7.終わりに
今回の旅行、特になかなか入境できないマニプール・ナガランド両州への旅は、いろいろ考えさせされることの多い旅だった。
学生時代、夢中になって読んだ「未開の顔・文明の顔」の辺境の世界は、東北インドの今回訪ねた地にはもうなかった。戸数300戸のウクルル集落は今では人口数万の日本の”市”なみの規模の街に、戸数1000戸だったコヒマは人口十〜二十万の都会になっていた。各種インパール作戦に関する本に記述されている光景、生活、風俗も過去の光の中に消え去ろうとしている。精霊を信じ足指の発達した裸足で山を駆けめぐり臭気のこもった暗い部屋に家畜と同居した山の生活は、キリスト教が普及し車やバスで移動しこざっぱりした家屋住まいになっていた。恐ろしかった豹や虎や夜の森も、今やむしろ保護の対象となった。そこに住む人々の大多数は、私たちと同じように、専業主婦を恥じ、子供にできるだけ良い教育を残してやろうと心を砕き、より豊かな生活にステップアップをはかり、環境問題を語るごく普通の人々だった。
それでもなお、時おり、遠い過去からの亡霊のように忽然と老人が現れ、つい先頃のことのように50年前のことを口にし、多くは語らず去っていった。また若い世代でも、親子代々起こったできごとを語り継いでいる彼らには、今でもなお50年前のあの戦争が心の中に如実に生きている(少なくとも同世代の日本人よりは確実に)ことを感じさせられた。日本ではこの地の存在を知る人も少なくなったが、向こうはこちらをよく記憶している。そして現在のこの地では、貧困、失業、麻薬、民族紛争、独立問題など、数多くの問題が同時進行中だった。
日本でもここ30年、40年で多くのことが変わった。1956年生まれの茨城の内陸出身の知人は、小学校当時自分も含め村の子供は皆裸足だったという。日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」(1951年製作)でも、北軽井沢の小学校で裸足の子供と運動靴の子供が入り混じって走り回っていた。現在70歳以上の農山漁村の老人たちの生活能力、技術の豊かさは、都会育ちの私にはまるでテレビで見る海外の少数民族の生活のようにうつる。民映研の「西米良の焼き畑」で、老人が竹の棒一本で頭上高く木から木へと渡って行くようすは、日本にもかつてこうした豊かな技術のある社会があったこと、そしてこの世代がいなくなればいずれそれも失われることを感じた。一方そうした地域出身で都会に住む私と同世代やより若い友人は、そうした農作業や生活技術は、親や祖父母が行っているのは見ているけれど、自分はできない、という。勿論、単純に昔へ戻ればいいというのではない。戦後外地から多くの人々が引き揚げてくる中、この列島で養える適正人口は5千万というから、資源を輸入し加工して売る技術立国化しない限り、1億2千万の人間が飢えず生きてゆく道はなかっただろう。その意味で、この判断は間違っていなかったと思う。ただ、後を継ぐ人がいなくなるほどに農山漁村がさびれ崩壊がはじまり、それとともにひょっとしたら大切なものも含まれているかもしれない様々な技術や知恵も消え去ろうとしている今、これは何か行き過ぎではないか、というような
気がするのだ。
ナガの若い世代も、勿論まだまだ生活に必要なものを自分で作る習慣は残っているものの、感覚的にも生活技術の点でも、日本の70代よりは若者に近くなりつつあるように感じた。これは世界的な傾向で、これからは文化や地域による差よりも、こうした世代間格差のほうが大きくなってゆくのではないか。
ナガの人達の親日ぶり大歓迎ぶりは、経済的に成功した同種モンゴロイドに対する親近感と、戦争中の将兵たちに対する好印象のおかげが大きいようだった。決して私個人を評価しての歓迎ではないので、エコノミックアニマルと批判されつつも、とにかくここまで経済復興を成し遂げた今の60代以上の人々の努力には素直に感謝し、後の評価は侵略戦争であるものの、50年前の戦争で日本のためを思って戦い、異境に倒れていった人々や、九死に一生以上の惨劇の中を戻ってきた人々には、(アジアに対する責任問題とは別に)素直に弔いたいと感じた。
50年前の戦争についても、従軍経験者らが一緒だったこともあって色々考えた。後の世からあれこれ批判するのは簡単だが、やはりその時代を生きていないとなかなか本当には理解できない溝がある。客観的な事柄についての事実関係をただし、責任の所在をはっきりさせ、償うべきは償うべきと私も思うが、人間性に対する批判や糾弾は問題点がそれる危険があると感じた。特に戦争を経験していない世代が最初から侵略戦争と既定して体験者を批判する場合、自分自身は(体験していないので)自動的に批判の対象から外れるため、安全圏に立ってものを言うことになる。この点が非常に気になった。こうした批判は本当に自分自身を理解する手だてとはならず、思考を深めることにもな
らない気がする。なぜこういうことを言うのかというと、大東亜共栄圏の理想に燃えた当時の青年たちも、開発や人道などの援助や環境問題に燃えるタイプの今の若者たちも、その心情や思考回路においてかなり似ているのではないか、と感じることがあるからだ。精神科医の河合隼雄氏がオウム問題を追求している村上春樹氏のインタビューに答え、「そもそも悪のための殺人はニーズが少ない。ところが善のための殺人は非常に多い。その一例が戦争だ。オウムも自分達の善を信じて実行し、あの結果になった」と語っている(『約束された場所で』)。いったんある思想が善とみなされると、チェック機能が働かなくなり、錦の御旗となって誰も何も言えなくなる。そして暴走が始まる。
50年前の戦争についても、誤りはきちんと認め果たすべき責任は完済すべきだが、本当に自らの問題とすべきは、ある思想に感銘するとほぼ無批判に受け入れて推進し、ほかの人にも薦める(押しつける)行動様式ではないか。そしてそれは批判相手だけでなく自分の中にもある、人間共通の弱点なのだ、という視点が大切なのだと思う。片方が安全圏に立って他人を裁くと、本当の対話にならない気がする。
また開発援助という”産業”についても、この旅行でいろいろ矛盾や問題点を感じたが、まだ考えがうまくまとまらないでいる。理想や思想からなされる事柄の危うさは感じている。しかし、日々の生活に根を下ろした中から判断してゆくにしても、どちらへ向かって進むかの指針はやはり必要だろう。1980年代に参加したNGO活動や、見聞きした色々なケースから、緊急型の援助はともかく、いわゆる”開発援助”の場合はせいぜいスターターとしての役割を整え離陸をサポートするくらいで、あとは完全に通常の社会活動の一環の中で行った方がよいのではないか、また外部の人ではなく地元の人が行うべきではないだろうかと考えるようになったが、東北インドでもその感はさらに強まった。ただ、緊急型が終了した後、すべてが解散してしまうと、失敗成功を含めたノウハウも霧散してしまうので、そうした技術や経験を受け継ぐ専門家はやはり必要だろう。
民族問題にしても、先の戦争に対する考えと同じで、やはりそれぞれにそれぞれの立場がある。ナガ族、クキ族、カルビ族、アッサミー、ベンガル人、ビハール人、そして日本人、イギリス人、中国人、韓国人、皆それぞれの立場、考え、史観を持っている。
その中で必要になってくるのは、誰が正しく誰が間違っているか、という判断ではなく、ほかの立場の人との成熟した交渉能力ではないかと思う。振り返って考えるに、地域や会社や学校の中でも、皆それぞれの立場がある。それをお互いに消すことはできない。できるのは、そうした違いの中、いかにうまく折り合いをつけて人が生きる社会、コミュニティーを形成するかである。
この世には決して忘れ去ってはならない何かがある。日本でも農山漁村を訪ねるたびにそのことを感じる。今回の旅でも感じた。でもそれが何か、まだはっきりしたかたちに表すことができない。キラン氏の言うとおり、それは安易な
just a dream
であってはいけない。それを見抜くには、さらに冷静な鍛え抜かれた知性が必要なのだろう。そしてそれは、従来の”右”とか”左”とかいうものとは異なる、もっと根本的な、いつの時代にあっても変わらない、それこそ何千年たっても決して古びることのないものだと思う。
(完)
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