潮    州


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 潮州は屏東県でも有数の大きい町だが、ホテル街が見あたらなかった。おそらくどこかにあるのだろうと思うが、少なくとも駅前の安宿街がないに等しい。
 このため、通常は書かないことにしているのだが宿情報を記しておく。駅から東へまっすぐ行ったロータリーそばの南峰大旅社に泊まったが、安い割りに部屋も清潔でよかった。駅前のバスターミナルにも近いので便利。
 ただし、台湾の安宿はどこもそうなのだが、部屋の鍵をフロントに並べ、外出から戻った客が各自勝手に持ってゆくシステム。このときフロントに人のいないことも多い(これは潮州に限らずどこでも同様)。
 潮州は観光客が来るような町ではないので(ちなみに地球にも載っていない)町の治安は悪くないし、この旅社のおばさんたちも信頼できるのだが、それでも盗られたら困るものを持ち歩いている、言葉ができないその他自衛に自信のない人は旅社系は利用せず、セキュリティーのしっかりしたホテルを利用することをお勧めする。
                            上:布団を面白い形にまとめている南峰大旅社


潮州の町  (写真の日付は誤りです)




上:朝、銅鑼と音楽が鳴り神輿がゆく。夜も電飾で飾り立てて練り歩いており、見に行くと福徳正神とあった。どこかの廟らしい。引いている(とはいえ車だが)のは若者で老人はほとんどいない。
下:潮州駅にて  空襲の際の避難路が記されている。中台対立が厳しかった頃は台北にもこうしたマップがあった(今では見かけない)
このほか、10年ほど前大流行だったエビ釣り屋がいまだあちこちにあるなど(昨年嘉義の友人に聞いたら「あれはもう流行っていない、お店も別のものに変わった」と言っていた)、潮州の町全体がワンサイクル周囲から遅れている感じがある




左上:椰子畑   右上:

 一番右上の写真の川にかかる橋沿いに、果物の屋台の並ぶ通りがある。安いのでおみやげに大量に買い込んだ。
 こうした果物屋や、食事に行った店などでよく「どこから来た?日本人?国語ができるね、ここに住んでいるのか?」と聞かれた。「商売か、仕事をしているのか」と言うので「旅行者だ」と答えると「旅行者?」と驚かれる。よほど観光客の来ないところらしい。


屏東
屏東県の中心地。大きなデパートもあり、その最上階書店脇におしゃれなサテンもある。右下は自強号




内埔
内埔は潮州や屏東から山際の村へ向かう中継点のようなところ。下は潮州から内埔へのバスの車窓より






右上:内埔の町
左下:内埔の中壇元帥廟          右下:内埔の天后宮 台湾の観光客が結構来ていた




来義
来義はパイワン族の村。古楼までバスが通っている。潮州の町を抜けると、しばらく椰子、バナナ畑が続く。佳佐あたりからパイナップルやビンロウ畑、椰子とバナナを一列おきに植えた混植畑もある。椰子は大きな木の間に小さい木の植わっている畑もあり、計画的に植え替えているようすだった。

 あとで人に聞いたところによると、今間に植えている低い椰子は「タイの椰子で改良している」とのこと。今は椰子は安くもうからない、古い木はだめだという。バナナも安いそうだ。

左下:品種変更中の椰子畑              右下:パイナップル畑




左上:古楼の集落はずれにある舞台            右上:町並  
左下:ビンロウ屋の店の看板にカタカナで「アルイ」とある(おそらく日本語世代にも読めるよう)
                         右下:古楼を流れる林辺渓


別のデイサービスのようなところにも、日本語が書かれているのを見かけた(日本人の観光客の来るようなところではなく、地元の原住民老人向け)

古楼は山際の村で、ここから中央山脈が始まる
川原沿いに奥へ進む。ところどころ、山肌が崩壊していた。昨年秋の集中豪雨の爪あとだ。義林の先に滝があり、台湾人観光客が見に来ている。下から見ただけだが、特にどうということのない滝に見える。


上:来義集落の先は山が大きく削れ、川原が土砂で埋まっていた。橋脚だけが残り、橋が流された。左上の写真のあたりにカラオケ屋があったそうだがそれも流されたとい。ただし、このあたりでは死者は出ていないらしい。
土砂に埋まった川原をちらほら車で見に来ている観光客がいた。現在、仮の道が奥まで通じている。

左下:来義集落。一本道沿いに家が連なる山村だが、日本の山村と異なり脇を流れる川幅は広い。




佳義
 佳義もパイワン族の村。ここのパイワン族は80%がクリスチャンで、周辺の村にはどこも立派な教会がある。平地の人(台湾人や外省人)にクリスチャンは少ない、教会には200人くらい集まるという。ただし彼等に布教したのは白人ではなく台湾人の宣教師だったと言っていた。

 この周辺のパイワン族は、もともと山奥に住み、焼畑で移動生活をしていた。栽培作物は粟や芋。山奥で生活していた頃は塩がなく、1日歩いて平地の部落で塩を買った。山の薬を採って平地で売った。おばあさんは麻、木の皮で着物を作っていた。一番丈夫なのは麻で地機で織った。家は石作りで屋根は石、柱は木だった。山の生活は貧乏で不便、という。
 蕃社によって昭和1年だったり4年だったりするが、政策によって、山奥から現在地より30分ほど山に入ったところに移住している。頭目が移住を決め、みな従う。民国39〜42年にさらに現住地に移住した。2回目のときは、日本人の入植地だったところに入ったという。

 日本時代、パイワン族が平地へ行くには証明が必要だった。別の村へ行くにも証明が必要で、ふだん村の外へ出なかった。日本が来てから安全の問題でそうなった。
 ただし出草は日本時代にはもうなかった。日本時代は出草は許されない、骸骨はあるけど外には出さない、という。
 山では罠で山豚、鹿、熊をとった。日本時代は派出所に鉄砲があり、借りて狩をした。返すとき獲物を持ってゆく。
 今は山で狩をしてはいけない。今山菜や木の実をとってはいけない、山に入ってはいけない。
 先祖の墓は今でも山の中にある。




 左上:立派な教会

 聞いた話によると、大学受験で原住民は優遇制度があり、合格点の80%の点数で”当たる”(合格)という。台湾では80%の人が大学まで進む。パイワン老人いわく「残りが仕事を探すが、家庭に問題のある子が多い」。
 「頭目は今はだめだ、昔みなを迫害したからそれが出ている、頭目は失敗した、今はお金がなければみな尊敬しない」
 「光復後の教育は良かった、日本統治時代はあまり教育がなかった」
 「来義はここより遅れている。まだ山に残って生活している人たちもいる」

 ところで、佳義の山奥には好茶、ルカイ族の村で有名な霧台などがあるが、どこも去年の水害で流された、大勢亡くなった、みな山奥から降りてきて平地で暮らしているがお金ないから大変だよ、という。


水門/三地門
パイワン族やルカイ族が多く住む観光地。
左下:水門         右下:三地門郷公所から三地門のまちを見下ろす




上:郷公所
左下:少数民族の店         右下:平地に降りたところのパイワン族経営の店にて





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