霧    社


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台中  (写真の日付は誤り)



第三市場

この奥に果物専門屋台の並ぶ一画があり、
安く果物が手に入る



埔里
 霧社へ行くには、台中からバスで埔里まで行き、さらに乗り換える必要がある。

 写真はバスの車窓から。平地は田圃が多く、刈り取った後の藁を燃やしていたり、田植えのため水を張っているところだった。

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左:埔里の町

霧社
  日本統治時代、タイヤル族の蜂起で有名な霧社は、山塊と山塊をつなぐ、狭隘な尾根上に作られた山上の町だった。全体の感じとしては、東北インドのナガランドの山上集落や、シッキムの山上集落タシディンに似ている。
 尾根道となる200mほどの通りがメインで、この両側に家が立ち並び、あとはほとんど何もない。尾根道の両側は北を眉渓、南を萬大渓が流れており、急斜面となって落ち込んでいる。道の先左手の山の斜面や、右手に山際をめぐり蘆山温泉へと向かう道沿いには、さらにタイヤル族の集落が点在する。

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霧社へ向かう道  上:山の斜面に椰子畑が広がる
標高は900〜1000m程度、斜度はさほどきつそうでもないが、尾根と川の高低差が日本の山よりもありそうで、シッキムに似ている

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 霧社は日本人が作った町で、水は山からいい水が来ている。
 当時からここに住む台湾人の話では、霧社事件当時、霧社には山の人はいなかった、日本人が大半であと少し台湾人がいた、山の人はサクラなど奥の山の部落にいたという。日本人は200人以上いた。今は山の人も少しいるが、大半は戦後やってきた台湾人。
 尾根筋なので台風のときはひどいでしょう、と言うと、「ひどいひどい、特に花蓮港から来るときはものすごい風だ、今は鉄筋コンクリートだからよいが、昔は板張りだったからよく飛ばされた」という。
 家は結構高い。山上なので建築資材を全部あげる必要がある。下で800万元で立つ家が1500万元かかる。土地もないから余計高い。

下:霧社集落 標高1148m    右がメインストリート
右写真の右手に写る大木は、昭和天皇が皇太子時代、台湾を訪問したときに植樹した木だと地元の老人から聞いた

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上:台湾の地図によればモールダーナオ記念碑 日本の地図では霧社山胞抗日起義記念碑
       蘆山のモールダーナオ記念碑と古戦場あとの写真はこちら
左下:徳龍宮 日本統治時代の霧ヶ丘神社(2012年上まで登ってみた
右下:霧社事件の現場となった日本人小学校跡。現在は台湾電力の敷地

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森にはクワズイモが生える一方、針葉樹もある



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左上:霧社とその奥山の遠景
左下:萬大渓の碧湖だが土砂に埋まっている。萬大渓と眉渓はつながっていない。萬大渓は日月潭へ流れ、眉渓は台中へゆく。眉渓側の写真はこちらにある
右下:霧社山荘脇から忠孝路への道沿いには歩道として木柵道が造られ、脇の斜面には桜が植林されて日本人名の札が掛かっていた

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左上:崖崩れのあと
右上:日本人墓地の場所が説明板もなくよくわからなかったが、おそらくここではないかと思われる
三叉路の福寿宮の向かい斜面にて

 戦前から住む台湾人の話では、終戦時、霧社や埔里では日本人を叩く人はまったくいなかった、仕返しをしなかった、という。「台中はひどかった、日本人に叩かれた仕返しにヤクザ連中が叩いた」と言うので、「それは戦前日本人が相当叩いたということですね?」と聞くと「日本人の警察が台湾人を叩くのをずいぶん見た。自分たちはかわいがられたが。山の人も日本人からそれは叩かれた。でも、叩かなかった」という。当時台湾在住の日本人は男はみな兵隊にとられ奥さんと子供ばかり、台中ではみな鍵を閉めて親しい台湾人に買い物に行ってもらったりしたという。
上:帰りのバスの車窓から      霧社の2012年の写真はこちら





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