東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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6.戦跡


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6. 戦跡

 このページは、旅行記の戦跡に関する部分を抜き出してまとめたものです。多少、旅行記にはない写真も掲載しています。

マニプール州

○ インパール南チュラチャンプール方面

 インパールを抜け、田圃の続く中を一路南に走ると、ロクパチンに第二次大戦の慰霊碑のあるインド平和記念公園(下写真)がある。これが東北インドにある日本側唯一の公的な施設。1993年、故渡辺美智雄氏が外務大臣のときに、当時の首相インディラ・ガンディーとかけあって実現させた。施工は三井建設。ちなみに渡辺美智雄氏はアジア学院のある西那須野が地元で、私のいた当時も学院の入学式や卒業式に電報を寄せていた。

 栃木の戦友会のM氏が靖国神社と栃木護国神社の木札、そして線香やお供えをたくさん持ってきていて並べる。研修生も花や果物を用意していた。朝から降っていたこぬか雨がこの頃になってあがり、戦友会の人が挨拶に立ち、英霊たちは皆さんがこうして訪れるのを待っていた、こうして皆さんが来たら雨があがった、こういう不思議なことがいつも起こるんです、と言った。そして一人一人お焼香、研修生やいつのまにか集まってきた地元の人達も焼香している。子供達も大勢来ていて、両手を合わせて拝んだ後お供えのお菓子や果物を貰っていた。沿道にはコスモス等の花が植えられており見事に満開で、雑草もなくよく管理されていた。花など一朝一夕に用意できるものでもないので、日頃から村人が守っているようだ。

  この記念碑の参道の入り口には村に入る道があり、その脇に別の小さな慰霊塔がある。これはもう少し古く、墓参団の入境が認められた70年代後半に建てられたもの。「英霊よこの地に安らかにお眠り下さい」と書かれた板がはめこまれていた。村人が集まって、この塔を建てるときに日本人が遺骨を持って行った、今ここには入っていない等々話してくれる。ここも雑草がほとんどなく、よく管理されていた。

 さらに南へ下ってビシェンプールへ。ビシェンプールは弓師団の激戦地で、M氏はここで戦い負傷したところを地元の人に助けられた。

 国道から東へ100メートルほど入ったあたりが戦場の一つで、彼は右手の林で足を撃たれた。(右写真の場所)

 さらにその奥左手へ折れた先の畑の脇が、地元の人達が戦死者を埋葬したところだという。今では遺骨収集団が日本に持ち帰っている。(右写真の場所)

 このとき、彼を助けた、当時は少女だったお婆さんが出てきた。すでに回りには村人が大勢集まっている。やはりほとんどはモンゴル系で、たまにアーリア系の顔が混じる。お婆さんは、70年代おわりに彼らが再び訪ねてきたときに写した写真を手にしており、二人とも目に涙を浮かべていた。戦友会の人は彼女や戦友を埋めた場所に向かって深くおじぎしていた。彼はロクパチンでもビスウェマでも、自分達はインド独立の志に燃えて戦った、と語っていた。

 さらにその南、モイランには、インディラ・ガンディーの建てたインド国民軍の博物館があり、入り口にはチャンドラボーズの銅像が立っている。中に入ると、ボーズの閲兵風景や東条英機その他との会見写真などが飾られ、日本軍とインド国民軍の小銃や手榴弾などが並び、各種書類も展示されていた。中に、チャンドラボーズが各支部にあてた「戦況について色々うわさが流れているが、まどわされぬよう、もし重大な変化があれば自分が一番にそれを知りうる立場にあり、一番に皆に知らせるのだから」という内容のShonan発(昭南−現シンガポール)、1945年8月14日付け(!)の手紙が何とも言えない。小銃類はほとんどが錆びていた。このモイランの地は、インド国民軍が初めて旗揚げしたところで、研修生の話では、マニプールではチャンドラボーズは今でも評判がいいそうだ。

 写真上奥の山の向こうが、日本軍の通った道(モイラン−ビシェンプール)。

○ インパール南東チャンデル方面

 チャンデル県パレルは三叉路になっており、直進すれば祭師団の激戦地テグノパール、その先モレはもうビルマ国境の町。この道は現在ではビルマからの麻薬街道になっている。

 下の写真は、Monsang村からパレルへの道。

 モヨンナガ族のMonssang村の村長の話:第二次大戦中日本人が来た、規律正しく立派な人達だった、何も私達に悪いことしなかった、自分は英軍の密偵として日本軍の動きを見ていた、何人くらいいつどこへ行くかを見て報告していた、しかしチャンドラボーズのインド独立の思想に共鳴して、日本軍に密かに会っていた。
 彼らナガ族の長老は、は日本軍の話をした後、必ず"That's all" とだけ言って何の感想も言わずにぶつりと終える。


 村長の話では、上写真の山を横切って見える道が日本軍が敗走していった道、White bone road だという。祭師団の悲惨な退却行については、従軍記者だった丸山静雄氏の『インパール作戦従軍記』に詳しいが、同著の退却行の開始地点はほぼこのあたりである。南北に伸びる山系を東西へ抜ける道筋だったため、何度も深い谷を下りては、雨季で増水した川を渡らなければならなかった。

 旧日本軍の休暇証明書を手にする村人(下写真)。これには何と書いてある、と尋ねて、見ると「右の者は休暇で村に帰ることを許可する」という内容。タメンロン(インパール西)では軍票を見たという。また、アジア学院に来る東北インドの研修生も、おじいさんやお父さんから「大切なものだと言われた」とこの手の紙切れを預かってよく持ってくるそうだ。今回会った研修生の多くも、お父さんかお爺さんが何だかのかたちでインパール作戦と関わっていた人が多かった。日本軍に食料を提供したり荷物運搬を引き受けたりで、代価として軍票類を受け取ったり現物支給を受けている。



○ インパール東ウクルル方面

 インパールからウクルル県に入るあたりの峠で、まずNew Heavenと書かれた検問所を通貨、しばらくしてすぐに、次の検問所がウクルル県に入った最初の町リタンにあり、道行く車は皆チェックされる。
 ここまで来ると、かつて日本軍が通った道だ。休憩地点で、マヨンシン氏や他の研修生が「あの山の向こうが白骨街道 (white bone rode)、向こうが blood field」等々向かいの山々を指し示す。両親から当時の話を聞かされているそうで、「かわいそうだった、とよくお父さんが言っていた」と何人かの研修生が言うのを聞いた。途中道が谷に下りきったところで渡った橋は「日本軍が一夜で作った」という。

シャンシャクへの道

 シャンシャクはインパール作戦祭師団の激戦地の一つ、今は道路沿いに多少家の立ち並ぶひなびた村。村を抜ける道(右写真奥)はシナラコンの奥へさらに続いており、第二次大戦の戦地ルンション、フミネを通ってビルマ国境へと至る。この道を通って祭師団がインパールへ向かって進軍した。道ははるかに山上をくねって続く。


 ウクルルには第二次大戦当時英軍基地があったが、烈師団が入りウクルルを占領した後ここからコヒマへ向かった。ウクルルは山上に広がる人口3万(研修生の話。彼らの数字はときどき実際と異なるので一応参考まで)の街。ちなみに、戦後10年たって中根千枝女史がこの地を訪れたときには、戸数300戸の村落だったというから、随分大きくなっている。

ウクルル中心の高台。この奥が日本軍がコヒマへ進軍した道


ナガランド州

○ コヒマ

 コヒマの三叉路高地をめぐって、イギリス軍とウクルルから入った烈師団との間で激戦がかわされ、ついに日本軍はこれ以上先へ進めず敗退した。糧食も武器の補給もまったくない中奮闘を続け、何度も補給を要請してもまともに応えなかった上部の計画の杜撰さに怒った師団長が、これ以上死傷者を出すのは無駄だ、と上部の命令のないまま撤退を決めたのである。今ではこの師団長の判断は正しかった、ひどい作戦の中でベストを尽くした勇敢な人だったという評価がなされているようだ。それでも烈師団は1万1500名の戦死者を出したし、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名という。インパール作戦は計画そのものが無謀で、さらに不必要だったという意見も本で読んだ。もとの計画では、コヒマからディマプール、さらにアッサムへと進軍する予定だったという。
 今では三叉路は白地に赤や青のストライプの入ったバスが行き交う、店の並ぶ一画になっている(下写真)。

 コヒマの三叉路の上に広がる丘の上に、戦没者慰霊墓地(英軍の墓地と記念碑)がある。日本側のものはない、というので「じゃあ下で三叉路の写真でも撮ろうかな」というと、従軍経験者らに「英軍だけと言っても日本軍と戦ったんだから、ちゃんと見ときなさいよ」と言われた。この墓地の記念碑に刻まれた「When you go home, tell them we died for their tomorrow」の句は有名。

 

ナガ族の研修生らとともに

 コヒマには、日本側とイギリス側の戦友会がお金を出し合い、平和を願って建てたカトリック教会のカテドラルがある。キリスト教会にしたのはナガ族がクリスチャンだからだという。

 庭に日本語と英語による碑がある。また日本の桜も沢山植わっていた。コヒマのインド桜はあまり大きくならない種のようで大木を見かけなかったが、日本の桜は大きくなっていた。

写真:インド平和記念公園の焼香風景は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.