イ  ン  ド  滞  在  記

( コ  ル  カ  タ )
マ ザ ー テ レ サ の 施 設 に て

その7

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バングラデシュ&NGOの人の話

 S15番のバスでダムダムエアポートに行き、バングラデシュ・ビーマンでダッカへ。飛行機は大幅に遅れ、3時頃発のはずが7時発になった。約1時間で到着。アラブ風の衣装の人たちがおり、イスラムの国に来たと実感。空港の銀行では円を両替できず、米ドルかポンドのみ、50ドル交換したがこれで1週間もつかどうか心配だ。
 バスがストライキで走っておらず、明日もストだという。バングラデシュのNGOと関係のある日本人も、イスラム国だから夜の女性の一人歩きは危ない感じだと言っていたので、もう9時だし下手に動かず空港で1晩明かして朝出発することにする。
 空港には他にも結構大勢人がいて、椅子に座っていたり隅で敷物を広げて横になっている。家族以外みな男性。シーツの両側を縫い閉じた寝袋を持参してきたので(これは旅行中重宝した)それにくるまっていると、急にあたりが騒がしくなった。なんと空港内の大掃除が始まったのだ。大勢の人が雑巾を手に手に、床の雑巾がけをしている。日本のように手で押して走るスタイルではなく、ぴょんぴょん蛙跳びのように飛んでは周囲をさささと拭いている。ワイワイしゃべったり笑ったりで騒がしい。椅子もどけるので、椅子で寝ていた人たちも敷物を敷いていた人たちもたちあがってうろうろしていた。やっと深夜の雑巾がけも終了し、また敷物を敷いて横になる。空港の人が心配して職員用の仮眠室があるのでそこで寝たら等々、いろいろ言ってくれるが、人が大勢いてかえって安心のように思ったのと面白いので、そのまま構内で夜を明かした。

 当時ダッカの空港はストライキが頻発しており、その最中空港に強盗団が入った、とカルカッタの新聞で報じていたので、そちらが少々心配だったが、何事もなく夜が明けた。
 赤い政府のバスが動いていたので、それに乗ってエスカトンロードのYMCAへ行き、ドメトリーにチェックイン。

 約1週間滞在したが、交通機関がストライキをしており、あまり動けなかった。それで主に市内探索をした。
 バングラデシュでNGO活動をしている人が、バングラデシュはモノトーンの国だ、イスラム教国で女性があまり歩いていない、インドに来ると色鮮やかなサリー姿の女性も多く、カラーの国だといつも思う、と言っていたが、確かに女性はあまり歩いていない。しかしカルカッタに比べて歩きやすかった。ツーリスト慣れした変な人が話しかけてこないし、道端の果物もインドより安く、素朴な感じだ。外人は珍しいのか、私を見かけると、ベンガル爺さんたちが勝手にジャパニ、ジャパニ、チャイニーズと自己完結して話し合っている。
 車は少ないが、日本車が多くきれいだった。街全体の感じもカルカッタよりも清潔で整然としている。公園も多く(カルカッタは少ない)、このあと北へエスカトン通りを歩いたりショナルガオン周辺を歩いても、スリの心配もなく安心して歩け、バングラのほうが人がいい気がした。厳しい生存競争がないようで、人も穏やかだ。
 道路の信号を守る人や車も多く(カルカッタでは大抵無視、おかげでこちらも車の間をぬって道路を横断する術がうまくなった)警官の指示を聞く人も多い。サイクルリキシャが多く、後部をきれいに飾っている。
 たまに子供が後を付いてきて、バクシーシ、と言ったりすることがあったが、すぐに近くの男性が大声を出して子供をたしなめ、追い返した。これが子供によく効いて、ピタっとついてこなくなった。モラルも機能しているし、誇り高いのかもしれない。
 夜になると街を歩くのんきなバングラ人の歌が聞こえてくる。のどかだ。

 イスラム国のせいか、アラブ諸国の会社やアラブとの関連を示す会社も目に付く。ただ英語の表示が少ない。大企業、公的機関でもカルカッタでは英語とベンガリだかヒンディーだかが必ず併記されていたが、ここは見事にベンガリのみ。そのため、道路名も判別しにくいし、建物が学校なのか政府オフィスなのかもよくわからなかった。自分が文盲状態に置かれていることをひしひしと感じ、漢字と平仮名片仮名のみの地を旅行した外国人も、この感覚なのだろう、としみじみ実感。
 きれいなショーウィンドウを備えた店、ブティックやケーキ屋さんも多く、カルカッタより洗練されている。エレファントロードからYMCAにかけてずっと店が続き、ショーウィンドウも多くて見ていて飽きない。当時カルカッタにはウィンドウショッピングができるような店がなかった。
 そしてトヨタSONYをはじめとする外国製品が氾濫。バングラデシュは最貧国の一つのはずだが。マイケルジャクソンのBADのポスターをあちこちで見かけるし、ペプシもコーラもある。資本主義の国だ。インドは社会主義国で自国の製品がほとんどだったが。店でパンを買うと、テイクアウトの箱がやたらきれいだったりする。日本並みにビニール袋がついてきたりもする。カルカッタでは露店のビニール袋はリサイクル(ごみの山から拾ってきたもの)が多いし、包装も新聞紙だけだった。高級店でも簡易包装で質素だ。この調子で消費していたら、見た目はよくても更に最貧国になるのではないだろうか。日本もそうだが、消費社会には解体機能が備わっていない気がした。食料品などの物価は一般にカルカッタよりも安いようだった。一方、バス代、お菓子代は決して安くない。

 ダッカは朝晩がけっこう冷え、昼間10時頃から2時頃まで日差しが強くかなり暑くなる。
 南のOld City。モティジールのコマーシャルエリアに行くと、銀行や航空会社などのオフィスが多い。
 Sit Misho Road周辺は高級住宅街のようだ。街の北側には蒸気機関車が走っており、線路伝いにゆくとスラムのようになったが、危険な感じはない。後手を組んで歩いている人が多く、すれ違うとベンガル爺さんが後手を組んだまま、じぃっと見送ったりする。
 lalbag Fortへ行く途中、Play cornerで大規模な集会をやっていた。次々旗を掲げた小規模グループが到着しては人数が増えてゆく。どうやら選挙戦らしく、かなり沸きかえっていた。
 Fortは土曜日で休みだったので、近くを散策する。このあたりは下町的雰囲気で、ムスリムの墓地に着く。インドは墓地がなかったので、久しぶりに墓地を見る。ムスリムの墓地はかまぼこ型の土盛りで、金持ちはその周囲を囲ってあるが、土盛りだけの墓も多い。イスラム帽とチャドル姿の女性が墓の前に座っていた。そぞろ歩きのおじさんたちもいる。涼しくなってきた夕方の風の中、静寂な光景だった。
 ニューマーケットの上がモスクになっており、5時45分頃、コーランが流れ始めると、イスラム帽のおじさんたちが続々モスクへ入ってゆく。ここには金銀細工の店があり、金はすべて10g6200タカ、銀1Tula(11.66g、21〜21.5カラット)200タカ。
 露店のシシカバブ10タカ、女性も入っているこぎれいな店のラッシー6タカ、野菜ロール5タカ。屋台のチャイとパンの朝食3タカ、魚カレー14タカ。バングラデシュのほうがスパイスがきつくなく、屋台のものも食べやすい。
 中華料理屋も多く、大きく立派な造りの店も多いが、麺類55タカと結構する。

コミンラ:
 交通機関がストライキ中だったので、あまりあちこちへ行けなかったが、政府のバスが通っているというコミンラに日帰りで行った。
 バスでカラマプール駅へ行き、コミンラへ向かう。同じバスから降りたおじさんが、どこへ行くのか、コミンラなら電車だと駅まで連れていってくれ、自分は時間がないからと近くの人に切符の手配を頼んでくれる。次の人は、列車だと12時発しかない、遅すぎるならサイドバススタンドからバスがある、と警官にバス停の場所を聞いてくれる。今度は警官がリキシャに次々交渉して6タカで行ってくれるリキシャをみつけだし、コミンラ行きのバスまで運べ、と念を押している。リキシャはOKとサイドバススタンドまで行き、大混雑のターミナルでコミンラ行きのバスを見つけ出してくれた。このへんの連携プレーのよさと別れ際のきれいさは韓国のようだ。バス代25タカ。
 バスの車窓は田圃の風景が続く。この広大な大地を人力と牛の力だけで耕しているなんて、みな非常にハードワーカーだ。水も多く、かなりの田圃で田植えを終えていた。男二人組みでロープにつけた箕で水をザッザッと汲み上げたり、一人で水車のペダルを踏んで汲み上げている。固い白っぽい大地では、小さな少女が槌のような形に見える農具で大地を打っていた。見渡す限りの大地には、この少女しかいない。
 バスは2本の大きな川をフェリーで越え、約3時間かかってコミンラに着いた。メインロードをずっと歩いてみる。町から次第に農村風景へ、道行くおじさんたちがジャパニジャパニと話し合い、田畑で農作業中の人が声をかけると、そばを歩く人がさも知ったかのようにジャパニジャパニと返事をしている。いつのまにか大勢子供が後をついてくる。話かけても案の定、言葉はまったく通じないので口々にしゃべっている人たちと一緒に村を歩く。バザールに出ると、魚印の垂れ幕がかかっている。このほか、てんびん、鶏、斧、鍬などの印のついた垂れ幕も村のあちこちやバスの車窓から見かけた。あとでNGOの人に聞いたところ、選挙戦のポスターだと言っていた。文字の読めない人が多いので、候補者や政党別にシンボルマークがあり、それを選ぶ形で選挙を行っているらしい。かなりひなびた感じで、ちょうど暑い時間帯だからか、バザールに人影は少ない。帰りは農道を歩いてみる。子供は家から遠くなったと感じるのか、急に走って戻っていったり、新たに周辺から加わってきたりしながら大勢ついてくる。
 このあたりの農村も、林の中に農家や池があるパターンで、林の外は見渡す限り田圃だ。そうした林に入ると、農家の戸口に女性たちが出てきてじっと見送っている。ときに声をかけたり、手を軽くふるようにあげたり、3,4人で手招きして笑ったりしている。
 町中に戻り、商店街を見て、2時のバスで再び来た道を戻る。

ショナルガオン:
 ダッカ近郊にある古都。交差点でSyadaladバスターミナル行きバスを待っていると、一人のおじさんがどこへ行くんだと尋ね、バスターミナルだと言うと、交通警官を呼び、警官はバスを呼んで乗せてくれる。ターミナルでもどこへ行くんだと聞かれ、かなりの人数が回りに集まっている。ショナルガオンと言うと中じゃない、外で待て、とくちぐちにバスを探し、呼び止めて乗せてくれた。乗ったのを確認するとそのまま散ってゆく。またもや連携プレーだ。ただ警官を信頼しているようすなのがカルカッタとは大違いだ。
 ショナルガオンはコミンラへ行く途中だった。バスを降りて博物館まで歩く。道はレンガ舗装で、周囲の畑に比べ2,3メートル高い堤になっている。池と堤の織り成す風景が不思議な感じだ。時間が早くて博物館は閉まっていたので、奥の市場へ行く。そこにいた老人が、そっちへ行くと古い町だ、と自ら案内してくれた。椰子やバナナの林の中を行くと、古い黒ずんだ幽霊屋敷のような石造りの建物が現れる。ムガール帝国時代のゲストハウスだ、今は色々な人が住んでいる、こちらはイギリス統治時代のものでヒンドゥーのダンスホールだ、2階には学校の先生が住んでいる、等々教えてくれる。王様の住居跡、というのもあったが、誰か人が住んでおりぼろぼろで、大きめの農家のようにも見える。ショナルガオンは金曜(イスラムの休日)にバングラデシュ人がピクニックに来るところだそうで、この日も女の子たちのグループが来ていた。老人の話では、バングラデシュには韓国人が大勢ビジネスで来ていると言っていた。私もダッカで何度かコリアンか、と聞かれた(あとビルマ人、タイ、シンガポールが一回)。
 林のある一帯からさらに奥へ行ってみる。広い大地が広がり、ところどころに木々の植わった丘がぽつん、ぽつんと島のように浮かぶ不思議な光景。丘の上にはそれぞれ家が何軒が立っている。カンジス川が氾濫する季節は家の下ぎりぎりまで水が来るという。去年は丘の2,30センチ上まで水が来た。氾濫は毎年8〜9月頃らしい。徐々に水位があがり、数ヶ月ひかないタイプで、日本のような鉄砲水タイプの洪水とは異なる。小さいあぜ道は低いところにあるが、大きめの道路は土盛りした数メートルほど高いところを通る。丘はさらに高い。周囲は小麦畑で、時にキャベツ、トマト、豆類が植わっていた。
 あぜ道を行き、近くの丘へ行ってみた。村人が出てきてこちらを見ながら大勢で騒いでいる。通ってもいいか、と手まねで聞くと、頷き道を示す。丘の東から登り、家々の南を通り、池の脇を抜け、大きめの高い道をゆく。例によって子供たちが後をついてくる。周囲は田圃のようだが、今は乾いていて何も作っていない。途中、犬の手を引いた(両前足を握っている)お兄さんに会う。犬は後足2本でよちよち歩いている。ベンガリなのでいまいち不明だが、どうやらバザールまで逃げないようにそうやって連れてゆくためらしい。一度犬が土手をかけおりていった。子供たちは「パニ、パニ」と言い、犬は下で水を飲み、再び駆け戻って連れられてゆく。
 モスクへ行ってみるが、その途中、4,5人の若い男性がたむろっていて、ハローハローと声をかけてきた。無視していると、3,4人はすぐひきさがったが一人だけずっとついてきてベンガリでゴチャゴチャ言っている。ベンガリはわからない、と英語で言って無視していると、次第に声を荒げてきた。するとある家から14,5歳の女の子が飛び出してきて、まだ18くらいのその子に何か言っている。男の子もぶつぶつ言い返している。そこへリキシャが通りかかり、大丈夫か、というように立ち止まった。男の子は妹と思わしき女の子に従って戻っていった。モスクは古いが小さい。
 その後も周囲の村を歩く。村の家の戸口には女性たちが立っていて、目が合うと笑ったり手をふったりする。アジア学院にいたときに、バングラデシュから来ていた若い女性研修生が、最初一人で町まで買い物にゆけず、日本人やカナダ人ボランティアの女性に頼んでいたことを思い出した。最初彼女らは「第三世界の女は依頼心が強い」と怒っていたが、こうした状況を見るとわからなくもない。最初一人で自転車に乗って町まで買い物行くの?You are braveと言っていたバングラデシュの女性研修生も、そのうち出かけられるようになった。彼女はその後北京女性会議にも出席するようになり活躍している。

高台

写真は西ベンガル州ミドナプール周辺のものだが、洪水対策に高い土地に家を建てているのがわかる。ショナルガオンの場合、もっと高い小山のような高台がこうした大地に点在していた。


NGOオフィス訪問

 ダッカで、あるNGOのオフィスを訪ねた。オフィスの人は、簡単にバングラの現状を教えてくれた。多少さしさわりのありそうな部分は省略しているが、おおまかな感じはわかると思う。

 この国は国家予算の半分が援助金という国で、ダッカは援助のあだ花だ。
 ムスリムの国なのでほとんどカーストはない、あっても弱い。
 現在交通機関のストライキをやっているが、ベンガル人はわりと穏やかなのでそう騒いでいない。治安もいい。ただ政治状況はちょうどフィリピンのようだ。
 協力隊の人は70人近くいるが、半分以上は仕事がない。大体一国のまともな大人が、22、3歳の言葉もできない外国人に仕事を期待するはずがない。まともな仕事を与えない側の気持ちもわかる。一方、仕事が与えられず何もできない苛立ちを、閉鎖的に集まって愚痴らざるを得ない気持ちもわかる。(こうした話は、実際に協力隊でアフリカに赴任した知人からも聞いた。結局隊員がその地に入ることにより、一緒についてくる援助物資、援助金がほしいのだ、と知人は言っていた。)全体としてみればあまり仕事をしていないが、個々人で見るといい仕事をしている人もいる。たまたま技量があって見込まれたり、本人が積極的に仕事を探して中へ入ってゆくなどした場合だ。
 オフィスの人自身は、はじめは期待を持ってバングラに来たが、仕事が大変でそんなものはすぐにふっとんでしまった。結局その国の農村を知らない外国人が出て行って何ができる、と思うようになった。そこで現場は現地スタッフにまかせて、自分はコーディネーターとしての業務に専心することにした。よい現地スタッフを育てることが重要だ、と話してくれた。

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 バスで空港へ行き、カルカッタ行きを待っていると、日本人に会った。一人でバングラ来たんですか、珍しいですねえ、と言いつつ、5日でバングラにはめげました、すべてワイロの世界だ、税関でワイロに応じなかったら徹底的に調べられ、頭にきましたという。このとき、人によって見える世界が違う、とつくづく思った。お金を持っていそうかどうか、男か女か、ビジネスか旅行かNGOか、すべて異なってくる。彼はもう2度とバングラには来んでしょう、と言っていた。その日本人は宝石商で、タイとインドへ石を見に来た、金銀は世界そう変わらない、ただタイは純金で日本は18金、純金製品そのものがない、色石は日本は高いが中間マージンが高いだけで現地で買ってそのまま売れば日本でも安く買えるはず、タイの色石は買うとき3分の一くらいには値切れる、ガイドに載っている観光客が行くような店はだめ、中国人が行くような店でなければ、と言っていた。

 バングラデシュは旅行者には親切だが、勝手に住もうとしたらやはり住みにくい気がする。インドのほうが外国人を特別扱いしない分、街に住み着いても許容されそうな雰囲気がある。バングラデシュの感じはなんとなく、韓国や日本、中国と似てなくもない。法律というよりも雰囲気がそうなのだ。

バンコク

 ホアラムポーン脇の中華街に宿をとる。これまでずっとYWCAで寮生活のような状態だったり、ドメトリーに泊まっていたので、急に一人きりになり、寂しいことこの上なしだ。
 2月中旬のバンコクは蒸し暑かった。不思議なものでインドにいる間は中華系の文化のほうが合っている、とあれほど感じていたのに、タイに来るとカルカッタが懐かしくなる。そう豊かとは言えないこの国でも(当時まだタイの発展は始まったばかりだった)まっさらなビニール袋がぽいぽい捨てられていた。消費されては再利用されることなく捨てられてゆくのかと思うと、日本と同じタイプの使い捨て文化の国だなと思う。

 チャイナタウンにある金行はどこも混雑ぶりがすさまじい。年のいった中国人は12000バーツの金鎖をバンと買う。最高が500バーツ札なので束だ。若い子は腕輪用のチェーンを買っている。所有している金製品を引き取る窓口もあり、ルーペで品定めしている。言葉は広東語のみ。それでもめげずにインド女性も混じっている。金行の中国人はおそろしいほど英語が通じず、露骨にいやな顔をするが、まったくひるまず全然平気だ。ベンガリがわからなくてもしゃべり続ける例の調子で、しつこく値段を聞き品物を出してくれと要求する。店員はwait!wati!と言ったり手で追い払う仕草をしたり、取り合わないようにするが、ケースのまん前を陣取って離れず、中国人客相手にはじいている電卓をのぞきこんでプライスがどうだとワアワアやるので、店員も早くお引取り願うには相手せざるを得なくなる。

 サイアムスクエアにはそごう、大丸があり、レイアウトは日本とほぼ同じ、日本の10代のようなファッションの子も多い。手に櫛を持って歩いている男の子までいる。旧正月前らしく、丁度辰年だったので吹き抜けに巨大な龍を描いた垂れ幕が下がっていた。
 結構インド人も見かける。チャイナタウン脇の庶民的なマーケットによくいて、ビニール手提げに大量の男物ズボンなど衣料品を買い付けている。高級そうなショッピング街にはサリーを着た母と今風の格好をした娘が歩いている。サイアムスクエアにも結構来ていた。特にシーク教徒はターバンと体が大きいのでよく目立つ。
 白人男性とタイ人女性のカップルをよく見かけ、インドやバングラデシュではまずこのパターンを見なかったので、最初あれ、と思った。

 ダムナンサドワック行きのバスに乗る。椰子林が続く。バス停はあずま屋になっていて、バス待ちだかのんびりしているのか、何人かぼーっと座って休んでいた。2時間少々でダムナンサドワックに着き、ミニバスで水上マーケットへ行くが、観光用の屋形船やみやげ物店が多く、面白くないのでミニバスで近くの列車の駅へ。ここからバンコクへ向かうバスに乗った車窓がよかった。最初はずっと塩田風景で、地平線まで続く水面に竹を編んだ6枚羽根の風車がカラカラと回っている姿は、何か小さい頃見た夢のシーンのようで幻想的だ。道路はほぼ水面と同じ高さを走る。雨季には埋没しそうだなと思いつつ、時に遠くの村のワットが空に浮かび上がって見える不思議な水田をながめる。途中から潅木の茂みに変わった。

 バンコクはきれいになりつつある一方、マーケットで手を差し出していた子連れの物乞いがいた。カルカッタと異なり、わずかな賽銭では暮らせなくなりつつあるに違いない。収入に応じた多様な生き方は、日本も含めたこのタイプの社会では無理になってゆく。最低ラインがあがるのだ。自給自足から、お金のかかる生活に変わる。
 あずま屋の上でのんびり休む人々を見て思った。世の中には、むちゃくちゃ勤勉でなくてもいい、それなりに暮らしてゆければよい、無理せず数百年もつ生活スタイルでゆきたい、という人々もいるだろう。そうした人々だけで完結した暮らしを営めるなら、その暮らしを維持してゆけるだろう。しかし他所から”勤勉な”(ある意味攻撃的な)人々が来た場合、そうした生き方は許されなくなってくる。”勤勉な”立身出世型社会の人々は、他所の人の生き方を侵略してゆくようなところがある。のんびり暮らしたい人々が暮らしてゆけなくしてしまうのだ。

雑談

 よくインドではぼられると言う。市場では他のインド人も買っているので、いくら払っているかチェックしつつ買うと確実だった。ベンガリがわからず、値段が不明な場合は、少額コインを出して相手の反応を見るとよかった。75パイサのとき1Rsを出すとそのままになる可能性がある。また一人で店を出しているところよりも、似たような露店が何軒か並んでいるところで買うほうが、最初から適正価格を言う傾向にある。買い物は必要だが、あまりだまされまい、とばかり思っていると、毎日戦いに出てゆくような気がしてきて負担になってくる。時に適正価格より高くても、バクシーシと思って気にしないのも一つの手だ。基本的に日常雑貨はそうぼらない。そうでない品物でも、感覚的に3分の2以上はまともな値段を言っている。

 お釣りをもらい忘れても何も言わない。たぶんバクシーシと理解しているのだろう。高額でもらい忘れたときには、最初がっくりきた。韓国の南大門市場で1万ウォン札でお釣りをもらい忘れたとき、店のおばさんたちが声をかけ、1万ウォンでもらい忘れるなんて、とあきれられたことを懐かしく思い出し、やはりモラルが似ている文化は、基本的にストレスが少ないと感じた。
 金目のものをほとんど持ってゆかなかったので、盗難にはほとんどあわなかったが、それでも一度スリにあった。かなり注意しているつもりでもスキはあったのだ。混んだトラムの中で、電車賃を払おうと財布を出し高額紙幣を出した(これが失敗)。小銭を出し財布をしまっていたところ、ある男が肩をつついてあの人に払えと指差し、注意がそちらに向いた瞬間盗られてしまった。とられたのは280Rsくらい、日本円だと3000円程度だが、ここでは使いでがあるので、結構がっくりきた。Yの女学生らに聞いてもらい、「泥棒は今頃晩餐会を開いているよ」との話に大笑いしてやっと気が晴れた。

 よく日本は貿易黒字だが、いったいそのお金はどこ行っているのでしょう、という話を聞く。インドへ来て、海外へ行きたいと思ったらちょっと貯めれば海外へ行ける状態に大抵の人があること自体が豊かということなのだ、と思った。収入が低いところは、相対的に食費も家賃も低い。しかし航空運賃は、バンコクや香港で買ったほうが安いとはいえ、日本で買う数十分の一ということはない。東京−カルカッタ間が10万円なら、日本人が買ってもインド人が買っても基本的に10万円なのだ。つまり収入の余剰の部分で航空券が買えるか、TVやエアコンが買えるか、お菓子数個を買えるかが、もうかっている国と貧しい国との違いなのだと思った。生活のインフラも相当異なる。ここに注ぎ込まれるお金だってばかにならない。

 以前、インド貧乏旅行を自慢していた男子学生が、研究目的でインドに行った人に、「村へ行くとちっちゃい子供たちが大勢元気に走り回っていて、でもその子たち、パンツはいてないんですよ。パンツはいてない子供たちをちゃんと見てくださいよ」と批判していたことがあった。私はパンツをはかない子供も、グプタ朝の遺跡もそれを守る人々やインド人研究者も、インドの一面じゃないのか、という気がした。よく”本当のXXを見てください”と言う人がいるが、何を根拠に本当のXXと偽せのXXを決めているのだろう。また、同じカルカッタに住み毎日リキシャワーラーを見ても、彼らの世界を全く知らずに過ごすインド上流階層もいるわけだから、ただその場へ行ったり見たりしたからと”知る”ことになるわけでもない。逆に、スラムやワーラーに興味のある人は、インド上流社会を”知らない”(興味ない)。そうした制約、限界は常にある。

 法律で差別は禁じられているが、低いカーストの人が教育を受けたからと、政府や会社に入るのは難しいことも多いという。だから立身出世型社会ではない。(注:これは当時の話で、IT分野が発展の起爆剤となっている今はかなり変わっている可能性もある。ただその当時)印象深かったのは、職業が世襲で自分の”分”(職業)に一種の誇りを持っている感じのあることだった。努力しなかった人、とろい人、運の悪い人がこの職業で、優秀な人があの職業、という考え方ではない。つまり個人的エラーでそういう職業についたのだ、という”個人”に対する軽蔑はない。ただ、階級意識として下に見るのはある。YWCAにも洗濯屋が来ていたが、子供を伴っていた。洗濯屋のおじさんは、子供にシーツやシャツの仕分けだのを仕込んでいた。息子か丁稚かわからないが、その姿に一種の誇りというか職業意識の高さを感じた。よく店の前で店番の少年が道路を掃いて掃除したりしていたが、掃き集めたものを学校帰りの少年たちが蹴散らしたりすると、堂々と抗議していた。大人がうっかり散らかしても臆せず文句を言っている。そうした姿にも、何かそうした誇り、主張を感じた。
 階級制度は悲劇の根源である、という話も多い。しかし立身出世型がよいかどうかも一概には言えない。科挙の伝統のある典型的な立身出世型社会の中国では、改革開放の始まった当時、エレベーター係のかたわら、物売るかたわら、本を開いて勉強、という光景がよくあった。これは社会全体が向上しているときは確かに有効だが、全体のパイに限界が見え始めたとき問題になってくる。また社会にとって必要だが誰もやりたがらない仕事をどうするか、という部分の処理はうまくいっていない(階級固定も乱暴だが)。立身出世型社会は攻撃的な人間にとっては良いシステムかもしれないが、そこそこでよしとする人にとっては下手すると地獄になる。そこそこで満足するタイプはやる気なしと解されるかもしれないが、攻撃型ばかりだと乱獲、その他悪影響も大きいと思う。また、人はそう長期間(一生)競争社会に耐えられるものでもない、というアメリカの学者の意見を読んだこともある。
 過度に価値観が単一化し序列化が進む立身出世型社会は、脆い危険もはらむ気がする。特に一部の職業が”個人的エラー”でそうしていると判断される昨今の風潮には危険を感じる。階級社会がいいと言うのでもないが、立身出世型も、全員にとっての高度成長が止まった時に、必ず新しい形での不満が鬱積してくる。新たな革命、マルクス・レーニンが必要になる日がきっとくる。

  日本人が日本の悪口を言うときは、あまり傷つかずに気軽に言う。それは今日本がいい状態にあるからだ。インド人がインドの悪口を言うとき、(注:当時は)確実に傷ついていた。自らの恥をさらすような感じで顔をしかめて言う。
 インドにいる中国人や欧米人を見ながら、日本人は国土があってこそ日本人でいられるのではないか、と思える。海外にいる日本人は、駐在の人は当然帰国後ばかりを考えるし、永住する人は逆にその国の文化に埋没しようとする傾向がある気がする。
 しみじみ、日本は弱い小さい国ではないか、今丁度一番いい時期で栄えているが、本質的には辺境の弱い国なのだということを自覚しておかないと、と思った。そしてせっかく繁栄したけれど、子孫の育て方に失敗した国だな、とも思った。マザーテレサのところにボランティアに来る日本人は、キリスト教系幼稚園の先生や学校教師が多かったが、みな無気力な子供が増えている、言葉のおかしい子供が増えている、そしてそれは母親の子供への接し方がおかしいからだ、と言っていた。日本で家庭教師のバイトをやっているという人は、教師に殴られる話をする子供が多いと言っていた。つまりそれは、おかしい母親、殴る教師という世代(おそらく全共闘世代)あたりからすでにおかしくなっていた、ということではないか、と思えた。
 明治の頃の日本人は元気だったのだろうと思う。だから変化に乗ってゆけたのだろう。政府の政策等もあるかもしれないが、基本的に個々人が元気でないと変化に対応してゆけない。一方、何かの理由で疲弊してしまった民族は、外敵が来るだの、文化の衝突だのについてゆけない。インカがそうだったのではないかと思う。黙って見つめ、されるままになってゆく。

 滞在中、周りの日本人や自分を見てつくづく、自分を含めた今の日本の若者は、人から面倒をみてもらうことには慣れているが、人の世話をやくのは下手だな、と感じた。「みんなとっても親切」と感激するが、逆がなかなかできない。これも一種の訓練で、いつまでも周りにあれこれやってもらっている間はなかなか腰が動かない。ガイドブックなんかでも、いかにだまされないか、インド女性や外国人ツーリストの親切に頼るかのノウハウが書いてあったりするが、これ、て日本人の意識を表わしているかも、と感じた。いかに頼るかを書くなら、いかに困っている人を助けるかも書かないと、vice versaでない。都合のいい人たちになってしまう。

さいごに

 ジョーグラムなどの田舎に住むベンガル爺さんたちには、文化の香りがあった。インドでも台湾でも、みな狭い範囲の中を生きている。素朴な人々になればなるほど、海外旅行はおろか国内旅行だってありえない、家庭とその周囲数百メートルの中で暮らしている。拍手喝采、賞をとる、世界を股にかけた、などというのも確かに大きな幸せ、喜びかもしれない。でもあのベンガル爺さんたちも、十分幸せや喜び知っているのではないか。

 カルカッタで研究生活を送る夫妻は、インドの低消費エネルギーの生活は強い、日本のこの異常な消費生活を続けると、このままゆけば破滅だ、と言っていた。どうしても便利や効率を求めると、お金を払って生活の一部を人にやってもらう、できあいのものを買う生活になる。そのためにお金を稼がなければならなくなる。時代の流れとは逆行するかもしれないが、今自分にとって必要なのは、生活を質素で低エネルギーの方向へ変えること、できるだけできあいではなく、自力で生活を作る方向へもってゆくことではないか。
 こう考えたとき、もうインドに長居しても無駄ではないか、という気がした。これ以上人生を変えるような何かを待ち望んでいても仕様のない気がする。日本へ戻り、自分の生活圏内で精神的に満たされる生活方法を考えるほうがよい。普段感じる小さな充足感や幸せは、そのまま感じて良かったのだ。目標だの方向だのを定めてから、初めて味わえるという性質のものではないのだ。
 よそでリフレッシュすることを必要としない生活を始めなければならない。日々送っている生活で完結し、喜びを感じつつ生きられる生活をここで作らなければだめだ。また、基本的に日本で通用しない人は海外でも通用しない。

 バングラデシュからカルカッタに戻った晩、バスの窓から、ショールにくるまって物を売る人々の姿が目にやきついた。なんということない光景だが、なぜかその姿を見てこの人たちはたしかに”生きている”と思った。なぜそう感じたのか。ある意味完結しているように感じたのだ。
 立身出世主義が果たしてよいのかどうか。常にこれは本当の自分の姿じゃない、もっと他にいい生活、自己実現があるはずだ、と考え始めるのは、ひょっとしたら悪魔の囁き、不幸の始まりかもしれない。これをとり違えると、今を生活できなくなる。いつもよそ見しつつ、今を生きることになる。
 物売りはショールにくるまって通りに座っている。バスの車掌だって面白い仕事じゃない。でも誰かがきっちりこなさないと世の中回ってゆかなくなる。あの物売りは老人になっても座っているだろう。そういう一生もある。

 生活はルーチンだ。生きることもルーチンだ。バスの車掌だって単調で発展性のない仕事だ。でもその中で彼らなりに親切だし便宜を図ってくれる。マザーテレサの施設での作業もルーチンワークだ。空港の係官、パイロット、列車やバスの運転手もそうだ。毎日毎日時刻表どおりの運行に努める。その単調なルーチンワークを確実にこなす人々がいてこそ、こうして自由に旅ができるし、物や人が運ばれてゆく。古い通りで玉子の入ったかごを吊るしパンや石鹸を売る小さな店を番するおじさんや、路上でショールにくるまって物を売るおじさん、廟にコインを投げ入れ手を合わせたあと呼び込みに戻る車掌、そうした人々で世の中は動いている。だからそういう”つまらない”ルーチンワークをこなしてくれる人々に、感謝の気持ちでいっぱいだ。何も世紀の大発明をしたり世界史に残る仕事をした人だけが世の中に貢献しているわけではない。むしろそういう人々こそ、正当に評価されてしかるべきではないか、とすら思う。それが、能力がないから努力が足りないからという個人的エラーでそういう仕事をやっているとみなされるようになると、いつかそれは手ひどいしっぺ返しとなって社会に跳ね返ってくる日が来ると思う。

雑貨屋

カルカッタ(コルカタ)再訪-1997年    バンコク-2000年

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