アミ族の村


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 アミ族は基本的に平地に住む。台湾の少数民族に詳しい人いわく、「アミ族は感覚的に漢民族に近い。話も白髪三千丈じゃないが漢民族同様大げさだったりするので、裏取りが大変」という。
 アミ族自身も、「自分たちは山の人じゃない。高砂族じゃない。高砂族とはもともと山の人だけのことを言った。高砂族は山から降りてきてアミ族の首を刈る。アミ族は首を刈られる側だった。それが日本が来て山の人もアミ族も一緒にされ、高砂族と呼ばれるようになった」という。

 アミ族は川沿いの平野で田圃を作っていた。この村では大きい祭りとして8月に豊年祭があり、そのほか6月に魚採りの祭り、11月に鳥の祭りがある。(7月から8月にかけて、台湾の東海岸に点在するアミ族の村々では豊年祭が行われており、観光資源になっている。)
 昔はいつでも近くの山に入って狩猟をした。今は11月だけ狩猟をしてよいことになっている。方法はワナ猟で、山豚(イノシシ)、キョンなんかを取った。鹿もとったが今は減った。山でどの草が食べられて食べられないか、アミ族はよくわかっている。そうした知識は今でも親から子へ伝えてゆく。
 かつて服は麻製で、麻を栽培し繊維を糸にして織った。おばあさんの世代は織り機をまだ持っており、やり方も知っている。   (写真の日付は誤りです)



左上:川向こうの山:チクマタン(本島人の名前からついた)
左:部落のすぐ上の山:チャリマン

 現在、村の東に広がる山は緑に覆われている。しかし、かつてこれらの山々はハゲ(禿山)だった。これは日本が来る以前から、伝統的にハゲで、粟、おかぼ、サツマイモなどを作っていた。田は草取りをしたら暇になるので、山の畑を作りにいった。

 これと同じ話は奄美でも聞いた。今名瀬から見える山は緑だが、戦前は禿山で木はなかった、みな畑だったという。
 現在、霧社など山奥の村へ行くと周囲の山々は緑の木に覆われている。しかし、戦前の蕃社を写した航空写真を見ると、山奥でも蕃社周辺の山々はほとんど等高線状に畝もようのついた禿山で、畑として切り開かれていたことがわかる。あるいは、戦前の高砂族のようすを撮影した記録映像や、山口淑子主演の映画「サヨンの鐘」を見ても、蕃社への道の両脇の山は樹木に覆われておらず草地や潅木が多いことがわかる。おそらく焼畑で回していたため森林でなかったのではないかと思われる。

 この村は、東部幹線(山線)の走る川沿いの平野にある。下の写真は灌漑用水と休耕田。休耕すると政府から補助金が出る。このため、ほとんどの田が休耕田になっていた。
 西側の嘉義あたりでも、電車の窓から草原になった田圃が続くのが見え、心が痛む。




 左上は現在の山の樹木(森林)のようす、下は休耕田の中にあった廟






 かつて線路をを越えた東側に精糖会社があり、日本人が大勢いた。敗戦で日本人が引き揚げた後、国民党の兵士が入植した。そのまま住み着き、アミ族や台湾人の奥さんをもらった。豊田にも、以前日本人の移民村があったが、引き揚げた後に国民党の兵士が入ってきた。



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