雑穀栽培記:茨城編:雑穀栽培方法

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2003/4/6

1998年

mito

 この年は茨城北部に2aほど借りた。まわりは稲作地帯、休耕田で田圃としては非常に良い土だった。ただ、瓦が焼けるような、粘土状の、雨が降るとぬかるむ水はけの悪い土では、雑穀の種は窒息するのか、タカキビがまったく発芽しなかった。蒔き直しもしたが、やはりだめ。同じ種を翌年畑に蒔いたら(つまり1年前の種になってしまったが)発芽したので、種のせいではない。
 また、田圃の多いところでは、ヒエの栽培は困るようなので、稲作地帯に土地を借りて雑穀を作る場合は、事前に了承を得るか(それでも嫌がられることが多いと思う)休止するか(ヒエの種はけっこうもつという)回りときちんと話あう必要がある。


1999年〜2008年

茨城南部に1反ほど畑を借り、雑穀、豆類、野菜(少々)栽培。種まき、除草、収穫時期については月次作業一覧表、詳しい作業内容は作業日誌(1996-2009)に掲載、そのほか気づいた点を以下に記す。
zakkoku  なお地元農家の話として、粟やモロコシ(高黍)の話が多いことからもわかるように、この地ではかつて粟とモロコシをかなり栽培していた。粟の出来は、今までの畑の中で一番良い。この地に合う作物のようだ。現在は、粟は栽培されていないが、高黍は少量栽培しているのをときどきみかける。ただし、九戸村からいただいた種と異なり、地元の在来種で丈は低めで実がぼっさり成るタイプ。そばもけっこう作っている。
(写真は手前から稗、粟、高黍)

雑穀栽培方法

  •  間引きと除草 ある程度の広さがあると、かなり大変になってくる。特に成長するにつれ間引きは大変になり、スピードも落ちる。また、梅雨の後半7月に入り、急に気温があがり湿度も高い中、間引きや除草が残っていると、疲労が激しくスピードも落ち、作業効率が悪い。
     そこで、種まきを分けることにした。黍と稗は成長が早い。粟は最初の頃は成長が遅いのであとからでも大丈夫。黍と稗を先に、粟と高黍をその1週間後に蒔き、それぞれ3週間後(粟は4週間後)から間引きを始めるとよいようだ。


  •  干し方 稗と黍は束にして、竹で組んだ横棒に立掛けて畑で干す。1週間もすれば(おそらく稗は3,4日で大丈夫なようだが、作業が1週間ごとのため)くるり棒で簡単に叩き落とせるようになる。9月の長雨にかかると、まだ気温が高いため、特に黍が発芽しやすく注意がいる。束をあまり太くせず、風通しをよくして、ビニールを被せて雨避けすれば大丈夫なようだ。また、稗と黍は脱粒しやすい。台風の後など、かなりの量を脱粒で失っていると感じるが、9月はじめはハウスも苗作りその他で使用中で使えないため、天日干にしている。施設を整えればロスは減ると感じる。
     粟は穂を刈ってハウス内で乾燥、1〜2週間後くるり棒で脱穀。昔も二度打ちしていたそうで、一度叩いたものを再び1週間ハウスで乾燥、再び叩くとよく落ちる。
     高黍は穂先を刈って束ね、屋根の下に1〜2ヶ月くらい干してからくるり棒で叩いて脱穀。高黍は出穂がそろわないので、2回に分けて刈っている。近所では11月か12月頃叩いて落としている。
     粟も高黍も穂苅したあとは、すぐ引きぬく。特に高黍は肥料を吸うので、早く抜いたほうがよい。
     脱穀したあとは、どれもむしろを広げて3日ほど天日干し。
     調整は唐箕で行っている。


  •  干し方その2 脱穀したあとの天日干しは、1斗をむしろかゴザ2,3枚にわけ、柄付の木製のならし板で、下のむしろが見え隠れするくらいに薄く広げる。1日3回、むしろを折ってひっくりかえし、ならし直す。天気のよい日は、これで3日干せば完全に乾く。
     日の長いときのほうが早く乾き、冬は短いため、干す日数も多くなる。
     夜はむしろを折って積み上げておく。
     むしろやゴザのように空気の通るものでないとだめ。ビニールシートでは乾かない。粟の房をハウスで干す場合は、ビニールシートでもよいが、房だから。そうビニールにあたらない。脱穀した後の粒は、むしろでないとだめ。
     むしろは麦わら、広くて折りたためる。ゴザはたたみと同じ。つるつるして穀がすべる。横向きには折りたためない。


  •  病虫害 稗、粟、黍は今のところ、病虫害の経験はない。稗にこぶができることがあるが、これは害がないのではないか、と軽米町の農家の人が言っていた(左のリンク、端神2000)。
     高黍は油虫が出て収量が落ちた年がある。背が高く風通しが悪くなりやすいようだ。背丈よりも高くなり、中に入るともわーっと湿気がすごいので、畝間を広げようかと考えている。
     2008年、茨城の畑で初めて粟の房にピンクのカビのようなものが出た。翌年の発芽に問題はなかったが、病名不明。
     2009年、東京都西部で初めてアワノメイガ発生。暖かい土地では出るようだ。


  •  鳥対策 基本的に防鳥ネットしかないし、これが一番。
     ただし、広い土地で作っている場合は多少食われても影響ないので、防鳥ネットが非常に有効だが、狭い面積で作る場合は網目の細かいものを完全に隙のないように張らないと、全滅近くやられることがある。


  •  土寄せ 畝間80〜120センチにして、土寄せ機が入るようにしている栽培方法を見た。私は手(鍬)で土寄せしているが、栽培面積が大きい場合はこの方法は有効だと思う。土寄せすると雑穀の伸びは非常によい。


  •  肥料 鶏糞と雑穀や雑草を積んだ堆肥を使用している。
     ある有機農業系の農家では、ボカシとペレット状のものを使用、入れてから畑おこし、2週間ほどおいて苗を移植するとのことだった。そこは、野菜は不耕起栽培(不耕起では肥料は入れない)だが、雑穀は土寄せ効果があるため耕起栽培にしていた。畝のみを耕作して畝間を耕作しない場合は育ちがよくない、全面耕作してたほうがよいとのことだった。


  •  苗立て 直播するとなぜか生えても大きくならないという話を数箇所(山形県小国。高知県仁尾内では高黍について)で聞いた。そのため苗立てして移植している。
     私自身は苗立てしたことはなく、しなくても十分育っている。土地によるらしい。


  •  その他 粟、黍、稗、高黍(モロコシ)は、里芋や地元の作物同様、年によって収量が大きく変動することもなく、除草間引きと最低限の肥料の基本さえ押さえれば、素人でも安定して栽培可能と感じた。
     野菜は技術と手間をかける必要があり、一週間に一度の素人では良いものは作れない。
     ソバもなぜか、現在の土地(茨城)では年による収量の変動が激しい(種まきの時期と収穫間際の霜の関係、肥料の与え方によると思うが、正確な原因は不明。地元の人もここらはソバはいまいちだという)。


  •  地元の人の話
    • 種蒔 粟はウツギの花の咲く頃が蒔きどき。厚く蒔いてまびいたほうがよく育つ。稲やおかぼは分株したほうがいいが、粟は厚めに蒔いて競争させて1本にする。まびきが大変だからとうすくまくといいのができない。分株すると収量が落ちる。10本のうち2本残す。粟は昭和30年代まではたくさん作っていた。米と違って照りにも強く、よく作った。「照り粟」といい、照ったほうが粟にはいい。冷害には弱い。
    • 高黍はここらではモロコシと言って、やはりよく作った。今でもときどき作っている。モロコシはこのへんでは背の高いのと低いのと2種類あった。低いのは丈160cm、茎が太く、実はぼっさりなり大粒。モロコシは粗く植えて大きくした。
    • 黍には穂が垂れるタイプと穂が立つタイプとがあった。
    • 稗も少し作っていた。稗粥にして食べた。


    • 病虫害 昔は粟にもよく虫がついた。子供の頃よくとった。


    • 間引き/肥料 粟も黍も丈30cmで間引いた。脇芽の出ているものを間引き、1本だてにする。
    • 粟もモロコシも元肥であげていた。
    • モロコシは化成を使うと幹が太くなり、穂も5倍くらいにぼっさりなる。


    • 脱穀 昔は庭一面にむしろを敷き、その上に粟や麦を広げて4人で4時間続けてぶった(打った)。1斗缶に30粟がとれた。
    • 庭は土だったが、いい土を持ってきて突き固め、平らにしてきれいにしていた。雨の日、庭を歩くのにも下駄をはかなかった(穴があくため)。
    • モロコシは明神様のお祭り(9/13)に刈って軒下に干し、11月頃ぶった。
    • 粟は根から抜いて並べたあと、穂だけ刈って家に持ち帰り、庭で叩いて落としてから実を干した。


    • 食べ方 粟は粟餅にして食べた。またご飯にまぜたり、雑炊にした。あまった餅は天日で乾かしてから、油で揚げ、砂糖をまぶすとおいしい。
    • 昔は粟の精白所もあった。
    • 大福には陸のモチがよい。普通の餅は水田のモチ。
    • かつてお茶の産地だった頃、5月初めがお茶の収穫期で、朝4時から夕方5時まで炭火の上に畳一畳くらいの鉄板を置き、6貫の茶を蒸して煎った。重労働だった。そのとき、粉にしたモロコシをお湯で練って団子にし、沸騰したお湯に入れ、煮たものをかきこんでいた。モロコシはこの時期の食べ物だった。この団子はふかすとべったりしてしまうので、ふかせない。
       あるいは、団子にしたものを砂糖ときな粉をまぶして食べたりもした。
       冬の間に粉にした。水にさらしてから絞って粉にする。一週間水につけてふやかし、石臼で水を足しつつひく。布巾でさらして、日に干してから保存する。これを晴れた日に行う。


    • その他利用法 粟は引きぬいて穂刈りした後、くるり棒でぶって土を落とし、萱と混ぜて屋根に葺いた。
    • モロコシは脱穀したあと、ヤマへ行って藤のツルを取ってきて、縛って箒にした。モロコシの箒は売られてもいた。ただし、ぶって(くるり棒で叩いて)はだめ。ぶたずに実を落としたものを使う。
    • 竹の箸を作って、モロコシの煮汁につけて染めた。小豆色に染まる。白いままだと汚れが目立つが、色がつくと目立たない。
    • おばあさんはモロコシの茎でお歯黒を染めていた。もともとのお歯黒は白い粉。上塗りしていたようだ。昭和初めか十年代まで。戦争のあと、急速に見なくなったが、その前から少しずつやらない人が増えてきていた。結婚するとつけるので、結婚しているかしていないか、すぐわかった。
      (おじいさんは)子供の頃まねしてつけて学校へ行き、皆に笑われた。じきとれてゆくが、すぐには歯を磨いたってとれない。

kururi

くるり棒


その他地元にまつわる話

  •  明治時代はお茶の産地だった。輸出もしていたが、重量を出そうとヤマのエゴマを混ぜたり粘土を混ぜてだめになった。すぐ先を下ったところに川と湿地帯があるが、その橋から出荷、運河を伝って江戸川に入り、東京まで送られた。
  •  お茶が最初の金作だった、初夏にお茶と麦、夏はあまりとれず(おかぼもよくない)、秋物収穫、と2回しか金が入らなかった、ずっとそんな感じで貧しかった。
     お茶のあとは、トマトを作って千葉のほうの市場で売った。トンネルを張り、夜はコモをかけ、昼はコモとビニールを上げて風通しをよくした。1年目は当たってもうかったが、翌年以降は皆作ってよくなかった。初めはトラクターで千葉側まで運んだ。そのうち、中古で軽トラを購入した。
     そのあとは豚をやった。大変だったが、そのおかげで子供たちを大学まで出すことができた。


  •  昔は地主、小作、自作、自作と小作と両方、と差は激しかった。戦後の農地解放は大きかった。
     村に大地主は2,3軒だった。うち1軒は町の中心部まで自分の土地を歩いて行かれると言われていた。立派な四足門があり、お客用と小作用と門が別で、倉なんかもいっぱいあった。戦後、土地を失い、精米所を始めたがだめで、ガソリンスタンドを始めたがそれも売って借金を返した。戦友だったが、今はここにいない。土地もなくなった。
     小作は耕していたところが数千円で自分の土地になった。登記簿を見たら8.5畝で1反の小作料をとられていた、マッカーサー様様だ、と言う人もいる。
     大地主も、農地解放でもここらでヤマと呼ぶ雑木林などは残っていたから、うまくやればやれたろうが、働いたことがないからだめだった。


  •  自分の親の代の頃までは、鍬で畑を耕していた。その後マンノウができて、自分の頃はマンノウで耕していた。成人男性が1日、朝早くから夕方暮れるまで平均5畝しか耕せなかった。戦後、耕運機が入ってきて、さらにトラクターになった。
     機械のない頃は、トンブで一冬かけて2反半の畑を開墾したりした。
  •  牛は今の車と同じで、高くて皆が持てるわけではなく、貧しい人は借りたり耕してもらったりした。牛も午後になると疲れてきて、切れて言うことをきかなくなる。牛で耕したあとには、別にならす人がいた。マンノウを使う場合は自分でならす。
     牛がいたのは昭和30年頃まで。耕運機が出始めの頃は23万した。その当時の3〜400万か。耕運機で7〜80cm耕せ、トラクターだと1.5mからもっと耕せる。1反なら数往復して終わりだ。耕運機が出た頃は、皆で見に行った。楽するには、お金がかかる。
  •  運搬については、子供の頃は荷車、リヤカー、牛や馬車だったのが、耕運機、そして車になった。
  •  田は水を切り、株を鋤き込むために1回、その後もう1回、計2回マンノウで起こした。田圃のマンノウは短い。畑用は長くて先が丸い。
     代掻きは馬や牛でやる人もいたが、それは大きいところで、小さい田の農家は手で(マンノウで)代掻きした。
  •  牛や馬には草がいる。朝早く川べりで馬草を刈るのが仕事だった。豚は買ってきた飼料で大丈夫だが、牛馬は手間がかかる。


  •  昔の堆肥は、人糞、豚1〜2頭、鶏数羽、牛馬(大きい農家)で作った。水海道から馬車で人糞を運ぶ業者がいた。屋根つきの堆肥小屋があり、そこへ稲藁、野菜クズ、草を刈ったりなんでも入れた。近くの沼の底をさらって干してから入れたし、冬は落ち葉を集めた。近くのヤマでシバを刈り、熊手で落ち葉を集め、リヤカーや籠に入れて運んだ。それでヤマもきれいだった。今は金取りしたほうがいいから、誰も採らない。シバも太くなり、熊手も入らないだろう。
  •  肥料はそう毎年は畑にやれなかった。堆肥と金肥(購入する化成。昔は単肥、窒素だけ、カリだけなど)を足して、冬になると堆肥小屋に移して何度か切り替えた。畑にやるときは、さくを切った中にいれた。今みたいに全面にまいてトラクターで混ぜたりはしなかった。


  •  昔は藁葺きが多かった。束にしたのを放り投げ、ほどいて二本の竹の間にくるっと回して結わえつける。下から葺いてゆき、一番上は梁にしっかりくくりつける。藁は大麦の麦わら、粟は丈夫でいいがそうは作っていない。一番いいのは萱。萱だと30年もつ。麦わらは雪が多かったりすると、せいぜい5年。昔は火事になると、竹がポンポンはじけてすごかった。柱は大黒、小黒あり、大黒にはケヤキを使った。
  •  正月は餅ではなくソバを食べた。餅は4月から、粟餅だった。12月になると、夜大きい臼を3人がかりでひいて、そば粉にした。それで12月は忙しかった。冬はモロコシを粉にしたり、藁作りをした。
     また冬はヤマで落ち葉を集め、ついでにセンブリを採った。子供が集めて業者に売った。
  •  薪はヤマのある人は自分のところでとったが、それでも足りないし、ない人は薪を作って売る人から買ったりした。大麦小麦の殻も、笹も刈ってきて干して皆燃料にした。
  •  すぐそばの川でしじみを採って、枡にバカ貝(カラス貝)を盛って近くの町で売って歩いたりもした。昔は川もきれいだったが、今はもうしじみもいないだろう。
  •  近くの沼では昭和30年代まで水藻をとっていた。船を浮かべ、このあたりの風物詩だった。


  •  昭和の初めか十年頃まで、おばあさんはモロコシの茎でお歯黒を染めていた。もともとのお歯黒は白い粉。上塗りしていたようだ。戦争のあと、急速に見なくなったが、その前から少しずつやらない人が増えてきていた。結婚するとつけるので、結婚しているかしていないか、すぐわかった。口紅も茶碗のようなものの回りに塗りつけられていて、指でとって塗った。昔は巻き煙草がなかったので、皆キセルだった。
  •  大震災のときはここらもだいぶ揺れて立っていられなかったという。皆竹やぶへ逃げて夜明かししたそうだ。
  •  戦前、ここらにも樺太に行った人がいる。一時期高島屋の服だのたくさん売ってだいぶ儲けたという話だが、いくさに負けて無一文になって戻ってきた。台湾に行ったのもいたが、やはり無一文になって戻ってきた。
     あるいは戦前、すべてを売り払い、家族を連れて満州に行った人がいた。母親が残っていたので、戦後戻ってきた。


  •  戦争中は不足がひどくて着るものがなく、皆機織りを出してきて綿から糸をつむいで織って布にした。その当時でも、すでに糸繰り機や機織り機は使わなくなっており、納屋の奥にしまってあったのを引っ張り出してきた。
     綿はいったん集めて綿打ちしてから糸にする。着物の一反で500gくらい使う。
     昔の綿は背丈も低く、3〜4つしかつかなかった。今は背も高く、たくさんつくように改良された。
     今ではうちを建て替え、糸繰り機も機織り機もじゃまなので燃やしてしまった家も多い。今の76〜7歳以上でないと、この経験はないだろう(1999年に聞いた話)。それ以下では、子供の頃見ていただけで、実際にはやっていない。
  •  戦争中はサツマイモを作った。白い品種で、干芋にはいいがまずかった。個人には政府拠出の倍で売れた。
  •  大空襲のときは、ここらまで灰や燃え滓が飛んできた。自分は兵隊で竹橋にいた。神田は製本が多くよく燃えた。靖国神社だけ、懸命に消火して焼け残った。川の死体は軍隊が片付けた。マンノウで引いて上げた。
     焼け出された人たちは、家が焼けても一週間くらいはそこにいる。しかし、水しかなくどうしようもなくなり、そのあと、どこへゆくのかほとほと歩いて出て行った。裸足だった。
     3月10日、15日の大空襲のときは、みな右へ左へ、あっちこっち逃げていた。照明弾が落下傘でゆっくり落ち、昼間のように明るい。兵隊やっていても、裸足で雪の中歩いて逃げる人を見て、勝ち目はないと思った。


  •  昔は富山の薬売りが回ってきた。置き薬は男、富山の薬売りは絣(かすり)を着た女たち。置き薬の男は300軒くらい回ったか。昭和40年頃、子供がよく熱を出して、医者へは行かずその薬で治したので、必ず全部なくなった。年2回来た。その頃、薬屋は少なく、歩いて1時間の町の中心に1軒だけだった。
     泊まる家も決まっていて、そこで子供を生んだ女もいる。子供おぶってやってきた。行李を二つしょってその上に子供を乗せていた。泊まるところもあったし、人の家にも泊まった。ここらだと1キロ南に泊まるところがあった。
     鎌や包丁も持ってきていた。売れるものは何でも持ってきており、荷物(売り物)がなくなると、手紙書いて送ってもらっていた。
     新潟からは冬に麦引きが回ってきた。
  •  昭和5,6年だとしらみもいたし、頭に卵のある子供もいた。しらみとり用の目の細かい櫛もあった。


  •  昔は東京方面までリヤカーを引いて歩いた。朝早く出て夜着いた。
     あるいは、午前中花を自転車に積んで上野あたりまで行った。夜着くので市場の2階に寝て、朝売った。人によってそうやって車買って帰ってきた人もいるし、子供らの学資にしたりした。


  •  昭和30年代ですいぶん変わった。それまでは草葺だった。萱で葺ける人は少なく、麦わらや粟を使った。
     かまども風呂も、落ち葉やヤマへ行って薪をとってきたり、川で何か取ってきて焚き付けに使った。冬はその回りに椅子を並べて子供らと暖まった。松が一番暖まる。大きい燃えさしは火鉢に入れた。
     夏は井戸にスイカなんかを吊るした。肉や魚はたまにしか食べなかったし、油もそう使わないので冷蔵庫はいらなかった。漬物は多かった。
  •  昔はお金はかからなかった。だが現金を得るためにいろいろやった。お茶、トマト、鶏飼って玉子を売ったり、豚をやったり、花、作るものも次々変わった。
     電気、ガス、水道でなくて困るのは電気だろう。ガスはヤマ行って木を拾ってくればいいし、水道はみな井戸を持っている。電気は自給できない。いざとなれば、私らの世代はもとの生活に戻れる。
  •  除草剤だの何だのができたのは戦後。ずいぶん楽になった。機械でやれるし、昔は両親と子供が手伝って作った分の2倍の広さを、年寄り二人でできる。昔から田は水が張ればそう人手はかからない。畑はかかる。特に夏の雑草が大変だ。


  •  女は月一回観音講、男は水天神と庚申講があって集まった。今は寺で年一回やっている。だんだん面倒になってきており、年よりだけしかやっていない。
  •  ここらでは、13年ごとに猿島坂東33箇所めぐりをやる。何百年かの歴史がある。利根川の流れが変わり、現在一部は千葉県になっている。期間は1ヶ月くらい(3/18〜4/17)、巳年に「観音開帳」といってやる。たいていの33箇所の寺に観音があり、このときだけ開帳する。昔は歩いて4日ほどかけ、泊まりながら回った。今は車やバスで回っている。どこの寺も平将門伝説だの、地元の話にまつわる人形を出している。混むときは、寺の回りがチャーターしたバスでいっぱいになり、国道も渋滞する。
  •  祭りは7月20日頃の祇園祭り。昔に比べすたれた。以前は16,17と決まっていたが、勤め人が増え土日になった。神輿が出るが、かつぐ人が少ない。2回くらいぐるぐる回れば終わりだ。

つづく


鯉淵学園アジア学院

鯉淵学園(農業専修学校)

アジア学院
(農業専修学校:授業は英語)

独立学園八ヶ岳農学校

普通科高等学校
農業科目重視

農業大学校




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