その6
もどる つづく
インド映画−4本の映画評
滞在中、けっこう映画館に通った。毎日路上生活者がいっぱいの道と施設を往復していると、娯楽に飢えてくるのだ。日本で生活しているときよりも、現実を離れた体験をしたい!という欲求が強くなる。
宣伝の絵で決めた題名不明の映画。とにかくよく人が死ぬ。ヒロインの女性はだまされて強姦され売春婦に、その友人は強姦されて殺される、主役の男性もあちこち刺されて殺されかける。主役は警官で、町の悪と戦うのだが、周りの人が次々と殺されてゆく。途中、突然ヒロインたちが服をチェンジし、セクシーなインド舞踏を歌い踊り始める突如ミュージカルシーンもあれば、インド地図に鎖でつながれたヒロインや生活にあえぐ人々の生活風景を背景に、Oh,India,Indiaのリフレインで歌が流れる社会派っぽい味付けも。悪人は徹底して悪人で、さいごは悪党一味全員殺されてハッピーエンド。館内の雰囲気は、以前浅草にあった花月劇場で任侠映画を見たときによく似ていた。主役の、正義を求め邪悪を糾弾する演説に拍手が起こり、立ち回りにも拍手、悪人には舌打ち、死ねば拍手、公正な裁判官の裁きにも拍手。花月劇場にも、悪人の言い分には「どーもこいつは気にくわねえ」と首ふるおじさん、悪人が殺されると「やっ!」と掛け声かけて拍手しているおじさん、おじいさんがいた。客は家族連れも多い。インドの俳優は、イタリア系かと思えるほど色が白い。そのへんで見かけるインド人に比べてもかなり色白の人ばかりだ。
Insaf ki Pukar。当時街中あちこちの映画館でやっていた人気映画。House fullの表示が多く気になっていたのと、警官姿の女性のかっこいい宣伝絵にひかれて見る。混んでいてみな殺気だっており、席につくまで一苦労。券は座席指定なのだが、席案内の人に聞いても場所がよくわからず適当に座ると、怒ったインド人からJapani、Japaniと怒鳴られて追い出されるし、さんざんだった。が、映画はかなり面白かった。まず映画が始まると拍手がおこり、最初からすごい熱気。途中、どうして悪人らが主役の敵になったかの説明の部分で少々だれたが、前半とラストはテンポよくひっぱりGood!主役の女性はバタ臭い大柄(多少太めの)美人で顔は嫌いだが踊りは抜群、女性警官は顔やスタイルは今風で格好よいのに、踊れないのが残念。この映画も警官もので、警官の汚職、罪無き人を殺し、女を犯し(親子連れで見に来ている人も多いのだが)、そして正義の味方が彼らをやっつけるという前と同じストーリー。ただ映画としてはインサフキピューカーのほうが圧倒的に面白い。仕草やエピソードもコミカルでよく笑いを誘っていた。客の乗りもよく、歌がはじまれば手拍子、せりふがおもしろければどっと笑い(ここで笑えないのが残念)、悲しい場面(単に母と子の再開場面などで)隣の男も涙、涙、正義の味方やヒロインたちの危機に助っ人が登場すれば拍手、なんと素直で古典的な観客だろう、とそちらにも感心。やはりインド映画はインド人観客と一緒に見ないと。
ところで、映画の格闘技の部分がカンフーに似ていたので、もとからインドにもそうした格闘術があるのか気になった。で宿に戻り、アンジェリーやサンギッタたちに聞いてみる。題名は「Call me justice」の意味だという。カンフーアクションは「中国映画をまねているのよ、インド古来のものではない」「髪が黄色い人もいるのは、栄養状態でそうなることもある、それでインド人は髪を黒くするためにオイルを塗る」「映画の中でときどき、ヒンディーに混じってPlease sit downやyour welcomeといった英語のフレーズが聞こえるのは、日常会話の中でも、ヒンディーにはそうした英語のフレーズが取り入れられているのよ」と言う。
この映画は気に入って3回見た。ビデオも出ていたので、買って帰ろうと思ったが、方式がイギリスなどと同じパールシステムとかで日本とは異なることがわかり、あきらめた。
Baj-Ranglli。ハヌマンとクリシュナの魔王退治映画。インド版スーパーモンキーで、その強さとひょうきんさに観客は拍手喝采、人気者だ。前半のクリシュナのいでたちは古代日本や中国のようだ。頭の上で髷を結い、服も似ている。神話の女神も日本古代のよう。妖怪も跋扈し、特撮が多いので画面が白ずんだ不思議な色調だった。魔王を退治し妻を取り戻し平和な日々が訪れるが、なぜか理由はわからなかったが后は再び悪者によって野へ追放され、子供を産み、10年位後にクリシュナと再会するが、それで責務を果たしたとでもいうように母と共に大地に飲み込まれ、クリシュナも後を追って大河に自ら入ってゆき、天国で再会するというお話でした。城に住んでからのクリシュナや高官たちの衣装、髪型はスペイン貴族のようだった。サルの軍団が石を運んだり踊ったりする場面はコミカル、空を飛んだり電飾山での決闘など、なかなか楽しめた。
Kaashi。ロングランの映画で、家族連れが多い。はじまりにYokohama Productionと出たのであれ、と思ったが、内容は日本とは全く関係なし。出だしから文芸映画的で、やはりミュージカルだったがかなり暗い。人物像も善人悪人と極端でなく、良さも嫉妬も併せ持つ複雑な(というかそれが普通だ)キャラクターで、それだけ俳優もステレオタイプでない、内面的な演技が要求されてくる。女主人公が白人のキャリアウーマンのような顔立ち、かつセンスの良い細面の美人で、Yに帰って女学生らに題名の意味を聞いた時、誰もわからないと言っていたが、「あの女の人、本当に美人だよねー」と彼女たちも言っていた。文芸ものになってくると、語学力がないと内容についてゆきにくくなるが、大体の内容は、ヒロインは映画スターと結婚した女性、しかしスターは今や落ちぶれて飲んだくれ、ついに二人は離婚し、子供は父に引き取られる。だが子供が不治の病にかかり、他の男と暮らしていた女はその男の許可を得て再び親子三人で最後の数日を過ごす。子供があの世へ去った後、二人はお互いまだ愛し合っていることを悟る。一方、妻には必ず自分のところへ戻るよう、スターには妻を取らぬよう誓約させた男も、二人を思って女が元の男のところへ戻ることを許しThe End。テーマ音楽も暗く、はじめのほうはかなり文芸作品調で、最初なぜこんな地味な映画がインドでロングラン、毎日ハウスフルなのだろう、と思った。しかし見てくゆうちに、暗くても彼らの生活はとてもリッチ。映画スターとカメラマンの美男美女のカップルも夢を誘う。後半は家族愛の物語で子役もかわいい。出来は見た中で一番良かったかもしれない。ただ個人的にはインサフキピューカーのほうが好みだ。
当時、短い滞在期間ではあるけど、それにしてもインドの庶民が出てきてその哀歓をほのぼのと描く、といった映画をみかけないなあ、と感じた。そういう需要がないのかもしれない。ふと、日本の戦後貧しい時代、いわゆる小津、成瀬といった地味な素材をテーマにし、物語も地味な映画がよくヒットしたなあ、と思った。その審美眼は誇りにしてよいかもしれない。
おまけ − サーカス
パークサーカスMaidenで一ヶ月ほどサーカスをやっていたのを、プレムダンの帰りに見かけ、夜7時からの回に行ってみる。15Rs。
昭和初期のサーカスがこんな感じだったのでは、と思われるほど古典的なサーカスだった。美少女、猛獣、大男、大女。特に少女たちは4〜5歳くらいではと思われる子から15,6歳くらいの子達が、命綱なしで空中ブランコ、器械体操とかなりのことをやる。ニコリともせず、エンターテインメントとは無縁の演技。最初と最後に演技者全員で世界各国の旗を両手に持って会場を一周するが、そのときニコリともせずひたすら機械的に旗を振りつつ歩く4歳くらいの少女の姿に、「われら日本人」(平凡社)で見た昭和初期、売られた同年齢くらいの少女が懸命に(それこそニコリともせず)角付けをしている写真の表情を思い出した。客入りは半分くらい、ドワーフの道化にはよく笑っていたが拍手はあまりしない。終わりもあっけなかった。トラの輪くぐりが終わったと思ったらみなで一周して何の放送もなく終わる。物売りが大勢おり、7,8歳くらいの少年も多い。客は家族連れが多く、買う側の子供と売る側も子供と。しかし卑屈さはなく、むしろさかんに売り込んで商売に徹していた。
展示会
Used Bengali Book Fair。ビルラで開かれていた。入場料50パイサ、インドの出版社の出店が沢山並んでいる。中国、バングラデシュ、そしてソ連関係の本屋も多い。Blind Boys Schoolも店もあり、点字本を展示、よくバスの運転主席のお守りで見かける人の肖像画がかかっている。帰ってからYの女学生らに聞くと、ラーマクリシュナだ、様々な学校や病院を建てた人だという。子供向けの本、ホラー、伝記、麻薬関連、百科事典、大学出版その他様々な特色ある本屋が並ぶ。日本の平安時代の絵が表紙の本もあった。
LEXPO XII。革製品の店が多くでており、ディスカウントもあるようで女性が大勢来ていた。ここも入場料50パイサ。綿菓子を売っていたが、これ、てどこにでもあるものなのだろうか?会場に来ている若い女性や洋装の若者たちは、道端で食べ物を売ったり食べたりしているクルータ姿の青年やおじさんたちとは、明らかに階層が異なる。別世界だった。アンジェリーたちもこのフェアに行った、と言っていた。
遊園地
パークサーカス・メイダンには遊園地がある。観覧車は人力、足で漕ぐ方式ですらなく、お兄さんたちが箱に手をかけて回していた。
余談
インドは痴漢が多いという。この滞在中、一度映画館から出る混雑でお尻を触られたことがあっただけで、それ以外は痴漢系の被害にはあわなかった。巷で言われているほどではないような気がするが、日本でもあわないタイプなのと、比較的大人しいといわれるベンガル人の地しか行っていないので、明言はしかねる。
安宿体験
バングラデシュから戻ったとき、数泊安宿を体験したので、その話を少し。
バンコクへ発つまでの数日なので、話のたねにサダルストリートを体験してみる。
救世軍へ行くが満室だったため、ホテルマリアへ。屋上なら空いている、とのことで、屋根のある部分の下にベッドが10くらい並んでいた。ドメトリーだし洗濯物を干しに他の客も来るので、皆荷物はクロークに預けていた。1泊10ルピー。
ここの屋上ドメトリーは欧米人のみで一つの世界を形成していた。フレンチカナディアンだという男性がさかんにしゃべくりまくり、聞いているだけで面白い。カナダでは狼を殺しすぎたのでウサギが増え共食いをしている、写真まで撮った、と言うので女の子たちが写真に撮ったのか、とケラケラ笑う。中国でも雀を殺しすぎて害虫が増えた、アフリカの飢餓もコーヒーを作れば儲かるというので皆が作りすぎたからだ、you can't eat coffee, you can drinkと陽気に言ってまた女の子たちがケラケラ笑っている。そして突然by the way, 君の名はと女の子に聞く。そして女の子たちに自分の住所を教えながら、My mother can speak English, French, Spanish, Portogese, だからこの4つの言葉のどれかができればママと話せるさ、と言ってまた女の子たちからyou are a starと言われていた。
彼は新しい女の子が来ると必ず声をかける。ただし麻薬はやらない。トレッキングに行っては、宿に戻っているようだった。
屋上に常駐している白人男性3人組は麻薬を吸っていた。smokeと彼らは言っていた。夜になると、スタンドランプのようなものの周りに集まって吸っている。髪型からベイビーライオンと呼ばれている若い金髪巻き毛のイギリス人の男の子は、よく空咳をしていた。腕も背中にも刺青がある。まだ10代のように見え、彼も友人たちも皆かわいい顔立ちをしていた。マザーハウスのミサから戻ると、ベイビーライオンがベッドの上にぼーっとうつむいて座っていた。大丈夫かな、と思っていると、フレンチカナディアンが彼に話しかけ、トレッキングの話を面白おかしくしてみせた。彼は僕もトレッキング行きたいなとぽつんと言った。彼らは目が合うと必ずgood morningだのきれいな笑顔で会釈し、崩れた感じはない。でもこのまま宿で麻薬吸ってすごすのだろうか、将来どうするか考えているのか気になったし、やはりYWCAに泊まっているタイプの白人たちとは違う感じだった。
屋上の10番目のベッドは宿のマネジャーのものだった。彼はなぜかここで寝ている。一度白人たちにdon't smoke hereと言っていた。ふと、こうやってドラッグ吸いながら安宿に滞在する外国人を、インドの人はどう思っているのだろうと思った。昨晩マネジャーが元気なかったとある女が言い、多分誰かがお金払わないでrun awayしたからさ、ともう一人が言って笑っているのが聞こえた。そういえばおととい遅くついた男性の姿が見えない。マネジャーがやってきて、一人一人当日までの部屋代を請求に来た。大変だなと思う。
ナンを揚げる
インド長期滞在者の話
滞在中、ベンガルの大学でベンガル文学を学んだ人たちに、インドやカルカッタの状況について話を聞くことができた。とても参考になったので、そうした話をいくつか。
カーストが低くても金持ちはいる。日本でも名門で落ちぶれている人や、部落出身でもいい暮らしの人がいるのと同じ。金のあるほうが強い。カーストが低くても豊かなら子供を学校へやれるし、そのことが一つのステータスシンボルになっているようで、私たちもよくインド人から、子供を学校へやっているかと聞かれる。でも結婚は大変で、そういう時や互助組織のような時にカーストは生きてくる。また、カーストの低い人が企業や役所の上のほうにいることもあるが、大抵は隠している。何かでばれると、下が動かなくなって結局居づらくなることが多い。
バラモンの人で貧しい人は料理人になる。自分より低いカーストの人が作ったものを食べたがらないことが多いからだ。
様々な書類には、必ずカーストを書く欄がある。カーストは顔つきや仕草から大体わかる。
外人はアウトオブ・カースト、不可触賎民と同じため、痴漢被害にあうことも多い。外人はフリーだというイメージがあるのと、アウトオブ・カーストだから何をしてもいいと考えるのと両方ある。田舎では不可触賎民の女性が強姦されることは珍しくない。
民族的にインド人は混血でなくても青い眼や緑の眼の人が出ることがある。カーストは職能別だが、人種的な要素もある。基本的に色の白い人は高いカーストの人が多く、色の黒い人は低いカーストであることが多い。色の黒い高カーストの人はいるが、逆はほとんどない。だからたとえば映画スターは色が白くなければスターになれないが、低い出自からスターになるアメリカンドリームのようなことはボリウッドの場合ありえない。肌の色(=カースト)で、スターになれるかどうか、決まってしまうからだ。
カースト問題があり仕事もないので、外に出たがっているインド人は多い。アメリカのコンピュータスクールはインド人だらけだ。
インドでは結納金が少なかった新妻は焼き殺される、という話がある。本当にそういうケースもあるだろうが、もう一つ、ひらひらしたサリーには火が付きやすいというのもあるようだ。特に最近は化繊が多いから、いったん火がつくとたちまち火だるまになるケースもあるらしい。
路上生活者の女性は、長いサリーを動かして体に巻く部分を変えながらサリーをちゃんと洗っている。
売り手はインド人に対してもふっかけてくる。金持ちはバクシーシのつもりでそのまま払い、値切る人は値切っている。一方、そんなものは半値で買えるはず、というインド人もいるが、物にもよるし、下の階層の人は安いものしか買わないので、よい物を見てもわからないから値段を知らない。逆に上の階層の人が、よくそんな安く買えるね、ということもある。
皆に見えるところで買うときは、店の信用もあるし、他の地元の人も見ているから悪い噂はすぐ広がる社会なので、むちゃくちゃは言わない。中にもっといい物があると奥に連れていかれるときは危ない。ただし、ニューマーケットやサダルストリートのようなところは特別だ。
長年インド人とつきあっていると、いい人、悪い人は勘でわかる、顔に出ている。やはりいい人はのんびりしたいい顔をしている。直感、特に会った最初の印象はあたる気がする。最初にコイツやな奴だなと思った人は、大体だめなことが多い。
最初にインドに来たときのカルカッタの路上生活者の数は、現在の比ではなかった。バングラデシュがパキスタンから分離独立した直後にインドに来たが、その騒ぎで多くの難民がバングラデシュから流れ込んでいた。その前からイスラム教国の東パキスタン(現在のバングラデシュ)に住むヒンドゥー教徒の難民がカルカッタにいたりしたので、当時BBD Bagにも路上生活者が溢れ、足の踏み場もないくらいだった。ジョークで、乞食(路上生活者)の赤ん坊を踏み殺したらいくらか、という話があったくらいだ。今はBBD Bagもすっかりきれいになり、路上生活者は一人もいないし、カルカッタ全体もだいぶ落ち着いた。
ベンガル人はモンゴル系の血も混じっており、デリーあたりの人に比べると割とぽーっとしており、おだやかな人が多い。一方進歩的で権利意識が強く、デモとストライキはベンガル名物、共産主義の力も強くて、そのため中央政府からどんどんお金がおりなくなり、見放されつつあるという。カルカッタ全体が凋落傾向にあり、以前イギリス統治時代は首府だったが今はデリーに移ったし、企業のオフィスもニューデリー、マドラスに移りつつある。
カルカッタのバスは基本的にそれぞれ独立採算制。そのためどのバスも激しい呼び込みをやっている。売り上げが直に収入につながる。
バスや列車の上によく人が乗っているが、あれはスピードが出ていないからできる。市内だと40キロも出ていないのではないか。道路事情も悪くてスピードが出ないが、もし日本なんかで上に乗ったら危ないはず。ただ、郊外で上に乗っている人が木にぶつかって落ちる話はある。
リキシャはひっくり返ることがあるので結構危ない。今まで何度か、リキシャの手が滑って後ろにひっくり返ったのを見たことがある。
バスやトラム、列車には運賃を払わない人も乗っている。よく車掌の切符代の求めに首を振る人がいるが、あれがそうだ。
大学で学んでいた頃、回りで洪水があったりすると覆面強盗が大学のある町までやってくる。ドドドという足音でわかるから、「来た来た、早く帰って戸を閉めて寝よう」という感じだった。自分たちは周りのサンタル人という部族の人たちと仲良くしていたので、今日は来そうだというと彼らが来てテラスで寝泊まりしてくれ、襲われたことは一度もなかった。しかし次にその家に入った男の子は近所の人と仲が悪く、何度もやられた。彼はまわりが手引きしたと恨んでいたが、彼らは手引きはしない。ただ助けないだけだ。
インドの大学生は超エリートで、国立大学の卒業式は首相自ら(州の首相の場合もある)卒業証書を渡すが、インディラ・ガンディーのときは地上に降りずにヘリコプターからばらまいたことがある。卒業式そのものが卒業の年にあるわけでなく、何年か後にある場合もあり、知り合いのインド人が「やっと今日証書がもらえますよ」とめかしこんで出かけてゆくこともある。
シッキムはもともと別の国だった。ところがだんだんインド人が増え、国会議員にもインド人が増えていった。そしてインド人議員が過半数を超えたある日、突然シッキムはインドの1州になりましょう、という法案が通って合法的に乗っ取られてしまった。このへん、インド人はうまい。中国人のように解放軍の侵攻などという野暮なことはしない。シッキム王国のお后はアメリカ人だったが、アメリカ議会に持ちかけてもどうにもできなかった。
(注:イギリスに駐在していた日本人が、イギリスで子供の学校の授業で、いかにAさんの物を合法的に取るか、という授業をやっていた、と言っていた。そういうことを子供の頃から徹底的に叩き込まれ、法律にも詳しくなるという。インド人のやり方は、イギリス仕込みかもしれない。)
インド人と中国人は折り合いが悪い。長年インドに関わっているが、インド人と中国人のカップルというのは一度も見たことがない。どちらも自己主張が強いから、水と油なのではないか。外では華僑の力の強い中国人も、インドでは割と大人しくしている。ただ、中印国境紛争のときは中国が勝ち、喜んだ中国人たちがカンフー映画をまねて通りでヌンチャクを振り回したりしてみせたことがあった。でもその後、かなりの中国人がインドを出て行った。
今は減ったが、”崩れる”外人は日本人よりも欧米人に多い。特にフランス人は大麻が好きでカップルで崩れているのを見る。女の子はカワイイ子が多いが、男は異様だ。
日本人は、インドを長く旅行しているとストレスが溜まって”いきなり爆発する日本人”になる人が出てくる。気が短くなり、何でもないことですぐ怒鳴ったりして止まらなくなる。
このほか、NGO系のオフィスで会った日本人の話。
女性のSさんはベンガル語ができるそうで、LEXPOで1日500Rsでバイトしていた。はじめ200Rsと言われ、日本人なら寝ているほうがまし、と言って1000Rsと言い、500Rsで折り合いがついたそうだ。彼女は毎年インドに3ヶ月くらい滞在しているという。40代過ぎで、多分このまま独身だろうからとガンジス川のほとりに庵を買ってある。インド人も死期を悟ると最後はそうした庵で暮らしそこで亡くなるそうで、庵は終身契約でかなり安い。
Kさんは、村の名前から大麻があるのではないか、とインドネパール帰りの人々が多く入植している日本中部の村で有機農業をやっている。でもそれも大変だ。そこから雑草の種が回りの畑に飛び、村の人々と軋轢がおきる、意地になって草むしりするようになり、何のために有機農業やっているのかわからなくなる。インドと同じ、村の人々もただでは親切はくれない。でも村の人たちだって自分たちの食べるものは無農薬で作っている、徹底しているよ、という。
彼らはビザが切れても滞在し続けている日本人を何人か知っている、と言っていた。ネパールとインド国境を行き来して貿易で食べているという。ラマ僧の格好をするとノーチェックで国境を通れるので、その格好で行き来しているとの話だった。
雑談
カルカッタに長期滞在する日本人は、インドの長粒種は口に合わないので、ブータン米を買って食べていた。短粒種で長粒種のような独特の香りがなく、食べやすいが、ブータン米は高い。
ところでこのとき、YWCAに泊まっているという話をすると、「どっちのY?」と聞かれた。フリースクールストリートにあるYWCAはインドの女学生が多く、そこの子が売春をしたという噂で問題になったことがあるという。また東銀の北のほうの一画に売春街があるとの話だった。
ある金持ちの日本人家族がいて、そこの両親は子供は15歳になったら独立すべきだというポリシーがあった。そして二人の子供が15歳になると次々お金を分け与えて家から出した。上の男の子はイギリスの学校に進学したようだが、下の女の子は各地を流れ今カルカッタにいる。そのまま学校にも行かずふらふらしていて、ある時夜街を歩いていて車の中に連れ込まれそうになり、丁度通りかかったタクシーの運転手が助けてくれたという。この少女のことは日本人社会でも問題になっていると聞いた。
NGOオフィスに泊まったある日本人が、コムデギャルソンの10万円のパンツを外に干していて、下に落とした。麻製で日本では高いのだが、インドでは麻は多いし、自分たちが見ても汚れたような変な色のパンツだなと思っていたところ、洗濯物が下に落ちたらまず戻ってこないインド、拾ったインド人は雑巾と思ったらしく、数日後車を拭くのに使われていた。
研究者夫妻は研究の傍らインドで子育てしていた。そのとき、「日本の家族、て楽しくないね。会話がないもの」と言った。インドにいるとその違いを強く感じるという。インドの子供をあやしたりすると、2歳とは思えない表現力で反応したりするのに、日本の子供は元気がない、とも言った。
ところで、インドで会った滞在型日本人はイギリス滞在経験のある人が何人かいた。日本からイギリスに遊びに来た知人らが格好いいという人はたいていインド系で、そんなのインドへ行けばいっぱいいるよ、と答えていたという。またイギリスでは日本人社会が企業グループと留学生グループとに分かれており、マスコミの人は他業種の高給をよくメディアで問題にしているが、イギリス滞在当時最も高給取りだったのは実はマスコミ系だった、そのマスコミ人の中で唯一自分たち留学生と生活レベルが同じ人がおり、どこかなと思ったら世界日報の人だった、という。
トラム
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