台 東 | ||
2009 | 台北 | 萬華 | 二二八和平公園 | 鉄道 | 基隆 |
北投 | 烏来 | 台中 | 台南 | 東獄殿 | 台南の廟 | 麻豆 | 高雄 | 老兵記念館 | 台東 (写真の日付は誤りです) 今回、台北では日本語の混じった看板が減り、あまり見かけなかった(2010年現在)。しかし花蓮、台東などの地方都市にはまだまだある。特に台東では、例の「XXのOO」といった看板をよく見かけた。また日式嗽嗽肉(しゃぶしゃぶ)、日式ラーメン、日式回転寿司など日本料理店も多く、若者もよく入っていた。 台東郊外のようす 台東も花蓮同様、電車の駅から市内までかなり離れている。花蓮も市内に総駅(旧駅)跡が残るが、台東もかつては市内まで支線のような形で電車が通じていた。 訪問先まで電車で行こうと、市内から台東駅まで歩いてみた(左:台東駅への道)。旧駅あたりからだと1時間くらいかかったので、おそらく4キロ以上はあると思う。訪問先まで直接歩いても大して変わらなかったかも。時間に間に合わないので、結局駅からタクシーに乗った。 ピュマ族の村 アミ族やパイワン族の人も、日本人は台湾人よりも自分たちをかわいがったとよく言うが、ピュマ族はさらに「日本統治時代ピュマ族はとてもかわいがられた。ピュマ族はとても日本語が上手で標準語だったので、ほかの原住民より日本人から好かれた」と言った。彼らは頭が良く、「山地王」と呼ばれ栄えた歴史がある。 ピュマ族は戦前まで山で狩りをし、粟などを栽培していた。現在は政府が狩りを禁止している。そのため、戦後は畑を開墾し作った人が多い。 左:バナナ畑 太麻里 パイワン族はもともと山奥に住んでいたが、日本時代に山から降りた。このあたりでは4部落が降りたという。パイワン族は貴族制をとり、世襲の頭目がいる。現在も存続しており、4人の頭目名を書いてみせた。系統重視なので女の頭目もありうる。現在2箇所は女性が頭目になっている。かつては頭目の言葉が法律だった。 昔は焼畑で粟を作っており、5年から10年で山中を移動した。粟のほか、おかぼ、高粱も作ったが、粟が一番大事で、粟を勝手に収穫することはできなかった。今でも同じで、頭目が最初に粟を刈る。ピュマ族も粟を一番大事にしている。粟は炊いたりおかゆにしたり、米とまぜたりして食べる。粟酒もある このあたりのパイワン族は、50%ほどがクリスチャン。 この付近は釈迦頭で有名(左上:釈迦頭の畑) 右上:海岸そばの墓地(通常の台湾式の墓地) ビンロウ このページは2010年の台湾に関するページです |