雑穀栽培記:栃木編

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雑穀栽培記−栃木編その1

うずしきようこ

1997年2月、萱の家の会長さんから「鎌原の畑、今年も借りるなら貸すよと言っているが、どうするか?」と話があった。そして今年は萱の家の近くにある程度畑を借りられそうで、萱の家でもじゃがいもなどを作るつもりなので一緒にやってもいいよ、という。鎌原は萱の家から歩いて30分以上はかかったので、近くに畑があるならそれにこしたことはない。鎌原のほうは断ることになった。

それから数カ月、いろいろな事情から萱の家で畑を借りるのはあきらめることになった。ひとつには、家庭の事情から畑作業をやるために泊まり込むことが無理になってきた。もし畑を続けるならできれば日帰りできる距離のほうが望ましかった。また、萱の家自体も屋根の葺き替えを控えて買い取りの方向に話が進んでおり、そうなると一人あたり十万単位の出費が必要となるという話だった。まだこの先もずっと、群馬で畑を続けるかどうか決めかねていたので、この出費を行うにはためらいがあった。

さらに、この集落の萱葺きの廃屋に外から人が住み着いたことも気を重くさせた。悪い人ではないようだったが、一人で住み、大型犬を放し飼いにし、青のビニールシートで囲って夜中も明かりを煌々とつけているようすは気になった。ちょうど新規就農した友人からも、新規就農にともない、けっこういろいろ細かい事件があることも聞いていた。畑から戻ったら小屋の入り口に男が立っていたとか、道を聞く口実で来た人がなかなか立ち去らないなどで、家族で就農した別のケースで、旦那さんが仕事の都合で都会におり、奥さんと子供だけのときに近くの独身男性の覗きにあった話などもあった。彼女自身、回りは若い女性がおらず男性ばかりなので農作業の服も刺激しないようにとか気を使う、と言っていた。そんなこんなで、何となく萱の家にゆくのが気重になり、足が遠のいていった。

ただ、この地は景色、気候、人情的には、これまで畑を借りた中でもっともよいところだった、と今でも思っている。遠くに浅間山をのぞむ風景は雄大で、また夏も日差しは強いが高原のさわやかな気候で作業がしやすく、その後の関東平野各地での湿気の多い中でのしんどい夏の農作業に比べて本当にすごしやすかった。また集落の人々も素朴で暖かい。高崎から吾妻線に入ってしばらく、渋川を過ぎたあたりから景色が一変し、都会とは離れたまったく別の世界(山の世界)に入ったことを痛感させられる。気持ちも一変し、いいリフレッシュになった。その点、その後畑を借りた日帰り可能な関東平野の各地は、農村地帯とはいえ、どこか都会の延長を感じさせた。土日にそこへ行ったからと、群馬のこの地のように気分を一新させるまでの効果はなかった。

結局、萱の家での畑作業はあきらめることになったのだが、このときもうすでに5月末、種蒔きするなら早くしないと間に合わない。そこで以前、アジア学院にいた頃に知り合った栃木の農家の老人に聞いてみることにした。

『鯉淵クラブ2号』掲載−改訂   目次


雑穀栽培記−栃木編その2

前々回にも書いたとおり、群馬での種蒔きをあきらめた6月はじめ、アジア学院にいたときに知り合った地元の農家の老人に電話をしてみた。「もっと早く電話してくれるといくらでもあるんだけどね。3月を過ぎると何かしら植えちゃうことが多いから。でも空いているところはいくらでもある」とあたってみると言ってくれた。

そして、親戚の家で新しく開墾した土地がある、今までは何も作っていない赤土の土地で肥えていないが雑穀やるにはちょうどいいんじゃないか、余ったところには小豆を植える予定だ、とさっそく紹介してくれた。14日は残念ながら台風のあとで「水浸しだから種蒔きはだめだよ」、翌週も「雨でだめだ」、とついに種蒔きは7月6日に。「種を蒔いた後雨が降るのはいいのに、なぜだめなんですか?雨の中合羽着て作業することはまったく構わないんですけど」と言うと、「種蒔きのあとの雨はいい、雨の中種を蒔くと土が固まって種が窒息してしまう。蒔き直しになるよ」と言われた。今だに理屈はよくわからないが、以降梅雨の始まる前に蒔くように心がけるようにする。

場所は東北本線宇都宮を1時間ばかり越えたとある駅から歩いて1時間半ほど入ったところにある。バスもあるが、駅から電車の通っていない市の中心地まで民営バス、そこからさらに市の巡回バスで30分ほど、と交通の便が悪いのが玉にキズだった。市の巡回バスも午前中は2本と本数が少なく、駅や市役所前から歩くこともあった。このあたりは那須連峰から続く小山の襞が南北にゆるやかに走ってはいるものの、関東平野の北端部に位置し、かなり見晴らしがよい。はるかに続く田圃の中を歩いていると、道行く車が不思議そうに徐行することも多い。畑をお借りしている農家の人は「田舎はみんな車に乗るからな、歩ってる人は少ない、珍しいんだ」と笑っていた。途中、荻野目という地名がある。ここに昔平城があり、女優の荻野目慶子、容子姉妹はその城主直系の末裔だという。「昔ならお姫様だ」と地元の人たちは言っていた。

この頃ちょうど、赤白の送電線の鉄塔を平野の北東から南西へ次々に建てていた。なんでも茨城の原発で発電した電気を山梨の電力貯蔵施設に送電するのだという。畑をお借りした農家とその回りの雑木林(ヤマ)は、そうした鉄塔の一つの下にあった。

種蒔きの日、知り合いの老人や土地を貸してくれる農家の夫婦はもちろん、近所の人やいろいろな人が見物に来ていた。とりあえず、鯉淵学園やアジア学院でやっていたように鍬でサクを切っていると、老人が「鍬の使い方がなってない、こうやってちゃ、ちゃ、とリズムとるようにしてやるんだ」と出てきた。蒔く時期も遅れたことだし、とりあえず種取りだけでも、ということでこの年は雑穀は2列づつしか植えなかった。さらに群馬で近所の農家にもらった豆やら山形の親戚からもらった豆だのをいろいろ植える。

このあたりは土地も広いせいか、専業農家も多い。土地を貸してくれた夫婦も中年の少し上くらい、回りも中年ぐらいの働き盛りが田畑に出ていることが多く、昨年の老人ばかりの中山間地とはその点でも異なった。畑で作業していると、脇の道を自転車やスクーターでおばさんや老人が行き来しており、人通りも(山の中に比べれば)多い。昨年では1日人を見ずに作業していたこともあったのだが。あるとき、自転車で通っていたおばさんが足を止め、「それ黍?」と聞いた。そして「昔はこのあたりでも黍や粟は作っていたよ、稗は作ってなかったけどね」と話してくれた。こんな平野でも雑穀を作っていたのか、やはり日本は米文化でもあるけど雑穀文化もあったのでは、と感じた。「いつ頃までだろうねえ、終戦ちょっと後までか、昭和三十年頃までだか」と懐かしむように言う。そういえばアジア学院にいたとき、ある先生が「地元の青年団の人たちと知り合ったとき、彼らは代々飢饉に備えて村の倉を持っていて、青年団のリーダーになるとその倉の鍵を渡される、その中には2年分の粟だか黍が入っている、と聞いた、その話を聞いたとき農村の人はすごいなあ、と思った」と語っていたことを思い出した。

『鯉淵クラブ4号』掲載   目次

tochigi

雑穀栽培記−栃木編その3

バスの便も悪く、駅から歩けば1時間半のところにある畑だが、最寄り駅のさらに数駅北の急行停車駅で、自転車を貸してくれることがわかった。行政がやっているものなのでただである。これを使えば歩くよりは楽だし、バスの時刻を気にすることもない。行きはともかく、帰りは時間が読みにくい。1日数本のバスに間に合わせて作業するのはなかなか大変である。

ということでさっそく利用させていただくことになったのだが。その駅はA町の管轄範囲内にある。しかし私の畑はB市にあった。自転車を借りる際にいちおう住所氏名と目的地を記入する必要がある(行政サービスなので仕方ない)。最初の数回は何も言われなかったのだが、4回目くらいのとき、町民でない人がA町でないところへ行くのに利用するのはちょっと・・・、とパートかボランティアらしい老人が申し訳なさそうに言う。確かに東京でも「区在住か区内勤務者がこれこれのサービスを受けられます」という但し書きをよく見かけるので、それはそうだろう、と私も思った。老人は便宜上XX(と町内の観光名所をあげ)と書いてくれればいい、と言ってくれたが、毎年利用しつづけるのは少々気が引ける、と感じた。今後ここで畑を借りる場合は、交通手段を何とかする必要があった。

一度、この畑を借りるきっかけを作ってくれた農家の老人が、ちょうど町まで車で買い物に来て、私が乗ってくる電車の予測をつけて待ってくれていたことがあった。車に乗せてもらい、ライスラインをひたすら東へ走る。アジア学院にいた頃もよくライスラインを自転車で走ったが、あの当時よりもさらに延びてほぼ環状にぐるっと回っている、車の便がよくなった、という。8月半ば頃だったと思うが、夏の盛りというのに、ライスライン沿いは草がきれいに刈られていた。「沿道の農家の人たちがきれいにしているんですね」と感心して言うと、普段はこんなじゃない、草ぼうぼうさ、と老人。「今度天皇陛下が来るんだっちゅう話だ。なんでもミヤコタナゴを見に来るらしい。それでライスラインを通る、てことで皆であわてて草刈りしたり除草剤まいたところだよ」  さて、雑穀や豆類のほうは、種蒔きは遅かったものの、夏が暑かったおかげで順調に育ち、またこの年は面積もさほどでなかったので作業も楽だった。

一度、老人と畑を貸してくれている親戚の人たちが、那珂川へヤナで鮎取りに行く、畑も忙しくないし一緒に来ないか、と誘ってくれたことがあった。今は地元の観光地のようになっており、夏は常設のヤナが仕掛けられ、そこで適当に鮎を取って川原で焼いたり、川沿いの小屋で買ってきて焼いて食べている。老人や彼の姉妹の子ども達がそれぞれ孫を連れて来ており、かなりの大人数だった。最近、めっきり親戚で集まる機会の減ってきた私にとって、懐かしい光景だ。私の代で親戚が集まる場合、兄弟は二人だし、その連れ合いも二人兄弟なので人数がしれている。大勢で川で遊ぶ子供らをながめながら、粟の間引きが大変なので、間引かずに済むよう薄く蒔こうとしたときに、農家の人に言われた言葉を思い出した。「やはり厚く蒔いて伸びたところで間引かんといかん。子どもと同じで大勢で育ったほうが健康に育つんだよ」老人は7人兄弟だった。ただ長兄は子どもの頃、那珂川で遊んでいて、急に亡くなったという。「今でいう心臓発作だな。ときたま運動中に急に倒れて亡くなる子どもがいるだろ、あれだな」昔は兄弟が多かった分、たいがい何人かは亡くなっている、と言っていた。

農業をやってみると、野菜や植物の育ちかたは実は人間にも通じるのでは、と感じることが多い。”苗半作”という言葉なんかも、ひそかに人間の子にもあてはまるだろうと感じている言葉の一つだ。

『鯉淵クラブ5号』掲載   目次


雑穀栽培記−栃木編その4

 この年(1997年)は8月24日に行ったときに粟、黍、稗の穂が出ており(高黍はまだだった)、9月20日に稗と黍を収穫した。お借りしていた農家にあまり使用していないハウスがあったので、その中に干させていただいた。

 脱穀は10月11日、量的にそう多くなく、ビール瓶をタオルで巻いたもので叩いて脱穀した。ところで一昨年、岩手の軽米町を訪ねたとき、収穫された黍の束が山のように積まれていたが、くるり棒のようなものは使っておらず、おじいさんとおばあさんが手で木槌のようなもので叩いて脱穀していた。
高黍と粟については10月11日に収穫、やはりハウスの中に干したあと10月25日に脱穀した。ハウスの中に干したため、この年は鳥の被害はまったく受けなかった。畑にあるときも、おそらく種蒔きの遅れで米が実ったあとに実ったため、鳥に発見されずに済んだ。鳥は米が実りはじめるとそちらへ移ってゆくという。

 このほか、群馬でもらった花豆、山形でもらった”ささげ”(白い豆をそう呼んでいた)、大豆(一人娘)、くるみ豆も作った。ささげはかなり取れたが、くるみ豆と大豆は栃木では暑すぎたようで結実せずほぼ全滅だった。花豆はまあとれたが、たまたま種蒔きが遅れた結果だったようだ。花豆も温かすぎると実がならないそうで、現在畑を借りている茨城県南部で花豆を自家用に栽培している農家は、7月はじめ前後に種蒔きをしている。これでぎりぎり霜が下りる前あたりに実がつく。6月はじめに蒔くと真っ赤な花がよく咲くが実はつかない。

 この年の10月28日、畑を借りるきっかけを作ってくれたお爺さんが脳梗塞で亡くなった。地方の60代後半から上の人たちは、特有の安定感がある。地元との繋がり方、近所の人たちとの行き来の仕方、文字どおり竹馬の友の存在する世界は、戦後に育った自分やその回りの人間関係の築き方とはまったく違う。もうこの世界を築くことはできないと思うが、まだ存在する間にできるだけ見聞きしておきたいと思う。

付録:収穫した雑穀の幹の部分を積み上げて堆肥にしているが、その堆肥にかぶと虫が卵を産むことがよくある。12月あたりに切り返しをやると、手のひら大の巨大な真っ白い幼虫がざくざく出てきて結構恐い(ただし丸まって貝殻のように見え、動かないのは幸い)。寒さで死なせてしまうのも可哀想なので埋め戻しておいたが、農家の人に話すと「昔もよくいた。昔ははだしで切り返したから、足で踏むことがあり気持ち悪かった。ホークにもよく突き刺さるんだよな」と言っていた(確かに私も一匹突き刺してしまった)。注意しようのないことだが一応、付記。

『鯉淵クラブ6号』掲載

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畑へ向かう道にて

かぶと虫について:付録2:
知人の高校の理科の先生によれば、かぶと虫は自然の 林の中にはそう多くいないらしい。堆肥など、人為的な環境の中で増えるという。堆肥だと、切り替えしたり、トラクターで耕したりするので、何匹か犠牲になるが、自然より多い状態なので、そうして淘汰されるのはOKなのだと言っていた。
黍や稗は鳥対策でネットをかけるが、うっかり堆肥の上にもかけたところ、かぶと虫が何匹かネットに引っかかってお亡くなりになっていた。畑をお借りしている年配の農家の人も
「あれは始末に悪いんだよな。くちゃくちゃやって、網寄せちゃって引っかかってるからな」と言っていた。
かぶと虫は農業にとって害虫ではないが(むしろ、堆肥を開けてみると、沢山糞が出てきて、肥えた土に分解して戻してくれているのがわかる)、少々扱いに困る存在ではある。

鯉淵学園アジア学院

鯉淵学園(農業専修学校)

アジア学院
(農業専修学校:授業は英語)

独立学園八ヶ岳農学校

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