潮 州 | ||
2009 | 台北 | 萬華 | 二二八和平公園 | 鉄道 | 基隆 |
北投 | 烏来 | 台中 | 台南 | 東獄殿 | 台南の廟 | 麻豆 | 高雄 | 老兵記念館 | 潮州は屏東県でも有数の大きい町だが、ホテル街が見あたらなかった。おそらくどこかにあるのだろうと思うが、少なくとも駅前の安宿街がないに等しい。 潮州の町 (写真の日付は誤りです) 上:朝、銅鑼と音楽が鳴り神輿がゆく。夜も電飾で飾り立てて練り歩いており、見に行くと福徳正神とあった。どこかの廟らしい。引いている(とはいえ車だが)のは若者で老人はほとんどいない。 左上:椰子畑 右上: 一番右上の写真の川にかかる橋沿いに、果物の屋台の並ぶ通りがある。安いのでおみやげに大量に買い込んだ。 屏東 内埔 右上:内埔の町 来義 あとで人に聞いたところによると、今間に植えている低い椰子は「タイの椰子で改良している」とのこと。今は椰子は安くもうからない、古い木はだめだという。バナナも安いそうだ。 左下:品種変更中の椰子畑 右下:パイナップル畑 左上:古楼の集落はずれにある舞台 右上:町並 別のデイサービスのようなところにも、日本語が書かれているのを見かけた(日本人の観光客の来るようなところではなく、地元の原住民老人向け) 古楼は山際の村で、ここから中央山脈が始まる 上:来義集落の先は山が大きく削れ、川原が土砂で埋まっていた。橋脚だけが残り、橋が流された。左上の写真のあたりにカラオケ屋があったそうだがそれも流されたとい。ただし、このあたりでは死者は出ていないらしい。 左下:来義集落。一本道沿いに家が連なる山村だが、日本の山村と異なり脇を流れる川幅は広い。 佳義 この周辺のパイワン族は、もともと山奥に住み、焼畑で移動生活をしていた。栽培作物は粟や芋。山奥で生活していた頃は塩がなく、1日歩いて平地の部落で塩を買った。山の薬を採って平地で売った。おばあさんは麻、木の皮で着物を作っていた。一番丈夫なのは麻で地機で織った。家は石作りで屋根は石、柱は木だった。山の生活は貧乏で不便、という。 日本時代、パイワン族が平地へ行くには証明が必要だった。別の村へ行くにも証明が必要で、ふだん村の外へ出なかった。日本が来てから安全の問題でそうなった。 左上:立派な教会 聞いた話によると、大学受験で原住民は優遇制度があり、合格点の80%の点数で”当たる”(合格)という。台湾では80%の人が大学まで進む。パイワン老人いわく「残りが仕事を探すが、家庭に問題のある子が多い」。 ところで、佳義の山奥には好茶、ルカイ族の村で有名な霧台などがあるが、どこも去年の水害で流された、大勢亡くなった、みな山奥から降りてきて平地で暮らしているがお金ないから大変だよ、という。 水門/三地門 上:郷公所 このページは2010年の台湾に関するページです |