起こし田植えをしている人々もいた。水のない畑には牛が放牧されている。列車の中には、例によって歌を歌う物乞い、不具者の物乞い、ぶどう、オレンジ、ドロップ売りや靴磨きが一駅ごとに乗っては降りてゆく。
 2時過ぎにカラプールに着き、2時50分のボンベイ・エクスプレスに乗り換える。田んぼの広がる光景とはうってかわり、潅木の茂る荒れた大地が続く。3時半頃ジョーグラム着。政府のツーリストバンガローが満員だったので、別のホテルへ向かう途中、ゲストハウスを見つけて寄ってみる。なんと、丁度今日オープンしたばかりで、あなたが2人目の客だという。ダブルで40Rs、もちろん新しいのできれいだ。タヌキに化かされたような気がしなくもないが(ちょっとメインロードから入った林の中にあるし)、マスターもたむろっているベンガル爺さんたちもいい人のように見える。荷物を置いて6時頃まであたりを歩いてみた。
 NGOで訪れた郊外の村よりもさらに田舎で、レンガ造りの家は珍しく、土壁と藁葺きの丸い小屋が多い。完全な農村地帯で、子供らや女性が不思議そうに私を見る。そしてネパーリー?とよく聞かれた。この日は学問の神様サラスヴァティのプージャ(お祭り)だそうで、カルカッタでも2,3日前から琵琶を持った女性の神像が大小様々売られていたが、今日はその像を収めた紙製や布製の輿が沢山出ている。音楽が流れ、ディスコっぽく踊る一群もいる。まだ体調が万全でないので、無理は避け、宿に戻る途中、夜道を祭りへと急ぐ5,6人連れの女の子たちとすれちがった。彼女らは私を見てクスクス笑いながら道を避けた。こういうことをされると、ちょっといい気持ちはしない。日本で外国人がガイジンガイジンと言われ、いい気がしないのもわかる(最近はもうあまりないようだが)。

農村の道

 翌日、朝食後に村を突き抜ける大通りを南へ向かってずっと歩く。潅木の台地や田んぼが続く。牛を使って田起ししており、田植えの最中だった。しばらくゆくと、林になった。林の中は、表土が雨で削られたのかそういう種類なのか、木の根が露出しており、奇観だ。道は多少林よりも高くなっている感じで、洪水になることがあるのかもしれない。歩みをとめ、林の中に入ると、葉のはらはら落ちる音が雨のように降り注ぐ。葉が何かを語っているようで、不思議な体験。
 道はけっこう人が歩いている。さらに行くと潅木の台地で、ところどころサボテンもある。牛が放牧され、お婆さんが追っていることもあり、潅木を食べている。潅木地帯で道からちょっとはずれ、中まで入ってみた。道の周囲では潅木はまばらだが、奥は茂って広がっており、細い道がついていた。この奥にも人はいるのだ。(写真は同じ西ベンガル州ミドナプール周辺の農村の道)

 次の村を過ぎたことろで、だんだん人気が少なくなってきた。そこへバイクに乗った二人連れがやってきて、何かさかんにベンガリで話しかけてくる。何となくいやな感じがして無視するが、ちょっと先までバイクで行っては待っている。ますますやばい気がしてあたりを見渡すと、広がる大地でヤギを放牧している少女二人と女性が見えた。そこで道をそれ、彼女たちのほうへ寄ってバス停はどこかと声をかけた。お互い言葉がまったくわからないのでらちがあかないが、彼女たちもこちらへやってきて、ベンガリでさかんに話かけてくる。ルピーがどうこう言っているので、バスに乗るお金のことかと思い、持ち合わせの10ルピー札4,5枚を見せた。小額紙幣だしこのくらいならと思ったが、それでも驚いた様子で紙幣を見ている。そこへ自転車に乗ったおじさんが通りかかった。多少英語がわかり、バス停は1キロ先だ、このへんはthiefが多いからジョーグラムへ戻ったほうがいい、という。そしてバス停まで案内してくれた。このとき、もう男たちはいなくなっており、途中どこから来たのかもう一人老人も加わってきて、二人で喧々諤々何事か話している。
 1キロ先のバス停でどこへ行くつもりか聞かれ、村を散歩していると言っても通じないので、バスが行く先にすることにし、どこに行くバスか聞くとカラプール、ミナプールと言うのでそこに行くことにする。そこへ別の爺さんが黄色い自転車でやってきて、ここはローカルバススタンドだ、ミナプール行きバス停はもっと先だというようなことをベンガリで言う(推測)。そこでそのバス停に行くことになり、黄色い自転車の爺さんとバス停にいた人懐こそうな笑顔の男の子もついてきた。二人とも親切でついて来てくれている感じがわかったので、そのまま一緒に田んぼ地帯を抜け、次の村に入った。村はずれのバス停はローカルだとのことで、村の中心まで行く。バス停近辺には、十数人くらいたむろっていたが、皆なんだなんだとと問いはじめ、爺さんもジャパニがどうこう、と説明を始める。眼鏡をかけたおじさんが自転車で通りかかり、英語で外人で言葉もわからずdangerousだと言う。ミナプールは危険な町かと聞くと、ミナプールは大丈夫、でもさっき抜けてきた村はとても危険なところだ、というので、外人だからか、女だからかと聞くと、外人だということはnothing、女だからだと言った。村人がどんどん集まってきてこちらを見ながら勝手にしゃべっている。一人がバスを待っていた子連れの女性二人を連れてきて、この人たちもミナプール、カラプールがどうこう言う。ついにバスが来た。このとき、例のバスの屋根に乗る体験をしてみたかったので、バスの後部に付いているはしごに登りかけると、またノーノーと大騒ぎ。英語を話すおじさんは、女が男の頭上に座ってはいけない、と言った。爺さんたちは「乗れ乗れ」と中に乗せてくれ、ミナプールと車掌に告げると、爺さんも男の子も村人たちも、やれやれ、といった様子で去り始めた。その背中にThank youと言ったが感謝の言葉を待つ様子もなくすでに歩き始めたおじいさんには聞こえなかったみたいだ。すぐに、そうだ、ドンニャバードと言おうと気づいたときにはバスは走り出し、爺さんは遠くなっていた。
 バスは台地のような地形をひた走る。一箇所植林されている地域があり、それが生半可な規模でなく、ずっと見渡す限り奥まできれいな直線で何十列、何百列にも植えられていた。バスはかなりのスピードで飛ばし、次々トラックを追い抜く。一度停車したところで車掌と女性たちが何か言ったが、よくわからなかったのと小さい町のようで帰りが不安だったので、終点まで乗ってカラプールまで行った。二人の女性も降り、次にどこかへ行くバスを待っているようだった。
 カラプールは列車を乗り換えた町で、駅前がバスターミナルになっていた。バスがなくても列車があると思えるのは心強い。適当に街中をぐるっと散歩してクッキーやチャイをつまみ、彼女らのところに戻ってパックのマンゴージュースをプレゼントした。そしてジョーグラム行きのバスを待っていると、今度は彼女らがぶどうをお返しに持ってきて、例によってベンガリでさかんに話しかけてきた。通じなくても意に介さず話し続け、どうやら子供の話のようで、適当にうなづくと喜んで話を続ける。そしてジョーグラム行きのバスをあちこち聞き始め、こっちだと連れてゆく。行った先でも、周りがどこへ行くんだ、何しに行くんだと人垣ができる。どうやら、周りの人と全くコンタクトをとらないでいるとほっておかれるが、誰か一人とコンタクトができると急にその人を介して皆世話好きになるようだ。一見他人に興味なさげに見えて、実は興味津々で見ている。でも誰も英語ができないので話が進展しない。ついに誰かが英語の出来る人を呼びに言ったらしい。中国人だと名乗るモンゴル系の男がやってきて、英語でいろいろたずね、みなあなたを全く理解していないと言った。さいごにお茶を飲まないかと言うので早めに戻りたいと断ると、あっさり去っていった。周りは私がジョーグラムに行くことを確認したようで、納得顔で大人しくなった。一度違うバスに近寄りかけるとノー、ノーと大騒ぎ、やっとジョーグラム行きのバスが来て教えてくれる。そしてすぐにまた物売りの屋台やそれぞれのバス停に戻ってゆき、女性たちも去って行って、お礼を言う暇もない、という感じだった。このへん、ドライだ。インドの人は、実は世話好きで、見返りを期待しない人たちなのかもしれない。現地語ができないと、このへんの感覚がつかみにくい。英語だけだとどうしても観光客相手の人か英語のできる層に偏るので、交流範囲は限られてくる。

 バスは大混雑、隣の一家が奥さんが一人子供を抱えて座り、立っている旦那も片手で子供をかかえていたので、その子を膝に乗せた。最初旦那は不安そうだったが、奥さんはそのほうがよいというように私に預けた。バスは確かにジョーグラムに戻り、村の中を散歩。潅木に入る道を行ってみると、小道沿いに土壁の家やレンガ造りの家がぽつぽつ並ぶ。土の家には木の枝の柵が周囲をめぐり、もちろん電気は引かれていない。子供らや女性が不思議そうに私を見送る。
 宿に戻りかけると、眼鏡の老人4,5人連れに会い、一人がタゴールを知っているか、今日本に住み日本人と結婚しているが、と聞いてきた。私が知っているのはベンガル文学で有名なタゴールで、存命中のそのタゴールにことはよく知らないと言うと、そうか、あのゲストハウスの人からあなたがジャパニだと聞いて、そのことを聞きたかったと言った。文豪の息子だか親戚だかが日本とつながりがあるらしいことを聞いたことはあるが、電気の通らない村人がそうした話をすることに、何か雅(みやび)な印象を受けた。英語ができるできない、表面的な貧しさ豊かさとは別に、かなり文化度は高いのではないか、古い豊かな文化が村々に浸透しているのではないか、という気がした。

 宿は2泊3日間、安心して泊まれる気持ちのよい宿で、英語が堪能で育ちのよさそうなマスターは、料理を作ってくれる女性と夫婦だった。

水田      ベンガルの水田

もどる    つづく


旅  行  記

モンゴル1995    チベット1996    ラダック1997    ナガランド1997    ミャンマー2000
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ドイツ
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徒歩旅行(四国へんろ、東海道、奥の細道)  山歩き(里山、日本アルプス)

ボ  ラ  ン  テ  ィ  ア  記

阪神淡路大震災ボランティア記録

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