台    東


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台東  (写真の日付は誤りです)
 台東は原住民比率の高い町。花蓮から都蘭あたりまではおもにアミ族が住み、台東近辺はピュマ族、南にはパイワン族が住む。西の山中にはパイワン族やルカイ族、ブヌン族が住んでいる。
 今回訪問したアミ族、ピュマ族、パイワン族の人たちはみな山際、つまり里山規模の小山が後ろに控えた里地のようなところに住んでいた(パイワン族はもともと山奥に住んでいたのが、移住政策によって山を降りてきている)。


 今回、台北では日本語の混じった看板が減り、あまり見かけなかった(2010年現在)。しかし花蓮、台東などの地方都市にはまだまだある。特に台東では、例の「XXのOO」といった看板をよく見かけた。また日式嗽嗽肉(しゃぶしゃぶ)、日式ラーメン、日式回転寿司など日本料理店も多く、若者もよく入っていた。
 制服にセーラー服を着ている中学生も見かけた。


台東郊外のようす

 台東も花蓮同様、電車の駅から市内までかなり離れている。花蓮も市内に総駅(旧駅)跡が残るが、台東もかつては市内まで支線のような形で電車が通じていた。
 車が増えたためか、線路保守上や運行上の理由かわからないが、今は環状線上に駅があり、市内まで入ってこないので、結構不便だ。

 訪問先まで電車で行こうと、市内から台東駅まで歩いてみた(左:台東駅への道)。旧駅あたりからだと1時間くらいかかったので、おそらく4キロ以上はあると思う。訪問先まで直接歩いても大して変わらなかったかも。時間に間に合わないので、結局駅からタクシーに乗った。




ピュマ族の村

 アミ族やパイワン族の人も、日本人は台湾人よりも自分たちをかわいがったとよく言うが、ピュマ族はさらに「日本統治時代ピュマ族はとてもかわいがられた。ピュマ族はとても日本語が上手で標準語だったので、ほかの原住民より日本人から好かれた」と言った。彼らは頭が良く、「山地王」と呼ばれ栄えた歴史がある。

 ピュマ族は戦前まで山で狩りをし、粟などを栽培していた。現在は政府が狩りを禁止している。そのため、戦後は畑を開墾し作った人が多い。

左:バナナ畑

(この項、場所を特定できそうな写真は割愛)



太麻里
 このあたりまで来ると、パイワン族が多く住む。太麻里のとあるパイワン族の村をたずねた。

 パイワン族はもともと山奥に住んでいたが、日本時代に山から降りた。このあたりでは4部落が降りたという。パイワン族は貴族制をとり、世襲の頭目がいる。現在も存続しており、4人の頭目名を書いてみせた。系統重視なので女の頭目もありうる。現在2箇所は女性が頭目になっている。かつては頭目の言葉が法律だった。

 昔は焼畑で粟を作っており、5年から10年で山中を移動した。粟のほか、おかぼ、高粱も作ったが、粟が一番大事で、粟を勝手に収穫することはできなかった。今でも同じで、頭目が最初に粟を刈る。ピュマ族も粟を一番大事にしている。粟は炊いたりおかゆにしたり、米とまぜたりして食べる。粟酒もある
 昭和9年に山を降りたが、その後も畑は山にあったので、両親や姐は山へ入って畑を作った。当時は保留地といって、日本時代はまだ自由に山に入って使うことができ、芋、粟、里芋を作っていた。
 中国になってから山は国有地となり、勝手に入ることができなくなった。

 このあたりのパイワン族は、50%ほどがクリスチャン。




 この付近は釈迦頭で有名(左上:釈迦頭の畑)   右上:海岸そばの墓地(通常の台湾式の墓地)
 下:枯れ木の並ぶ海岸






ビンロウ
 台湾南部では、よく檳榔を売っているのをみかける。石灰をまぜ赤くなったものだが、あるパイワン族は、家では何も混ぜず実をそのまま噛む、ガムみたいなものだ、という。このため、口が赤くならない。
 一個もらって噛んでみた。種の周りの繊維ばかりの実を噛むのだが、特に味はない。





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